ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本キリスト会川崎教会コミュの荒野の試み MK1:12-13

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「荒野の試み」 

*マルコによる福音書 1章12ー13節

12 すると、霊がすぐに彼を荒野に送り出す。そこで彼は、サタンによって試みられ続けながら、四十日間荒野にいた。そして彼は、野獣たち共におり、御使いたちが彼に仕えていた。

*マタイによる福音書 4章1−11節
 その後、イエスは霊によって荒野に導き上げられた。悪魔によって試みられるためである。そして彼は、四十日四十夜断食し、その後飢えた。すると試みる者がやって来て、彼に言った、「もしお前が神の子なら、これらの石にパンになるように命じてみろ」。しかし彼は答えて言った、「こう書かれている、『人はパンのみで生きるのではない。むしろ、神の口から出て来る一つ一つの言葉で生きる』
5 その後、悪魔は彼を聖なる都に連れて来る。そして、彼を神殿境内の屋根の端に据えた。そして彼に言う、「もしお前が神の子なら、下へ身を投じてみよ。なぜなら、次のように書かれているからだ、『彼はあなたのために、自分の御使いたちに指示を与えるであろう、すると彼らは、あなたを手で受けとめるであろう、あなたがその足を石に打ちつけることのないように』」。
 イエスは彼に言った、「再びこう書かれている、『あなたは、あなたの神、主をあえて試みることはないであろう』」。
8 悪魔は再び彼をきわめて高い山に連れて行き、彼にこの世のすべての王国とそれらの持つ栄華とを見せる。そして彼に言った、「これらすべてをお前に与えよう、もしもお前が跪いて俺を伏し拝むなら」。そのとき、イエスは彼に言う、「サタンよ、失せろ。実にこう書かれている、『あなたは、あなたの神、主をこそ伏し拝み、彼にのみ仕えるであろう』」。
11 その後、悪魔は彼を離れる。そして見よ、御使いたちがやって来た。そして彼に仕え始めた。
(平行箇所 ルカ4:1−13)                                
                                                                                                                      佐藤研訳

§「共に生きる、という思い」

   今年も、桜のたよりが聞かれる時期になりました。昨年の今ごろには、宝田恵一兄弟の納骨式がありました。春の一日、鎌倉霊園の教会墓地に集い、祈り、讃美をして、故人と共に生きたそれぞれの人生を思い起こし、分かち合う、心温まるひとときでした。
  その時は思いもしませんでしたが、ほぼ一年後の今週の土曜日に、同じ場所で高橋秀良牧師の納骨式を行います。主にある、愛と平和に満ちたひとときとなりますように。
  そして、その翌日、来週の日曜日は、召天者記念礼拝です。イースターを前に、私たちの身の回りにいて、私たちの信仰を育み、人生の先達として生きた人々と、共に過ごした時間、分かち合ったことに思いを馳せ、感謝をする機会です。
   今年は、日本でのプロテスタント宣教150周年記念として、様々な催しが企画されているようですが、このほんの150年間には、大きな時代の変化がありました。その時代の流れの途上で、様々な人々が、主イエスの伝えて下さった神の国の福音に触れ、その人生を神と共に歩んだ人々の歴史は、現代に生きる私たちまで、脈々と伝えられて来たものです。
   私たちと同様に、あるいは、軍国主義の時代は、もっとずっと福音に生きることは難しかったでしょう。1939年に、宗教団体法という法律が生まれました。これは、すべての宗教団体がそれぞれの宗教ごとにひとつの団体にまとまり、キリスト教会といえども、礼拝の始めに、天皇の住む、宮城に向かって遥拝し、戦争協力を求めるないようでした。日本基督教団は、この軍部の要請によって、彼らの意向を伝達し、教会を把握し、管理するために組織されたことが、はじまりです。しかし、この教団の結成に、ただ一人反対意見を述べて、この教団に加わらなかった牧師が、私たちの教会を作った尾島真治でありました。大変勇気のある行動ですね。私たちは、社会の中で、これは間違っていると、声を上げなければならないを迎えることがあります。
   平和憲法、憲法九条の改定を求める声もそうですし、先週も触れましたが、06年の教育基本法の改定も、声を挙げて批判をしなければならないものだと思います。
    
・教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。(旧教育基本法)

・ 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものである。(06年に改定された教育基本法)

   先週、 「『不当な支配に服することなく』という言葉は残っていますが、 『国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの』という、力強く、福音の香りをほのかに感じる表現が、『この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの』」いう、あたりさわりはないが、教育者の自由な裁量を規制できうるような表現にかわってしまいました」、と申し上げましたが、最も大きな違いは、教育を行うにあたって、国民に責任を負い、国民の方を向いて教育するべきだ、ということと、(国民ではなく)法律の方を向いて、(その法律がたとえどのように保守的であったり、懐古的であったり、偏狭であったりしても)その法律の遵守のみを考えて教育を行え、というほどの違いです。
    ユダヤ教の律法と、この法律の改定とには、大きな意味合いの違いがありますが、これは律法主義として主イエスに批判されている人々の考え方と似ていますね。たとえば、安息日は、人々や家畜を休ませるためにあった、神のよって与えられたはずなのに、その安息日の規定を守ることだけが大切なこととして、その規定が一人歩きをはじめるのです。そして、人の方を向くことをやめてしまう人々がでてくるのです。主イエスは、このような人たちを痛烈な皮肉で批判しています。

*マルコによる福音書3章 4節
「安息日に許されているのは善をなすことか、悪をなすことか、命を救うことか、殺すことか」(

*マルコによる福音書 2章23−27
   さて、彼が安息日に麦畑を通って行くということが生じた。すると彼の弟子たちが、穂を摘みながら進み始めた。するとファリサイ人たちは、彼に言い出した。「見ろ、彼らはなぜ安息日に許されていないことをしているのか」。そこで彼は彼らに言う、「お前たちはかつてダビデが、彼自身も彼と共にいた者たちも困り果てたとき、つまり彼らが飢えた時、何をしたか、一度も読んだことがないのか。すなわちいかにして彼が大祭司アビアタルの時代に神の家に入り、祭司たちの他は誰にも食べることが許されていない供え(そなえ)のパンを食べ、また一緒にいる者たちにも与えたか、ということだ」。
   そして彼らに言うのであった、「安息日は人間のためにできたのであって、人間が安息日のためにできたのではない。だから、人の子は安息日の主でもあるのだ」。

§「荒野の試み」 

   さて、今日の聖書箇所は、主イエスが洗礼者ヨハネに洗礼を受けた後、荒野に修行に出て、そこでサタンの試みを受ける、という場面です。マルコによる福音書では、この洗礼と、そして主イエスの福音伝道活動の開始との間に、ほんの一言、書き添えられています。

*マルコによる福音書 1章12ー13節
  すると、霊がすぐに彼を荒野に送り出す。そこで彼は、サタンによって試みられ続けながら、四十日間荒野にいた。そして彼は、野獣たち共におり、御使いたちが彼に仕えていた。

   聖書学者の中には、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、彼の弟子として彼の教団に加わり、修行をしていたことを書くかわりに、この伝承が挿入されていると考える人々もいます。確かに、ヨハネの教団は、1世紀の終わり頃までは続いていたようです。そして、しばらくの間、イエスを記念する教団と、ヨハネを記念する教団とは、ライバル関係にあったようですから、「そして彼は宣教して言った、『私よりも強い者が私の後から来る。私はその者の皮ぞうりの紐をかがんで解く値打ちもない。私はお前たちに水で浸礼(バプテスマ)を施した。しかし彼こそは、お前たちに聖霊によって浸礼(バプテスマ)を施すだろう」という、7節の記述も、ヨハネの教団を強く意識した表現かも知れません。
   マタイによる福音書とルカによる福音書では、この荒野の試みの伝承はずっと膨らまされたものになっていて、具体的にどのような試みがあったのかを記しています。

*マタイによる福音書 4章1−4節
 その後、イエスは霊によって荒野に導き上げられた。悪魔によって試みられるためである。そして彼は、四十日四十夜断食し、その後飢えた。すると試みる者がやって来て、彼に言った、「もしお前が神の子なら、これらの石にパンになるように命じてみろ」。しかし彼は答えて言った、「こう書かれている、『人はパンのみで生きるのではない。むしろ、神の口から出て来る一つ一つの言葉で生きる』

     『人はパンのみで生きるのではない。むしろ、神の口から出て来る一つ一つの言葉で生きる』
は申命記8章3節の引用ですが、主イエスが語ることによって、新たな命が生まれているようです。これは、実感しますよね。生物として生きていれば、生きていると言えるのか。福音のなかに生きてこそ、人は生きているのだ、ということを。私は甦りであり、生命である。私を信じている人は、たとえ死んでも生きる」(ヨハネによる福音書11:25ー27) さて、ネゲブの砂漠には、パンの形の丸い石がたくさんある場所があるそうです。これが、エピソードを生む素地のひとつなのかもしれませんね。

*マタイによる福音書 4章5−7節
5 その後、悪魔は彼を聖なる都に連れて来る。そして、彼を神殿境内の屋根の端に据えた。そして彼に言う、「もしお前が神の子なら、下へ身を投じてみよ。なぜなら、次のように書かれているからだ、『彼はあなたのために、自分の御使いたちに指示を与えるであろう、すると彼らは、あなたを手で受けとめるであろう、あなたがその足を石に打ちつけることのないように』」。
 イエスは彼に言った、「再びこう書かれている、『あなたは、あなたの神、主をあえて試みることはないであろう』」。

   この箇所も、主イエスの生き方を反映していますね。派手な奇跡によって、人の関心を集めようとすることはありませんでした。そして、神殿を利用してその権威を後ろ楯に、行動されることもありませんでした。

*マタイによる福音書 4章8−11節
8 悪魔は再び彼をきわめて高い山に連れて行き、彼にこの世のすべての王国とそれらの持つ栄華とを見せる。そして彼に言った、「これらすべてをお前に与えよう、もしもお前が跪いて俺を伏し拝むなら」。そのとき、イエスは彼に言う、「サタンよ、失せろ。実にこう書かれている、『あなたは、あなたの神、主をこそ伏し拝み、彼にのみ仕えるであろう』」。
11 その後、悪魔は彼を離れる。そして見よ、御使いたちがやって来た。そして彼に仕え始めた。
(平行箇所 ルカ4:1−13)  

   この姿勢もまた、人間社会の政治家などが取る道なのかも知れません。「いかなる者も、二人の主(あるじ)に兼ね仕えることはできない。なぜなら、一方を憎み、他方を愛するだろうから。あるいは一方の世話はするが、他方はこれを軽蔑するだろうから。あなたたちは、神とマモンとに兼ね仕えることはできない」(マタイによる福音書6:24) これもまさに、主イエスが選ばなかった道でした。

*詩 篇  23篇
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。

                                                                                                     2009年 3月22日礼拝
日本キリスト会川崎教会牧師
高橋  誠

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本キリスト会川崎教会 更新情報

日本キリスト会川崎教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング