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日本キリスト会川崎教会コミュの「種まきの譬」

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「種まきの譬」

①マルコによる福音書4章1−9節
  そして彼は再び、海辺で教え始めた。すると彼のもとに、おびただしい群衆が集まってくる。そのため彼は舟に乗り込んで座り、海上に出た。そしてすべての群衆は、海辺の陸地にいた。そこで彼は、彼らにさまざまの譬えを使って多くのことを教え続けた。そして、その教えの中で彼らに言った、「聞け。見よ、種蒔く人が種を蒔きに出て行った。そして、種を蒔いているうちに、ある種は道端に落ちた。すると鳥たちがやって来て、それを食べてしまった。ほかのある種は、土のあまりない石地の上に落ちた。そして土が深くないために、すぐに芽を出した。しかし太陽がのぼると、焼かれてしまい、根がないために枯れ果ててしまった。またほかのある種は茨の中に落ちた。すると茨が出てきて、その種の息の根を止めてしまった。そして種は実を結ばなかった。またほかのいくつもの種は良い地に落ちた。すると、それらの種は芽を出し、成長しながら、実を結び続けるのだった。あるものは三十倍。またあるものは六十倍、またあるものは百倍もの実をもたらし続けるのだった」。そして言った、「聞く耳ある者は聞け」

② マルコによる福音書4章10〜12節
 さて、彼だけになった時、十二人と一緒に彼のまわりにいた者たちはこれらの譬えについて彼にたずねた。すると彼は彼らに言った、「あなたたちには神の王国の奥義がすでに与えられている。しかし、外にいるあの者たちには、さまざまの譬えでそのすべてが示される。それは次のようになるためだ、
 彼らは見ることは見るが、認めない。
 また、聞くことは聞くが、悟らない。
 にもかかわらず彼らは立ち帰って、赦されることになるかも知れない」。
                                                                                     新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳
                                                                           
§「レント(Lent):四旬節」

今日はバレンタイン・デーですね。私の小さな頃、高田英語学園でハートの形のチョコレートをもらうのが楽しみでした。この日は、イタリアに3世紀にいたウァレンティヌスという司祭を記念する日です。 彼は262年、ローマ皇帝クラウディウス二世の迫害で殉教したと言われています。コンスタンティヌス帝がお母さんのヘレナの影響から、キリスト教徒になるのが4世紀初めですから 、この頃、3世紀はまだ、ローマ帝国でキリスト教が認められていませんでした。
  様々な伝説があり、ウァレンティヌスもローマのウァレンティヌスとテルニのウァレンティスと二人いて、実際はどういうことかよくわかりませんが、ある伝説によると、クラウディウス二世が兵士が結婚することを禁止した時に、恋する兵士を内緒で結婚させてあげたことで処刑されたと言われています。
  また、2月14日は、ローマ神話の女神で、光や誕生、そして女性や結婚の女神ユーノーのお祭りの日で、古代ローマでは、翌日から、豊穣を祈る、ルペルカリア祭がはじまりました。ちなみに、ユーノーは、 ユピテル(ジュピター)の奥さんで、 June(6月)の語源でもあります。
  カトリックが世界に広がるときに、必ず、土着化をしていきます。(カトリックに限らず、宗教がどこかに根付くときには、土着化は見られますが、)聖バレンタイン・デーが、このような風習や伝統を取り込んでできあがっていったということなのだと思います。カトリック教会は、60年代の第2バチカン公会議で、聖バレンタインデーを廃止しました。実在したのか、どのような経緯で殉教したかはっきりしていない聖人の祝日を整理したのだそうです。
  こういうようなことが重なって、ヨーロッパやアメリカで恋人や友達、そして家族で贈り物やカードを送り合う習慣が生まれたようです。
 アメリカでは、ヴァレンタイン・カードに、Be my Valentine.(わたしのバレンタインになってね)と書いて送る時に、差出人の名前を書かないんだそうで、なかなか大変な習慣ですね。
  そして、今週の火曜日は、ニューオーリーンズでは、マルディ・グラ(ふとっちょの火曜日)のお祭りがあります。また、ブラジルのリオでは、カーニヴァルが開かれます。どちらも私たちの想像を遙かに超える大騒ぎなお祭りですが、これは、翌日の水曜日が、灰の水曜日と呼ばれ、イースターまでの約40日間、四旬節(レント)が始まり、その間、主イエスの荒野での40日間の試練を記念して、断食や懺悔を行うので、その前の日にたくさんお肉を食べて、大騒ぎをしようということのようです。これも、キリスト教の土着化の中で生まれた習慣です。
  私たちにとっても、春を迎える喜びを神さまに感謝し、主イエスの足跡をたどりながら、イースターまでの時を送るということは、嬉しいことであり、また、主イエスの十字架について考え、主イエスの復活の喜びを分かち合う季節があることもまた喜びです。
   
§「種まきの譬」
  
  さて、今日の聖書箇所は、種まきの譬えですが、主イエスは、この譬えで何を伝えようとされたのでしょうか。長い間、4章13節以下に、この譬えの解釈がありますので、そのように受け取ることが当たり前になっていました。しかし、13節以下は、後世に原始キリスト教会の人たちによって書き足された部分です。ですから、この解釈に縛られずに、考え、味わううちに、主イエスの言おうとされたことを探っていく中に、新たな発見がきっと与えられます。
  旧約聖書外典の第四エズラ書に、今日の聖書箇所とよく似た表現があります。

*第四エズラ書8章41節
「農夫が地に多くの種を蒔き、多くの苗を植えるが、時が来ても、蒔かれたものすべてが芽を出すわけでなく、植えられたものがすべて根づくわけでもない。それと同じく、この世に蒔かれた人々がすべて救われるわけではない」。
 
   これは、13節以降の、解釈とよく似ていますね。さて、イエスが言おうとしたのも、こういうことだったのでしょうか?
  主イエスの譬えの特徴の一つは、身近な例を取って、あり得ないようなことを言い、神の想いを表している、ということがあります。そこで、種蒔きなど、2000年前のパレスチナの生活について考えてみましょう。この地域の文化が発達したのは、メソボタミア文明のおかげでもあります。紀元前2000年期半ば頃までに、メソポタミアで確立された小麦の栽培方法や、パンの作り方などが入ってきていました。ダビデから、現代のパレスチナ人の羊飼いの子や学生や労働者まで、お弁当の基本はパンとヒソプ入りの塩(と家ではオリーブ・オイル)ということは、お弁当の基本が確立されて4000年もそのままだということになります。
  種の蒔き方もきっとしっかり技術として確立していたことでしょう。「パレスチナでは、冬が雨季で、夏が乾期であるために、雨季の前の冬蒔きと雨季に続いて蒔く夏蒔きがある」(旧新約聖書大事典)のだそうです。冬蒔きでは小麦、大麦、栗、レンズ豆など、夏蒔きではひよこ豆(なんでもつけて食べるペースト状の食品、フムスの原料)、米、瓜などを植えます。
  「夏蒔きの場合は、事前に耕してよく準備し、畝を作って、その中へ種を蒔く。冬蒔きの場合は、耕してない畑に思い切り腕をひろげて種を蒔き、その後耕して土の中に入れる。」(ダルマン、大貫隆)とすると、この蒔き方は、冬巻きのようですね。作物を植えるエピソードは旧約聖書にも出てきます。「あなたの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな」(エレミヤ4:3b)。当時は蒔いた種の7.5倍の収穫で平年作であったということですから、蒔く種も大切に、無駄にしないように注意していたのでしょうね。
  聖書学者の大貫隆はとても大切な指摘をしています。「マルコ福音書4章3〜8節のイエスの譬えは決して当時の農夫の種蒔きの標準型などではなく、むしろ、実際にはありそうもない点を少なからず含んでいると言わなければならない。それだけにますます印象的に浮かび上がってくるのは、貴重な種が無駄になることを気にしないこの農夫の気前よさ、損失の危険をあえて犯す意志、最後には巨大な実りがあるという楽天性、一言で言えば、非効率的行動である」。
  こう捉えると、この譬えがよりいきいきと聞こえてきますね。神様はどのような人にも分け隔てなく手を差し伸べてくださる。気づかれなくても、拒絶されても、手を差し伸べてくださる。 「父は、悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を昇らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さる」(マタイによる福音書5章45節)主の呼びかけにしっかり応えた者、良い地に蒔かれた種だけが実を結ぶのだけれど、いかに無駄になっても、神はどこにいる者にも同じように種を蒔いて下さっている!
   この神の国像は、 「ぶどう園の労働者たちとその主人の譬」(マタイによる福音書20)や 「盛大な婚礼の譬」(ルカによる福音書14:15〜、マタイによる福音書22:1〜)と共通点がはっきり見られます。
   さて、マルコによる福音書4章には三つの種に関する譬がありますが、多くの学者が、これらの譬がイエスご自身が実際に言われたことにまでさかのぼると考えています。
   さらに興味深いのは、4節から7節までの種は単数形で、「良い地に落ちた種」だけが複数形で書かれています。「聞け」という、イエスの命令に従ったものの多くが、様々な障害を乗り越えて実を結び、福音が広がっていくことを語っているのでしょう。イエスの、私たちひとり一人に対する深い愛を感じます。切り捨てるためにではなく、私たちと共に歩むために来て下さったイエスの魂を感じることができます。
  また、この続きに、あと二つ「種」に関係する譬が出てきます。

*マルコによる福音書4章26〜29節

 また彼は言った、「神の王国とは次のようなものだ。すなわち、一人の人が大地に種を蒔き、夜寝て朝起きることをくり返していると、彼自身の知らない間に種は芽を出し、成長する。大地がおのずから実を結ぶのであって、まず茎、次に穂、次にその穂の中に豊かな穀粒を造りなす。そして、実が収穫を許す時になるとすぐに鎌を入れる。刈り入れの時が来たからだ」。

*芥子種の譬:30〜32節

 また彼は言った、「私たちは、神の王国を何と同じであると言おうか、あるいはそれをどのような譬で表そうか。それは次のような一粒の芥子種のようなものだ。すなわち、大地に蒔かれる時は大地の上のあらゆる種の中で最も小さいが、しかしいったん蒔かれると、芽を吹き、あらゆる野菜よりも大きくなり、巨大な枝を張る。そのため、その陰で、天の小鳥たちが巣を作りうるほどになる。

 これらは、いずれも「神の王国」とはどのようなものか、という問いかけに応えようとした譬です。1章15節の「時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で(神を)信ぜよ」の後、はじめて神の王国について語っている部分です。「神の王国とは次のようなものだ。すなわち、一人の人が大地に種を蒔き、夜寝て朝起きることをくり返していると、彼自身の知らない間に種は芽を出し、成長する。大地がおのずから実を結ぶ」
 イエスが教えてくださったことは、私たちが気づいている、いないにかかわらず、私たちひとり一人を常に招き続け、私たちひとり一人の戸口に立ってノックし続けていて下さいます。神の国は、まさにすぐそこ、手に届くところにある。素晴らしい福音ですね。

*ヨハネの黙示録3:19〜20
「私は、自分の愛する者たちをこそ、皆叱責し懲らしめる。だから、一所懸命になって、悔い改めよ。ほら、今ここで私は戸口に立って、戸を叩いている。もし、私の声を聞き、戸を開けるならば、私はその者のところに行って客となり、彼と一緒に食事をし、彼も私と一緒に食事をするであろう。」(小河陽訳)   



2010年 2月14日  礼拝
高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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