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日本キリスト会川崎教会コミュの試みの時1 ヤコブの手紙1章

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「試みのとき」 1.


* ヤコブの手紙1章1−18節
 神と主イエス・キリストとの僕(しもべ)ヤコブがディアスポラにいる十二部族に挨拶を送る。
 私の兄弟たちよ、さまざまな試みに陥ることがあれば、その時には、これを大いなる喜びと思いなさい。あなたがたは自分たちの信仰の試練が忍耐を生み出すことを知っているのだから。そして、あなたがたがなにごとにも欠けることなく、全き者、完全無欠な者となるため、なにがなんでも忍耐しなさい。
  あなたがたの中で知恵に欠ける人がいるなら、すべての人に惜しみなく与えて不平をもらしたりしない神に願いなさい。そうすれば知恵が与えられるであろう。何も疑わず、信仰のうちに願いなさい。疑っている人は、風に煽られ、揺り動かされている海の荒波に似ている。その人は主から何かしてもらえるなどと思うのはやめなさい。二心の人であって、そのすべての道で節操のない人だからである。 
  卑しい身分の兄弟は自分の高められていることを誇りなさい。富める人は自分が卑しめられていることを誇りなさい。草の花のように過ぎ去ることになるのだから、太陽が炎暑とともに昇り、草を枯らすと、その花は落ち、その表面の美しさは失せる。そのように、富める人もその旅の途中で尾羽打ち枯らすであろう。
  試みに耐えている人は幸いである。試練を経たものとなって、神が自分を愛する人々に約束した、生命の冠を受けることになるからである。
  試みられる時、誰も、自分は神に試みられていると言ってはならない。神は諸悪の試みを受けえない方であるし、自身誰をも試みたりはなさらないからである。各自が自分の欲望によって引きずり出され、誘い出されて、試みられているのである。次いで、欲望がはらんで罪を産み、罪が成熟して死を生み出すのである。
  私の愛する兄弟たちよ、まちがってはいけない。あらゆる善き贈りもの、すべての全き賜物が上から、光の父から降って来るのである。その光である父のもとには、移り変わりも運行によって生じる影も存在しない。この方が、その被造物のいわば初穂とするため、私たちを真理のことばによって、自らの意思(おもい)により、産み出されるのである。                                          小林稔訳


§「信仰と業」 

   ここ数週間の間、英語学園に通う生徒さんのひとりと共に、オバマ大統領の演説を教材に学びをすすめる機会がありました。彼が世界規模で注目を集めたのは、2004年の選挙戦の際、ジョン・ケリーが民主党の指名を得た、民主党大会の基調演説をした時でした。その演説は大変力強く、Audacity of Hopeという題で、日本語では「大いなる希望」と訳されて来ました。このaudacityという言葉は、「大胆、勇敢、無謀、不敵さ」をあらわす言葉です。言葉に、彼の生きる姿勢が凝縮されています。他の誰もが、無理だと思うこと、不可能だと思うこと、しかし、それが良いこと、正しいことだと信じるなら、それは実現できるのだ、という強い信念です。これをわかりやすく言うと、Yes, we can. ということなのです。 Audacity of Hopeを意味を重視して訳すなら、「勇猛果敢に希望を持ち、実現しようと言う大胆な生き方」という感じです。核兵器の廃絶や、パレスチナの独立や、様々な不可能と思えること、それは、対話によって実現できるのだ、という信念です。
    主イエスは、大変大胆な希望を持ち、それを私たちに渡して下さいました。神の国の福音を伝え、神の国の姿を、生きて見せ、それが実現できることを示して下さいました。神の直接統治が実現し、愛と希望と平和の中に、生きることができるということを示して下さいました。

*マルコによる福音書10章13−16節
   さて、人々は、彼のところに子供たちを連れて来ようとした。彼に触ってもらうためである。しかし弟子たちは、彼らを叱りつけた。だがイエスがこれを見て激しく怒り、彼らに言った、「子供たちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはない。」そして彼は、子供たちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。   

  主イエスの生き方を、パウロは次のように表現しています。

*ガラテヤ1章3−5節
 そのキリストは、私たちの罪のためにご自身を与えられた。それは、私たちの父なる神の意思に従って、私たちを現在の悪の世から解放するためである。その神に世々限りなく栄光があるように、アーメン。

  この、「私たちの罪のためにご自身を与えられた」、とはどういうことかについて、J.D.クロッサンは次のように述べています。

・イエスは私たちの罪のゆえに、あるいは私たちの罪が原因で死んだのだが、それを私たちの罪のために(引用者注:私たちの罪の代価として)死んだのだと誤解してはならないのである。イエスの犠牲の死は、イエスが私たちの身代わりとなったので救いをもたらすのではなく、私たちがイエスと同じ生き方をするから救いをもたらすのである。神の根源的なあり方はイエスにあって受肉し、文明の常識(私たちの罪あるいはこの世の罪)がイエスを処刑した。人類の進化の中で不正が生まれ、暴力によって保たれてきた。正義は暴力によって抑圧され、踏みにじられてきた。その警告に耳を傾けるならば、それが救いとなるのである。...J.D.クロッサン

  パウロは、「人は律法の業によっては義とされず、イエス・キリストへの信仰によってのみ義とされるということを知って、私もまたキリスト・イエスを信じたのである」(ガラテヤ人への手紙2:16)と言っていますが、パウロにとって、イエス・キリストへの信仰はただの観念ではなく、 生き方そのものなのです。「私はキリストと共に十字架につけられてしまっている。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちで生きているのである」 (ガラテヤ2章19b-20a節)、とあるように、業の伴わない信仰(ヤコブの手紙2章18節)ということは、パウロには考えられないことでした。
§「試みと誘惑」

  さて、ヤコブの手紙ですが、1節に 「神と主イエス・キリストとの僕(しもべ)ヤコブがディアスポラにいる十二部族に挨拶を送る」という一文ではじまっています。「ディアスポラにいる十二部族」は、離散したイスラエルの民を示す言葉ですが、初期の教会のクリスチャンたちは、自分たちを新しいイスラエル十二部族と表現していました。十二は、完全数です。イスラエル部族全部を指します。ちなみに、弟子を十二人選ぶ時のこの十二も、完全な姿を現しています。
   ヤコブの手紙は、主の兄弟ヤコブが書いているように装っていますが、時代は、1世紀の終わりから2世紀に書かれたものです。主イエスの名前は、2カ所しか出て来ませんし、神の業や、主イエスの言葉が活き活きと描かれるということもありません。むしろ、こまかい生活についての指示が多く見受けられます。

・乱暴な言い方だが、新約諸文書の中で、後で書かれたものほど、神の業それ自体について述べるよりも、人がそれ(神の業)に対して応えているなら、日常生活の中にそれ(神の業)が現れるはずだということを強調する傾向が強いように思われる。最初のいきいきした宗教的情熱がさめてきたときに、制度によってそれを維持しようと試みたり、本来は帰結であるはずの倫理的なものを強調したりするのは、自然なことなのかもしれない。(小林稔)

    「アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその(=神の国の)中に入ることはない」、という主イエスの言葉には、愛と希望の非常に大きな迫力を感じます。また、「いかなる者も、二人の主(あるじ)に兼ね仕えることはできない。なぜなら、一方を憎み、他方を愛するだろうから。あるいは一方の世話はするが、他方はこれを軽蔑するだろうから。あなたたちは、神とマモンとに兼ね仕えることはできない」 (マタイによる福音書6:24 )にも説得力があります。
   しかし、ヤコブの手紙では、「あなたがたの中で知恵に欠ける人がいるなら、すべての人に惜しみなく与えて不平をもらしたりしない神に願いなさい。そうすれば知恵が与えられるであろう」という、言葉の後には、「何も疑わず、信仰のうちに願いなさい。疑っている人は、風に煽られ、揺り動かされている海の荒波に似ている。その人は主から何かしてもらえるなどと思うのはやめなさい。二心の人であって、そのすべての道で節操のない人だからである」、と続きますが、そこには、護教的な響きが漂います。

  *9 卑しい身分の兄弟は自分の高められていることを誇りなさい。富める人は自分が卑しめられていることを誇りなさい。草の花のように過ぎ去ることになるのだから、太陽が炎暑とともに昇り、草を枯らすと、その花は落ち、その表面の美しさは失せる。そのように、富める人もその旅の途中で尾羽打ち枯らすであろう。
 
    これは、富んでいる人への、皮肉のように聞こえますね。 砂漠の季節風、ハムシーンが来ると、前日まで美しく咲いていた花が、一瞬にしてドライフラワーになってしまいます。 この当時の教会に、貧富の差が現れ、富んだ人たちが教会で教師の座をもらって、影響力を高めたいという、実にこの世的な問題が教会の中に現れていることにたいする、批判だと言う指摘もあります。これは、現代に至っても、気をつけなければならない問題だと思います。アメリカの教会によくあったのは、その教会での名士の席が、講壇の後ろに並び、階級を示すかのように、装飾を施した椅子がならんでいたりしました。

*12 試みに耐えている人は幸いである。試練を経たものとなって、神が自分を愛する人々に約束した、生命の冠を受けることになるからである。

  これはマタイによる福音書5章を思わせますね。しかし、この続きには、また護教的な雰囲気が戻って来ます。

*13   試みられる時、誰も、自分は神に試みられていると言ってはならない。神は諸悪の試みを受けえない方であるし、自身誰をも試みたりはなさらないからである。各自が自分の欲望によって引きずり出され、誘い出されて、試みられているのである。次いで、欲望がはらんで罪を産み、罪が成熟して死を生み出すのである。

   試みの時は、私たちの人生の中で必ず訪れますが、その時にも、主が共にいて下さいますように、そして、できれば、試みに遭わせないで下さい、という祈りは、主の祈りとして、主イエスから私たちが受けたものです。今日は、ルカによる福音書で、この主の祈りの箇所をお読みして、お話を終わります。

*ルカによる福音書11章1ー4節
また、彼がある場所で祈っていた際のことである。彼が祈りを中断した時、その弟子のある者が彼に対して言った、「主よ、私たちに祈るすべを教えて下さい。ヨハネも、その弟子たちも教えましたように」。そこで彼は彼らに言った、「あなたたちが祈る時は、次のように言いなさい。 
   『父よ、あなたの名が聖なるものとされますように。   
     あなたの王国が来ますように。
     私たちに必要なパンを、日々私たちに与えて下さい。
     また、私たちの罪をお赦し下さい。
     私たちに負債ある者をことごとく、
      私たち自身も赦しますから。
     そして、私たちを試みに遭わせないで下さい』」。

(マタイによる福音書6章7ー15節並行)


2009年 6月28日  礼拝
高橋  誠
 日本キリスト会川崎教会牧師

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