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日本キリスト会川崎教会コミュの目の中の梁 Lk6:37-42

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「目の中の梁」 

① ルカによる福音書6:37−42

 そしてさばくな、そうすればあなたたちはさばかれることがないだろう。また、罪に定めるな、そうすればあなたたちは罪に定められることもないだろう。
 赦せ、そうすればあなたたちも赦してもらえるだろう。
 与え続けよ、そうすればあなたたちも与えられるだろう。
 人々は、押し込み、揺すり、あふれ出るほどに升の中身を良くしてあなたたちの懐に与えるだろう。
 なぜならば、『あなたたちが量るその秤であなたたちに量り返されるだろうからだ」。
39 また彼は、さらに一つの譬を彼らに語った、「盲人に盲人の道案内ができようか。両者とも溝に落ち込んでしまわないだろうか。
 弟子たちは師以上のものではない。しかし、誰でも十全(十分)に正されたなら、その師のようにはなるだろう。
 また、なぜあなたは、自分の兄弟の目にあるちり屑を見て、自分自身の目にある梁に気がつかないのか。あなたはどうして自分の兄弟に、『兄弟よ、君の目の中にあるそのちり屑を取り出させてくれ』などということができるのか。あなた自身、あなたの目にある梁が見えないままではないか。偽善者よ、まずあなたの目からその梁を取り出すがよい、そうすればそのときこそ良く見えて、あなたの兄弟の目の中のそのちり屑を取り出すこともできるだろう。

② マタイによる福音書7:1−4

  さばくな、あなたたちがさばかれないためだ。なぜならば、あなたたちがさばくそのさばきによって、あなたたちがさばかれるだろうからだ。
 また、『あなたたちが量るその秤によって、あなたたちに量られるだろう』からだ。
 また、なぜあなたは、自分の兄弟の目にあるちり屑を見て、自分の目にある梁に気がつかないのか。あるいはあなたはどうして自分の兄弟に、『君の目からちり屑を取り出させてくれ』などと言うのだろうか、しかも見よ、あなたの目には梁があるではないか。                 新約聖書翻訳委員会訳


§「神の恵み、私たちの知らないうちに」 

   10月も下旬になり、大分秋も深まってきました。教会の庭にも、黄色くなったり、茶色くなった落ち葉がたくさん落ちています。1年半続いた、隣のマンションの建設工事もほとんど終わったようで、やっと静けさが訪れました。それに合わせるように雀や四十雀、そしてキジバトが戻って来ました。少しでも自然と触れ合えて、 季節感が感じられると嬉しいものですね。
   先日、お花と苗木の店先を見ていて、早々と葉ボタンの苗が置かれているのを見つけました。昨年の冬から春にかけて、歩道沿いに植えられた葉ボタンの成長を、通園、通学の途中で子供たちと楽しんで見ていました。非常におもしろい植物で、春になって梅の便りが聞かれる頃になると真ん中の方からだんだん盛り上がって行き、桜の頃には4〜50センチの高さに茎が伸びて菜の花のような黄色い花を咲かせます。
  そして、昨年の暮れ、私たちも葉ボタンを植えようと、病院のすぐ近くの園芸店で苗を準備したのが12月18日、父である秀良牧師が天に召される前日でした。そして、翌日、悲しみと告別式などの準備のせわしさの中で、子供たちとこの葉ボタンを植えて、平和なひとときを過ごした記憶が甦ってきました。
  一昨日、幼稚園の芋掘りが町田市にある農村伝道神学校でありました。子供たちが初夏に植えたサツマイモの苗が成長して、大小たくさんのイモをつけていました。そして、イモムシやクモ、カエルやコオロギまで、様々な生き物がその畑を棲まいとしてコミュニティーができあがっていました。

 *マルコによる福音書4章26〜29節
 また彼は言うのであった、「神の王国とは次のようなものだ。すなわち、一人の人が大地に種を蒔き、夜寝て朝起きることをくり返している。すると彼自身の知らないうちに種は芽を出し、成長する。大地がおのずから実を結ぶのであって、まず新芽、次に穂、次にその穂の中に豊かな穀粒をもたらす。そして、実が収穫を許す時になると、すぐに鎌を入れる。刈り入れが来たからだ」。

  神の恵みは、このように、私たちが望んだり、意図したりすることを越えて私たちと共にあるのだということを実感します。人間も同じようですね。子供たちも、祈りと愛情を持って懸命に育てます。親にも足りないことや、直すべきことがたくさんあるなかで、私たちの望みや意図を越えて、成長が与えられます。常に私たちの歩みも、主と共にあり、省みる心があり、祈りとともに生活することが必要です。「 私たちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」(ローマ人への手紙16:20b)

・神共にいまして、行く道をまもり、天の御糧もて 力を与えませ (讃美歌405番)


§「目の中の梁」

  さて、今日の聖書箇所は、ルカによる福音書6章27節からの「あなたたちの敵を愛せよ」、そして、31節の「あなたたちが人々からして欲しいと思うように、あなたたちにも同じく彼らにせよ」の後にある、「あなたたちは慈しみ深くなれ、あなたたちの父が同じく慈しみ深くあるように」(6:38)に続く部分です。ですから、この「さばくな」そして、「赦せ」は、愛の行いの延長として語られています。

* ルカによる福音書6:37−38
 そしてさばくな、そうすればあなたたちはさばかれることがないだろう。また、罪に定めるな、そうすればあなたたちは罪に定められることもないだろう。
 赦せ、そうすればあなたたちも赦してもらえるだろう。
 与え続けよ、そうすればあなたたちも与えられるだろう。
 人々は、押し込み、揺すり、あふれ出るほどに升の中身を良くしてあなたたちの懐に与えるだろう。
 なぜならば、『あなたたちが量るその秤であなたたちに量り返されるだろうからだ」。

  この「裁く」は、本当に深刻な犯罪を指しているというよりはむしろ、日々の生活のなかで触れ合う隣人たちを示して語られているのだと思います。敵を愛するように言われるその敵も、もちろんあるでしょうが、悪意を持って近づく者たちには、身を守る術が必要だと思います。それも、武力や暴力ではない術、知恵が必要です。

* マタイによる福音書10章16節
  見よ、この私が、狼どもの只中に羊らを遣わすようにあなたたちを遣わす。だから、蛇のように賢く、鳩のように無垢になれ。

  さて、話を「裁く」に戻しますが、とかく、人は裁く時には、自分には甘く、人には厳しくしてしまうものです。文化の違いがあるもの同士ならなおさらかもしれません。また、宗教的、思想的に違う人たちに対する、排他的な心も大きな問題だと思います。初期のキリスト教徒の中で、カトリシズムが芽生えたときに、異端として切り捨てた中に、東方教会(ギリシャ正教など)などもありました。違うものを排除するのではなく、その違いを認めて共に歩む道を模索するなら、素晴らしいと思うのですが。
  先日、息子がウルトラマン・エースの最終回のDVD(1973年3月30日に放送されたもの)を借りてきて見ていましたら、ウルトラマン・エースは宇宙に戻るときに、子供たちに以下のようなメッセージを遺していました。「優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いに助け合い、どこの国の人たちとも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。たとえそれが、何百回裏切られようとも」。ウルトラマン、ちょっと見直しましたね。
   主イエスの言葉の中で、「赦す」という問題について、このような発言があります。

*マタイによる福音書18章21節
 その時、ペトロが近づいて来て彼に言った、「主よ、私の兄弟が私に対して罪を犯した場合、私は何度まで赦すべきなのでしょうか。七度までですか」。イエスは彼に言う、「私はあなたに、七度までとは言わない。七の七十倍までである」。

 七は完全数です。そして、その七十倍というのですから、これは無限を指します。「あなたたちは慈しみ深くなれ、あなたたちの父が同じく慈しみ深くあるように」(ルカ6:38)とは、どういうことかを具体的に示している言葉だと思います。

* ルカによる福音書6章 39節
  また彼は、さらに一つの譬を彼らに語った、「盲人に盲人の道案内ができようか。両者とも溝に落ち込んでしまわないだろうか。

  この盲人は、「相互互恵の原則でのみ生きる人、力には力で対抗する人、愛の原則でなく人を裁くことに終始する人」(三好みち)を表す、メタファー(隠喩)です。そのような人がそのような人を導くなら、共に誤った方向に行ってしまうのです。エルサレムの聖墳墓教会のように、様々な教派が、縄張りを主張し合いながら、一触即発の緊張感の中で祈り、讃美をするなどというのは、まさに、ともに溝に落ち込んでしまっている姿です。

*ルカによる福音書6章40節
  弟子たちは師以上のものではない。しかし、誰でも十全(十分)に正されたなら、その師のようにはなるだろう。

  ここでの師は、主イエスです。確かに、主イエスは素晴らしく純粋で、類を見ない改革者です。そして、主イエスからはじまって、だんだんに時代を経るに従って、福音が薄められていく過程を、聖書の学びの中で度々見てきました。ですから、主イエスに立ち返る、史的イエスはどう考え、行動し、どのように発言したかを求めることに大変意義があるのです。そして、歴史上、誤った方向に行くと、そこから軌道を修正する者たちが与えられてきました。それは、主イエスに立ち返るということができるからに他なりません。

*ルカによる福音書6章41−42節
 また、なぜあなたは、自分の兄弟の目にあるちり屑を見て、自分自身の目にある梁に気がつかないのか。あなたはどうして自分の兄弟に、『兄弟よ、君の目の中にあるそのちり屑を取り出させてくれ』などということができるのか。あなた自身、あなたの目にある梁が見えないままではないか。偽善者よ、まずあなたの目からその梁を取り出すがよい、そうすればそのときこそ良く見えて、あなたの兄弟の目の中のそのちり屑を取り出すこともできるだろう。

 これも、「裁くな」の教えを、具体的に語ったものです。新共同訳では、「梁」を「丸太」と訳していますが、これははっきり「梁(ドコス)」で、「ちり」のほうは、おがくずや糸くずを表す言葉だそうです。この梁は、ソクラテス風に言えば、ドクサ(捕らわれてしまっている固定観念や差別心)と言えます。

・トマスによる福音書26
  イエスが言った、「あなたはあなたの兄弟の目にあるちり屑を見ている。それなのに、あなたは自分の目にある梁を見ない。あなたが自分の目にある梁を取りだすとき、そのときこそあなたははっきり見えるようになって、兄弟の目からちり屑を取りだすこともできるだろう」。

2009年10月25日  礼拝
高橋  誠
 日本キリスト会川崎教会牧師

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