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日本キリスト会川崎教会コミュの「十二弟子の派遣と帰還」マルコ6:6ー

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「十二弟子の派遣と帰還」

① マルコによる福音書6章6b−13節
 そこでまわりの村々をめぐり歩いて教え続けた。
 さて、彼は十二人を呼び寄せる。そして彼らを二人ずつ遣わし始めた。また、彼らに穢れた霊どもに対する権能を与えた。そして彼らに指図して、道中は一本の杖のほかには何も携えないように、パンも革袋も持たず、帯の中には銅銭も入れず、ただ皮ぞうりをはき、そして、「下着も二枚は身にまとうな」と命じた。そして彼は彼らに言った、「どこでも一軒の家に入ったなら、そこから出てくるまで、そこに留まっているのだ。ということそこで彼らは出て行って、人々が回心するようにと宣教した。また彼らは、多くの悪霊を追い出し続け、多くの病人たちに油を塗って癒し続けた。   

② マルコによる福音書6章30−31節
  さて、遣わされた者たちはイエスのもとに集まる。そして、自分たちがなし、また教えたすべてのことを彼に報告した。そこで彼は彼らに言う、「あなたたちだけで荒涼としたところ(荒野)に行き、少し休みなさい」。というのも、人の出入りが多く、彼らは食事する間もなかったからである。
  新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳
                                                                           
§「十二人の弟子」

  先日、ギリシャの経済危機があり、それに伴い、また新たな経済的ショックが報じられています。また、スペインの国債の格付けが落ちたことから、新たな経済的な不安要素があるようです。国内では、アメリカ軍の基地の移転問題で揺れています。また、北朝鮮の軍隊の潜水艦が魚雷で韓国の哨戒艇を攻撃した可能性が高まり、緊張が続いています。つい一年少し前に、オバマ大統領のYes, we can.の演説で、不可能に思われている大変難しい問題も、高いこころざしと、信念と、行動力とで新しい道を拓いていくことができると人々が思ったことは、幻だったのかと感じることがありますが、大変の大きなこと、大切なこと、平和への道、こうしたひとつひとつには、とても時間がかかるものであるということ、しかし、その一歩を私たちが踏み出すことができるということ、決して忘れたり、あきらめたりしてはならないことであることを強く感じます。
  主イエスや、それ以前の預言者たちが指し示したのも、新たな道でした。神の愛と、平和の中に暮らす人々の姿でした。彼に従った者たち、福音に触れた者たちは、そういう世界を知ってしまいます。それを実現し、広げたい、次世代に伝えたいと、強く思います。
   さて、今日の箇所は、3章で選ばれた十二人の弟子を遣わして、癒しと宣教とに向かわせる場面です。弟子たちのことを「遣わされた者」あるいは、使徒と呼びますが、この十二人に限って、使徒と呼ぶのは、ルカ(ルカによる福音書と使徒行伝)の特徴です。
主イエスの時代や、パウロの時代には、弟子たちのことを、使徒と呼んでいました。その中には、女性も含まれていました。パウロによる手紙は福音書より古く、50年代〜60年頃にかけて書かれたと考えられています。そして、真正なパウロの信仰と言葉は力強く、主イエスと近いラディカル(根源的)な傾向にあります。

*ガラテヤ人への手紙3:27−28
 「実際、キリストへと洗礼を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない。まさに、あなたがたすべては、キリスト・イエスにおいて一人なのだからである」

  徹底した、神の前での平等の精神です。ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人、男性と女性というのはそれぞれ、現代に住む私たちの想像以上に大きな隔たりがあったはずですが、そうしたものをまったく感じません。
  主イエスのまわりにも、女性が数多く行動を共にしていました。そして、十字架を見まもったのも女性たちでした。マルコによる福音書によると「マグダラの女マリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、そしてサロメもいた。」復活の朝にも、油を塗りにお墓へ行ったのもこの3人でした。
 そして、パウロの手紙においても、共に働く働き人に女性の名前が多くでてくるだけでなく、ローマ人への手紙16章では、女性をも使徒として紹介しています。

*ローマ人への手紙16:7
 私の同胞であり囚人仲間であるアンドロニコス(男性)とユニア(女性)とによろしく、と挨拶するように。彼らは使徒たちのなかで秀でており、私よりも先にキリストにある者となった人たちである。

 パウロ自身も、自分が使徒の一人であることを主張しています。

*コリント人への第一の手紙9:1
私は自由ではないのか。私は使徒ではないのか。私は私たちの主イエスを見たのではないのか。私の働きの成果は、主にあるあなた方ではないのか。

  さて、マルコによる福音書にもどりますが、マルコによる福音書には、使徒に相当する言葉は、ここと6章30節との二回しか出て来ません。そして、この箇所は、ルカによる福音書6章13節と酷似しています。ルカには、使徒という言葉を、選ばれた12人に限って使うという意図があります。

*ルカによる福音書6章13節
 そして朝になった時、彼の弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、その彼らを使徒とも名付けた。

  これは、ルカによる福音書が書かれた後に、内容が重なるマルコによる福音書のこの箇所に、ルカの6章13節を後世に入れてしまった可能性が高いことを表しています。(加筆だと思われる部分は[]で示しました。)特に「使徒とも名付けた」という、変わった表現まで似ていることが、それを物語っているようです。そこで、6章13節と重なるところを括弧に入れて読んでみると、しっかり意味が通じます。マルコによる福音書で選ばれているのは、「これと思う者たち」です。

マルコによる福音書 3章13−19節
また彼は山にのぼり、自分でこれぞと思う者たちを呼び寄せる。すると彼らは彼のもとにやって来た。そして彼は十二人を立て[、その彼らを遣わされた者(注:ルカにならえば「使徒」)とも名付け]た。それは彼らが彼と共にいるためであり、また彼らを派遣するためであった。彼らが派遣されるのは、宣教し、悪霊どもを追い出す権能を持つためであった。[そして彼はかの十二人を立てた。]そして彼は、シモンに「ペトロ」という名を付け、またゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネを立て、彼らには「ボアネルゲス」、すなわち「雷の子ら」という名を付けた。またアンドレアス、そしてフィリッポス、そしてバルトロマイオス、そしてマタイ、そしてトマス、そしてアルファイオスの子ヤコブ、そしてダダイオス、そして熱心党のシモン、そしてイスカリオトのユダを立てた。このユダはまた、イエスを引き渡したのでもある。

   山へ行くという時に、マルコによる福音書は、どの山かは、語っていません。マルコによる福音書で、山は、神さまに近づくために行くところ、祈りに行くところです。9章7節では、「すると雲が起こって彼らの上を覆うようになった。そしてその雲から声がした、「この者は私の愛する子、お前たちは彼に聞け」。と、神がイエスがどのような存在かを、弟子たちに示したのも、山でした。ペテロとヨハネとアンドレアスが、主イエスに、「私たちに教えて下さい、それらのことにはいつ起こるのですか」と、尋ねたのも山の上でした。
  さて、12人の名前はあげられますが、 この12人の中に入っていない人たちの話題も、たくさん出て来ます。また、 ここに出てくるだけで、その働きが報告されていない人たちもいます。5番目のフィリッポス以下、バルトロマイオス、マタイ、トマス、アルファイオスの子ヤコブ、ダダイオス、熱心党のシモンの7人は、マルコによる福音書ここ以外には出て来ません。ということは、マルコ以前の伝承をマルコが採用したことを物語っています。 ルカによる福音書と使徒行伝では、ダダイオスの代わりに、ヤコブの子ユダになっています。
   パウロの手紙の中にも、12人が出て来ます。これは、パウロも受け継いだ言葉として、紹介していますので、パウロより前の伝承に基づく記述です。
   
*コリント人への第一の手紙15章1−9節
 さて、兄弟たちよ、私は、私があなたがたに宣べ伝えた福音を、ふたたびあなたがたに告げる。すなわち、あなたがたが受け容れ、そのうちに立っている福音である。もしもあなたがたが、私がどんな言葉によってあなたがたに福音を告げ知らせたかを堅く保持し、空しく信じたのではないなら、その福音によってあなたがたは、救われるのである。なぜならば、私はあなたがたに、まず第一に、私も受け継いだことを伝えたからである。すなわち、キリストは、聖書に従って、私たちのために死んだこと、そしてそして埋葬されたこと、そして聖書に従って、三日目に死者たちの中から起こされていること、そしてケファに現れ、次に十二人に現れたことである。次いで彼は、五百人以上の兄弟たちに一度に現れた。そのうちの大部分は今に至るまで生き残っているが、しかしある者たちは眠りについた。次いで彼はヤコブに現れ、次にすべての使徒たちに現れた。しかし彼は、すべての者の最後に、ちょうど「未熟児」のごとき私にも現れたのである。

   ここでは、復活の主イエスは、ケファ、すなわち、ペテロに現れた後、12人に現れた、とあります。すると、ペテロの他に12人がいるようですよね。また、12人の中にイスカリオテのユダも入っているとなると、おかしな感じです。
   これは、12人という、数字そのものが大切なためです。12は、イスラエルの12部族を指します。この12部族自体は、かなり前に滅ぼされてしまっていますが、今ここに、キリストに従う者たちが、新しいイスラエル、真のイスラエル、神に選ばれたものとして、描かれているのです。

§「十二人の弟子の派遣」

 イエスによる弟子の派遣は、この弟子たちがイエスと共にいて、教えを受け、自らも成長が与えられて、教えを宣べ伝えることと、癒しとを行うように、いってみれば、イエス学校の卒業を意味します。二人ずつ行くのは、ユダヤ教徒の習慣ですが、それは旅の安全を守るための知恵です。杖を持つのは、盗賊や、野生の肉食の動物から身を守るためです。
  「パンも革袋も持たず、帯の中には銅銭も入れず、ただ皮ぞうりをはき、そして、下着も二枚は身にまとうな」とは、なかなか厳しいですね。当時、布地はとても高価であったため、下着を二枚持つのは贅沢だったそうです。何も持たず、ちょうど托鉢僧の様相ですね。「どこでも一軒の家に入ったなら、そこから出てくるまで、そこに留まっているのだ」、というのはおもしろい表現ですが、教えと癒しを行い、食べ物と宿泊するところを提供してもらうということを指しています。
 「そしてあるところがあなたたちを受け入れず、あなたに聞き従わないならば、そこから出て行く時に、あなたたちの足の裏のほこりを払い落とし、彼らへの証しとせよ」は、これも、ユダヤ教徒の習慣で、異教徒の土地を離れるときにすることで、これには、彼らの滅びの責任は、彼ら自身にあるという、意味で、決別の意思表示です。
  癒しを行うために油を使うことも、報告されています。

*ヤコブの手紙5:13−16a
あなたがたの中で苦しんでいる人がいれば、祈りなさい。うまくいっている人がいれば、賛美しなさい。あなたがたの中で病気の人がいれば、教会の長老たちを呼びなさい。長老たちは主の名において彼に油を塗り、彼のために祈りなさい。信仰のうちになされる祈りは弱り果てた人を救い、主が彼を起こして下さるであろう。

 *ローマ人への手紙13章9節
 〜その他のどんな誡め(いましめ)も、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(cf.マタイ22:39)というこの言葉に要約されるからである。愛は隣人に対して悪を働くことはない。それゆえに愛は律法の満たされたものなのである。



2010年 5月30日  礼拝   高橋  誠 
日本キリスト会川崎教会牧師

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