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日本キリスト会川崎教会コミュの「光の中で語れ」マタイ10:26−31

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「光の中で語れ」

①マタイによる福音書10章26−31節
 だから彼らを恐れるな。なぜなら、覆われてしまったのものでも、あらわにされずにすむものはなく、まだ覆われているものでも、知られずにすむものはない。
 私があなたたちに闇の中で語ることを、光の中で言え。またあなたたちがささやき声で耳にすることを、屋根の上で宣べ伝えよ。
 また、体を殺しても、命を殺すことのできない者どもをもはや恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる者を恐れていよ。二羽の雀は一アサリオン(労働者の一日の給料の16分の1)で売られているではないか。しかしその中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。また、あなたたちの頭の毛までも、すべて数えられてしまっている。だからもはや恐れるな。あなたたちこそは多くの雀よりも優れたものなのである。

②トマス福音書33
 イエスが言った、「あなたが自分の耳にするであろうことを、あなたたちの屋根の上で他の耳に宣べ伝えなさい。誰でも明かりをともして、それを枡の下に置かないし、それを隠された場所に置かない。むしろそれを燭台の上に置く。入ってきたり出ていったりする人々が、すべて彼らの光を見るように」。

③トマス福音書 24
  彼が彼らに言った、「耳ある者は聞くがよい。光の人の只中に光がある。そして、それは全世界を照らしている。それが照らされないならば、それは闇だ」。

④ ルカによる福音書11章33−36節
 ともし火をともしてから、それを穴蔵の中(や枡の下)に置く者はいない。むしろ燭台の上に置く。そうすれば、家の中に入る者たちがその光を目にすることができる。
 身体のともし火はあなたの目だ。あなたの目が純真なとき、あなたの全身も輝いている。しかしあなたの目がよこしまなときは、あなたの身も暗闇だ。
  したがって、あなたの中の光が闇ではないように留意せよ。そこでもし、あなたの全身が輝いており、暗闇の部分がどこにもないならば、ちょうどともし火がその煌(きら)めきであなたを輝き照らすときのように、全体が輝いているだろう」。
新約聖書翻訳委員会訳、トマス福音書:荒井献訳

§「光の中で語れ」

  私たちの人間社会には、常に様々な問題が持ち上がります。科学は進み、社会の制度も整備されていっても、対処が難しいことがたくさんあります。野鳥や家畜に見つかる強毒性のインフルエンザや、家畜の口蹄疫などの病気にはじまり、経済問題や、人権問題、環境問題など、解決が難しいことが世の中にあふれています。違う信条や信仰、価値観を持っている人たち同士が語り合って共に問題を解決し合うこともなかなか難しいものです。特に政治や国際問題については、大きな閉塞感を感じます。しかし、理想や希望より、駆け引きで相手をおとしめることばかりに力が注がれているのは、決して良いことではありません。
   その中でも、わかること、私たちが確信を持てることはあります。それは、神さまと共に生きる、ということの大切さです。神を、自分たちに都合が良いように利用するのではなく、謙虚に神の前に立ち、愛を持って何をするべきかを考えるのです。
  今日の聖書箇所では、「光の中で語れ」とあります。

*マタイによる福音書10章26−31節
 だから彼らを恐れるな。なぜなら、覆われてしまったのものでも、あらわにされずにすむものはなく、まだ覆われているものでも、知られずにすむものはない。
 私があなたたちに闇の中で語ることを、光の中で言え。またあなたたちがささやき声で耳にすることを、屋根の上で宣べ伝えよ。
 また、体を殺しても、命を殺すことのできない者どもをもはや恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる者を恐れていよ。二羽の雀は一アサリオン(労働者の一日の給料の16分の1)で売られているではないか。しかしその中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。また、あなたたちの頭の毛までも、すべて数えられてしまっている。だからもはや恐れるな。あなたたちこそは多くの雀よりも優れたものなのである。

  迫害を恐れず、言うべきことを言え。それが変化をもたらす道となるのだ、というのは素晴らしいですね。そして、神の意志、神の行いは人々が意図して隠したことを隠し通すことはできず、また、神の意志に沿ったことは、どのように押さえ込んでも、必ず表にでて、わかちあう人々が出て来ます。
  この意味で、 「ともし火をともしてから、それを穴蔵の中(や枡の下)に置く者はいない。むしろ燭台の上に置く。そうすれば、家の中に入る者たちがその光を目にすることができる」(ルカ11:33)と通じていますね。そしてさらに、「私があなたたちに闇の中で語ることを、光の中で言え。またあなたたちがささやき声で耳にすることを、屋根の上で宣べ伝えよ」、と言われます。啓示によってもたらされたアイディアを分かち合え、伝えよ、という教えです。
   しかし、その迫害がたいへん猛威をふるっていたらどうでしょうか。次の言葉には、大変な緊迫感があります。「体を殺しても、命を殺すことのできない者どもをもはや恐れるな」。この、「体を殺しても、命を殺すことのできない者ども」とは、迫害者です。 人が生きていると死んでいるとはどういうことか。ただ流されて生きていても、また、真実を曲げて、大きな力に屈して生きていても、あるいは、人種差別的な精神に感化されて、憎悪のうちに生きていても、それでも生きていると言えるのか。また、正しいと信じることを貫いて、命を奪われたら、やっぱりただ死んだだけなのか。
  先週学んだように、もちろん人間の肉体的な死は、死としてあるけれど、信仰にとっての、義としての生と死も、やはりあるのだ、と聖書は主張しているのです。そして、世界は不条理そのもののように感じられるにもかかわらず、そこに神の義、justiceがなされるとするなら、たとえ肉体は死んだとしても、神の国が到来するという福音に生き、そしてその魂を伝えたなら、その人は「たとえ死んでも生きるのだ」、とらえる他ないとも言えます。しかし、やはりそこに希望があるのは、愛と信仰に根ざした生き方、行動、勇気は、種としてまかれ、時代や場所を越えて、いたるところで芽をだし、私たちの人生に大きな変化をもたらすからでしょう。
  だから、そのような者を恐れるな。そして、「むしろ、命も体もゲヘナ(地獄、黄泉)で滅ぼすことのできる者を恐れていよ」とは、神を恐れていよ、ということです。畏怖ですね。これは、二つある道の一つを選ぶように促す、脅しのようですね。一世紀の原始キリスト教会が、迫害の中で懸命に福音を伝える中で、なかなか主イエスの伝えられたとおりを理解し、受け容れ、そのように生きる人々があらわれない焦り、思うように宣教が進まない焦りがあらわれているのかも知れませんね。
  ここに地獄を表すゲヘナが出てきます。これは、エルサレムの南をはしる、ヒンノムの谷(ゲー・ヒンノム)がなまってできた言葉です。ここは、エルサレムの城壁の外にあって、糞門と呼ばれる、ゴミなど、穢れているとされているものを出す門を通って、この狭い谷に廃棄物を集めて燃やすところ、廃棄物処分場、焼却場として使われていました。常に火が燃えていて、悪臭をはなっていたと言われています。糞門は今は普通に使われていますが、以前は場所も今とは違い、人がやっとすれ違えるぐらいの狭さで、本当に廃棄物を町の外に出すためだけに使われていたようです。
  エレミヤ書(7:31−34,19:6,32:25)には、この土地でモレク神に捧げるために、こども達がいけにえとして焼き殺されていたことが記されています。そして、神はそれに対して激しく怒っておられます。この習慣は紀元前7世紀に廃止になりましたが、ゲヘナは、地獄の火を表す比喩表現になりました。
  そして、次の言葉、「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。しかしその中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。(中略)だから、もはや恐れるな。あなたたちこそは多くの雀よりも優れたものなのである」とは、どういうことでしょうか。一アサリオンは、一日の賃金、一デナリオンの十六分の一だそうです。二アサリオンが一日分のパン代だそうですから、ここでは雀は小さいもの、取るに足らないものの代表として雀が選ばれています。ちなみに、雀や鳩が売られているのは、食用です。鳩は贖罪の犠牲として神殿で捧げるためにも売られていました。今でも、鳩は食用にされています。私たちも、パレスチナの人と共にエルサレムにある大衆ギリシャ料理店で鳩を食べたことがあります。さっぱりしていて、なかなかおいしかったことを覚えています。小さいので、左手で骨の一方をつまみ、右手の親指と人差し指で肉をこそぐ感じで食べます。
 そしてこの文章は、ずっと雀さえも、「あなたがたの父のお許しがなければ地上に落ちることはない」(新共同訳)というように訳されてきましたが、ここでは「あなたたちの父なしに地上に落ちることはない」と訳されています。それは、訳者によると、「原文には『許し』に相当する語はない。また、『許し』等を示唆する語を挟んだ異読もまったく存在しない」(佐藤研)ということで、すると、この直訳、「しかしその中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない」を見ると、この文章が二重否定になっていることに気づきます。これは強調表現です。
  二重否定は、I never visit Nara without stopping by Todaiji.(私は奈良に行って、東大寺に立ち寄らないことはない)、というように使います。ということは、奈良に行ったら、必ず東大寺に立ち寄るということですよね。
 すると、「その中の一羽ですらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない」、は、「その雀のなかのたった一羽ですら、地上に落ちるときには必ず父が共にいてくださる」という意味になります。 インマヌエル(神、我らと共に)ですね。

*トマス福音書 24
  彼が彼らに言った、「耳ある者は聞くがよい。光の人の只中に光がある。そして、それは全世界を照らしている。それが照らされないならば、それは闇だ」。

   神の、そして救い主であるキリストの光がなければ、この世は闇。観念的に聞こえますが、実際問題として、主イエスの福音、愛の教えがなかったら、どんなにこの世は違って見えることでしょう。力の強さや体の大きさ、武力などですべてが決まるような世界であれば、それほどつまらない者はありません。
   そして、また、偽物の光に注意することも大切であることが指摘されています。

*ルカによる福音書11章34−36節
 身体のともし火はあなたの目だ。あなたの目が純真なとき、あなたの全身も輝いている。しかしあなたの目がよこしまなときは、あなたの身も暗闇だ。
  したがって、あなたの中の光が闇ではないように留意せよ。そこでもし、あなたの全身が輝いており、暗闇の部分がどこにもないならば、ちょうどともし火がその煌(きら)めきであなたを輝き照らすときのように、全体が輝いているだろう」。

  この、「あなたの中の光が闇ではないように留意せよ」って、すごい警告ですよね。あなたが光だと思っていることが、実は闇だっていうことがないようにしなさいというのは!エルサレムの聖墳墓教会に行ったときに、これを強烈に感じました。様々な宗派が宗教的な儀式を厳かに行いながら、勢力争い、示威行為をお互いに繰り返しているのです。彼らとしては、宗教的儀式を自分たちの組織のために懸命に行っているのでしょうが、そこに主イエスが伝えた、隣人愛や平和はどこにあるのでしょうか。これは、あらゆる人々の今を問う、自らを省み、吟味することを求める言葉ですね。

*ヨハネ8:12
「私は世の光である。私についてくる者は闇のうちを歩むことはなく、生命の光を持つ」。
 
2011年 1月23日  礼拝   高橋  誠  日本キリスト会川崎教会牧師

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