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日本キリスト会川崎教会コミュの生と死とを超えて MK12:18-27

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「生と死とを超えて」 

*マルコによる福音書12章18〜27節

  すると、サドカイ派の者たちが彼のもとにやって来る。この彼らは、甦りはないと言っている者たちである。そして彼にたずねて言った、「先生、モーセは私どもに次のように書き残しました、もしある人の兄が死に、妻を残したが子供を残さなかった場合、その弟がその妻を取り、自分の兄の子孫を残すようにとのことです。ところで七人の兄弟がいました。そして長男が妻を娶り、子孫を残さずに死にました。すると次男が彼女を娶りましたが、彼も子孫を残さずに死んでしまいました。そして三男も同じでした。結局、七人とも子孫を残さずに死にました。甦りにおいて、(つまり彼らが甦るとき、)彼女は彼らのうちのいったい誰の妻なのでしょう。というのも、七人とも彼女を妻にしたからです」。イエスは彼らに言った、「あなたたちは、聖書も神の力も知らないからこそ、そのように誤っているのではないか。なぜならば、死人のうちから甦る時は、彼らは娶らず、嫁がない。むしろ天の御使いたちのようだからだ。
死人たちが起こされることについては、あなたたちはモーセの書の『柴藪』のくだりで、神が彼にこう言われたのを読んだことがないのか、「この私がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。神は死人たちの神などではなく、生ける者たちの神だ。あなたたちはひどく誤っている」。
(平行箇所 ルカ4:1−13)
                                                                                                                      佐藤研訳


§「幸いだ、平和を造り出す者たち」

    今朝もまた春の美しい朝が与えられました。今年はまだ寒い日が多いですが、教会の庭にも山吹が咲き、 カイドウの莟が膨らみ、桜が咲こうとしています。 昨日は、鎌倉霊園にて、高橋秀良牧師の納骨式をいたしました。昨年末に天に召されてから、既に三ヶ月が経ちました。教会の墓地のまわりに集い、讃美歌を歌い、祈りました。昨年来、宝田恵一兄弟、古市美諸姉妹、そして秀良牧師と、私たちは三人の兄弟姉妹を見送りました。
    そして今日は召天者記念礼拝です。戦後、この地に川崎教会が与えられてから60年あまり、その間にこの教会に連なった方々で既に神に召された方々は17名いらっしゃいます。高田英語学園とともに、川崎教会の設立に尽力された高田敏子先生、初代牧師の尾島真治牧師、二代牧師、森豊吉牧師。長老として教会を支えた滝口卓治兄弟、教会の中で、お母さんのような存在だった滝口幹姉妹と大場ちよ姉妹。橋爪姉妹のご主人の橋爪正芳兄弟、古市美諸姉妹と古市友邦兄弟、今井八郎兄弟の奥様の今井チヨ子姉妹。晩年にご夫妻で教会に通われた園田俊吉兄弟と園田ミツ姉妹。長年長老として、また会計の担当として教会を支えた富田喜一郎兄弟。山本れい子姉妹のご両親、寶田一蔵兄弟、寶田あい姉妹と、お兄様で昨年天に召された宝田恵一兄弟、そして高橋秀良牧師です。
   直接よく知っている人については、共に過ごした特別な瞬間(とき)、生き生きとした思い出、私たちが学んだことを思い起こします。ひとりひとり、人生の歩みの中で、復活の主イエス・キリストに出会い、私たちに愛と信仰のバトンを受け継ぎました。信仰生活の中で、この世の価値観とは違う、常に本質を見つめる目を与えられます。

*マタイによる福音書5章3〜12節

幸いだ、乞食の心を持つ者たち(霊に於いて乞食である者たち/自分に誇り頼むも
のが一切ない者の意)、天の王国はその彼らのものである。
幸いだ、悲嘆にくれる者たち、その彼らこそ、慰められるであろう。
幸いだ、柔和な者たち、その彼らこそ、大地を継ぐであろう。
幸いだ、義に飢え渇く者たち、その彼らこそ、満ち足りるようにされるであろう。
幸いだ、憐れみ深い者たち、その彼らこそ、憐れみをうけるであろう。
幸いだ、心の清いものたち、その彼らこそ、神を見るであろう。
幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。
幸いだ、義のゆえに迫害されてきた者たち、天の王国は彼らのものである。
幸いだ、あなたたちは。人々が私のゆえにあなたたちを罵り、迫害し、あなたたち
に敵対して、あらゆる悪しきことを言うときは。
喜んでおれ、そして小踊りせよ、あなたたちの報いは天において多いからである。
実際、彼らは、あなたたち以前の預言者たちをも、そのように迫害したのである。
               並行箇所:ルカによる福音書6章20〜23節

    ここ三十年間にわたる川崎教会の礼拝の歴史は、常に、主イエスの福音を追い求めるものでした。そこで、原始キリスト教会まで立返り、それでも足りずに、歴史上の主イエスにまで立返るということでした。それは、主イエスがあまりにも、根源的に神の国の福音を実践したため、世界は2000年経っても、追いつくことができません。そこで、年を経るに従って、信仰を受け継ぐ者たちは少しずつ保守化していきます。そして、ローマ帝国がキリスト教を国教として認める頃には、人間社会の権力者たちに利用されるようにまでなってしまいます。
    主イエスご自身は、神をまっすぐに見据え、人を、それも小さい中の最も小さい者たちをまっすぐに見据えておらえました。ですから、律法主義というものから、かけ離れておりました。安息日に、井戸に落ちた人を助けてよいか、家畜ならどうか、などという議論をすることは、主イエスには愚かなことであり、また腹立たしいものでした。

*マルコによる福音書 2章27
   そして彼らに言うのであった、「安息日は人間のためにできたのであって、人間が安息日のためにできたのではない。だから、人の子は安息日の主でもあるのだ」。

   しかし、マタイによる福音書にもすでに、律法主義への回帰、保守化が現れているところがあります。それは、歴史上の主イエスの死後、ローマによる支配に対する反発から、激しい民族運動の嵐が吹き荒れます。この中で、迫害をおそれるなら、保守化して社会に適合できるようにする、ということになります。このようなことがわかるのは、聖書学の研究が進んだためです。

*マタイによる福音書5章17−22節
  私が律法や預言者たちを廃棄するために来た、と思ってはならない。廃棄するためではなく、満たすために来たのである。なぜなら、アーメン、私はあなたたちに言う、天と地が過ぎ行くまでは、
律法から一点一画も過ぎ行くことは決してなく、すべてが成るであろう。したがって、これらの最も小さい掟の一つですら破棄し、そのように人々にも教える者は、天の王国において最も小さい者と呼ばるであろう。しかし、これらの最も小さい掟を行い、そのように人々にも教える者、その者こそ天の王国においては大いなる者と呼ばれるであろう。たしかに私はあなたたちに言う、あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ人たちのそれにまさっていなければ、あなたたちは決して天の王国には入ることはないであろう。

   先ほどのマルコによる福音書のイエス像とまったく違うイエス像ですよね。主イエスの言葉は短く、力強く核心をついています。

*マルコによる福音書3章 4節
「安息日に許されているのは善をなすことか、悪をなすことか、命を救うことか、殺すことか」

   先日、ある仏教の学者が、同様のことを言っていました。

・釈迦はたった一人、菩提樹の下に坐って、悟りを開いた。そのあと布教の旅に出て、まとめて5人を弟子にした。これで総勢6名。これが仏教の出発点である。それからも、10人、100人と次第に数は増えて行ったが、インド全域からみれば微々たる豆粒団体。そんな状態で釈迦は亡くなり、あとを継いだ弟子たちの力で、数百年かけてインド全体に広がった。それからさらに2000年。仏教は、今や世界的な普遍宗教である。
  だがそれも裏返して言えば、釈迦の教えが、時代の塵にまみれていく歴史でもある。世界各地へ広がり続ける中で、釈迦が説いたおおもとの教えは次第に変形し、本来の道から逸れて行ったのだ。その流れを遡って、なんとかもとの姿を今に復元したい。それが私の望みである。佐々木閑

   学びの姿勢、探求の姿勢として、大変共通していますね。

§「生と死とを超えて」 

   そして、興味深いのは、主イエスの死生観です。ヨハネによる福音書(11:25ー27 )には、「 私は甦りであり、生命である。私を信じている人は、たとえ死んでも生きる」とあります。この場合、死んでいるのは、ただ生物として生きているだけ、この世の価値観にとらわれて、流されている人々の状態を言っています。そして、生きるのは、神の国の福音に生きる人々です。ですから、マルコによる福音書に、 「死人たちが起こされることについては、あなたたちはモーセの書の『柴藪』のくだりで、神が彼にこう言われたのを読んだことがないのか、『この私がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。神は死人たちの神などではなく、生ける者たちの神だ。あなたたちはひどく誤っている』」とあるように、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、主イエスからみると、生きているのです。
    現代風に言ったら、生きて行く上で、大切な影響を与え続けていることがまさに生きていることだと言い換えることができるかもしれません。そして、私たちの心の中では、今、生物学的に生きている人とも、もはや召された人とも、対話をすることができるのです。
   そして、もちろん、私たちともっとも大きな存在としてつながっているのが、主イエスです。主イエスは、人間としては、十字架によって殺されてしまいましたが、私たちに、もはや死んだ歴史上の、過去に生きた人として、見なすことをお許しになりませんでした。
   ルカによる福音書によると、イエスの亡骸を葬った墓にいた天使は、マグダラのマリヤたちに、このように告げました。

*ルカによる福音書24:5b−6a
 あなたたちはなぜ、生ける者を死人たちのところで探すのか。彼はここにはいない。まさに彼は起こされたのだ。

   主は、いまも共にいてくださり、私たちを導いていて下さるのです。

*マタイによる福音書28:20
 私があなたたちに指示したすべてのことを守るように、彼らに教えよ。そして見よ、この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいるのである。

*詩 篇  23篇
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。

                                                                                                           
 2009年 3月29日
召天者記念礼拝礼拝
日本キリスト会川崎教会牧師
高橋  誠

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