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日本キリスト会川崎教会コミュの「人は杯の外側を清める、内側は?」ルカ11:37−48/改訂版

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「人は杯の外側を清める、内側は?」

*ルカによる福音書11:37−48
 彼が話している時、あるファリサイ人が自分のもとで食事をしてくれるように彼に願うのであった。そこで彼は入って行って、食事の席についた。ところで、例のファリサイ人は、イエスが食事の前にまず身をすすがないのを見て、驚いた。しかし主は彼に対して言った、「ところであなたたちファリサイ人は、杯と平皿の外側を清める。しかし、あなたたちの内側は略奪と悪とに満ちている。
 愚か者どもよ、外側を造られた者は、内側をも造られたのではなかったか。とはいえ、内にあるものを慈善に施せ、そうすれば見よ、あなたたちにはすべてが清くなる。
 しかし禍だ、お前たちファリサイ人よ、お前たちは薄荷(はっか)と、芸香(うんこう)と、あらゆる野菜の十分の一税を払っていながら、さばきと神の愛とをないがしろにしている。もっとも、前者も行わねばならないが、後者も怠ってはならない。
 禍だ、お前たちファリサイ人よ。お前たちは会堂での最上席と市場で挨拶されることを愛しているのだ。
 禍だ、お前たちは。お前たちは、目には入らない墓のようなものだ。その上を歩く人々は何も気づかない。
 すると、律法の専門家たちのある者が答えて彼に言う、「先生、そのようなことを言われるとは、私どもをも侮辱なさることです」。
 しかしイエスは言った、「お前たち、律法の専門家どもも禍だ。お前たちは、人々に担い切れないほどの荷を負わせるが、お前たち自身はお前たちの指一本でもそれらの荷に触れようとはしないのだ。
 禍だ、お前たち、お前たちは預言者たちの墓を建てている。だが、お前たちの父祖たちこそ彼らを殺したのだ。それゆえお前たちは、お前たちの父祖たちのかずかずの業の証人であり、またそれに同意する者どもだ。一方で彼らが預言者たちを殺すと、他方でお前たちがその墓を建てるのだ。                                                                                              新約聖書翻訳委員会訳

§「預言者たちのメッセージ 」

  明けましておめでとうございます。また新しい一年がはじまりました。暮れからお正月にかけて、毎年、空気がいつもよりきれいになり、景色がよくなりますね。世界の人口も、またこの地域の人口も、大変な人数で、それぞれが行う経済活動や、たずさわる産業の規模も大変大きいものです。
  しかし、主イエスの歩みが、2000年後の私たちに大きな影響を与えているように、一人、あるいは小さな群れの愛と平和の行いが、共感を持つ人々と共に広がり、人々の心のよりどころになり得ることを思います。
  「あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい」、というその愛を実践し、その教えのもとに教育をし、子供たちを育てていくという、私たちの歩みの一歩一歩に、神さまが共にいて下さることを思い、神さまの恵みに感謝します。
  人間の社会の歴史を見ますと、多くの過ちにあふれています。戦いや謀略や侵略、そして略奪でいっぱいです。
  その中で、預言者と呼ばれる人々が時々立てられて、神の言葉、み心を人々に語りました。
  預言者イザヤは次のような言葉を残しています。

*イザヤ書2:2−5
終わりの日々に、ヤハウェの家の山は、諸々の山の頂にかたく立ち、
諸々の峰よりもなお高くそびえ、国々はこぞってそこへと流れてくる。
多くの民が来て言う、「さあ、上ろう、ヤハウェの山に、ヤコブの神の家へ。
彼(ヤハウェ)はわれらに彼の諸々の道を教えたもう。
そしてわれらは彼の諸々の途に歩むであろう。
まことに、シオンから教えが、ヤハウェの言葉はエルサレムから、出る」、と。
彼(ヤハウェ)は国々の間を裁き、多くの民に判決を下す。
彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち変える。
国は国に向かって剣を上げず、戦いについて二度と学ぶことはしない。
ヤコブの家よ、われらもヤハウェの光のうちを歩もうではないか。

  これは、ニューヨークの国連本部の建物の前の石碑に刻まれている言葉です。「彼(ヤハウェ)は国々の間を裁き、多くの民に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち変える。国は国に向かって剣を上げず、戦いについて二度と学ぶことはしない。ヤコブの家よ、われらもヤハウェの光のうちを歩もうではないか」、なんと力強い、非戦の宣言でしょう!
  「幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう」(マタイ5章9節)
主イエスが私たちに教えてくださったことは、まさにこういうことでした。 しかし、人間は不安や恐怖をどのように解消しようか、ということになると、これとはまったく逆の行動にでます。これが、傲りであり、人間の犯す大きな過ちです。そして、それは愛と信頼に基づくものではなく、不安と恐怖に基づく行動です。主イエスの時代、そしてその後の70年頃と130年頃の第一次、第二次ユダヤ反乱の時期であっても、人々の心を鼓舞したのは平和の言葉ではなく、戦いへのアジテーションでした。
  アメリカによるアフガニスタンやイラクの攻撃、ロシアによるチェチェンの独立支持勢力に対する攻撃、イスラエルによるパレスチナへの攻撃と占領、レバノンへの攻撃、中国の民主化勢力への弾圧、チベット、ウイグル、内モンゴルをはじめとする民族への粛正など、世界中で過ちは繰り返され続けています。
  不安や恐怖が生み出す憎しみと殺戮とは、さらに憎しみと殺戮を呼んでしまうのです。まさに、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52/あるいは「剣により生きる者は剣により滅びる」)という言葉の通りです。
   一時、平和の言葉は、荒々しい情熱のうねりの中でかき消されるように思われますが、しかし、平和への想いは深く、神のみ心にかなう人々の心の中にすみつきます。そして、世代と文化の違いを超えて、受け継がれてきました

*マタイによる福音書7章12節
 だから、あなたたちが人々からして欲しいと思うことのすべてを、あなたたちも人々にせよ。まさに、これが律法と預言者たちにほかならない。

 イスラエルでは、暗殺されてしまったイツハク・ラビン首相が、政策や考えをまさに180度変えて、パレスチナの独立を認め、和平への道を開いて平和への道を選択しました。 この、イツハク・ラビンの政策の変更は、まるでパウロの回心のようでした。和平への交渉のプロセスの中で、神との出会い、めざめ(awakening)の経験があったに違いありません。 これは大変勇気のある決断で、平和を乞う人々に感動を与えました。残念ながら、’95年に暗殺されてしまい、それ以来、イスラエルは間違った方向に行き続けています。これは、大変残念なことです。
  イツハク・ラビンの暗殺も、主イエスの十字架と同様に預言者の苦悩を思わせます。
  宗教も、常に保守化し、形骸化、形式主義に陥っていく危険を持っています。心を忘れ、形を守るという方向に向かっていくという危険が常に付きまといます。
  今日の箇所も、主イエスによる、形式主義に陥った当時のユダヤ教徒への批判なのです。しかし、これは批判の対象を「当時のユダヤ教徒」に限定することで、その他の人たちがその批判から自由になるということではありません。主イエスの言葉の普遍性は、それがどのような者にも当てはまるところにあります。

 §「人は杯の外側を清める、内側は?」

 「イエスが食事の前にまず身をすすがないのを見て、驚いた。しかし主は彼に対して言った、「ところであなたたちファリサイ人は、杯と平皿の外側を清める。しかし、あなたたちの内側は略奪と悪とに満ちている」、とありますが、主イエスがどうして手を洗わなかったのか、ということは気になりますよね。ユダヤ教の習慣で小さい頃から身についているなら、きっと手を決められたようにあらったであろうと思われますが、マルコによる福音書7章でも、弟子たちが手を洗わずに食事をして周りの人々に批判されています。
  研究者の中には、この手を洗わないで食事をするイエスや弟子たちの行動を、当時「異邦人のガリラヤ」と言われたガリラヤの地域性と重ね合わせて考える人がいます。北イスラエル王国が紀元前722年に滅亡したあと、数々の占領を経験して異邦人が多く移り住み、異文化と同化していく中、紀元前140年にハスモン家を中心とする勢力がシリヤを倒して新しいユダヤ独立国ができたときに、ガリラヤ地方にもエルサレム発の新しいユダヤ教とその口伝律法が入ってきてこれを守る義務が課せられるけれど、なかなか指導者たちが望むようには、人々の意識は変わらず、食事の前の清めの儀式としての手洗いもなかなか定着しないので、このことがまた「異邦人の同様のガリラヤ」という蔑称的な呼び方を招いた、という意見ですが、なかなかうなずけます。このことがまた、戒律よりも、その心を大切にする人々の姿勢とも関係があると考えられます。
  戒律を守って手を洗っていたって、手を洗わない人を馬鹿にし、差別するなら、戒律を守ることに一体どんな意味があるのか、という批判です。
  主イエスは、「あなたたちファリサイ人は、杯と平皿の外側を清める。しかし、あなたたちの内側は略奪と悪とに満ちている」、と述べていますが、実際には戒律では杯と皿の外側だけでなく、内側も清めるように、口伝律法は規定しています。では、イエスの言葉は、事実と違うではないか、とも言えますが、イエスはそれをわかって、あえて言っているのです。強烈な皮肉なのです。ただ、器の外側と内側ということではなく、外側を見かけ、形式、そして内側を心、神のみ心を行うことという対比を際立たせているのです。
  それだけではなく、マルコ7章では、「あなたたちは皆、私の言うことを聞いて、悟れ。外から人間の中に入ってきて彼を穢すことのできるものは何もない」(マルコ7:15)と、申命記(14:3〜21)やレビ記(11:1〜45)にある、食物規定を全く否定してしまっています。これは驚くべきことです。そして、「外から人間の中に入ってきて彼を穢すことのできるものは何もない」には、食べ物だけに留まらず、女性や病人、異邦人などに触れても穢れると思っている人々に、そんなことはないのだ、という意味が含まれています。これは人間社会にとって、大変大きな意識変革です。
 しかし、このような大胆で急進的な主張には、初期の教会のなかでも戸惑う声がでてきてしまいます。特にパウロが激しく批判している義の兄弟ヤコブを中心とした、エルサレム教会の人々のユダヤ教への回帰傾向、保守化傾向です。それはマタイによる福音書にも表れています。

*マタイによる福音書5:17〜20
 私が律法や預言者たち(旧約聖書全体)を廃棄するために来た、と思ってはならない。廃棄するためではなく、満たすために来たのである。なぜなら、アーメン、私はあなたたちに言う、天と地が過ぎ行くまでは、律法の一点一画も決して過ぎゆくことはなく、すべてが成るであろう。したがって、これらの最も小さい掟の一つですら破棄し、そのように人々にも教える者は、天の王国において最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これらの最も小さい掟を行ない、そのように人々にも教える者、その者こそ天の王国においては大いなる者と呼ばれるであろう。たしかに私はあなたたちに言う、あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ人たちのそれにまさっていなければ、あなたたちは決して天の王国に入ることはないであろう。

 これはイエスの主張と、全く矛盾するものです。
 さて、パウロは、イエスの心を受け継ぎ、コリント人への手紙10章25節以下で、「あなたがたは市場で売られているすべてのものは、良心のゆえに吟味することをしないままで、食べなさい。なぜなら、地とそれに満ちているものとは主のものであるから。もしも信者でない者のうちの誰かがあなたがたを招待し、あなたがたもそこに行きたいと願うなら、そこであなたがたに提供されるものは、すべて良心のゆえに吟味することをしないままで食べなさい」(コリント人への手紙10章25〜27節)と書いています。私たちは、このように一つのまとまった本のように見える聖書のなかから、イエスの大胆で斬新なメッセージと、彼の弟子達でありながら、保守化してしまった人々のメッセージの両方を読みとることができます。そして、私たちが選んで大切に受け継ぐ福音は、どちらか、しっかり明らかにされています。

*ガラテヤ人への手紙5:13〜16
 実際あなたがたは自由へと召されたのだ、兄弟たちよ。ただその自由を、肉へと向かう機会のために用いず、むしろ、愛を通してあなたがたは互いに仕え合いなさい。というのも、全律法は一つの言葉において、すなわち、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろうとの言葉において、満たされてしまっているからである。
2011年 1月 2日  新年礼拝   高橋  誠  日本キリスト会川崎教会牧師

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