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日本キリスト会川崎教会コミュの「あなたこそキリストです」 マルコ8章27〜30節

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「あなたこそキリストです」

①マルコによる福音書8章27〜30節

 さて、イエスとその弟子たちとは、そこからカイサリア・フィリッピ近郊の村々に行った。そしてその道すがら、彼はその弟子たちにたずねて彼らに言った、「人々は私を誰だと言っているか」。そこで彼らは彼に言った、「洗礼者ヨハネ、また他の者たちはエリヤ、しかしまたほかの者たちはかつての大預言者の一人だと言っています」。すると彼は彼らにたずねた、「しかしあなたたちは、私を誰だと言うのか」。ペトロは答えて彼に言う、「あなたこそキリストです」。すると彼は、自分のことを誰にも言わないように、彼らを叱った。                    並行箇所:マタイ16:13ー20、ルカ9:18ー21

②マタイ16:13ー20

 そしてイエスは、カイサリア・フィリピ地帯にやって来ると、その弟子たちにたずねて言った、「人々は人の子を誰だと言っているか」。そこで彼らは言った、「ある者たちは浸礼者(バプテスマの)ヨハネ、しかしまたほかの者たちはエリヤ、またほかの者たちはエレミヤあるいは預言者の一人だと言っています」。彼は彼らに言う、「しかしあなたたちは、私を誰だと言うのか」。するとシモン・ペトロが答えて言った、「あなたこそキリスト、活ける神の子です」。
 そこでイエスは答えて彼に言った、「幸いだあなたは、シモン・バルヨナよ。そのことをあなたに啓示したのは肉や血ではなく、天におられる私の父だからである。この私もまた、アナタに言う、あなたこそペトロである。そしてこの岩の上に、私は自分の教会を建てよう。そして黄泉の門も、これに勝ることはないであろう。私はあなたに天の王国の鍵を与えよう。そしてあなたが地上で結ぶものは天上でも結ばれた者となるであろう。またあなたが地上で解くものは天上でも解かれたものとなるであろう」。
 その後、彼は自分がキリストであることを誰にも話さないように、弟子たちに命令した。
新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳

§「自然の力、恵み、そして人の営み」

  毎日大変暑い日々が続いています。ニュースでは熱中症に危険や予防法が紹介されています。先日庭の掃除をしていますと、建築会社の営業の人が立ち寄り、土があって木が生えているだけでかなり涼しく感じることを喜んでいました。コンクリートとアスファルトとで固めて、見た目の人工的なきれいさと、管理のしやすさばかりを追求した街作りをしてきた日本中の自治体や建築会社、そして市民、皆が、自然や人間に向き直って、このような姿勢を直す時が来ていると思います。
  昨日、大田区にある、東京港野鳥公園に行ってきました。20年少し前にできてから時々行っていますが、倉庫や工場や市場、そしてすぐそばには空港があるような殺伐とした環境に、人工の潮が入る池と、淡水の池とを作り、できる限り自然の力で野鳥や他の生き物が暮らしていけるような環境になっています。印象として、年を経るごとに見ることができる昆虫や植物、そして鳥が増えているように思えます。 昨日も、オニヤンマやシオカラトンボの他に、糸トンボや蝶トンボまでたくさんいました。
  このような都市の環境にあっても、環境さえ整えば、回復していく自然の大きな力に驚きます。そして、人間の側の自然を大切にして、生活から切り離されたところだけでなく、身の回りでもできる限り自然を残したり、土を残し、木を植えることが大切だと思います。
  先日、友人と、前回の参議院議員選挙での民主党の党首がいかに人々の心を掴むことが下手だったかについて話していましたが、もし私が選挙参謀なら、人々の生活に直接関係がある、それが実現すれば目に見えて生活環境が向上したり、嬉しかったりする、実現可能な小さなことがらいくつかを確実に実行することを主張させるでしょうね。例えば、まず、衣食住と教育にかかわることについては、消費税を非課税にします。それから、マンションなどの賃貸住宅での、多くの場合2年ごとの契約更新時に課される更新料を非合法化します。また、介護保険で今は自由に決められている様々なサービスや工事の代金にガイドラインを設け、法外な請求をする業者には罰則を設けます。駐車場や道路には、土を残し、木を植えることを義務づけます。また、今は東南アジアから看護師や介護士などを募集しながら、日本人と同じ日本語で出される試験後合格することが求められていますが、日本語などの基礎的な講習を受けることを条件に、本国での資格をそのまま日本で使えるようにし、また、介護などの試験は、カンボジア語やベトナム語などでも受けられるようにします。...これだけでも、大分変わりますよね。変わって嬉しいことはみな、人や自然の方を向いていることばかりですよね。
  この、人々の方を向いて、いつでも現状を洗い直して、よりよく換えていくことを恐れないこと、これは、主イエスがその生涯を通じて私たちに教えてくれた、神の国の福音に生きることの「心」です。変化をおそれないのは、神さまと共にあって、神さまの前で謙虚で、神さまに向き合うように人々に向き合うからに他ありません。

*マルコによる福音書12章28〜31節
 すると律法学者たちの一人が近寄ってきて、彼らが議論しているのを聞き、イエスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「すべての掟の中で、第一のものは何でしょう」。イエスは答えた、「第一のものはこれだ、『聞け、イスラエルよ。われらの神なる主は、一なる主である。そこであなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くし、あなたのいのちを尽くし、あなたの想いを尽くし、あなたの力を尽くして愛するであろう』。第二のものはこれだ、『あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう』。これらより大いなる他の掟は存在しない」。
 (注:「〜であろう」は、ギリシャ語での強い命令を表す未来形の表現を、未来に訳しているためです。実際は、大変強い、それ以外の選択肢を認めない「〜しなさい」にあたります。}

§「あなたこそキリストです」

  さて、今日の聖書の平行箇所、マルコによる福音書8章27節以下と、マタイによる福音書16章13節以下は、大変雰囲気が違います。
  カイサリア・フィリッピは、ガリラヤ湖より北のヨルダン川源流地域にある、自然に囲まれた大変美しいところです。ヘロデ大王がローマ皇帝アウグストゥスの神殿を建て、息子のフィリポスがこの町に皇帝の名と自分の名をくっつけて、地中海に面する海のカイサリアと区別できるようにしました。マルコによる福音書のイエスと弟子たちは、舟に乗る旅を終え、ここから徒歩で道を歩いてエルサレムまでの旅がはじまります。この箇所は、まさに十字架への道のはじまりです。
 興味深い点は、ここ、「人々は私を誰だと言っているか」以下に、当時の人々の復活感が表れていることです。「洗礼者ヨハネ、また他の者たちはエリヤ、しかしまたほかの者たちはかつての大預言者の一人だと言っています」は、イエスが洗礼者ヨハネ、あるいはエリヤなどの復活した姿=生まれ変わりと捉えています。これは6章14−16節にも対応しています。

*マルコによる福音書6章14〜16節
 するとヘロデ王が彼のことを耳にした。彼の名前があらわになったからである。そこで、ある人々は言っていた、「洗礼する者ヨハネが死人の中から起こされて現れたのだ、だからこそこれらの力が彼の中で働いているのだ」。ほかの者たちは「彼はエリヤだ」と言い、またほかの者たちは「かつての大預言者の一人のような預言者だ」と言っていた。ヘロデはこれを聞いて何度も言った、「わしが首を斬り落としたあのヨハネ、あいつが起こされたのだ」。

   この復活感は、イエスの復活を考えるときに考慮する必要があります。
 マルコとマタイを比較して一番目立つ違いは、「あなたこそキリストです」(マルコ)、「あなたこそキリスト、活ける神の子です」(マタイ)というペテロの告白に対するイエスの反応です。マルコでは非常につれない応答なのに対し、マタイでは手放しでほめ、イエスの死後、教会をペテロに託す、そして天国の鍵まで託すという方向に進んでいきます。ちなみに、この箇所を根拠にして、カトリック教会は、ペテロを初代教皇としています。しかし、教会(エクレシア)という言葉は、共観福音書では、こことマタイの教会規則が挿入されているマタイ18章17節でしか使われていません。
   史的イエスに、(マタイと同じ意味での)教会、あるいは教団をつくろうという意志があったか、という点で、イエスにはその意志はありませんでした。教団を作って運営するということになると、クムラン教団に見られるように、おのずとその教団に属する人と属していない人を排他的に分けることになりますが、「私のもとに来なさい。あなたたち、労し、重荷を負ったすべての者たち」(マタイ11:28)や、「子供たちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ」(マタイ10:14b)といった言葉、そして女性や子供、「罪人」と言われる人々や取税人、異邦人とも食事を共にし、パンと魚の奇蹟に表れるように、来る者をすべて受け入れる姿勢からは、全く人を分け隔てしないイエスの姿が表れます。「五つのパンと二匹の魚」の奇跡も、そうした神の国の姿を現しているものでしたよね。
 「イエスは終末が間近に差し迫っているという緊張感と追いつめられたような情熱を持って神の国の福音を宣教した」(橋本滋雄、マルコ13:32−33参照)ということからも、マタイが挿入した16章17〜19節は、マタイの教会のペテロの位置づけ物語ということができます。 
  これに対して、マルコによる福音書は、弟子たちの無理解をくり返し強調し、大変批判的です。これは、かつてイエスが痛烈に批判したユダヤ教徒たちのドグマ偏重主義と同じドグマ(教理)、再ユダヤ教化に陥っていくエルサレム教団(後にマタイによる福音書はこうしたユダヤ人クリスチャンの集まる教会によって成立した)にもこの批判は向けられています。(「サタンよ、私の後ろに失せろ。お前は神のことがらを思わず、人間のことがらを思っているのだ」8:33)
 もう一つの相違点は、マタイによる福音書では、イエスは生前から「神の子」であることは自明のこととして描かれ、「人の子」もイエスだけを指す言葉として使われています。しかし、マルコによる福音書では、イエスの十字架の死と復活を経て始めて、キリスト、神の子ということが明らかになることが、この続きの31−33節であきらかになります。

*マルコによる福音書8:31−33
 そして彼は、次のように彼らを教え始めた、「人の子は、多くの苦しみを受け、長老たちや祭司長たちや律法学者たちによって棄てられ、かつ殺され、そして三日目に甦らなければならない」。32 そして、このことをあからさまに語るようになった。そこでペトロは彼をわきへ連れて行き、彼を叱り始めた。しかし、イエスは振り向き、その弟子たちを見ながら、ペトロを叱り、そして言う、「サタンよ、私の後ろに失せろ。お前は神のことがらを思わず、人間のことがらを思っているのだ」。

 ということで、ペテロは、信仰告白を、そしてイエスを理解していないのに、また神に謙虚に従っていないのに言って叱られています。なんと、穢れた霊が行う信仰告白と同じ扱いです。
 30節の「叱る」(あるいは戒める)という単語(エピティマーン)は30−33節で3回使われています。また、穢れた霊が自分たちを守るために、イエスを神の子と呼ぶときにも、イエスによって同じ言葉で叱られています。(cf.マルコ1:23−24、3:11)

 30節と31節の行間を埋めるなら、「こうなってはじめて、あなたたちが、世の常識で求められる社会的ヒーローとなるべきキリスト像とは違って、神の王国の福音を宣べ伝え、大変な意識改革をもたらして十字架の死を遂げたイエスを、全く逆説的にキリストであると告白することになるには」31節、「人の子は、多くの苦しみを受け、長老たちや祭司長たちや律法学者たちによって棄てられ、かつ殺され、そして三日目に甦らなければならない」ということになります。
 マルコによる福音書は、イエスの復活の後に教会で成立した、「イエスはキリスト」という信仰告白を、苦難と十字架の死と復活とを経ないイエスに対して「キリスト」と呼ぶことを戒めているようです。
 マルコでは、批判されることなしにイエスが神の子であると告白する最初の人は、弟子達でなく、なんと十字架刑を監視していたローマ軍の百人隊長です。「〜百人隊長は、彼がこのようにして息絶えたのを見て言った、『ほんとうに、この人間こそ、神の子だった』」(マルコ15:39)
 
  これも大変逆説的ですね。人間社会の常識や宗教的な教義の壁を越えて人間を大切にするという視点に立つことは、それほどの意識改革が必要なのだと言うことなのだと思います。

*マタイによる福音書7:7
 求めよ、そうすればあなたたちに与えられるであろう。探せ、そうすればあなたたちは見いだすであろう。叩け、そうすればあなたたちは開けてもらえるだろうからである。
2010年 8月 1日  礼拝   高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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