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日本キリスト会川崎教会コミュの「高い山でのできごと」Mk9:2-13

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「高い山でのできごと」

*マルコによる福音書9章2〜13節

 そして六日後に彼は、ペトロとヤコブとヨハネを連れだし、ある高い山にただ彼らだけをひきいてのぼる。すると、彼らの面前で彼の姿が変えられ、彼の衣はみごとに光り輝く白色になった。それは地上の布晒し屋がいくら試みても決して至りえないような白色だった。そして彼らの目前に、エリヤがモーセと一緒に現れた。そして彼らはイエスと語っていた。すると、ペトロが語り始めてイエスに言う、「ラビ、私たちがここにいるのはすばらしいことです。そこで、三つの幕屋を造ろうではありませんか。あなたに一つと、モーセに一つと、エリヤに一つです」。というのも、彼は何と答えていいか、わからなかったからである。ほんとうに、彼らは恐怖に襲われていたのである。すると雲が起こって彼らの上を覆った。そしてその雲から声がした、「この者は私の愛する子、お前たちは彼に聞け」。
 そこで彼らが不意にあたりを見まわすと、自分たちと共にいるのはイエスだけで、もはや誰も見あたらなかった。
 そして彼らが山から下りていく時、彼は人の子が死人の中から甦るまでは、見たさまざまなことを誰にも物語るなと、彼らに命令した。すると彼らは、この言葉をとり上げ、死人たちの中から甦るとは何のことか、お互いに議論し合った。
 そこで彼らは、彼にたずねようとして言った、「なぜ律法学者たちは、『エリヤがまず最初に来なくてはならない』と言うのですか」。すると彼は彼らに言った、「たしかにエリヤがまず最初にやって来て、すべてを回復する。ところで、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、ないがしろにされると書いてあるのはどういうわけか。だが、私はあなたたちに言う、まさにエリヤは来てしまったのだ。しかし人々は、彼に好き勝手なことをした。彼について書いてある通りなのだ」。                   
     *並行箇所:マタイ17:1−8、ルカ9:28−3、マタイ17:9−15
新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳

§「ある高い山でのできごと」

   今年は本当に暑い日が続きますね。137年前に統計を取り始めてから一番暑いのだそうです。明治時代になってからを日本では近代と呼びますが、近代以降の歴史は意外と短いですね。この教会は第二次世界大戦のすぐ後にできましたので、約65年の歴史があります。この礼拝堂ができてから46年です。時々大きな修理をしなければならなくなり、先週は礼拝堂の屋根のトタンの張り替えと建物と建物とのつなぎ目に(それぞれの固有振動数が違うために)どうしてもできてしまうひび割れの修理をいたしました。いろいろなことがありながらも、ここを拠点に私たちが信仰生活を送り、そして神さまからいただいている恵み、喜び、心の平和を分かち合うことができることは、嬉しいことだと思います。
  私たちの人生には、様々な出会いがあります。時には、衝撃的な出会いがあり、時には平和に満ちた出会いがあります。また時には別れもあります。
  しかし、共に特別な時を共有し、共に暮らし、共に成長した人々は、私たちの心に生き続けます。現代人も、このような想いを、音楽や文学で表現したり、また、詩歌や小説を通して共感しあうことを楽しみます。
  聖書のお話しも、書いてあるとおりのその先に分かち合おうとしている心を読み取ろうとする努力が必要なことがよくあります。細かく分析しながら読むことで、明らかになること、発見が数多くあります。
 さて、今日の箇所のエピソードは、超自然的なもので、伝統的に「山上の変貌」と呼ばれている箇所です。イエスがペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れてある高い山に登り、突然姿が変えられ、衣が真っ白に輝きます。そしてモーセとエリヤが現れ、三人が語り合います。

*マルコによる福音書9章2−4節
 そして六日後に彼は、ペトロとヤコブとヨハネを連れだし、ある高い山にただ彼らだけをひきいてのぼる。すると、彼らの面前で彼の姿が変えられ、彼の衣はみごとに光り輝く白色になった。それは地上の布晒し屋がいくら試みても決して至りえないような白色だった。そして彼らの目前に、エリヤがモーセと一緒に現れた。そして彼らはイエスと語っていた。

 最初に「六日の後に」とあるのは、31節からの受難予告から六日後という文脈ですが、どのような意図でこの言葉を入れたのかはわかっていません。7日(完全数)や12人(イスラエル12部族)や40日(非常に大きい数)のように、数字自体が持つ特別な意味もここでは見あたりません。
  この事件が起こった「ある高い山」は、現地の古い言い伝えでは、ガリラヤ湖の南西16キロにあり、エズレエル平野になだらかにそびえ立つタボル山であると言われてきました。このような地形の例に漏れず、当時この山の頂上には要塞が造られていたことから、こうしたエピソードには不似合いな場所だとする声もあります。現在のこの山の姿は美しく、タボル山には、変貌の聖所(Sanctuary of Transfiguration)という教会が建っています。
  マルコによる福音書の文脈でこの場所を読みとろうとすると、8章27節に、「カイサリヤ・フィリッピ(フィリポ・カイザリヤ)近郊の村々に行った」とあり、9章30節に「そして彼らはそこから出て、ガリラヤを通っていった」とあることから、「ガリラヤの外、フィリポ・カイザリアの近郊」(川島貞雄)、カイサリア・フィリッピから19キロほど北にあるヘルモン山であったろうという節もあります。
  「姿が変えられる」という言葉のギリシャ語「メタモルフースタイ」は、英語ではmetamorphosisで、イモムシが蝶になったり、セミの幼虫がセミに変身したりすることを意味します。そして、「ギリシャ人のあいだでは、神々が人間に姿を変えること、あるいは逆に人間が神々の姿になることを言い表す用語」(川島貞雄)ということを考えると、「イエスが神の子であり、人間の姿になって来られた」ことです。わかりやすく言えば、弟子たちによって、いままで人間であったイエスが、神的存在、神の子として、再発見されたのだと捉えることもできそうです。
 また、白は神的世界を表す色で、マルコによる福音書の最後に近い部分で、イエスの復活を知らせるために、空っぽの墓に座っている天の使いである「若者」も白い長衣を着ていました。

*マルコによる福音書16章5節
 そして墓の中に入ると、彼女たちは白い長衣をまとった一人の若者が右側に座っているのを見、ひどく肝をつぶした。

 「それは地上の布晒し屋がいくら試みても決して至りえないような白色だった」も、イエスが、神的存在であることを強調しています。
 そして、そこにエリヤとモーセが現れ、イエスと語り合います。この二人の共通点は、当時の人々によって、神に死ぬことなしに天に上げられたと信じられていたことです。旧約の預言書には、その預言者の死を報じる記事がなく、エリヤの場合も死ぬことなしに天に上げられています。

*列王記下2:11
 彼ら(エリヤフとエリシャ)が話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車と火の馬が現れて、二人の間を分けた。エリヤフ(エリヤ、我が神はヤハウェの意)はつむじ風に乗って天に上って行った。エリシャはこれを見て叫んだ、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」。しかし、彼の姿はもう見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。  池田裕訳

 モーセについては、申命記にネボ山で死んだことがはっきり書かれていますが、その墓がどこにも見つからないことから、ユダヤ人の間ではモーセも死ぬことなしに天に上げられたと信じられていました。

*申命記34:6(新共同訳)
主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。

  ここでイエスは神の子としての姿をあらわされ、天の住人であるエリヤとモーセと語り合います。
  さて、このエピソードを私たちはどのように捉えればよいのでしょうか。歴史的事実としてでしょうか。そうではなく、その心を捉えるために、ここでも多面的に考えていく必要があります。
  イエスと弟子たちの間にあった、ある特別な出来事をあらわしているのかも知れません。イエスがまさに神の子である、と実感できた瞬間、物理的な出会いでは、味わえなかった、心の、魂が揺さぶられるような出会いの瞬間をこのような表現であらわしていると私には思えます。5節でペテロが、「ラビ、私たちがここにいるのは素晴らしいことです」と語っているのは、こうした感動の表れでしょう。また、マルコによる福音書の編集意図からみると、受難と十字架に向かうイエスの道行きを前にして、読者にイエスが神の子であることを強く印象づける意図があったと思われます。マルコは、福音書の冒頭で、イエスが、キリスト(救い主・メシア)であること、神の子であることが示されていました。「神の子イエス・キリストの福音の源」(マルコによる福音書1章1節)

*マルコによる福音書1章9−11節
するとその頃、ガリラヤのナザレからイエスがやって来て、ヨルダン河でヨハネから洗礼を受けた。そして、すぐに水から上がると、イエスは天が裂け、霊が鳩のように降って来るのを見た。すると天から声がした、「お前は私の愛する子、お前は私の意にかなった」。

 そして、マルコによる福音書がちょうどまん中で折り返す8章27節のペテロの信仰告白の後、この箇所でまた、「雲が起こって彼ら上を覆って」という、神が表れるときの現象として描かれる表現の後、神からの召命がくりかえされます。今度は、弟子達に、そして私たちに、彼に従うようにというメッセージとして: 「この者は私の愛する子、お前たちは彼に聞け(聞いて従え)」。

 イエスは、ここで神の子として描かれますが、ここでイエスはエリヤやモーセと共に天に上ってしまうのではなく、人間として弟子達とともに残ってくださいます。そして、来るべき受難と十字架への道を歩み続けます。

*マルコによる福音書9:11〜13
 そして彼らが山から下りていく時、彼は人の子が死人の中から甦るまでは、見たさまざまなことを誰にも物語るなと、彼らに命令した。すると彼らは、この言葉をとり上げ、死人たちの中から甦るとは何のことか、お互いに議論し合った。
 そこで彼らは、彼にたずねようとして言った、「なぜ律法学者たちは、『エリヤがまず最初に来なくてはならない』と言うのですか」。すると彼は彼らに言った、「たしかにエリヤがまず最初にやって来て、すべてを回復する。ところで、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、ないがしろにされると書いてあるのはどういうわけか。だが、私はあなたたちに言う、まさにエリヤは来てしまったのだ。しかし人々は、彼に好き勝手なことをした。彼について書いてある通りなのだ」。 

 9〜10節では、マルコによる福音書では、弟子たちは、イエスが受難と十字架による死、そして復活を経てはじめてイエスが死人の中から甦ることがどういうことであるかを理解するので、ここではまだそれを理解できずに議論している様子が描かれています。
 そして、終末の人の子、メシアがこの世に来る前に、エリヤが来るという当時の人々の一般的な期待について質問します。このエリヤが来る、ということについては、マラキ書3章に記述があります。

*マラキ3章23−24節
 見よ、わたしはあなたがたに預言者エリヤを遣わす。それは大いなる恐るべき、ヤハウェの日が来る前に。彼は先祖たちの心を子らに、子らの心を先祖たちに向けさせる。わたしが来て、この地を撃ち、聖絶(絶滅)をもたらすことがないように。 鈴木佳秀訳

 そして、この12節以下は非常にわかりにくい部分です。マルコによる福音書以前の教会が、ユダヤ教の人々のメシア待望論に、バプテスマのヨハネとイエスを当てはめようとしている議論を反映する箇所です。 「たしかにエリヤがまず最初にやって来て、すべてを回復する。ところで、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、ないがしろにされると書いてあるのはどういうわけか」、先駆者としてのエリヤが来て、すべてを回復するが、その後に来る王的メシアとして華々しく登場するものと一般には考えられていた人の子(のようなもの)が多くの苦しみを受けるとはどういうことか。これは、受難を経て十字架の死にいたるべきイエスが、キリストであるということはどういうことか、という問題につながっていきます。
 13節:「だが、私はあなたたちに言う、まさにエリヤは来てしまったのだ。しかし人々は、彼に好き勝手なことをした。彼について書いてある通りなのだ」。エリヤは、洗礼者ヨハネとしてもう到来した。しかし、王妃イザベルによるエリヤに対する迫害(列王記上19:1〜10)と同じように、洗礼者ヨハネもヘロデ・アンティパスによって「好き勝手に」殺されてしまいます。しかし、そのヨハネの存在がすべてを回復するとはどういうことでしょうか。
 佐藤研は「エリヤは洗礼者ヨハネとして実際に到来し、その彼を人々は勝手に扱って殺してしまったのだ。しかもそれが逆説的にも『一切を回復する』ということなのだ。それによって、彼はまさに受難の人の子の完璧な先駆となったのだ」、と説明します。
 あるいは、「一切を回復する」を、彼の不本意な死によって、その魂を受け継ぐ者(たち)が生まれる、また、人の子が到来することを待ち望む環境ができあがる、と捉えることができるかもしれません。

「もし自然的なからだがあるのなら、霊的なからだもまたあるのである。最初の人アダムは、生けるいのちとなった。そして最後のアダムは人を生かす霊となったのである。」Iコリント15:44b〜45

2010年 9月5日  礼拝   高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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