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日本キリスト会川崎教会コミュの「困難なときに」ルカ12:8−12

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「困難なときに」
〜一世紀、ローマ帝国とユダヤのナショナリズムの台頭による迫害の中でキリスト者は〜

① ルカ12:8−12
 ところで、私はあなたたちに言う、人々の前で私を告白する者は誰でも、人の子もまた神の御使いたちの前でその人について告白するだろう。しかし、人々の面前で私を否む者は、神の御使いたちの面前でもまったく否まれるだろう。
 また人の子に対して言葉を語る者は誰であれ、赦されるだろう。  
 しかし、聖霊に対して冒涜する者は赦されることがないだろう。
 ところで、人々があなたたちを会堂や当局や統治者のところに連行する時、どのように弁明しようか、あるいは何を弁明しようか、何を言おうかと思い煩うな。なぜなら、言わなければならないことはまさにその時、聖霊があなたたちに教えてくれるだろうからだ」。

②ルカ9:26
 たしかに、私と私の言葉とを恥じる者、その者を人の子も、自らの栄光と父の栄光と聖なる御使いたちの栄光のうちに来る時、恥じるだろう。

③ルカ21:12−19
 これらすべての前に、人々はその手をあなたたちにかけ、迫害するだろう。その際、彼らはあなたたちを会堂や獄に引き渡し、あなたたちは私の名のゆえに王たちや総督たちのところに引かれて行くだろう。それはあなたたちへの証しと化そう。
 したがって、まえもって弁明の準備などせぬよう心を決めておくのだ。なぜなら、あなたたちに敵するすべての者たちが、反対も反論もできぬような口と知恵とを、この私があなたたちに与えるからだ。また、あなたたちは、両親や兄弟たちや親族や友人たちからでさえ、引き渡されるだろうし、また彼らは、あなたたちのある者たちを死に追いやるだろう。
 またあなたたちは、私の名のゆえに、すべての人々から憎まれ続けるだろう。しかし、あなたたちの頭の毛一本ですら、失われることはない。あなたたちは、何よりも己の不屈さによって、己の命を手に入れるのだ。

④マルコによる福音書3章22−32節
 また、エルサレムから下って来た律法学者たちは言うのであった、「こいつはベエルゼブルを持っている」、さらには、「こいつは悪霊どもの首領によって悪霊どもを追い出している」。
  そこで彼は、彼らを呼び寄せ、譬によって彼らに語るのであった、「どうしてサタンがサタンを追い出しうるのか。また、一つの王国が自らに敵対して分裂したなら、その王国は立ち行くことができない。また、もしサタンが自らに敵対して立ち上がり、分裂するならば、立ち行くことができず、終りを迎えてしまう。さらに、まず強い者を縛り上げずには、誰もその強い者の家に入ってその家財道具を略奪することはできないものだ。その後で彼の家を略奪するだろう。
 アーメン、私はお前たちに言う、人の子らには、すべての罪も、神を冒涜するもろもろの冒涜も赦されるだろう。しかし、聖霊に対して冒涜する者は、永遠に赦しを得ることがなく、永遠の罪に定められる」。これは彼らが、「こいつは穢れた霊を持っている」と言っていたからである。
 このゆえに、私はお前たちに言う、人間たちにはすべての罪も冒涜も赦されるであろう。しかし霊への冒涜は、赦されることがないであろう。また、人の子に敵対して言葉を語る者は赦されるであろう。しかも、聖霊に敵対して言葉を語る者は、この世でも、また来るべき世でも赦されることがないであろう。                                                                                    新約聖書翻訳委員会訳

§「変革の波、民衆の力」

  ここ2週間ほどの間に、チュニジアとエジプトで、民主化を求め、独裁政権に退陣を迫る大きな民衆のデモが起きています。ツイッターやフェイスブックなど、インターネットを使った人々のネットワークの影響が指摘される中、ある運動家がこう言っていました、「大切なのは、 ツイッターやフェイスブックなどの通信手段ではない。実際に街に出て行動した民衆なのだ」。いままで、長年の間変わらないと思っていたこと、多くの人たちが諦めていたことが、実現できるかも知れない、ということは、大きな希望につながります。
 しかし、エジプトでは、帰国してデモに参加していた、元IAEA(国際原子力機構)事務総長のエルバラダイ氏が自宅軟禁になっていることや、インターネットなどの情報伝達手段が切断されていることなど、変革の動きに対する圧力がたかまっていることは大きな問題です。
 こうした行動と変化の後、しっかりよい国を作っていこうとする努力は、これからです。明確なリーダーがいないことや、新しい国作りのヴィジョンはすべてこれからだということ、それに対して民衆がどのような反応をするかわからないことなど、不安な要素はたくさんありますが、暴力の連鎖や一部の権力者による力による押さえ込みからの脱却が実現し、民主的な国作りがはじまるならいいと願わずにはいられません。
  私たちの信仰とのつながりとしては、主イエスの教えは、愛と希望の実現について、決して諦めない、というところにあります。立ち向かわなければならない相手が以下に大きくても、危険であっても。

§「イエスの草の根運動、神の国の到来した姿を現実に」

   イエスや弟子たちがガリラヤからエルサレムまで旅しながら示そうとしたのは、神の国が到来したら、どのようなものか、どんなに生きやすいか、どんなに神さまの正義がなされるか、ということでした。主イエスの存在を認めたくない人々は、彼が行う癒しの出所を、神さま以外の違うところに求めます。「こいつはベエルゼブルを持っている」、さらには、「こいつは悪霊どもの首領によって悪霊どもを追い出している」(マルコ3:23)。
  ベエルゼブル、またはベルゼブルは、悪魔、サタンの別名のひとつです。これらはすべて、悪いもの、病気や災厄をもたらすものを擬人化しての表現です。ベルゼブルは「悪霊どもの頭、支配者」という意味ですが、その元の意味は、「家の主人」ということだそうです。他に、ハエの神、汚物神というような解釈も報告されています。他にも、コリント人への第2の手紙6章(注:6:14−7:1はパウロによって書かれた者ではなく、後に挿入された箇所)に、「極悪非道な者」という意味の、ベリアルという名も出てきます。
  さて、旧約聖書の時代の社会にも、この悪霊の観念がありました。しかし、「旧約聖書の一神教の信仰は、病気や災厄をもたらす悪霊の存在を認めず」「病気や災厄も神、ヤハウェがもたらすと信じられ」(月本昭男)ていました。しかし、主イエスの周囲の民衆には、病のような悪いものをもたらすのは、神ではなく、悪霊、サタンによるものだという感覚があったことでしょう。そして、福音書ではこのサタンを追い出すことに、神から与えられた、大いなる力、神の子イエスの権威、権能を示す象徴として描かれています。ですから、「こいつは悪霊どもの首領によって悪霊どもを追い出している」という誹謗は、主イエスを救い主としての存在と認めたくない思いからきています。
   それに対して主イエスは、「どうしてサタンがサタンを追い出しうるのか。また、一つの王国が自らに敵対して分裂したなら、その王国は立ち行くことができない」と、答えました。おもしろい譬えですね。イエスにとっては、もはや、神が到来し、神の国の福音がここに実現していて、神が共にいてくださる、ということ示すこと、それ自体が新しい教えなのです。ルカによる福音書に興味深い記述があります。

*ルカによる福音書11章20節
 しかし、もし私が神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の王国はお前たちの上にまさに到来したのだ。

 神の国の到来の証明として、「私が神の指によって悪霊共を追い出」すことが挙げられています。神の支配のもと(神が共におられて)で、男も女も子供も、老いも若きも、ユダヤ人も異邦人も、健康な人も、病気や障害を持っているひとも、貧しい人も、みな神の前に等しくあり、食事を共にし、すべての食べ物は清く、安息日でも助けるべき人がいるときは迷わず助ける、というイエスの「神の王国像」に、悪霊を追い出すこと、病気や障害がある人びとを癒すことが組み込まれています。罪や悪という、人間たちの間に厳然としてあるもの、それがなくなってしまう(終末:今までとは全くかわってしまう)神の国が来るのだ、それが、もう始まっているのだというメッセージです。
  
§「困難なときに」

  しかし、主イエスの十字架の死の後、残された弟子たちが辿った道は平坦ではありませんでした。また、ちょうどマルコによる福音書が成立する時代、50−70年後頃は、ユダヤ人たちの間で、ローマに対して、武力で闘うべきか、あるいは、和平を模索するべきかで、人々の意見が割れ、極限状態のような社会情勢にあって、家族が意見の違いによって分裂してしまう、という悩みを抱えていました。しかし、これは愚かなことです。みんなが一つになって、難局を乗り切るべき時に、分裂して、争い会うということは。
   マルコによる福音書3章の「まず強い者を縛り上げずには、誰もその強い者の家に入ってその家財道具を略奪することはできないものだ。その後で彼の家を略奪するだろう」(27)とは、随分と物騒な譬えですが、これを聞いた人は、この「強い者」をサタンとしてとらえ、そして、主イエスが来られて、神の国がそこに到来し、サタンの支配が崩れたことを想起したと思われます。(大貫隆「マルコによる福音書」注解I参照)神の国が近づいた、もう手が届くところにある。悔い改めて、主イエスの伝えてくださった、神の国の福音の中に、神を信じなさい!
  さて、問題の「アーメン、私はお前たちに言う、人の子らには、すべての罪も、神を冒涜するもろもろの冒涜も赦されるだろう」と、「聖霊に対して冒涜する者は、永遠に赦しを得ることがなく、永遠の罪に定められる」についてですが、この前者、「アーメン、私はお前たちに言う、人の子らには、すべての罪も、神を冒涜するもろもろの冒涜も赦されるだろう」は、史的イエスにまで遡る発言で、ユダヤ教の律法主義の社会のなかで、イエスが神の名で行っている癒しや、神殿を否定して、神をもっとも小さい者たちに直接繋がっているものとする発言をとらえて、ファリサイ人たちや律法学者たちがイエスが神を冒涜していると糾弾している時に、それは神に赦されることだ、ということを言っているのです。
   驚くべき言葉ですね。しっかりと神を持ち、神の前に謙虚な姿勢を持ち、自らの行いをも常に吟味して修正していく姿勢がないとできないものです。
  では、後半の「聖霊に対して冒涜する者は、永遠に赦しを得ることがなく、永遠の罪に定められる」、についてはどうでしょうか。これは、この「聖霊」という言葉で、主イエスを、また主イエスの神の国の福音と、その信仰を冒涜する者は、永遠に赦しを得ることがなく、永遠の罪に定められる」また、この冒涜とは、神が共にいて、その働きを行っているイエスに向かって、「ベエルゼブルに取り憑かれている」と言うことをも指しています。(大貫、前掲書参照)
  教えは希望に満ちている一方で、時代の状況は非常に危険な状態になっていきます。1世紀のキリストの群れの人々は、大変な迫害の嵐を経験しました。ペテロもローマで処刑されてしまいますし、主の兄弟ヤコブもエルサレムで殉教してしまいます。
  それでもなお、諦めない、という生き方を選びなさい。生きて証しをしなさい。もし、弁明しなければならないなら、主イエスが、聖霊が共にいて、言うべきことを教えてくれるという、信頼をしめしています。まっすぐな信頼ですね。

*ルカ12:8−12
 ところで、私はあなたたちに言う、人々の前で私を告白する者は誰でも、人の子もまた神の御使いたちの前でその人について告白するだろう。しかし、人々の面前で私を否む者は、神の御使いたちの面前でもまったく否まれるだろう。
 また人の子に対して言葉を語る者は誰であれ、赦されるだろう。  
 しかし、聖霊に対して冒涜する者は赦されることがないだろう。
 ところで、人々があなたたちを会堂や当局や統治者のところに連行する時、どのように弁明しようか、あるいは何を弁明しようか、何を言おうかと思い煩うな。なぜなら、言わなければならないことはまさにその時、聖霊があなたたちに教えてくれるだろうからだ」。

 
2011年 1月30日  礼拝   高橋  誠  日本キリスト会川崎教会牧師

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