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日本キリスト会川崎教会コミュの「本当にこの人こそ神の子であった」Mk 15:33-41

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「本当にこの人こそ神の子であった」

* マルコによる福音書 15章33〜41節

 さて、第六刻(正午頃)になると闇が全地を覆い、第九刻(午後三時頃)におよんだ。そして第九刻に、イエスは大声で叫んだ、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。
 これは訳せば、「わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか」、という意味である。すると、かたわらに立っていた者のうち何人かがこれを聞いて言い出した、「見ろ、エリヤを呼んでいるぞ」。そこである者が走って行き、そして海綿を酢で充たした後、葦の先につけ、彼に飲まそうとして言った、「さあ、エリヤがこいつを降ろしにやって来るかどうか、見てやろうではないか」。しかし、イエスは、大声を放って息絶えた。
38 すると神殿の幕が上から下まで、真っ二つに裂けた。
39 また、彼に向かい合って立っていた百人隊長は、彼がこのようにして息絶えたのを見て言った、「ほんとうに、この人間こそ、神の子だった」。
40 さて、女たちも遠くから見ていた。その中には、マグダラの女マリヤと、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、そしてサロメもいた。これらの女たちは、彼がガリラヤにいた時、彼に従い、彼に仕えていた者たちである。そして、彼と共にエルサレムに上ってきた多くの女たちも、そこにいた。    
                                                                                    新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳
                                                                           
§「よきサマリア人」

  昨夜から明け方にかけて、春の嵐が吹きすさんでいました。突風に加えて、すごい雷と雨でした。季節の変わり目には、このような嵐があります。4月は、日本では新しい学年、そして会計年度がはじまり、入学や、転勤などによって、大きく生活の環境が変わる人たちが多い時期です。別れと、そして出会い。もちろん、親しい人たちとは、距離としても近くにいるに越したことはありませんが、心で繋がるような出会いには、距離や時間を超えた喜びがあります。
  英語の童謡に、Make New Friendsという歌があり、この詩は、高田英語学園に通っていた小学生の頃、新学期に、秀良牧師から習った覚えがあります。

Make new friends, but keep the old.
One is silver, and the other is gold. 

新しい友達をつくりなさい、しかし、旧い友達も大切に。
新しい友は銀、そして、旧い友は金。

  金や銀という言葉に、金銭的な価値を超える意味が感じ取れます。そして、友と共通することは、見つけると嬉しいこと、なかなか見つからないこと。そして、見つけたら大切にすること。喜びが生まれること。
  主イエスとの出会い、主イエスのメッセージである、神の国の福音との出会いも同じです。

*マタイによる福音書13:44−45 
  天の王国は、畑の中に隠されている宝と同じである。ある人がそれを見つけたが、彼は再びそれを隠した。そして喜びのあまり、行って自分の持っているものすべてを売り払い、その畑を買う。
  さらに、天の王国は良い真珠を探している一人の商人と同じである。彼は、一個の大変高価な真珠を見つけると、去っていって、自分の持っているものすべてを売り飛ばし、それを買った。

  すごい喜び方ですね。
  主イエスのメッセージひとつひとうに、特別な出会いを感じます。昨夜、子供たちと読んだ絵本は、「よきサマリア人」でした。

*ルカによる福音書10章30〜37節
 イエスは〔この問いを〕取り上げて言った、「ある人がエルサレムからエリコにくだって行く途中、盗賊どもの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ取り、彼をめった打ちにした後、半殺しにしたままそこを立ち去った。すると偶然にも、その道をある祭司がくだって来た。しかしその人を見ると、道の向こう側を通って行った、また同じように一人のレビ人も現れ、そのところへやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。
 さて、あるサマリア人の旅人が彼のところにやって来たが、彼のあり様を見て断腸の思いに駆られた。そこで近寄って来て、オリーブ油と葡萄酒を彼の傷に注いで、その傷に包帯を施してやり、また彼を自分の家畜に乗せて宿屋へ連れて行って、その介抱をした。
そして翌日、二デナリオンを取り出して宿屋の主人に与え、言った、『この人を介抱してやって下さい。この額以上に出費がかさんだら、私が戻ってくる時、あなたにお支払いします』。この三人のうち、誰が盗賊どもの手に落ちた者の隣人になったと思うか」。
 すると彼は言った、「彼に憐れみの業を行った者です」。するとイエスは彼に言った、「行って、あなたもまた同じようにしなさい」。

 大変具体的でわかりやすく感じますが、祭司やレビ人は、ユダヤ人の社会のなかで尊敬されている存在です。しかも、彼らが避けていく理由も、ただ、お話の設定として避けたのではなく、必然的に避けるような性格を、彼らが持っていたのです。それは、穢れを恐れる心と、死んだ人に触れたら穢れてしまうため、祭司としての仕事ができなくなることを恐れるあまり、目の前の傷ついた人を助けることができなくなってしまっているのです。
  そして、このサマリア人という民族は、当時のユダヤの人々とは対立関係にありました。それは、サマリア人がバビロンの捕囚を経験せず、この地に残っていたこと、そして、バビロン捕囚から帰ってきたユダヤの人々は、バビロンで新しい文化を吸収し、また独自のユダヤ教を構築して戻って来て、隣人であるサマリア人と、文化的な摩擦を引き起こしてしまったこと。聖地についても意見が分かれていることなど、とても近い民族であるにかかわらず、軋轢を生んでしまっていたのです。
    しかし、主イエスは、こうした余分な考え方や行動のフィルターを外し、人間が本来神さまからいただいた愛を実践することだけを思う人を挙げます。そして、それをユダヤで差別されているサマリア人に設定するのです。彼は、応急手当をし、彼を宿屋に連れて行き、宿屋に二日分の労働の賃金に相当する、二デナリオンを預けていきます。
   そして、問いかけます、「誰が盗賊どもの手に落ちた者の隣人になったと思うか」。問われた人は、「そのサマリア人です」とは、答えられません。差別意識があるからです。そして、「彼に憐れみの業を行った者です」、と答えます。
   現代に住む私たちも、このような偏見や差別の中にいます。アメリカが、武力による侵略行為を繰り返し、一般市民への攻撃をアフガニスタンやイラクにいたるまでやめられないでいることも、戦時中の日本軍の朝鮮半島や中国での行いを、多くの日本人が認めたがらないこともそうです。
   主イエスは、こうした束縛から人々を解放しました。この心に絡まって人を縛り続ける根拠のない主観的な信念をソクラテスとプラトンはこれをドクサと呼びました。ちなみに、教義はドグマで、一歩誤るとドクサになってしまいます。そして、多くの場合、その偏狭さは悲劇的に空虚なのです。主イエスによって、解放されたはずの人たちの集まりである教会が、また元の奴隷状態に戻ってしまうということは、保守的な教団や教会が陥ってきた問題なのです。
  パウロも、「キリストはこの自由へと私たちを解き放って下さったのだ。それゆえに、あなたがたは堅く立って、再び奴隷状態の軛にはまってはならない」(ガラテヤ5:1)と言っていますが、これは大変大切なことです。

*ヨハネによる福音書8章31b〜32
 「あなたがたが私のことばに留まるなら、あなたがたは本当に私の弟子である。そして真理を知るようになり、その真理があなたがたを自由にするであろう」。(小林稔訳)

   これに対して、ある人がこう応えます。「われわれはアブラハムの子孫だ。いまだかつて誰にも隷属したこともない。お前はどうして『あなたがたは自由になるであろう』などと言うのか」(8章33節)「自由になるであろう」と言うことは、今は誰かに隷属している、と言われたとこの人は理解したのです。この言葉の背景には、「自由であって隷属したことがない」ということが当時のユダヤ人たちの誇りだった、ということがあります。(cf.ヨセフス『ユダヤ戦記』7・8・323)
   しかし、イエスが指しているのは、ローマであるとか、アッシリアであるとか、隷属する相手をそのようなものと捉えているのではありません。人間がこの世の価値観として持っているもの、それによって他人との優劣や序列をつけたり、見下して傷つけたり、優越感を得たりするもの、そのような価値観に人間は隷属しているのだ、だから、イエスの言葉に留まり、真理である神を親しく知るようになり、するとあなたがたは自由にされるのだ、ということですが、これはなかなか厳しいものです。この隷属しているものを、新約聖書では偶像、マモン(富/これも擬人化して悪魔的な意味合いを持たせて/「あなたたちは神とマモンとに兼ね仕えることはできない」マタイ6:24)と呼んでいます。今まで、宗教的な戒律を守り、まじめに暮らしていても、自分たちのように安息日の戒律を守ることができない動物を飼う仕事をする人たちや、穢れているとされた人々、病気の人たちを蔑んでいるなら、人間社会では宗教的で徳の高い人だといわれても、それは偶像に仕えているにすぎないのだ、ということです。
 例えば、現在、アメリカはキリスト教の国だと言われ、そして多くのアメリカ人たちがそのように思っていますが、彼らが戦争を神の名によって行ったり、また違う信仰を持つ人々を踏みにじって、それに疑問を感じないなら、その人は偶像に仕えていることになります。

§「本当にこの人こそ神の子であった」

  今日読んだ聖書箇所は、主イエスが十字架につけられた場面です。マルコによる福音書とマタイによる福音書では、主イエスの十字架上の最後の言葉は、「わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか」でした。ルカによる福音書では、「父よ、あなたの両手に、私の霊を委ねます」。ヨハネによる福音書では、「私は渇く」「成し遂げられた」でした。ヨハネによる福音書のイエスには、悲しみ、失望感、挫折感といった感情が、減っています。それは、主イエスが神の子なので、すべてをお見通しで、その役割を演じたということなのです。予定通りなのです。
  しかし、そのヨハネの福音書が主張しているように、主イエスは、人間として、人間の持つあらゆる弱さを持って生まれられたのです。そして、マルコによる福音書が伝えるとおり、懸命な伝道活動と、神の国の福音のままに生きる生き方と、そして、神殿への抗議行動を通じて、この世の中に、神の国をまさに実現しようとしたのですが、十字架による死という結果に終わったのです。だから、「わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか」、という言葉を残しての死なのです。
  そしてさらに、それにもかかわらず、「神殿の幕が上から下まで、真っ二つに裂けた」、つまり、神殿はもはや意味をなさず、主イエスによって、神は、もっとも小さい者たちを含む、すべての人々と祈りによって繋がっていることが示されたのです。
  主イエスの弟子がかつて、エルサレムの巨大で美しい神殿を見て言いました、「先生、見て下さい、なんという立派な石でつくられた城壁、なんと美しい建物でしょう」、しかしイエスは、その価値を否定し、「私は人間によって造られたこの神殿を壊し、三日の後に人の手によらない別の神殿を建てて見せる」、と発言しました。神は、特権階級の握る神殿になどいない!だからそんな物は必要ないのだ。「神殿の幕が上から下まで、真っ二つに裂けた」は、これが成就したことを表しています。
  そして、こともあろうに、ローマ軍の百人隊長が、主イエスが息絶えたのを見て、「ほんとうに、この人こそ、神の子だった」、と言ったと、福音書は伝えています。肉体の終わりはどうあれ、神が共におられ、神の想いが行われる。そこに、もう、神によって選ばれた民はユダヤ人であるというような、選民思想もいらないのです。敵である、侵略者であるローマの百人隊長にも、その心は届くのです。

*ガラテヤ人への手紙 3:27−28

実際、キリストへと洗礼を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない。

2010年 3月 21日  礼拝
高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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