ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本キリスト会川崎教会コミュの「受難と復活の予告」 マルコ8章31〜33節 

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「受難と復活の予告」

①マルコによる福音書8章31〜33節 (第一回 受難復活予告)
 そして彼は、次のように彼らを教え始めた、「人の子は、多くの苦しみを受け、長老たちや祭司長たちや律法学者たちによって棄てられ、かつ殺され、そして三日後に甦らなければならない」。そして、このことをあからさまに語るようになった。そこでペトロは彼をわきへ連れて行き、彼を叱り始めた。しかし、イエスは振り向き、その弟子たちを見ながら、ペトロを戒め、そして言う、「サタンよ、私の後ろに失せろ。お前は神のことがらを思わず、人間のことがらを思っているのだ」。
並行箇所: マタイ16:21ー23、ルカ9:22
②マルコによる福音書9章30〜32節 (第二回受難復活予告)
 そして彼らはそこから出て、ガリラヤを通っていったが、イエスは誰にも知られることを望まなかった。彼はその弟子たちを教え、彼らに次のように言い続けていたからである。「人の子は人々の手に渡される、そして彼らは彼を殺すだろう、そして彼は殺されて三日後に甦るだろう」。しかし彼らはこの言葉が理解できず、また、恐ろしくて彼にたずねることができなかった。

③マルコによる福音書10章32〜34節 (第三回 受難復活予告)
 さて、彼らはエルサレムにのぼる途上にあった。そしてイエスは彼らの先頭に立って進んだ。そこで彼らは肝をつぶし、従う者たちは恐れた。そこで彼は再び、十二人をわきへ連れて行き、やがて自分の身に起ころうとしていることを彼らに語り始めた、「見よ、私たちはエルサレムにのぼる。すると人の子は祭司長たちや律法学者たちに売り渡される。そして彼らは彼を死をもって断罪し、異邦人たちに引き渡すだろう。そして彼らは彼をなぶりものにし、彼に唾をかけ、彼を鞭打ち、そして殺すだろう。そして三日後に、彼は甦るだろう。
新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳

§「あなたの隣人を愛せよ」

  一昨日の8月6日、第二次世界大戦の末期にアメリカ軍により、広島に原子爆弾が落とされてから65周年を迎えました。三日後の9日は、長崎に原爆が落とされた記念日です。アメリカの学校では、今でも原爆の投下が、第二次世界大戦の終結を早め、アメリカ軍の犠牲者を少なくするために役立ったという意見が多いと聞いています。世論などは、多くの場合、情報操作によってかなり影響されます。原爆、核兵器については、アメリカでは相当の情報操作が行われています。
  95年にスミソニアン博物館が、原爆についての大規模な展示会を行うことになりましたが、退役軍人の団体などの反対にあって、その規模がかなり縮小されたというできごとがありました。アメリカ国内では、原子爆弾がどのような兵器なのか、実はあまり知られていません。90年頃でしたが、カリフォルニアでホーム・ステイ・プログラムのリーダーをしている人たちが日本に研修に来たときに、広島の原爆ドームと資料館を訪ねた後、私にこう質問した人がいました。「あなたは広島に行って、原爆の資料館を訪れたことある?」私が「いいえ、広島には行ったことありませんが、長崎の平和公園と原爆資料館には、何度も行きましたよ」、と答えると彼女は、「長崎?どういうこと?」と訊くので、「アメリカ軍は、原爆を二つ落としたんですよ。8月6日に広島に、そして9日長崎に」。するとこの人達は非常に驚いて、「原爆を二つも!知らなかった。一つだと思っていた」、と口々に言った後、「なぜ?」と訊かれました。「アメリカは、二種類の原爆を開発していました。ウランを原料とした、リトル・ボーイと、プルトニウムを原料とした、ファット・マンです。この二種類を実際に使って、データを集めたかった、あるいは、それだけのことができることを誇示したかったのだと思います」、と答えると、大変なショックを受けていました。
   戦争は、人間の心の状態を異常にしますが、その異常の中心は、人を味方と敵とにはっきり分けること、敵の死を望み、味方の勝利を望むのです。そして、敵と決めた者たちについては、まったく同情や共感を示さなくなるのです。これ以上ないほどの差別意識です。これは、大変大きな問題なのですが、その差別意識の中にいる人々にとっては、当然のことなので、それはまったく問題にされなくなってしまいます。戦争犯罪を追求する人たちと、それを擁護する人たちが議論しても、その議論が噛み合わない理由は、ここにあります。これは、日本も、アメリカも、そして今のイスラエル人のパレスチナ人に対する態度にも通じることです。
   主イエスは、人間の、そのような傾向を、よくご存じでした。

*マルコによる福音書12章28〜31節
 すると律法学者たちの一人が近寄ってきて、彼らが議論しているのを聞き、イエスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「すべての掟の中で、第一のものは何でしょう」。イエスは答えた、「第一のものはこれだ、『聞け、イスラエルよ。われらの神なる主は、一なる主である。そこであなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くし、あなたのいのちを尽くし、あなたの想いを尽くし、あなたの力を尽くして愛するであろう』。第二のものはこれだ、『あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう』。これらより大いなる他の掟は存在しない」。

  そして、その隣人は、世界中のどの人でもあり得るのです。そしてさらに、

*マタイによる福音書 5:43
 『あなたは、あなたの隣人を愛するであろう、そしてあなたの敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ。

   とまで言われるのです。「よきサマリア人の譬え」も、同じことを伝えようとしています。

*ルカによる福音書10章30〜37節
  イエスは〔この問いを〕取り上げて言った、「ある人がエルサレムからエリコにくだって行く途中、盗賊どもの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ取り、彼をめった打ちにした後、半殺しにしたままそこを立ち去った。すると偶然にも、その道をある祭司がくだって来た。しかしその人を見ると、道の向こう側を通って行った、また同じように一人のレビ人も現れ、そのところへやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。
 さて、あるサマリア人の旅人が彼のところにやって来たが、彼のあり様を見て断腸の思いに駆られた。そこで近寄って来て、オリーブ油と葡萄酒を彼の傷に注いで、その傷に包帯を施してやり、また彼を自分の家畜に乗せて宿屋へ連れて行って、その介抱をした。
そして翌日、二デナリオンを取り出して宿屋の主人に与え、言った、『この人を介抱してやって下さい。この額以上に出費がかさんだら、私が戻ってくる時、あなたにお支払いします』。この三人のうち、誰が盗賊どもの手に落ちた者の隣人になったと思うか」。
 すると彼は言った、「彼に憐れみの業を行った者です」。するとイエスは彼に言った、「行って、あなたもまた同じようにしなさい」。

   そして、このような平和の源のような価値観と、人間の持つ差別的な価値観とのギャップが、当時の社会の施政者たちと、主イエスとの摩擦を呼び、それが十字架へと続いたのです。

§「受難と十字架、そして復活の予告」

 さて、今日の聖書箇所ですが、マルコによる福音書は、この前の部分で、ペテロが「あなたこそキリストです」と宣言した記事を私たちに読ませた後、受難と十字架への道へ進んで行くイエスの往く道が進んでいくごとに、同様の予告を三度くり返します。

*マルコによる福音書8章27〜30節
 さて、イエスとその弟子たちとは、そこからカイサリア・フィリッピ近郊の村々に行った。そしてその道すがら、彼はその弟子たちにたずねて彼らに言った、「人々は私を誰だと言っているか」。そこで彼らは彼に言った、「洗礼者ヨハネ、また他の者たちはエリヤ、しかしまたほかの者たちはかつての大預言者の一人だと言っています」。すると彼は彼らにたずねた、「しかしあなたたちは、私を誰だと言うのか」。ペトロは答えて彼に言う、「あなたこそキリストです」。すると彼は、自分のことを誰にも言わないように、彼らを叱った。   

   ペテロは、信仰告白を、そしてイエスを理解していないのに、また神に謙虚に従っていないのに言って叱られています。なんと、穢れた霊が行う信仰告白と同じ扱いです。
 30節の「叱る」(あるいは戒める)という単語(エピティマーン)は穢れた霊が自分たちを守るために、イエスを神の子と呼ぶときにも、イエスが穢れた霊を叱るときに使われています。(cf.マルコ1:23−24、3:11)

*マルコによる福音書8章31〜33節 (第一回 受難復活予告)
 そして彼は、次のように彼らを教え始めた、「人の子は、多くの苦しみを受け、長老たちや祭司長たちや律法学者たちによって棄てられ、かつ殺され、そして三日後に甦らなければならない」。そして、このことをあからさまに語るようになった。そこでペトロは彼をわきへ連れて行き、彼を叱り始めた。しかし、イエスは振り向き、その弟子たちを見ながら、ペトロを戒め、そして言う、「サタンよ、私の後ろに失せろ。お前は神のことがらを思わず、人間のことがらを思っているのだ」。

  これらの予告の特徴として、イエスが主語を「人の子」としている点があります。「人の子」という表現は、マルコ、マタイ、ルカ(共観福音書)では、必ずイエスの口から語られ、普通私たちは、イエスの数あるイエスの称号のひとつだと思っていますし、原始キリスト教会も、キリスト、メシア、救済者という意味で使っていますが、もともとはヘブライ語で「ベン・アダム」:「アダムの息子」は「人間」を指します。そして、旧約聖書ではダニエル書(cf. ダニエル 7:13−14 )などの黙示文学から、救済者の意味で使われるようになります。
  マルコによる福音書では、限定的に、受難から十字架、そして復活のイエスに対してのみ、「人の子」という言葉が使われているのは、受難、十字架、そして復活に至る道のりを経て初めて、イエスが、救い主であるとする姿勢に共通しています。
  さて、最初の予告では、「多くの苦しみを受け、長老たちや祭司長たちや律法学者たちによって棄てられ、かつ殺され、そして三日後に甦らなければならない」という、神の計画で避けられないことを示すデイという言葉が使われています。
  また、彼を殺す者たちを、第一回目予告では「長老たちや祭司長たちや律法学者たち」、そして、第二回目は「人々」(ヘブライ語であらわせば、「人の子は人々の手に渡される」は、「ベン・アダムはベン・アダムたちの手に渡される」という風に、かけことばになっている...ダヴィド・フルッサー)、さらに第三回目では、「祭司長たちや律法学者たち」に売り渡されたあと、「異邦人」(この場合はローマ人)の手に渡されます。
  このように、受難と死と復活について語るイエスをペテロが諫めます。しかし、イエスはペテロに、「サタンよ、私の後ろに失せろ。お前は神のことがらを思わず、人間のことがらを思っているのだ」と一喝します。これは、ペテロは、信仰告白を、そしてイエスを理解していないのに、また神に謙虚に従っていないのに言って叱られています。
  これは、原始教会において、軍事的指導者として群衆を導き、ローマ軍に打ち勝って人々をローマの支配から解放するという勝利の姿からはほど遠い、イエスの受難と十字架による刑死というショッキングな出来事、そして復活を経てはじめて、イエスがそれまで当時のユダヤ教徒の間で信じられていたのとは違う、全く新しいキリストとなったと信じた人々の信仰が表れているのだと思います。「サタンよ、しりぞけ。イエスの受難と十字架の死と復活がなかったら、イエスを通じて神からこの福音が与えられることはなかったのだ」、と言っているように思えます。
  これがなかったら、「あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」とか、「あなたの敵を愛しなさい」とか、また「よきサマリア人」の譬えで言っているような理想主義的な人間関係、偏見を打ち捨て、平和を求め、この地上に、神の国が到来したかのような素晴らしい価値観と生き方を指し示す救い主(メシア、キリスト)像は、生まれてこないのだ、という主張なのです。


「私はキリストと共に十字架につけられてしまっている。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちで生きているのである。」ガラテヤ2章19b-20a節



2010年 8月 8日  礼拝   高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本キリスト会川崎教会 更新情報

日本キリスト会川崎教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング