ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本キリスト会川崎教会コミュの「木は実によって判断される」Lk6:43-45

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「木は実によって知られる」 

① ルカによる福音書 6:43−45
 実に、良い木が腐った実を結ぶことはないし、また腐った木が良い実を結ぶこともない。というのも、おのおのの木はそれ自身の実から知られるからである。実際、茨からいちじくを集めることはないし、藪から葡萄の房を採ることもない。
 善い人は、心の善い倉庫から善いものを持ち出す。また悪しき人は悪しき倉庫から悪しきものを持ち出す。なぜなら、心があふれることによって人の口は語るからだ。

② マタイによる福音書 7:15−21
 偽預言者たちに用心せよ。彼らは羊の衣を着て、あなたたちのところへ来るが、内側は強奪する狼である。
 あなたたちは、彼らのさまざまな実から彼らを知り尽くすであろう。茨から葡萄の房を、あざみからいちじくを集めるであろうか。このように、すべて善い木は良い実を結び、腐った木は悪い実を結ぶ。善い木は悪い実を結ぶことができないし、腐った木は良い実を結ぶことができない。良い実を結ばぬ木はすべて切り倒され、火の中に投げ込まれる。それゆえ、あなたたちは、彼らのさまざまな実から彼らを知り尽くすであろう。
  私に対して、『主よ、主よ』と言う者がすべて天の王国に入るのではない。そうではなく、天におられる私の父の意思を行う者こそが天の王国に入るのである。

③ マタイによる福音書 12:33−35
 木を良いとするなら、その実も良いとせよ。あるいは木を腐ったものとするなら、その実も腐ったものとせよ。というのも、木は実から知られるからである。蝮の裔(すえ)よ、お前たちは悪しき者であるのに、どうして善いことを語りえようか。なぜなら、心があふれることによって口は語るからである。善い人は、善い倉庫からさまざまの善いものを投げ出す。また悪しき人は悪しき倉庫からさまざまの悪しきものを投げ出す。私はお前たちに言う、人々は、自分が語るすべての怠惰な言葉に関して、さばきの日に弁明することになるであろう。なぜなら、お前のもろもろの言葉によってお前は義とされ、またお前のもろもろの言葉によってお前は断罪されるだろうからである」。


§「神の恵み」

  秋も深まってまいりました。八百屋さんやスーパー・マーケットには、柿やリンゴ、そしてミカンがおいしそうに並んでいます。川崎も、高津区より奥に入ると、柿の実をたくさんつけた柿の木を数多く見かけます。今でも農園がかなり残っていますが、住宅街にある木の多くも、数十年前まで農園だった頃の木がかなり残っているのだそうです。先日、宿河原や久地のあたりを通りました。子供の頃、夏にセミを捕りにこのあたりの森を訪れたことを思い出しました。随分と宅地化が進み、環境は変わってしまいましたが、ところどころに、森の面影がかすかに残っています。そういうところは、墓地か、神社、お寺、それでなければ急斜面か、自然公園ですね。
  うちの子供たちも自然が大好きです。土や草や木、そして水があって、様々な生き物が生息しているところは、気持ちの良いものです。息子の幼稚園の芋掘りでも、子供たちは竹林や畑で大はしゃぎをして遊んでいました。遊具もおもちゃも、何も必要なく、にこにこして走り回れる様子を見ていると、大変幸せそうです。
  季節の移り変わりがあり、人間も、その季節の移り変わりと共に生きるならば、私たちが、たとえ一人でいるときでも、ひとりではなく、神さまが共にいて下さるという実感を持ちやすいのではないかと思います。逆を言えば、都市生活は、孤独を感じやすい環境だと言えそうです。
  この一週間のニュースを見てみても、様々な事件の背後に、人間の孤独や、疎外感があることを感じます。そして、自分や自分以外の人を大変粗末に扱う傾向を見ます。そして、報道されるような大きな事件だけではなく、今の社会に、人を大切にする心、自分を大切にする心を持ちにくい状況があるように思えます。
  しかし、人間は、ひとりでは生きていくことができません。これは、生態系の中で、バッタがバッタだけで生きられないし、鳥が鳥だけでは生きられないのと同じなのだと思います。身近な恵みから始まり、大きな自然、母なる大地、そしてその背後におられる神の存在を、古代より、人々は感じてきました。そして、生きる知恵や技術を代々伝えてきました。そして、現代では、このような心、知恵すら、親から子へ伝えられない、次の世代へ伝えられない、そこまで他者と関わろうとしない、たとえそれが自分の子供であっても。そういう傾向が、社会の中にあることを、強く感じます。
  主イエスは、マタイによる福音書の最後で、このように語られました。

*マタイによる福音書28:20
 私があなたたちに指示したすべてのことを守るように、彼らに教えよ。そして見よ、この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいるのである。

§「木は実によって知られる」

 さて、今日の箇所は、果実と木を例に取った譬えです。

*ルカによる福音書 6:43−45
 実に、良い木が腐った実を結ぶことはないし、また腐った木が良い実を結ぶこともない。というのも、おのおのの木はそれ自身の実から知られるからである。実際、茨からいちじくを集めることはないし、藪から葡萄の房を採ることもない。
 善い人は、心の善い倉庫から善いものを持ち出す。また悪しき人は悪しき倉庫から悪しきものを持ち出す。なぜなら、心があふれることによって人の口は語るからだ。

  「おのおのの木はそれ自身の実から知られる」とは、木がいかに立派に見えても、そこからでてくる実こそが、大切なのだ、ということ、すなわち、 人はその行動によって、判断されるということだと思います。そして、その行動を決定づけるのは、愛です。
  では、愛ではなかったら、何が行動を駆り立てる可能性があるかと言えば、それは、欲望と名声、言い換えれば、利己心と、功名心です。

*マタイによる福音書6:24
 いかなる者も、二人の主(あるじ)に兼ね仕えることはできない。なぜなら、一方を憎み、他方を愛するだろうから。あるいは一方の世話はするが、他方はこれを軽蔑するだろうから。あなたたちは、神とマモンとに兼ね仕えることはできない。

  マタイによる福音書では、このことを強調し、「偽預言者に用心せよ」と言っています。主イエスと同じように、人々に語り、癒しを行おうとするが、しかし、その動機(motivation)が、愛でなかったら、それは、虚しいものです。「あなたたちは、彼らのさまざまな実から彼らを知り尽くすであろう」と訳されたところは、未来形に訳されていますが、これは、神の強い命令を表す未来形です。「彼らの果実から、彼らを認識せよ」(田川建三)としたほうが、意味がはっきり伝わります。彼らの行いを見て、判断しなさい、吟味しなさい、ということです。

*コリント人への第一の手紙13章1−7節
もしも私が、人間の、そして御使いたちの言葉によって語りはしても、しかし愛を持っていないなら、私は鳴り響く銅鑼か、あるいは甲高くなるシンバルと化してしまっている。またもしも私が預言をなし、さらにすべての奥義とあらゆる知識とをもってはいても、またもしも私が山々を移すほどのあらゆる信仰をもってはいても、しかし私が愛をもってはいないなら、私は無である。
  たとえ私が、私のすべての財産を分け与えたとしても、またもしも私が、私のからだを焼かれるために引き渡しても、しかし私が愛をもってはいないなら、私は何の役にも立たない。
 愛は--寛容であり、親切である--愛は。愛は妬まず、愛は自慢せず、高ぶらず、ふさわしくない振る舞いをせず、自分自身のものを求めず、苛立たず、悪しきことを企まず、不義を喜ばず、しかし真理を共に喜ぶ。愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。                       
青野太潮訳

英語のことわざに、You can’t tell the book by its cover.というものがあります。「本の表紙では、その内容はわからない/判断できない」ということです。(おもしろい人が、これをひっくりかえして、You can’t tell the cover by its book.というのを聞いたことがあります。「本の内容では、カバーはわからない」、すなわち、いいひとでも、身なり/外見は良いとは限らない!)
 預言者の身なりをしていても、あるいは、キリストにあるものを標榜していも、そこに神の愛がなくては、何にもなりません。マタイの12章3節以下は、さらに厳しく、今度、私たち自身に、自分を省みることを促しています。

③ マタイによる福音書 12:33−35
 木を良いとするなら、その実も良いとせよ。あるいは木を腐ったものとするなら、その実も腐ったものとせよ。というのも、木は実から知られるからである。蝮の裔(すえ)よ、お前たちは悪しき者であるのに、どうして善いことを語りえようか。なぜなら、心があふれることによって口は語るからである。善い人は、善い倉庫からさまざまの善いものを投げ出す。また悪しき人は悪しき倉庫からさまざまの悪しきものを投げ出す。私はお前たちに言う、人々は、自分が語るすべての怠惰な言葉に関して、さばきの日に弁明することになるであろう。なぜなら、お前のもろもろの言葉によってお前は義とされ、またお前のもろもろの言葉によってお前は断罪されるだろうからである」。

  ヤコブの手紙に、より身近に、具体的に私たちの生活に即した戒めとして、この木の実のエピソードが紹介されています。

*ヤコブの手紙3:11−12
 舌によって私たちは主であり父である方を祝し、また舌によって、神に似せて造られた人々を呪う。同じ口から祝福と呪いが出てくるのである。私の兄弟たちよ、こんなことがあってはならない。
 泉が同じ穴から甘い水と苦い水を湧き出させるようなことがあるだろうか。私の兄弟たちよ、いちぢくの木がオリーブの実をつけたり、ぶどうの木がいちじくの実をつけたりすることができようか。また塩気のある水が甘い水を造り出すこともありえない。

  神を讃えていても、兄弟姉妹を呪うのでは、愛の行いが身についてはいないではないか。これは、人間の持つ、排他性と、それが広がりやすいことを戒めています。
  外典のトマスによる福音書にも、辛辣な形で、実のエピソードが紹介されています。

・ トマスによる福音書43
 むしろ、あなたたちはユダヤ人のようになった。なぜなら、彼らは木を愛してその実を憎み、実を愛して木を憎むからだ。

  神を愛して、兄弟姉妹を大切にしない。また、律法を守ることを愛して、神を愛さない。律法主義や、救いは自分が律法を守ることによって得られるのだという、神の恵みに対する感謝を忘れた生き方、そして兄弟姉妹、他の人々への愛を忘れた生き方をする、傲りを持った人々に対する警鐘です。

*マタイによる福音書 5:43
 『あなたは、あなたの隣人を愛するであろう(愛せよ)、そしてあなたの敵を憎むであろう(憎め)』と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ。



2009年 11月 8日  礼拝
                                                                                     高橋  誠
 日本キリスト会川崎教会牧師

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本キリスト会川崎教会 更新情報

日本キリスト会川崎教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング