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日本キリスト会川崎教会コミュの預言者エリシャ 1

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「預言者エリシャ」 1.

* 列王記 上 19:11−21

  ヤハウェは彼に言った、「お前の来た道を引き返し、ダマスコの荒野へ行け。そして着いたら、ハザエルに油を注ぎ、彼をアラムの王とせよ。ニムシの息子イエフに油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの王の息子エリシャに油を注ぎ、お前に代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」。
   エリヤフはそこ(神の山ホレブ=シナイ山、モーセもヤハウェと出会った)を去って、シャファトの息子エリシャを見つけた。彼は十二軛(くびき)の牛を先に立てて畑を耕し、彼自身は十二番目の軛で耕していた。エリヤフは彼のそばまで来ると、自分のマントを彼に投げかけた。エリシャは牛を残したまま、エリヤフの後を追いかけて行き、言った、「どうか、私の父と母に別れの口づけをさせて下さい。それからあなたに従います」。エリヤフは彼に言った、「帰りなさい。私があなたに何かしただろうか(あなたが納得のいくようにしなさい)」。
  エリシャはエリヤフを残して帰ると、一軛(ひとくびき)の牛を取って屠り、牛の用具を薪にしてその肉を調理し、人々に与えて食べさせた。それから、彼は立ってエリヤフについて行き、彼に仕えた。
池田裕訳

§「種まき」

  今年は、エル・ニーニョ現象の影響で、夏がそれほど暑くなかったり、また秋から冬にかけていつもより暖かかったりするようです。地球規模で異常気象を起こすエル・ニーニョは、そのまま英語にすると、the Child、あるいは、the Boyで、神の子イエス・キリストを指します。それは、クリスマスの頃に、大西洋から太平洋にかけて、ちょうど南北アメリカ大陸の間を東から西へ吹き抜ける、南東貿易風が弱まり、ペルー沖の太平洋の東から西へ流れる潮流が弱まります。すると、この潮流によって海面近くに引っ張り上げられている海底の冷たい水があまり上がってこなくなるために、そこの海面温度が上がるために、この名前がつけられたそうです。
  ちなみに、この反対の現象、南東貿易風が強すぎて、ペルー沖の海の水に、深海の冷たい水が多く上がって来すぎる現象は、ラ・ニーニャ、the Girl、神の女の子と名付けられています。
   いずれにせよ、地球の一部でのできごと、はるかに離れた所でのできごとが、皆つながって、お互いに影響を及ぼし合っているところが興味深いですね。
   主イエスの福音が、2000年前に私たちの世界に与えられたとき、主イエスのお話を直接聞いた人たちは、イスラエルの田舎、ガリラヤ地方の人たちでした。

*マタイによる福音書 13章31−32節
 彼は彼らにほかの譬を示して言った、「天の(=神の)王国は、(次のような)一粒の芥子種と同じである。一人の人がそれをとって、自分の畑に蒔いた。それはあらゆる種の中で最も小さいが、しかし成長すると、どの野菜よりも大きく、また一本の木になる。そのため、天の小鳥たちがやって来て、その大枝の中に巣を作るほどになる」。

   2000年後、世界中に広まった福音の種、そして、主イエスが私たちに与えて下さった理想や希望の広がりを示すような言葉ですね。そして、私たちもこの種まきを続けます。
   また反対に、人間は、様々な情報や文化が混ざり合い、影響し合う社会の中で生きています。また神も、宗教も政治的に利用されやすいことを思うとき、主イエスが伝えて下さったメッセージを、しっかりまっすぐに受け止めて、そのように生きることは、「狭い門を通って入る」ということでもあります。

*マタイによる福音書7:13
  狭い門を通って入れ。なぜならば、滅びへと導く門は広く、その道は広大である。そして、そこを通って入って行く者は多い。しかし、命へと導く門はなんと狭く、その道はなんと細いことか。そしてそれを見いだす者はわずかである。

  ローマ時代にローマが造ったエルサレムの大通りの様子を描いたイラストがありますが、まさに広い門、そして誰もが通る広い道です。ローマ帝国は、ある都市を占領すると、まず、東西南北に伸びる大通りを造ります。軍隊が行進して、その強さを誇示する意味もあるでしょうが、道が広ければ、隠れるところもなくなります。軍事的に、ゲリラやテロを封じ込める方策でもあるのです。また、道の両側に市場を置き、経済の活性化にも役に立ったようです。
  そして、楽に見つかる道、広い道は、吟味されるべきことが吟味されずに残り、人々が当たり前のように思って、その心を忘れるようなものでもあるのです。
   私が中学一年生の時、国語の教科書に、ヨーロッパの石造りの立派な教会についてのエッセーか何かが載っていて、生徒のひとりから、「この辺にも教会はありますか」。という質問が出たとき、国語の先生が答えて、「教会らしきものはあるが。らしきものは」、と言ったことが印象に残っています。
   しかし、教会の本質は、荘厳な建物や、驚くべき当時の技術の粋を集め、贅の限りを尽くした建物の中にはないのです。そして、それを理解し、本質を見る目を持とうとする者も多くないのです。

*マタイによる福音書18章19−20節
  重ねてアーメン、私はあなたたちに言う、あなたたちのうちの二人が、自分たちの願い求めることについて地上で一致するなら、それが何であれ、天におられる私の父が実現させて下さるであろう。なぜなら、私の名のもとに二人あるいは三人が集っているところでは、彼らの只中に私がいるからである。

   教会の本質は、ここにあります。そこに、主イエスが共におられること。

・ 「『狭い門から入りなさい』という勧告は、誰でもが入りやすく、また実際にも選ぶであろう広い門を否定している点において、言い換えれば、世の日常性からの脱出を目指している点からして、イエスらしい言葉であると思う。」(山下次郎)

  ここでは私たちに「狭い門、命へと導く門」を選択することをせまります。「狭い門」は、マタイによる福音書5章からここまで語られた、山の上の説教で話された生き方をすることを指しています。そして、それが簡単ではないことを表現しています。例えば、同じように二者択一をせまる部分で以下の箇所があります。

*マタイによる福音書6:24
 誰も二人の主に兼ね仕えることはできない。なぜなら、一方を憎み、他方を愛するからである。あるいは一方の世話はするが、他方はこれを軽蔑するからである。神とマモン(富)とに兼ね仕えることはできない。

§「エリシャ、エリヤとの出会い」

  さて、今日の聖書箇所は、エリヤがエリシャを見いだし、そして後継者とする場面です。

*エリヤフはそこ(神の山ホレブ=シナイ山、モーセもヤハウェと出会った)を去って、シャファトの息子エリシャを見つけた。彼は十二軛(くびき)の牛を先に立てて畑を耕し、彼自身は十二番目の軛で耕していた。エリヤフは彼のそばまで来ると、自分のマントを彼に投げかけた。エリシャは牛を残したまま、エリヤフの後を追いかけて行き、言った、「どうか、私の父と母に別れの口づけをさせて下さい。それからあなたに従います」。エリヤフは彼に言った、「帰りなさい。私があなたに何かしただろうか(あなたが納得のいくようにしなさい)」。

  突然の出会い。エリシャは牛を使って畑を耕していました。これは、彼がこのおそらく大きな家族の労働力の担い手であることを示しています。十二軛の牛ってすごいですね。ひとつの軛に二頭ずつつけていたら二十四頭です。エリヤがエリシャに「自分のマントを彼に投げかけた」のは、後継者とすることを示しています。もう一度、今度は、エリヤがこの世を去るとき、エリシャにマントを託す場面がありました。

*列王記下2章 8ー 
  エリヤフは自分のマントを脱ぎ、それを丸めて河の水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。渡り終わると、エリヤフはエリシャに言った。「私があなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。なんなりと願いなさい」。エリシャは言った、「あなたの霊の二倍の分け前を、私に下さい」。エリヤフは言った、「難しい願いをするものだ。私があなたのもとから取り去られるのをあなたが見るならば、あなたの願いはかなえらえる。しかし、もし見なければ、かなえられない」。
11 彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車と火の馬が現れて、二人の間を分けた。エリヤフはつむじ風に乗って天に上って行った。エリシャはこれを見て叫んだ、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」。しかし彼の姿はもう見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。
13 彼はエリヤフの肩から落ちたマントを拾い上げ、ヨルダン河の岸辺に立った。

   エリヤと出会ったエリシャは、即座に彼に従っていくことを決心し、両親に別れを告げることを願い、そしてエリヤに従っていきます。

*エリシャはエリヤフを残して帰ると、一軛(ひとくびき)の牛を取って屠り、牛の用具を薪にしてその肉を調理し、人々に与えて食べさせた。それから、彼は立ってエリヤフについて行き、彼に仕えた。

   牛の用具を薪にして燃やし、 牛を屠って、その火で焼いて人々に食べさせるというのは、もうこの仕事、この生活に戻らないという徴です。
  ガリラヤ湖畔での、主イエスと弟子たちとの出会いを思わせますね。

*マルコによる福音書1:16ー20 
 そして彼は、ガリラヤの海辺を歩いていたとき、シモンとシモンの兄弟アンドレアスとが海で投げ網をしているのを見た。彼らは漁師だったのである。そこでイエスは彼らに言った、「さあ、私の後について来なさい。そうすればあなたたちを、人間を捕る漁師になれるようにしてやろう」。そこで彼らはすぐに網を棄てて、彼に従った。
 また少し進んで行くと、彼はゼベダイの子のヤコブとその兄弟のヨハネを見た。すなわち、彼らは、舟の中で網を繕っているところだったのである。そこで彼はすぐに彼らを呼んだ。すると彼らは、その父ゼベダイを雇い人たちと共に舟の中に棄て、彼の後について去って行った。

大きな出会い、越えることができないと思えるようなことも、越えてしまうほどの出会い。神の国の福音との出会いは、生き方そのものを変えてしまうほどのものですね。

* コリント人への第二の手紙5:16−21
  かくして私たちは、今後は、誰をも肉に従って知るということはしない。たとえ私たちが肉に従ってキリストを知ってしまっていたとしても、しかし今はもはやそのようには知るということをしない。かくして、もしもある人がキリストのうちにあるのなら、その人は新しく創造された者なのである。古きものは過ぎ去った。見よ、新しくなってしまったのである。

2009年 10月 4日  礼拝
高橋  誠
 日本キリスト会川崎教会牧師

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