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日本キリスト会川崎教会コミュの「イエスの母、兄弟たちとは」

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「イエスの母、兄弟たちとは」

① マルコによる福音書3章20−21節
  それから彼は家にやって来る。すると再び群衆が集まって来て、一行はパンを食べることすらできないほどになる。すると彼の身内の者たちが、彼のことを聞いて、彼をつかまえるためにやって来た。なぜなら、人々は彼の気が狂ったと言っていたからである。

② マルコによる福音書3章31−35節
 さて、彼の母と彼の兄弟たちとがやってくる。そして彼らは外に立ち、彼を呼ぼうとしてその許へ人を送った。すると、彼のまわりには群衆が座っていたが、彼らが彼に言う、「ご覧なさい、あなたの母上とあなたの兄弟たちやあなたの姉妹たちが外であなたを探しています」。彼は彼らに答えて言う、「私の母、私の兄弟たちとは誰か」。そして自分のまわりを取り囲んで座っている者たちを見まわして言う、「見よ、私の母、私の兄弟たちだ。神の意思(おもい)を行なう者、その者こそ、私の兄弟であり、姉妹であり、母だからだ。

③マルコによる福音書6章1〜6節
 そして彼はそこから出て行って、彼の故郷の町にやって来る。また、彼の弟子たちが彼に従う。そして安息日になったので、会堂で教え始めた。すると、多くの者がこれを聞き、仰天して言った、「このようないろいろなことがどこからこいつにやって来たのか。それに、こいつに与えられた知恵はいったい何だ。また、その手でなされた、これほどのさまざまな力ある業いったい何だ。こいつは大工職人ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、この地で俺たちのもとにいるではないか」。こうして彼らは、彼に躓いた(注:信じない)ままであった。
そこでイエスは彼らに言った、「預言者は、自分の故郷、自分の親族、そして自分の家以外のところでは、尊ばれないことはない」。そしてそこでは何の力ある業もすることができなかった。ただし、少数の病んだ者たちに手を置いて癒すことはした。また彼は、彼らの不信仰のために驚き通しだった。そこでまわりの村々をめぐり歩いて教え続けた。
                          新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳
                                                                           
§「民衆の声は神の声」

 早いもので、今年も二月になりました。この一週間は大変寒かったですね。昨日、子供たちと公園に行きましたら、一面に霜柱が立っていて、ひさしぶりにサクサクッと音を立てながら霜柱の上を歩いて楽しみました。
 さて、この一週間もいろいろなことがありましたね。この一週間で、一番おおきなニュースは何でしょう。雪が降ったことでしょうか。子供たちは、ほんの少し残った雪で、雪合戦をしたり、小さな雪だるまを作ったりして楽しんでいました。それとも、新幹線の故障でしょうか。小沢議員が不起訴になったことでしょうか。または、トヨタのプリウスのリコールについてでしょうか。朝青龍が引退したことでしょうか。新聞やテレビのニュースを見ていると、だいたいこういうことのようですが、こういうものは、人々の関心を呼ぶ話題、ということなのだと思います。
  朝日新聞に、「天声人語」というコラムがあります。ラテン語の Vox Populi ,Vox Dei、すなわち、「民衆の声は神の声」という言葉をもじったのだと思いますが、この天の声、神の声である民衆の声とは、その人気や話題を惹くようなこと、また、目先の損得や、娯楽を反映するものというよりは、むしろ、民衆が本当に必要としているもの、民衆が生きるために必要なことのはずです。そういう意味で、大切なニュースに、戦時下の言論弾圧事件のひとつ、「横浜事件」の再審で、裁判所が、当時の拷問による自白の引き出しをした特高(神奈川県警特別高等課)、その「捜査」に基づいて戦時下の治安維持法違反で起訴した検察、有罪判決を言い渡した裁判所の責任をはっきり認め、そして、刑事補償もみとめて、実質的な無罪判断を下したことがありました。日本では、いまだに、このように司法機関や、政府機関、また様々な役所にいたるまで、自分たちの過ちを認めることは、めったにありません。しかし、今回、裁判所と検察が、残されているはずの資料を故意に廃棄して、なかったことにしようとしたことについても、その責任を認めたことは、画期的でした。日本の司法にまた新たに、本当に意味での民主主義、ひとりひとりを大切にする方向に進む、だ一歩が踏み出されたという希望を感じました。
  これは、逆に言えば、まだ、日本の自由や民主主義が成熟しているとは言えないことの表れでもあります。
  
§「イエスの母、兄弟たちとは」

 こいうことを考えても、2000年ほど前に、歴史的に実在したイエスが、語ったこと、行ったことが大変当時の人々には驚くべきことだったこともうかがい知れます。そして、身内の人々が、狂ったと思って、連れに来るということまで起きていたようです。

* マルコによる福音書3章20−21節
  それから彼は家にやって来る。すると再び群衆が集まって来て、一行はパンを食べることすらできないほどになる。すると彼の身内の者たちが、彼のことを聞いて、彼をつかまえるためにやって来た。なぜなら、人々は彼の気が狂ったと言っていたからである。

「私は、サタンが天から稲妻のように落ちるさまを見とどけた」(ルカ10:19)」という言葉に表れているように、主イエスは、神の国の福音をそのままに、この地上でそれを実現して、その通りに生きることができる、という強い信念を持ち、その通りに生きられたのですから、当時の人々の驚きは、大変大きかったに違いありません。

*マルコによる福音書 2章13−17節
 さて、彼は再び海に沿って出かけて行った。するとすべての群衆が、彼のもとにぞくぞくとやって来た。そこで彼は、彼らを教え続けた。
 また彼は、通りすがりにアルファイオスの子、レビが収税所に座っているのを見た。そして彼に言う、「私に従って来なさい」。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
 さて、彼の家でイエスが食事の座で横になるということが生じる。さらに、多くの徴税人や罪人が、イエスやその弟子たちと一緒に横になっていた。彼の従っていたそのような者たちは、実に大勢いたのである。するとファリサイ人たちの律法学者らが、彼が罪人や徴税人と食事をしているのを見て、彼の弟子たちに言うのであった、「なぜ彼は、徴税人どもや罪人らと共に食事などをするのか」。そこでイエスはこれを聞いて彼らに言う、「丈夫な者らに医者はいらない、いるのは患っている者たちだ。私は『義人』どもを呼ぶためではなく、『罪人』たちを呼ぶために来たのだ」。 

   神を必要とする、救いを求める、あらゆる人々と共に食事をし、神のもとで、彼らもみな、大切な存在なのだ、仲間であり、兄弟姉妹なのだ、という主張をし、その通りに生きたのです。
   さて、20−21節の続きは、31節に跳びます。

* マルコによる福音書3章31−35節
 さて、彼の母と彼の兄弟たちとがやってくる。そして彼らは外に立ち、彼を呼ぼうとしてその許へ人を送った。すると、彼のまわりには群衆が座っていたが、彼らが彼に言う、「ご覧なさい、あなたの母上とあなたの兄弟たちやあなたの姉妹たちが外であなたを探しています」。彼は彼らに答えて言う、「私の母、私の兄弟たちとは誰か」。そして自分のまわりを取り囲んで座っている者たちを見まわして言う、「見よ、私の母、私の兄弟たちだ。神の意思(おもい)を行なう者、その者こそ、私の兄弟であり、姉妹であり、母だからだ。

 主イエスは、本当の家族を、共に、「 神の意思(おもい)を行なう者」、こころの通じ合う者、神の国の福音を共有できる者たちこそ、母であり、兄弟たちだ、と言っています。
  では、なぜここに父親が出てこないのでしょうか。母、兄弟、姉妹は出てきますが、父親が出てこないのです。これは、一つとしては、マリヤの夫であり、イエスの父であるヨセフは、イエスが活動を始める前に、どうも亡くなっているらしい、ということもありますが、主イエスが、お祈りの度に、「アバ、父よ」と呼びかけたように、神の家族という考えでは、神さまが父なのです。
  さて、実際の主イエスの肉親や兄弟たちについては、マルコによる福音書6章に記述があります。

*マルコによる福音書6章1〜6節
 そして彼はそこから出て行って、彼の故郷の町にやって来る。また、彼の弟子たちが彼に従う。そして安息日になったので、会堂で教え始めた。すると、多くの者がこれを聞き、仰天して言った、「このようないろいろなことがどこからこいつにやって来たのか。それに、こいつに与えられた知恵はいったい何だ。また、その手でなされた、これほどのさまざまな力ある業いったい何だ。こいつは大工職人ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、この地で俺たちのもとにいるではないか」。こうして彼らは、彼に躓いた(注:信じない)ままであった。
そこでイエスは彼らに言った、「預言者は、自分の故郷、自分の親族、そして自分の家以外のところでは、尊ばれないことはない」。そしてそこでは何の力ある業もすることができなかった。ただし、少数の病んだ者たちに手を置いて癒すことはした。また彼は、彼らの不信仰のために驚き通しだった。そこでまわりの村々をめぐり歩いて教え続けた。

  三章でと同じように、ここでもイエスは、身近な人々に理解してもらえないのですが、ここに、兄弟の名前が書いてあります。「マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモン」ということは、主イエスには弟が4人、そして、「妹たち」とありますから、名前はわかりませんが、妹が少なくとも、2人はいたことになりますから、イエスを含めて、少なくとも七人兄弟姉妹だったようです。
 後に、このヤコブは、ペテロが異邦人伝道にの後、エルサレムの教会の中心人物になる人で、義人ヤコブと呼ばれます。主イエスに比べると、大分保守的、伝統主義的で、ユダヤ教徒として守るべきもの、あるべきものを前提に、その上に信仰を持つことを主張していましたので、異邦人伝道に熱心だった、パウロとは、意見が分かれてしまっていたようです。

   当時の、特にマルコの教会の時代は、ユダヤ人たちが歴史のおおきな転換点にいて、強大な支配者であるローマ帝国に反旗を翻して、武装蜂起をし、レジスタンスとして闘うか、それとも、和平を選ぶか。しかしこの和平では、ローマ帝国の支配は終わらないのです。これらの選択、また、主イエスの教えに生きることを選び、普通のユダヤ教コミュニティーから出て、教会の一員として生きるという選択も、時になどのつながりを棄てるものであったかもしれません。しかし、そこで失っても、教会というコミュニティーという家族を得る、そしてそれに加えて、福音に生きるおおきな喜びが与えられるのです。


*マルコによる福音書10章28〜30節
 ペトロが彼に語り始めた、「ご覧下さい、この私たちはすべてを棄て、あなたに従って来ました」。イエスは言った、「アーメン、私はあなたに言う。私のゆえに、そして福音のゆえに、家、兄弟たち、姉妹たち、母、父、子供たち、または農地を棄てた者は、必ず今のこの時期に、迫害の中にあっても、百倍の家々、兄弟たち、姉妹たち、母たち、子供たち、そして農地を受け、また来るべき世においては永遠の命をうける。
 しかし、最初の者の多くが最後の者となり、最後の者の多くが最初の者となるだろう」。       

*マルコによる福音書12章28〜31節
 すると律法学者たちの一人が近寄ってきて、彼らが議論しているのを聞き、イエスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「すべての掟の中で、第一のものは何でしょう」。イエスは答えた、「第一のものはこれだ、『聞け、イスラエルよ。われらの神なる主は、一なる主である。そこであなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くし、あなたのいのちを尽くし、あなたの想いを尽くし、あなたの力を尽くして愛するであろう』。第二のものはこれだ、『あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう』。これらより大いなる他の掟は存在しない」。

2010年 2月 7日  礼拝
高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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