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日本キリスト会川崎教会コミュの「赦される罪、赦されない罪」

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「赦される罪、赦されない罪」

①マルコによる福音書3章28−30節
 アーメン、私はお前たちに言う、人の子らには、すべての罪も、神を冒涜するもろもろの冒涜も赦されるだろう。しかし、聖霊に対して冒涜する者は、永遠に赦しを得ることがなく、永遠の罪に定められる」。これは彼らが、「こいつは穢れた霊を持っている」と言っていたからである。

②マタイによる福音書12:31−32
 このゆえに、私はお前たちに言う、人間たちにはすべての罪も冒涜も赦されるであろう。しかし霊への冒涜は、赦されることがないであろう。また、人の子に敵対して言葉を語る者は赦されるであろう。しかし、聖霊に敵対して言葉を語る者は、この世でも、また来るべき世でも赦されることがないであろう。

③ルカによる福音書12:10
 また人の子に対して言葉を語る者は誰であれ、赦されるだろう。しかし、聖霊に対して冒涜する者は赦されることがないだろう。
                          新約聖書翻訳委員会訳 佐藤 研訳

④トマスによる福音書44
 イエスが言った、「父を冒涜するであろう者は赦される。そして、子を冒涜するであろう者は赦される。しかし、聖霊を冒涜するであろう者は、地においても天においてもゆるされることはない」。
   
                                                                           
§「自由と、平等と」 

  日本に、自由や、平等の意識や、民主主義がしっかり定着しているのか、ということを考えると、まだまだ、未熟な社会であることを感じることが多くあります。足利事件の冤罪の事件の経緯などを見ても、取り調べの可視化に対する反発、また、報道されている検察の石川議員や彼の女性秘書に対する強引で非人道的な取り調べなどを見ると、未だに戦前の日本の官憲が持っていた危うさを、公権力が持ち続けていて、それに対する反省が、こうした権力を持つ側からは、なされていないことを感じます。
  戦前、戦中に、特高が、キリスト教徒たちを逮捕するのに使った質問の一つは、「聖書の神と、天皇とでは、どちらが上か」というようなものでした。そして、これに対して、天皇だと答えなければ、逮捕されたというようなことは、決して忘れてはならないことだと思います。
  確かに、日本の社会は、一般的に言って、何もなければ普通の市民にとっては、大分住みやすく平和ですし、外国から移り住んだ人たちの割合も増え、日本の社会にしっかり溶け込んでいる人々も増えました。また、日本人の中にも、差別意識を持つ人々が減っているとも感じます。
  しかし、さらに、ひとり一人が大切な存在であること、その生命に尊厳があることが広く認識されて、これが守られる社会になることが必要だということを、強く感じます。
  人間の、自由と平等とは、主イエスの教えから生まれてきたものだと思います。主イエスの言葉をたどり、その行いをたどることは、愛と、自由と、平等と、そして希望とを深く知り、身につけることであるとおもいます。
  たとえ、社会全体を、理想の社会にすることは不可能に思えても、あきらめずに、私たちの希望と、祈りと、行動とによって、少しずつ実現していくことができることを思います。

*マタイによる福音書18章19−20節
 重ねてアーメン、私はあなたたちに言う、あなたたちのうちの二人が、自分たちの願い求めることについて地上で一致するなら、それが何であれ、天におられる私の父が実現させて下さるであろう。なぜなら、私の名のもとに二人あるいは三人が集っているところでは、彼らの只中に私がいるからである。

 そして、希望を持って生きること、あきらめないということは、シニシズム(あきらめから来る冷笑主義、皮肉)や、絶望とは違い、心に安らぎが与えられます。

*マタイによる福音書11章28−30節
 私のもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこの私が、あなたたちに安らぎを与えよう。私の軛をとって自分に負い、私から学びなさい。なぜなら私は柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見いだすであろうから。私の軛は担いやすく、私の荷は軽いからである。

§「聖霊に対して冒涜する者は」

  さて、今日の聖書箇所は、大変理解しにくい箇所です冒頭の、「アーメン、私はお前たちに言う、人の子らには、すべての罪も、神を冒涜するもろもろの冒涜も赦されるだろう」、という箇所については、神の赦しの大きさが語られているように思われます。神や、神の用いられ方や社会でのあり方まで、哲学の基本である、吟味を加えることを認め、科学の基本である、批判的に検証するということを許しているとも見えて、驚くべき言葉です。しかし、「 聖霊に対して冒涜する者は、永遠に赦しを得ることがなく、永遠の罪に定められる」と、聖霊と、聖霊に対して冒涜する罪とを、特別なものとしています。これはどういうことなのでしょうか。
  まず、先週の箇所をお読みします。

*マルコによる福音書3章22−27節
 また、エルサレムから下って来た律法学者たちは言うのであった、「こいつはベエルゼブルを持っている」、さらには、「こいつは悪霊どもの首領によって悪霊どもを追い出している」。
23 そこで彼は、彼らを呼び寄せ、譬によって彼らに語るのであった、「どうしてサタンがサタンを追い出しうるのか。また、一つの王国が自らに敵対して分裂したなら、その王国は立ち行くことができない。また、もしサタンが自らに敵対して立ち上がり、分裂するならば、立ち行くことができず、終りを迎えてしまう。さらに、まず強い者を縛り上げずには、誰もその強い者の家に入ってその家財道具を略奪することはできないものだ。その後で彼の家を略奪するだろう。

 主イエスに対して、向けられた非難は、 「エルサレムから下って来た律法学者たちは言うのであった、『こいつはベエルゼブルを持っている』、さらには、『こいつは悪霊どもの首領によって悪霊どもを追い出している』」というものでした。
  それに対して主イエスは、「どうしてサタンがサタンを追い出しうるのか。また、一つの王国が自らに敵対して分裂したなら、その王国は立ち行くことができない。また、もしサタンが自らに敵対して立ち上がり、分裂するならば、立ち行くことができず、終りを迎えてしまう」、と答えています。
  この家の内紛、王国の内紛は、ローマ帝国の皇帝たちの権力争い、血で血を洗うが如き、彼らの歴史です。にもかかわらず、帝国は存続しているように思えますが、これはすでに滅びへの道を転がり落ちていることを示しています。
  そしてまた、マルコによる福音書が成立する時代、50−70年後頃は、ユダヤ人たちの間で、ローマに対して、武力で闘うべきか、あるいは、和平を模索するべきか、で、人々の意見が割れ、極限状態のような社会情勢にあって、家族が意見の違いによって分裂してしまう、という悩みを抱えていました。しかし、これは愚かなことです。みんなが一つになって、難局を乗り切るべき時に、分裂して、争い会うということは。
  「まず強い者を縛り上げずには、誰もその強い者の家に入ってその家財道具を略奪することはできないものだ。その後で彼の家を略奪するだろう」(27)とは、随分と物騒な譬えですが、これを聞いた人は、この「強い者」をサタンとしてとらえ、そして、主イエスが来られて、神の国がそこに到来し、サタンの支配が崩れたことを想起したと思われます。(大貫隆「マルコによる福音書」注解I参照)神の国が近づいた、もう手が届くところにある。悔い改めて、主イエスの伝えてくださった、神の国の福音の中に、神を信じなさい!
  さて、問題の「アーメン、私はお前たちに言う、人の子らには、すべての罪も、神を冒涜するもろもろの冒涜も赦されるだろう」と、「聖霊に対して冒涜する者は、永遠に赦しを得ることがなく、永遠の罪に定められる」についてですが、この前者、「アーメン、私はお前たちに言う、人の子らには、すべての罪も、神を冒涜するもろもろの冒涜も赦されるだろう」は、史的イエスにまで遡る発言で、ユダヤ教の律法主義の社会のなかで、イエスが神の名で行っている癒しや、神殿を否定して、神をもっとも小さい者たちに直接繋がっているものとする発言をとらえて、ファリサイ人たちや律法学者たちがイエスが神を冒涜していると糾弾している時に、それは神に赦されることだ、ということを言っているのです。先ほど申しましたように、驚くべき言葉ですね。しっかりと神を持ち、神の前に謙虚な姿勢を持ち、自らの行いをも常に吟味して修正していく姿勢がないとできないものです。
  では、後半の「聖霊に対して冒涜する者は、永遠に赦しを得ることがなく、永遠の罪に定められる」、についてはどうでしょうか。これは、この「聖霊」という言葉で、主イエスを、また主イエスの神の国の福音と、その信仰を冒涜する者は、永遠に赦しを得ることがなく、永遠の罪に定められる」また、この冒涜とは、神が共にいて、その働きを行っているイエスに向かって、「ベエルゼブルに取り憑かれている」と言うことをも指しています。(大貫、前掲書参照)
  このように、検証していきますと、大変深い理解と、マルコの大変巧妙な編集のありかたが、明らかになってきました。


*ローマ人への手紙5:1−5
 かくして私たちは、信仰によって義とされたので、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和な思いにひたされている。そのイエス・キリストをとおして私たちは信仰によって恵みへと至る路を獲得しているのであり、今や私たちはその恵みの中に立ち、神の栄光に与る希望を誇っている。のみならず、私たちは患難の中にあっても誇っている。それは、私たちが次のことを知っているからである。すなわち、患難は忍耐を生じさせ、忍耐は確証を、確証は希望を生じさせるということを。希望は私たちを欺くことはない。なぜならば、私たちに与えられた聖霊をとおして、神の愛が私たちの心のうちに注がれているからである。


 

2010年 1月31日  礼拝
高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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