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日本キリスト会川崎教会コミュの「幼子を受け入れる者」Mk9:33-50

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「幼子を受け入れる者」

*マルコによる福音書9章33〜50節

 そして彼らは、カファルナウムにやって来た。そこでイエスは、家の中にいた時、彼らにたずねた、「あなたたちは道すがら、何を論じていたのか」。しかし彼らは黙ってしまった。なぜなら彼らは道すがら、誰が自分たちのうちで一番大いなる者か、お互いに論じていたからである。そこで彼は座って、十二人を呼んだ。そして彼らに言う、「もし人が筆頭の者になりたいと思うならば、彼は万人のしんがりに、万人の奉仕者になるだろう」。
36 そして一人の子供を受け取って、その子を彼らの中に立たせ、またその子を両腕に抱きかかえながら、彼らに言った、「これらのこども達の一人を私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのだ。また、私を受け入れる者は、私を受け入れるのではなく、私を遣わした者を受け入れるのだ」。
38 ヨハネが彼に言った、「先生、私たちは、ある者があなたの名で悪霊どもを追い出しているのを見ました。その者が私たちに従わないので、私たちは止めさせようとしました」。しかしイエスは言った、「止めさせてはならない。私の名で力ある業を行ない、すぐその後で私の悪口を言えるような者はいないからだ。したがって、私たちに逆らわない者は、私たちに味方する者なのだ。
 たとえば、あなたたちがキリストの者であるというだけの理由で、あなたたちに一杯の水を飲ませてくれる者は、アーメン、私はあなたたちに言う、自分の報いを失うことは決してない。
42 しかし、私を信じるこれらの小さい者たちの一人を躓かせる者は、その首にろばの引き臼をつけられて、海の中に投げ込まれる方がその者にとってはまだましだ。
 それに、もしもあなたの一方の手があなたを躓かせるならば、それを切り落としてしまえ。両の手を持ってゲヘナに、すなわち消えない火の中に入り込んでしまうよりも、片手を欠いて命に入る方があなたにはまだましだ。また、もしもあなたの一方の足があなたを躓かせるならば、それを切り落ちしてしまえ。両の足を持ってゲヘナに投げ込まれるよりも、片足なしで命に入る方があなたにはまだましだ。またもしも、あなたの一方の目があなたを躓かせるならば、それを抜き棄ててしまえ。両の目を持ってゲヘナに投げ込まれるよりも、片目だけで神の王国に入る方があなたにはまだましだ。そこゲヘナでは、彼らのうじが尽きず、火も消えることがない。
49 たしかに、すべての者は火によって塩づけられるであろう。塩は良いものだ。しかし塩気のないものになったなら、あなたたちは何によってそれを味つけるだろうか。だからあなたたちは、自分の中に塩を持ち、お互いに平和をなすがよい」。
    並行箇所:33節〜 マタイ18:1〜5,ルカ9:46−48
                   38節〜 マタイ10:42,ルカ9:49−50  
                   42節〜 マタイ18:6−9,5:29−30,ルカ17:1−2
新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳

§「もし人が筆頭の者になりたいと思うならば」

 やっと秋らしい風が吹くようになりました。今年の猛暑は長かったですね。今日から、久しぶりに二階の礼拝堂で礼拝を持つことができます。礼拝堂の屋根の葺き替えと建物の継ぎ目の修理もほぼ終わりました。1964年に出来てから46年目の建物ですが、このようにして、礼拝や人々の集いに使うことができることは嬉しいことです。
  先日は、民主党の代表選挙が行われました。党内の選挙でしたが、大きく報道されていました。様々な思惑や駆け引きまでも詳細に伝えられていましたが、この人達にとって一番大切なのは、国の政治をしっかりと行うことなのか、それとも、自分たちの権力の基盤を築くことなのかと訝りたくなるのは、自民党時代と同じでした。アメリカでバラク・オバマ大統領が誕生した選挙との違いは、候補者に、どのような理想を持ち、こういう社会を作りたいというヴィジョンがあるか、そしてそれを実現する道を見据えているか、という点にあります。そして、リーダーに、今日の箇所にある、「もし人が筆頭の者になりたいと思うならば、彼は万人のしんがりに、万人の奉仕者になるだろう」、という主イエスの言葉のような強い信念と、奉仕する心があるかどうか、というのも大切なことだと思います。 それは、権力欲とか社会の中での地位や富を求めるのとは反対の価値観なのだと思います。今日の聖書の学びでも、これに通じる戒めに出会います。

§「幼子を受け入れる者」

  さて、今日のテキストは、10章30節からの「第二回受難予告」に続く部分で、マルコの編集は、イエスのガリラヤ地方での活動の終わりを、活動をはじめた場所でもある、カペナウムで弟子達を教育することで締めくくっています。 マルコによる福音書では「家の中」は弟子達の教育の場として描かれます。(cf.9:28, 9:33, 10:10) 
  マルコはここでイエスの「小さな言葉集」を使っているようで、独立した九つの言葉が、「私の名」「あなたの名」、「躓かせる」、「子供」、「小さい者」、「塩」、「火」というキーワードの連想によってつなげられています。 まず、33ー35節を読みましょう。

*33ー35節
 そして彼らは、カファルナウムにやって来た。そこでイエスは、家の中にいた時、彼らにたずねた、「あなたたちは道すがら、何を論じていたのか」。しかし彼らは黙ってしまった。なぜなら彼らは道すがら、誰が自分たちのうちで一番大いなる者か、お互いに論じていたからである。そこで彼は座って、十二人を呼んだ。そして彼らに言う、「もし人が筆頭の者になりたいと思うならば、彼は万人のしんがりに、万人の奉仕者になるだろう」。
 
 ここで弟子達は、自分たちの地位をこの世の常のように、利己的に序列化しようとすることを、イエスにたしなめられ、序列を逆転することを求められます。10章32節以下の、第三回受難復活予告のすぐ後の(35ー41節)で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、「あなたの栄光の中で、私たちの一人があなたの右に、一人があなたの左に座ることを私たちに許してください」と願い、それに対するイエスの言葉(10:43−45節)と対応しています。

*10章43−45節
 むしろ、あなたがたの間で、大いなる者になりたいと思うものは、あなたたちに仕える者となるだろう。また、あなたたちの間で筆頭でありたいと思う者は、皆の奴隷になるだろう。
 なぜならば、人の子も仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ。そしてまた、自分のいのちを多くの人のための身代金として与えるために来たのだ。」

 そして、「万人の奉仕者」であることは、こども達に代表されるような、もっとも小さな者たちを受け入れることでもあります。

*36 そして一人の子供を受け取って、その子を彼らの中に立たせ、またその子を両腕に抱きかかえながら、彼らに言った、「これらのこども達の一人を私の名のゆえに(=私の弟子だという理由で)受け入れる者は、私を受け入れるのだ。また、私を受け入れる者は、私を受け入れるのではなく、私を遣わした者を受け入れるのだ」。

 イエスがこども達を思う愛情が伝わってきます。「アーメン、私はあなたたちに言う、私のこれらの最も小さな兄弟の一人にあなたがしたことは、私にしたのである」(マタイ25:40)

 次は、これもまた興味深い箇所です。

*38 ヨハネが彼に言った、「先生、私たちは、ある者があなたの名で悪霊どもを追い出しているのを見ました。その者が私たちに従わないので、私たちは止めさせようとしました」。しかしイエスは言った、「止めさせてはならない。私の名で力ある業を行ない、すぐその後で私の悪口を言えるような者はいないからだ。したがって、私たちに逆らわない者は、私たちに味方する者なのだ。
41 たとえば、あなたたちがキリストの者であるというだけの理由で、あなたたちに一杯の水を飲ませてくれる者は、アーメン、私はあなたたちに言う、自分の報いを失うことは決してない。

 この箇所も興味深いのですが、ここで弟子たちは、「その者が私たちに従わないので、私たちは止めさせようとしました」と語っています。ここに、人間感情として、イエスの弟子であることの特権意識、優越感、閉鎖性など芽生えています。そして、こういう心にも警鐘をならします。

*42 しかし、私を信じるこれらの小さい者たちの一人を躓かせる者は、その首にろばの引き臼をつけられて、海の中に投げ込まれる方がその者にとってはまだましだ。
 それに、もしもあなたの一方の手があなたを躓かせるならば、それを切り落としてしまえ。両の手を持ってゲヘナに、すなわち消えない火の中に入り込んでしまうよりも、片手を欠いて命に入る方があなたにはまだましだ。また、もしもあなたの一方の足があなたを躓かせるならば、それを切り落ちしてしまえ。両の足を持ってゲヘナに投げ込まれるよりも、片足なしで命に入る方があなたにはまだましだ。またもしも、あなたの一方の目があなたを躓かせるならば、それを抜き棄ててしまえ。両の目を持ってゲヘナに投げ込まれるよりも、片目だけで神の王国に入る方があなたにはまだましだ。そこゲヘナでは、彼らのうじが尽きず、火も消えることがない。

 「私を信じるこれらの小さい者たちの一人を躓かせる者」に対して、強い口調で命令がなされます。ここにくり返し地獄を表すゲヘナが出てきます。これは、エルサレムの南をはしる、ヒンノムの谷(ゲー・ヒンノム)がなまってできた言葉です。エレミヤ書(7:31−34,19:6,32:25)には、この土地でモレク神に捧げるために、子供たちがいけにえとして焼き殺されていたことが記されています。そして、神はそれに対して激しく怒っておられます。この習慣は紀元前7世紀に廃止になりましたが、ゲヘナは、地獄の火を表す比喩表現になりました。
 「消えない火の中に入り込んでしまうよりも、片手を欠いて命に入る方があなたにはまだましだ」、の「命に入る」は、永遠の命を得る、神の国での命を得る、ということを指します。47節では、「命に入る」のかわりに、「神の国」が使われています。

*49 たしかに、すべての者は火によって塩づけられるであろう。塩は良いものだ。しかし塩気のないものになったなら、あなたたちは何によってそれを味つけるだろうか。だからあなたたちは、自分の中に塩を持ち、お互いに平和をなすがよい」。

 「たしかに、すべての者は火によって塩づけられるであろう」の背景には、レビ記2章13節の、「あなたはまた、あなたのすべての穀物の捧げ物に塩を加えなさい。あなたは、あなたの神の契約の塩をあなたの穀物の供え物の上から決して欠かしてはならない」という規定があります。しかし、「火によって塩づけられる」とはどういうことでしょうか。「火」が、激しい苦難を暗示しているとすると、「すべての者は、激しい苦難によって神へのささげものとしてふさわしい者になる」と言いたいのでしょうか。
 これは、第一回の受難復活予告の後で「自分の十字架を担って私に従って来るがよい」と、イエスの後に従うことを求めているのと同様のメッセージです。
 そして最後は、「あなたたちは、自分の中に塩を持ち、お互いに平和をなすがよい」。塩は、保存料であると同時に、友情と契約の徴として使われてきました(レビ2:13)。愛と絆とをもって、互いに平和をなせ。
  今日のように、混乱と不寛容とが目立つ時代にあって、平和を造り出す者となることができますように。

*マタイによる福音書5章3節〜12節
幸いだ、乞食の心を持つ者たち(霊に於いて乞食である者たち/自分に誇り頼むものが一切ない者の意)、天の王国はその彼らのものである。
幸いだ、悲嘆にくれる者たち、その彼らこそ、慰められるであろう。
幸いだ、柔和な者たち、その彼らこそ、大地を継ぐであろう。
幸いだ、義に飢え渇く者たち、その彼らこそ、満ち足りるようにされるであろう。
幸いだ、憐れみ深い者たち、その彼らこそ、憐れみをうけるであろう。
幸いだ、心の清いものたち、その彼らこそ、神を見るであろう。
幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。
幸いだ、義のゆえに迫害されてきた者たち、天の王国は彼らのものである。
幸いだ、あなたたちは。人々が私のゆえにあなたたちを罵り、迫害し、あなたたちに敵対 して、あらゆる悪しきことを言うときは。
喜んでおれ、そして小踊りせよ、あなたたちの報いは天において多いからである。
実際、彼らは、あなたたち以前の預言者たちをも、そのように迫害したのである。

2010年 9月19日  礼拝  高橋  誠  日本キリスト会川崎教会牧師

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