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「英語で悩むあなたのために」コミュのどうなる?どうする?---「英語で授業」

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ニュース:<教科書検定>「英語で授業」基本に 現場に戸惑い
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=voice&id=2371779

 文部科学省は、今春から完全実施される高校の新学習指導要領に「英語の授業は英語で行うことを基本とする」という新ルールを盛り込んだ。26日に検定結果が公表された英語教科書も、多くがスピーチやディベートなど「コミュニケーション重視」を前面に出し、日本語の記述を減らしている。だが、教員からは指導の不安や疑問の声が聞かれ、実際には「文法重視」の従来型教科書の人気が高まるという皮肉な現象も起きている。

(中略)

 ◇教師の意識や力量が問われる

 鳥飼玖美子(とりかいくみこ)・立教大特任教授(英語教育論)の話 会話や文書で英語を使うには文法など言語構造の知識が不可欠。教科書に文法の説明がほしい教師の気持ちは理解できるが、文法を日本語で一方的に解説するだけで生徒が英語を使えるようにならないのも明らかだ。使える英語の習得のために文法を教えるという姿勢が大切で、教師の意識や力量が問われる。

==============

 この問題について皆で自由に意見を交換しあいましょう。

コメント(53)

>>[5]

 英語を母国語とされるバイリンガルの方のお話を是非沢山聞かせていただきたいと兼ねてから強く思っておりました。


>アメリカへ行くとみんなスペイン語でスペイン語を勉強しています。


 アメリカでのスペイン語授業は1クラス何人くらいで行われているのでしょうか?
 また成績評価はどのように行われていますか?

 日本の学校には非常に困った成績評価システムが存在します。
 それは1クラスの生徒について、5段階の5と1にあたる評価を全体の1割「つけなければならない」というものです。そして1割以上にその成績をつけてもならないのです。また全員の評価平均は、10段階換算で7.5±0.5に調整されなければならず、すなわち、全員が満点取ったら先生は大いに困るんです。

 以前、あるクラスを担当し、中間テストの平均点が92点になったことがあります。創意工夫した教材、プリントを与え、生徒の達成度を注意深く観察し、おちこぼれを出さないように徹底指導した結果として喜んだのですが、同僚の教員からは「あーあ、それやると困るよー」と冷たい視線を浴びました。
 

>とくにlisteningに関しては生まれてすぐ聞かせるのが良いとおもいます私の娘はアメリカに行ったことないのに英語力はアメリカ人と全く一緒です。


 特定の家庭環境におけるバイリンガル教育と、一般的な日本人家庭での外国語教育は必ずしも同等に扱えないかとは思います。教育熱心な親御さんたちは、子供がまた幼いころからさまざまな英語教材を与えたり苦心されていますが、生きた英語環境として周囲に誰もいない場合、週1回程度の英会話教室に通った成果が学校で生かされている例が極めて少ないのが現状です。

 私の場合、逆に子供にとっての唯一の日本語環境として、いかにして子供に日本語を身につけてもらおうかと悩みつづけています。現地の語学学校経営者のアドバイスで「分かっても分からなくてもいいから日本語で話しかけ続けなさい」と言われて、極力それを守ろうとはしているのですが、1日の大半を共にすごすのは母親なので、3歳になった今、彼がわかるのは顔や体の部分についてのいくつかの名詞程度です。

 さらに日本語では平仮名、カタカナ、漢字といった文字のハードルも高いため、とても父親1人が話しかけるだけでは将来、日本語担当のエージェントにもなれるとは思えません。それでも彼には日本語ネイティブが身近にいるだけ恵まれた環境とは言えるでしょうが。

 日本の学校で英語の話せる英語教員が必ずしも多くない環境の中、日本語の習得度もまだ不完全な状態で、さらに1週間に数時間英語と接するだけで、「英語による英語の授業」はどれくらいの効果が期待できるとお考えでしょうか?すでに指摘されているさまざまな問題・課題をどう乗り越えていけばよいのでしょうか。

 大きな問題として、「大学受験」がありますが、口頭会話もままならない高校生に、学術論文なみの英語を和訳させたりする試験問題がある限り、高校での英語指導はそういう「目的」に合わせざると得ないという悲しい実情もあるかと思うのですが、どう改善されればよいと思われますか?


(気づいた誤字脱字を修正して再投稿しました)
>>[15]
 スペイン語に関しては勉強したわけではないので詳しいことはわかりませんが、ただ子供は4技能のうちlisteningを初めに習得するのではないでしょうか。そう実感したしたのは教会ででした。ほとんどのフィリピン人が英米人と同等のlistening力を持っていたからでした、ただ発音にかんしてはクセのあるものでした、なかにはきれいな英語を話すフィリピン人もいました。しかしきれいな英語を話すフィリピン人の語法も「フィリピン英語」と言い切ってもよいのでしょうか。
 あるときフィリピン人の母親が自分の子に My mommy was dead.と繰り返し言ってたのに、その子供は全くその英語が理解できないという光景を目撃しました。あまりinputしなかったのでしょう。
 会話面にかんしては、たとえば子供が Igoed to school yesterday.といえば私は、goedではなく wentと訂正しています。
>>[15]
わたしチョムスキーのuniversal grammarの考えが言語学の世界で崩れかかっているのではとおもってます。最近、読んだSWANの本には、いかにたくさんの言語を聞かせるかというかんがえが主流になってきたようです。私の娘はあと、日本語と英語のバランスです。
英語の先生が英語で授業をするのはやはり無理があるように感じます。
そんな事するなら、むしろ「各校にnativeを一人持ってくる。」という目標にした方が現実的で効果的な気がします?
>>[19]、

ども!
しかし、英語にはほんと悩みます!
自分の英語の先生の半分は「映画」です!
>>[20] やはりnativeをおくべきですね。日本人あるいは英語を母語としない先生では、まず発音が完璧ではないし、冠詞などを使いこなせる人がほぼ皆無です。
 「映画」は最高の教材です。
>>[21]、
おはようございます!
昨日はお返事できなくてすみません。
正直言っちゃうと、やはり英語の先生の中で生で英語を使いこなせる人がそんなに多くないと思います。
昔の自分の英語教師は数学の先生は全然英語が解ってないのに、外国に行くと私より話せるといっていました。それはつまり、数学の先生は3歳児レベルの英語ははなせるが、英語の先生は0歳児レベルだという事だと思います。考えながら英語を話す人の英語聞いても、多分英語が上手くなる事はないでしょう?
でももっと恐ろしいことは日本を引っ張っていく政治家リーダー達が、そうすれば英語が上手くなると考えているところでしょう。空恐ろしいです。この国はどこへ行ってしまうんでしょうか・・・??
これまで幾度となく日本の英語教育は「改革」が行われてきました。
それはとりもなおさず、中学、高校、大学の通算10年間も英語を学びながら能力的に実用性に欠けるものしか得られない学習者が多く存在したからです。

もともと日本に英語教育がもたらされたのは英語圏の文化や技術を吸収しようとして、主に文献の訳読がその目的だったこともあり、「発音」や「聞き取り」という音声的側面が極端に軽視されていました。

初期においては「漢文式訳読法」まで用いられていたことがあり、たとえば
This is a pen.の「is」と「a pen」の間に「返り点」をうち、「此は一本のペン也」と読ませたことさえあります。

当時の英語教員は英語の発音を学ぶ機会さえなく、当然発音の指導などできるものではありませんでした。それにもかかわらず英語教育初期の時代においてきわめて高度な英文書籍の翻訳など現代の英語教育者ですら困難な事業を成し遂げた人も多く存在しました。

私が初めて英語を習い始めたのは中学1年生のときであり、もう40年も前のことになりますが、当時は土曜日まで授業があったことに加え、英語は週5時間の授業があり、1学期の最初に授業時間を割いて「発音記号」を一通り学んだほか、ブロック対、筆記体の書き方まで授業の中で学んだものでした。

教科書は文法項目の難易度に従った配列となっており、基礎的なことから徐々に高度な内容へと体系的に編纂されていた印象を今でも持っています。当時すでに大変発音の綺麗な先生も(学年に1人くらい)存在し、和訳中心の授業ではなく、「英語が使えるようになる」ことをしっかりと生徒の目的意識に植えつけてくれた立派な先生もいました。

私自身が極めて恵まれていたのは、中学最初に英語を習ったときの先生が「文法はルールではない。英文法は心理学だと思って学びなさい」という生涯に通じる大切な指針を与えてくれたことであり、その指針は今なお変わっていません。しかし、そういう実用性を重んじる英語の授業をしてくれる先生ばかりではなかったようで、高校に入ってから他の中学出身の生徒たちの英語の学び方があまりに違う、そしていかにも役に立たなさそうで、遠回りな勉強の仕方をしていることにむしろ驚きを感じました。

高校は普通の進学校だったので、英文を読んで和訳するという、どこでもやっているような普通の授業であり、初歩的な会話もままならない生徒たちに高度な内容の論説や哲学的な長文を和訳させていることに強い疑問を感じつつも、「要するにそういう習っているレベルの英文を自分で話せ、書けるようになればいいのだ」と自らに言い聞かせて、そういうスタンスで学びました。

教材や教え方が実用的な技能を指向していなくとも「学び方」が正しければ英語の技能は備わります。もちろん、教える側として「適切な教材」と「適切な教授法」をもって望むことが重要であることはいうまでもありません。

その後、文法偏重で実用性の乏しい英語教育への反省の声が上がるようになり、高校でも「口語教本」や「オーラルコミュニケーション」などが導入されましたが、授業の進め方は何も変わることがなく、結果として「前より簡単な英文を和訳してるだけ」に終始していたのです。
たとえ高校の教材がより実用的技能を指向したものになっても大学受験の出題傾向が変わっていなかったため、結局何も変わっていなかったのです。

その後「ゆとり教育」なるものが導入され、かつて週5回習えた英語の授業がわずか週3回にまで減らされました。そのため授業で発音や筆記体を教える「ゆとり」などなくなり、卒業までに覚えられる単語の数もぐっと減り、生徒の学力も実技能力もさらに低下することになります。

私が神奈川県の県立高校で英語教員だったころ、大勢のALTが雇用されましたが、とても各校1名を配属できるにはいたらず、県の教育センターに通常はつめながら、学校側の要請によって月1日程度、あちこちの教室に出向くという程度でした。
 
中にはネイティブを常駐させた高校もありましたが、全校に1名のネイティブがいることを最大限に活用できていたのかは疑問です。実際その学校の生徒たちの英語技能が向上したという結果を聞きません。

自分自身が英語教員だったころの率直な印象としては、英語の話せる教員は1つの高校に1名か2名だったという気がします。とある非常勤講師は、英語ネイティブを迎えたときの自己紹介として「アイ・アム・ア・アルバイト・ティーチャー」と言ったのを聞いて目が丸くなりました。

ちなみに神奈川県の英語教員の採用試験には「英語による口頭試問」もあったのですよ。(ただし試験管が日本語で質問して、それに受験者が英語で答えるというものでした)

これまで繰り返されてきた「改革」は、そのたびに教材の質を落とし、体系的英文法を学ぶ機会を奪い、「英語の学び方を知らないお偉方がシステムだけを作り上げ」てきたようにしか思えません。

今回、高校の授業を英語で行うという方向性それ自体はきわめて好ましいものであり、適切に授業が行われれば、生徒の技能向上が期待できると思います。しかし、

1、1クラス40人以上の生徒を対象に何ができるのか?
2、ビジネスレベルの英語技能を備えない教員が大半である現場で何ができるのか?
3、週に1回程度しかネイティブに英語を習えない環境で何ができるのか?
4、母音や子音の発音さえ丁寧に習ったことのない生徒が文章を適切に読めるのか?
5、基礎的な文法体系を学ばずにどうやってスピーチやディベートを展開するのか?
6、大学受験の出題傾向が変わらない場合、進学者を減らしてまで英会話の授業をする高校が果たしてあるのか?

などなど問題は山積しています。

こういった問題は小学校での英語教育導入についても同じようなことがあてはまるでしょう。

理念としては理解できる。
しかし、それをいかにして実現するのかについての具体的な方策がないまま、とりあえず見切り発車している印象をぬぐえないのです。

しかし、英語教育は変わらなければならない。確かに今のままではいけない。
私が自らのサイトでいくら英語の学び方、教え方についての問題を提起しても、1日せいぜい300のアクセスであり、そのほとんどは同じ人がページを切り替える重複カウントでしょうから、正味100人もアクセスはないのではないかと思っています。

加えて「無料のコンテンツしか見ない」人が圧倒的であり、さらによい内容を盛り込みたくても、それを時間的、経済的に推し進める力を得ることは困難です。

一方で、「聞き流すだけ」とかの安易な教材の宣伝があふれ、mixiでも英語関連コミュニティには生徒集めの宣伝投稿があちこちにコピペでマルチ投稿されています。そういう業者に限って、質疑掲示板で学習者の質問に答えている例を見ません。

今、日本の英語教育は「よい方向」へと舵を切ろうと努力していると思います。
しかし、数多く残る問題を1つ1つ、現実的に乗り越えていかなければなりません。

そのためには「何が課題なのか?」と「それをどう解決していけるのか」をつぶさに、多くの人が考え、意見を交し合っていくことが大切でしょう。
>>[24]、

実際の教育の現場大変ですね。
実は自分はNHK基礎英語が結構いいのではと思っています。
英語がほとんど話せない状態で留学しなければならなくなり、一年間基礎英語I-IIIを続けました。Iはさほど問題ありませんでしたが、IIとIIIは難しかったので、二回づつ聞きました。その時に、雑談は全部書き取るようにして、aなのかtheなのか随分迷って何回も聞きました。
実は自分は学生時代に英語と言う教科が嫌いだったのですが、留学先で各国の人がいるので、世界の事を知りたくて、ろくに話せない英語でガンガン話しまくりました。これがとてもいい経験になっていると思います。実際にはaでもtheでも、間違える事もありましたが、外人が話しているという感覚で相手は聞いてくれるので、相手に意味をくみ取られない事はめったにありませんでした。単語が解らないと、自分の言える別の言葉で説明する事を覚え、しまいには解らない単語は、「ねぇ、ねぇ、あれなんていうんだっけ、こうこうこういうもの?」と相手に聞いてしまえばいいんだというところまで行き、また、言葉が通じなければ絵で書いて説明してしまえばいいというところまでいきました。それでも外国の人と話すことがとても面白かった。はじめて英語が好きになりました。
この時、学校では習わなかった、英語は実用的なものなんだという感覚が解り、相手とコミュニケーションをとりたかったら、英語が話せようとなかろうと、どんどん当たっていくしかないという事を学びました。
この時一年間やった基礎英語は結構ためになっていたんだなぁという事も解りました。
今は逆に文法をちゃんとやり直した方がいいとかなり反省しています。
しかし、今やればかなり自分の英語力はupするんじゃないかという実感もあります。
とにかく、学生さんには英語を話すと楽しいという事を知ってほしいです!
まぁ、それが一番素敵な事なのではないかと思っています!
あまり英語をしゃべれない先生と英語で授業をしあっても楽しくない。
それなら、話をしてくれる、ネイティブが一人いた方が、よっぽど楽しいと思います。
授業なんてやらないで、ただ雑談するだけでいいと思います。楽しければきっとみんな自然に学ぶんじゃないかなぁ?
 最近は、不要になった文法も多いです。
 your mother is no less beatiful than mine.
your mother is not less beautiful than mine.
このふたつの文はnativeなら理解できるものであり、はたして、こんな論文に書くような英文を覚えるひつようであろのだろうか。
 いぜん英文法のコミュでらうんどさんがplay guitarも使われるとおっしゃられてましたが、私が英文法の本をみてもplay the guitarいがいは間違いといった表記で、私自身にしてみたら、celloひとつとってもplay cello,play his celloとコンテクストにより、いろいろな英文がでてくるし、policeという単語でも、かならず、the policeとtheをつけなければいけないとなってるが,「警察に通報する」はreport to policeのほうが多いです。
 わたしがおもうに、日本の英文法もかきかえなければ?
>>[25]


 英語に限らずどんな科目でも「学習者の動機付け、目的意識の啓発」こそが指導の根幹であり、それがなされさえすれば指導は半分以上成功したようなものです。

 たとえ英語ネイティブが毎日授業してくれても、英語学習の動機がなく、目的を持たない生徒には退屈でしかありません。私が高校教員だったころにも、教室から泣いて逃げ出したネイティブがどれだけいたことか。最初の1、2時間だけは物珍しさから注目されるのですが、すぐに「何を言っているのか全然わからない」となり、映画やゲームを与えても生徒は勝手におしゃべりばかり。

 ASLとして日本に来ている英語ネイティブは教育の専門家ではなく、英語教育法も習っていません。あるものは建築学専攻であり、あるものはバンドでドラムを叩いているとか。文法の質問をされても答えようがないんです。日本語教育を学んだことのない日本人が「日本語ネイティブ」だというだけで非日本人に日本語を教えれるかを考えてみれば、その実効性は想像がつくでしょう。

 「英語教員より数学教員の方が英語が話せた」というエピソードは、英語教員としては正しい英語を使わなければならないというプレッシャー、思い込みが邪魔をしてリアルタイムのコミュニケーションに支障をきたすのに対して「間違えても誰も不思議に思わない」という数学教員の方が気楽に会話に入れたのも1つでしょう。

 NHKの英語講座などは教材の完成度が非常に高いと感じます。
 無理のない分量の中に、適切な重点事項がうまく盛り込まれており、それでいて長期的には基礎文法の体系を網羅する狙いがしっかりあります。

 今後の日本の高校英語の教科書などは、NHKの基礎英語や、フィリピンのように英語を第2言語とする国の教科書をもっと参考にするべきかと感じます。
>>[26]

no/not more ... than
no/not less ....than
については私のサイトでも解説しています。

http://roundsquaretriangle.web.fc2.com/text/011_08.html#002

> 私自身、高校生のころは「not more than = at most」、「no more than =only」、「not less than=at least」、「no less than=as much as」という機械的暗記で事をしのいだことがあります。でも「根拠のない暗記」はすぐ忘れてしまうんですね。自らの言葉になりきっておらず、感覚として取り込まれていないため、「無条件暗記」を強いられてしまうのは言語の学習においては最も避けたいことです。

 高校でもこの種の構文は「大学受験へ向けての必須事項」であり必ずどこかで習うものですが、私が高校生のころも、これらの「紛らわしい(見かけが似ている)」構文は感覚的に区別がつかず試験直前の暗記再確認の1つでした。

 そのころの私と同じ苦労をしている学生を今でも多く見かけるため、「感覚的に思わずこれらの違いが実感できる」ための考え方を詳説しました。

 しかし、この解説の終わりごろに次のようにも述べました。

>このサイトでこうして解説しているのは、これらの表現を学校でも習うためその理解を助ける必要があり、受験などでは生徒がすでに達している実用レベルを度外視した設問があるため、その対策としてです。4技能のバランスという観点から言うと、本当はこのような文学的表現は「話す、書く、聞き取る」という技能レベルとして通常目標とされるものに比べて高すぎる感じもします。もちろんできるに越したことはなく、学習者側の姿勢として「このレベルまで自己表現できるようになる」とがんばっていただくことが理想ではあり、それを志す方の指針としていただける解説を私としても心がけています。しかし実用技能というのは基礎なしには伸びませんし、一足飛びに基礎的表現を身に付けないまま、文学表現を覚えても上達実感にはなかなかつながりません。
 このあたりは日本の英語教育の「教材選定」、「学習項目の精選」に関する課題だと思います。

>学校や塾で、これら高度な比較表現などを含んだ英文を「和訳」させたり「穴埋め問題」、「並べ替え問題」を解かせている教員、講師の方々は、果たしてそのレベルの英文で日頃意思疎通をしているのでしょうか。書いたり話したりするのに用いているのでしょうか。そういう現実に疑問を感じていただきたいのです。


 簡単な英会話もままならない生徒に論文なみの英文を和訳させるのは「平仮名の読めない外国人に漢字を教え込もうとする」ようなものです。教材の自然で論理的な構成順序と学習者の到達度に応じた指導をもっと真剣に工夫する必要があるでしょう。

 単純時制も使いこなせない生徒に「dead grammar」と呼ばれる仮定法構文をなぜ和訳させるのか?

 ちなみに中学で簡単な文を習い、次にその否定文を習いますね。

I go to school. > I don't go to school.
He goes to school. > He doesn't go to school.

 中学のころ、これらを習ったとき「はて?このdon'tはどこから突然現れたのだろう?」などと疑問に思ったものです。その疑問が解けたのは高校に入って強調文を習ってからです。

I go to school.
I do go to school.
I don't go to school.

He goes to school.
He does go to school.
He doesn't go to school.

 それまで「go」の前に「don't」が突然現れたと思っていたのが、「現在形のgo」が「現在形do + 原形go」の合体したもので、「go(現在形)」が「do go」に分離してから「do」の方に否定のnotがつくと初めて実感しました。

 中学の初歩段階でも「do/does + 原形」による強調パターンを先に教えるべきなんです。否定文も疑問文も「通常の表現とは違う一種の強調」だからこそ、「現在形do/does」と「原形go」に分離するステップを経て、notがついたり、語順が入れ替わったりします。難しい理論より

http://roundsquaretriangle.web.fc2.com/text/000_grammar_sample_page.html

 このように小道具を使って「文法を目で見て手で触れる」次元に引きずりおろして解説すると抽象思考に弱い中学生段階でも、イメージとして納得できます。そういう指導の順序についての配慮や指導法の工夫がまだまだ足りないと感じます。


 「play guitar」については、塾講師や中学の教員の方に尋ねてみたところ「高校入試で play the guitar としないと不正解にされる恐れがあるから」との理由で、普段の指導でも小テストなどでも「theがないと×」としているそうです。実に情けない現状があります。

 2009年時点での「楽器のtheの傾向」について
http://roundsquaretriangle.web.fc2.com/text/005_02.html#180
 に書いてあります。英米とも「theなし」が多数を占めており、すでに「標準化」しています。標準的な現代英語を「不正解」とするような高校はこちらから願い下げすればよいのです。

 日本で市販されている英文法関連の参考書は確かにすでに古いものになっています。
 そもそも執筆方針が古い。
 他の言語の入門書なら必ずといってよいほど、冒頭に「発音」に関する解説がありますが、英語だけはなぜかない。音声という言語の本質、実体を無視して「和訳テクニック」ばかりに終始している感があります。そういう執筆スタンスから変えていかないとだめでしょう。定番とされている有名な書籍でさえ「時制の一致」を取り上げていたりします。そんなルールは存在しないのに。






 「映画は最高の英語教材」

 これは本当だと思います。
 サイトの「まえがき」にあたる「英語学習全般」の中でもこれについて触れています。

http://roundsquaretriangle.web.fc2.com/text/00_01.html#011

 私が大学生のころ、まだレンタルビデオ店もなく、洋画は映画館で見るほかありませんでした。貧乏学生にとって1本の映画を見る出費は馬鹿にならず、せいぜい月1回、オールナイト興行の映画を夕方から朝まで繰り返しみるのが精一杯でした。

 当時、大学のゼミの研究室に「スクリーン・イングリッシュ」という月刊誌が置いてあり、それはリアルタイムに話題の作品を数点取り上げ、全編ではないもののシナリオの抜粋が和英対訳で収録されていました。アルク出版という英語教材の名門の雑誌でしたので欄外注釈もふるっており、非常に面白く参考になりました。
 そういう本で事前に勉強してから、その作品が上映されているときはそれを最低3回は見ました。

>最初はごく普通に「映画を楽しむ」スタンスで見る。日本語字幕も読み、ストーリーを細かく頭に入れる。

>2回目は、字幕から意識的に目をそらし、画面だけに集中する。とくに登場人物の口元などを注意して見ながら、発音に集中する。すでにストーリーが分かっているので、いつどこで誰がどんな台詞を言うかが、記憶にあるため、意外と聞き取れる。直接、英語でなんと言っているかに耳を傾けていると、1回目に見たときの字幕表現と、かなり違うことを言っていることがあることにも気づく。

>3回目は、メモを用意して見る。映画の中で使われている「お、これは使えるぞ」という表現をメモったり、字幕翻訳の上手な箇所を控えたりしながら、できるだけ多くの「おみやげ」を持ち帰るようにする

 こんなふうにして見た映画の台詞などは今でも覚えています。

 今ではDVDも簡単に手に入りますし、英語の映画に英語字幕を表示させたりもできますので、昔よりはるかに効果的な学習が可能です。

 古本屋に行けば「スクリーンプレイ」シリーズとして1本の映画全編にわたる和英対訳のシナリオも安く入手できます。特に教材として適切な作品を取り上げているので非常に価値的だと思います。

 映画による英語学習が優れているのは、

1、完全な文脈の中で語られる台詞のため、いつどういう場面でその言葉を使えばよいのかが非常によくわかる。

2、プロの俳優の演技と発音なので、アクセントやイントネーションなど「意味に応じた読み方」が学べる。

3、日本語字幕についてさえ、プロの翻訳家のテクニックが沢山学べる。

 などなど多くのメリットにあふれているからです。

 高校の授業でも15分から30分程度の短編作品をレンタルビデオショップで探してきては活用しました。授業時間の半分程度で作品を見せて、その作品の中で用いられているキーワードやキーセンテンスを重点事項として教え、その場面だけをまた見直してみるという具合です。

 しかし学年共通の教科書の進度もありますので、いつも映画ばかり使っているわけにもいきませんでした。今後の英語教育では、このようなマルチメディアも大いに活用した優れた教材を教室でも広く活用してほしいものです。
ちょっと興味深い記事を見つけました。
一部宣伝的趣旨も感じますが、書かれていることそれ自体は妥当なものです。

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なぜアジアで日本人だけいつまでも英語を話せないのか?広がる間違った勉強法
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20130323-00010003-biz_bj-nb

Business Journal 2013/3/23 12:36
米津香保里/株式会社スターダイバー代表 出版プロデューサー
画像

「Thinkstock」より

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  勉強せずに英語が身につく、というキャッチフレーズの英語教材が人気ですが、本当に英語が身につくのでしょうか?  スポーツ選手やタレントがCMで英語を勉強している姿を頻繁に見ても、実際に彼らが外国人と英語を流暢に話している姿をメディアでほとんど見かけないのはなぜでしょうか。それが意味していることは何か。本当の話をしましょう。

  日本人は中学で英語を授業で学び始め、大学になるまでに最低でも2000時間勉強しています。さらに社会人になり、自費で英語を学ぶ人も多く、ある調査によると40歳までに22%の人が英語学習に50万円以上使っているそうです。100万円以上使っている人も13%おり、最高で700万円使っている人もいます。これほどの時間とお金をかけているにもかかわらず、「英会話が聞き取れない」「英語で話しかけられても話すことができなかった」と8割以上の人が答えています。

  なぜ、日本人はこれほど膨大な時間とお金をかけても英語ができないのでしょうか。人気の教材を使っている人でも、話せるようになった人は極めて少ないはずです。これは学ぶ人の問題でしょうか。モチベーションの問題、センスの問題でしょうか。

  私はこれまで日本人が学んできた英語学習法とは全く異なる英語教室「ドクター苫米地英語脳ラボ(DEL)」を運営し、全く話せなかった人をネイティブスピーカーのように育てきた経験から、日本人が陥りがちな英語学習の代表的な間違いを3つご紹介します。

1.日本語を交えた英語学習法は間違い

 聞き流すだけで英語が学べる、という英語教材の中には、日本語と英語が交互に出てくるものや、日本語解説の後に英会話が収録されたものがあります。学校での英語の授業も、まさに日本語を交えた学習法です。社会人向け英会話教室でも同様の手法がとられているものがありますが、この手法が最も「やってはいけない」英語学習法なのです。

  脳にはクリティカルエイジ(学習限界年齢)というものがあり、言語の習得は8〜13歳で限界に達し、あらたな言語回路を作ることは困難となります。しかし、これはあくまでも「日本語脳」の話です。

「日本語を交えた英語学習法」は、学習限界に達している日本語脳を使って学ぶ方法で、これはいくらやっても効果が期待できません。それはちょうど、味噌汁を作る手順でハンバーガーを作ろうとしているようなもので、脳が混乱するばかりなのです。

  しかし、脳には可塑性という特徴があり、「日本語脳」とは別の領域に新しい言語回路を作ることが可能であることが分かっています。「日本語脳」ではないゾーンに「英語脳」を作ることは、新たに赤ちゃん状態の言語脳を生み出すようなもので、クリティカルエイジもリセットされ、誰でも何歳からでもネイティブと同等の英語回路を作れるのです。この「英語脳」構築システムは、認知学者で言語学における世界的権威であるカーネギーメロン大学の苫米地英人博士が提唱したものです。

  私が運営する英語教室では苫米地博士の「英語脳」メソッドを使うことにより、これまでの日本式英語教育で全く効果を出せなかった人が次々に「英語脳」を獲得していくのを目の当たりにしました。

  私の英語教室では、学習中に一切日本語を使わないことをルールとしています。その徹底ぶりは他の英語教室ではあり得ないところにも及びます。それが次に解説する「英単語を調べない、暗記しない」というところにも現れています。

(続く)
2.分からない英単語を辞書で調べたり、暗記するのは間違い

  これは日本人が当たり前だと思っている学習法のひとつです。中学時代から当然のようにやっているため、「英単語を調べることや暗記すること」が間違った学習法であるとは想像すらできないでしょう。

  しかし、この当たり前の学習法が、日本人の英語苦手意識を増長させ、「英語脳」の構築を妨げているのです。

  先に述べましたように、「英語脳」は「日本語脳」とは別に作らなくてはなりません。分からない英単語に出会う度に辞書を引き、その意味を日本語で理解する学習は、「日本語脳」の中に「英語脳」を作るようなもので、『味噌汁とハンバーガー』の例と同じことです。全く効果がないだけでなく、脳は混乱し、英語をますます話せなくなるのです。

  私の英語教室では日本語を一切使わないと説明しましたが、英単語の理解も同様に、日本語を一切介在させません。

  ネイティブの赤ちゃんが言葉を覚えるプロセスをみれば、それは一目瞭然です。赤ちゃんは、何度も耳にする単語を、まず“音”として自然に覚え、次に単語が話されている状況から、単語の意味を“感覚”として概念把握するようになります。

  ひとつの単語の概念が脳にインプットされると、会話の中で現れる“すでに覚えた単語”に関連して使われる単語も類推して理解するようになります。

  このように、単語を感覚やイメージでとらえ、さらに別の単語も感覚やイメージで関連付けてネットワーク化していき、自然に単語の体系が脳にインプットされていきます。
 
 つまり、脳を英語モードにして単語を“感覚”でキャッチするトレーニングが必要であり、辞書を使って調べたり、日本語訳して暗記するのは、自然な言語習得に反する方法なのです。

  しかし、このようなことを科学的に理解している人が日本にはほとんどいないため、100年前に確立された漢文読解をベースとした英語学習法が今でも主流となっているわけです。

 余談ですが、苫米地博士がカーネギーメロン大学(ノーベル賞学者を多く輩出する名門大学)日本校のお手伝いで文部科学省の方々にお会いした時、彼らの中に「私は英語を話せません」と言う人が多くいて、博士は大変驚いたと語っています。英語教育を管轄する官僚がこのような状態なのですから、国際基準で見た時の日本流英語学習のレベルは推して知るべしです。

3. 英文法を学ぶのは間違い

  英単語と同様、英文法も自然に“感覚的”に身につけるものであり、学ぶものではありません。そもそも、完璧な文法で話される自然言語は地球上には存在しません。

  実際、私たち日本人でさえ、文法的に正しい日本語を話している人はいません。間違った文法で話しているのが自然であり、「言語は正しい文法で話すべき」ということが幻想なのです。
 
 言語学の世界的権威であるマサチューセッツ工科大学(MIT)のノーム・チョムスキー教授は、「ユニバーサル文法説」という有名な学説を提唱され、それが正しいことがわかってきています。

「ユニバーサル文法説」を簡単に説明すれば、「人は生まれながらにして自然に文法を理解できる能力を持っており、チューニングを変えるだけで日本語が理解できたり、英語が理解できるようになる」というものです。

  つまり、英語を英語のまま接してるだけで、人間の脳は自然に文法を“感覚的”に習得してしまう力を持っているのです。それにもかかわらず、英文法を日本語で学んだり、漢文を読解するように倒置法で理解しようとすることで、脳の自然理解を妨げ、英語をナチュラルに理解したり話したりすることができなくなっているのです。

  今回は代表的な日本流英語教育の間違いを3つご紹介しました。しかし、これらの事実が分かっていても、ほとんどの人が間違った英語学習を行なってしまいます。なぜなら、それに長年慣れ親しんでおり、さらに英語教材の実に巧みなプロモーションに、人は簡単に誘導されてしまうからです。

  冷静に周りを見渡してください。なぜ日本以外のアジアの諸国では英語をすぐに習得できるのに、日本人だけがいつまでたっても英語を話せないままなのでしょうか。世界でも屈指の英語学習熱を持つ日本人が、いつまでもたっても英語を話せないのは、間違った英語学習を無批判に受け入れているからなのです。

  英語を身に付けるには、英語を学ぶ前に、言語に関する正しい知識が必要なのです。それが、日本人を真の国際人にさせることになると私は確信しています。
>>[32]、

自分は苫米地氏の本を何冊か読んだことがありますが、ちょっと商業ベース主体なところがあり、苫米地氏自身は怪しげな人だと思っています。
しかし、英語に関する理論は正しいと思います。
なぜなら、海外に行った人は、そこで一切英語を使って生活するのは避けようというようなかたくなな決意を持っている人以外、別に文法など学ばなくてもある程度は話せるようになるからです。学校で文法を習うより早いです。これは日本人が英語を覚える場合に限らず、フィリピンの人が日本語を覚える場合も同じです。そして基礎学力もあまり関係ないと思います。
これからの日本人に大切な事は、別に間違ってもいいから、まず英語を話してみろという事だと思います。
日本人は文法的に間違ったら恥ずかしいという意識が強すぎると思います。
母親が「先生にやってもらって。」と言うのを聞いた幼児が、先生のところにいって「先生、やってもらって。」と言ったとして、誰もその幼児を責めはしません。ただ、「やってもらってじゃなくて、自分がやってほしい時は、先生やって、って言うんだよ。」と言い換えを聞かせるだけです。ここに重要なキーがあると思います。まず、相手の言語をそのまま繰り返す。そして、間違っているところを修正していく。これが幼児の母国語習得法だと思います。ですから、日本人に必要なのは恐らく話すことです。日本人の場合話せないのではなく話さないのです。話さなければ話せる訳もない。別コミュでライティングのトピックであった問題もこれではないかと思います。書く必要がないのに書けるようになる訳ない。逆に書く必要がないなら、書けるようになる必要もない。
しかし、最近はネット環境の発達によってとても英語学習には有利になりました。自分はもともとライティングにはあまり自身はありませんが、ネット環境によって、その自身のなさを6割くらい補う事が可能です。つまり2割の実力しかないのにネットを使用すれば8割の英文を書くことが可能です。実際ネイティブに自分の書いた英文を見てもらってもなおされる部分は全文字数のうちの2割以下です。300語位の英文で一文丸々なおされる事はまずなく、冠詞を書き換えたり、挿入したりされる部分が10ヶ所あるかないかです。
使いたい単語をネットに入れて、実際の使われ方をみるだけで、前置詞の接続も、そう言った使い方が一般的であるかどうかもすぐ解ります。同じく冠詞の使われ方も解ります。
結局語学というのはその言語の経験が頭にあるかないかだけの問題だという事が解りました。そういう意味で、その言語の経験が1しかない人でも、一挙に1000の経験レベルに飛躍させることができるネットと言う環境はとても便利です。
前の話にもどりますが、自分はネイティブの前で話すのと日本人の前で話すのとどちらが恥ずかしいかと言えば、日本人の前で英語を話す方が恥ずかしいです。なぜなら日本人は文法的な間違いを気にしますから。もしフィリピン人の片言日本語の人が道端で「銀行が行きたいです。」と話しかけてきたとしましょう。それは変な日本語だとは思いますが、たいていの場合、「銀行に行きたいんだね。」と理解することができます。それと同じで、ネイティブはちょっと変な英語でも大抵は理解します。なぜなら、この人外人で英語が完全に話せないらしいという事はすぐ解るからです。
そんな訳で日本人は話したければまず話す、書きたければまず書くという事が重要だと思います。

>>[33]

>なぜなら、海外に行った人は、そこで一切英語を使って生活するのは避けようというようなかたくなな決意を持っている人以外、別に文法など学ばなくてもある程度は話せるようになるからです。学校で文法を習うより早いです。これは日本人が英語を覚える場合に限らず、フィリピンの人が日本語を覚える場合も同じです。そして基礎学力もあまり関係ないと思います。

 そうですね。文法を先に学んで、それに沿わないとまったく文章が作れないかと言えばそうではなく、実例を通じてその中に文法を見出していく力を人間は持っていますね。チョムスキーの「ユニバーサル文法理論」もそれを指向しており、ルールが先にあるという多くの学校英文法の教え方(学び方)よりも、実例の中に文法を見出していくというのが本来の順序だと私も思いますし、外国語が使えるようになるための効果的学習順序としては、「とりあえず一定量の表現をまず覚えてしまい、なぜそういうのかを後から裏づけとして習う」というものだと思います。

>しかし、最近はネット環境の発達によってとても英語学習には有利になりました。

 これはもう30年、40年前の学習環境からすればうらやましいほどの贅沢な環境です。高額な出費を書籍に費やさなければならなかったのが今はあらゆる教材がただで手に入ります。辞書にしてもそうですし、解説書、音声教材など昔なら数十万かかったであろう教材が今は無料です。
 その一方、そういう無料で提供されている教材の背景には多額の出費と膨大な労力があったことを利用者は考えなくなっており、「ただで当然」というスタンスになってきているのも問題だと感じています。


 さて学校教育という観点でお話しますと、「生徒の技能向上」を理念としつつ、それを妨げているのがまた学校教育であるという矛盾があるんです。それはつまり、学校では「成績評価」というものがつきまとい、学校現場では「相対評価」が規則として存在するため、評価対象のうち1割を5段階の5と1に割り当てなければなりません。さらに評価対象全体を通じての平均が3.5程度になるように調整されます。

 つまり全員が100点満点を取ったら評価できなくなってしまうんです。全員が100点取れるように指導したいのに、それを実現すると教員自らが困ることになる。「できるものもいて、できないものもいる」適当な成績分布の結果にならないと教員側にとっては都合が悪いという、おかしな現状があります。

 成績評価という問題が現場の理念の首を絞めているという現実をどう解決していけるのか、これに対してまだ答えはないようです。
>>[34]、

そろばんとか水泳の様に、学校も絶対評価でもいいのかもしれませんねぇ?
水泳は自分の時は学校でもどういう泳ぎで何m泳げれば何級というように具体的に決定されていました。
標準以上の学力を備えた子にはextraの評価があってもいいのかもしれません。

考えてみると相対評価と言うのはばかばかしいですね。ただ、絶対評価は先生の基準により大きく変わってくる可能性があります。
 近代言語学におけるチョムスキーのユニバーサル文法理論は、一見新しいものにも見えますが、その源流はまだ言語学が十分に成熟していなかった18世紀から存在しました。

 私は大学で「言語起源論」の研究をしていたのですが、その素材としてフランスのジャンジャックルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712年6月28日 - 1778年7月2 日)とドイツのヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder,1744年8月25日-1803 年12月18日)の論文比較を行っていました。

 古代言語学では、人間の言葉は「動物のような咆哮(=ほえる声)」の進化だとされていましたが、ヘルダーはそれを否定し、咆哮はどこまでいっても言語にはならなかったと述べています。また言語がコミュニケーションを目的に生まれ発達したという点においても「人間が誰とも接触せず森林の中でただ1人生まれ育ったとしても言語は誕生した」とも述べています。

 形態的にどのようなものになっていたとしても、人間は「その存在そのものが言語的であった」という一点が「人間を他の言語を持たない動物と一線を画するもの」としています。つまり人間は、外界の情報を本能的に(「本能」という言葉は語弊がありますが)言語として理解、把握する本質的な才能を持っていたと考えられています。そういう人間が持つ「言語性」が表面的には「発音体系」や「文法」という客観的に観察されうる形になっていきます。

 たとえ音声があり、「言葉に見える発声」をしてもオウムやインコは「言語を使う」とはいえません。生まれながらにして身体に障害を持ち、音声を媒体としたコミュニケーションに支障のある人でも言語を理解するようになります。

 OEDで「Word」を引いてみますと面白いことに「同義語:Logos」さらに「同義語:God」と出ているんですね。さらにLogosから調べていくと「Word, Logos, God, Man」がすべて同義語としてつながって出てきます。

"In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God." (John 1:1)

 「はじめに言葉ありき。言葉は神と共に在り、言葉は神そのものであった」
 このWordは大文字で始まっています。

 私はキリスト教信者ではありませんが、この1文は言語学的な洞察を含んでいると感じました。この1文を仏教哲学という観点から読み直すと

 「最初から人間は言語的存在としてそこにあった。人間であればその存在自体が言語であり、言語を操れる存在がまた人間であった。それが本然的法則であり、人間の精神的法則性の1つが言語なのである」

 と解釈できます。ここでGodは人格神ではなく、「法則」というような意味となります。

 このように古代から「ユニバーサル文法理論」を指向する哲学は存在したのです。
 そして実際には非常に多くの「人間が持つ本然的性質に沿ったきわめて効果的な言語指導法」が提唱されてきたのです。にも関わらず規範文法の理論体系に沿ったカリキュラムが優勢となり、特に日本において「外国文化の吸収」を主目的とした「英文訳読」中心の授業へとつながってしまいます。

 教育改革といっても、おおもとの外国語教育理念そのものが変わっていないので小手先の変化に終始しており、加えて前述の「成績評価」や「受験」という問題が大きなネックとなり、実技科目としての英語教育が未だに花開かない状態となっているといえます。

 
>>[35]

>考えてみると相対評価と言うのはばかばかしいですね。ただ、絶対評価は先生の基準により大きく変わってくる可能性があります。

 そこなんですね。
 私立ではまだ絶対評価を強く加味した評価方法が可能なのですが、公立学校では他の学校との比較、同じ学校内でも他のクラスとの比較において、「公平性」を保たなければならないという考え方があり、教員の主観による絶対評価は禁じられているわけです。

 本来、教える人と評価する人が同一人物であるというところにそもそも問題があると感じるのですが。
>>[36]、

日本の教育には明治維新の影響が未だに残っているのかもしれませんねぇ?
最近自分は近代日本の礎を築いた大日本帝国に非常に興味があります。
なんとなく今日本では大日本帝国に興味を持っているという事自体非国民であるような間違った左翼教育が横行しているようですが、大日本帝国は歴史的に見て非常に興味深いです。再評価されるべきですし、逆にその英語教育のように当時の目指していたものと今必要とされているものが解離している場合もあります。
自分は言語理論の専門家ではありませんが、言語理論には興味はあります。これからもいろいろ教えて頂けると助かります。
一方言語が人類固有のものとする考え方には、歴史好きの立場からは反対です。人類誕生のところで、どこからが人類かと言う議論が歴史の学問上起こりますが、詳しく見ていくと、道具の使用や社会性、言語の使用など実は意外と他の動物の間にもある事が解ります。うーん、火の使用はどうだったかなぁ?ちょっと覚えていません。
ところで、話は飛びますが、トロイを発掘したシュリーマンのおよそ40言語を操ったというエピソードがとても印象に残っています。それは実は、現地に行って言語を話せないと騙されるという事が結局言語学習のきっかけであったようです。そう言う意味でも学習の動機付けは重要ですね。しかし、ただ騙されないようにするだけであれば、あるいは40言語の習得はそんなに難しい事ではないのかもしれません??
 「言語起源」というのは言語学では「結論の出ない禁断の領域」とされており、同時に「学術の範疇を越えた宗教哲学の分野」だとも言われていました。

 私がその禁断の領域にあえて興味を持った理由は:

1、人間が言語を習得するプロセスを知ることによって最も適切な学習法、指導法が見出せると考えたから

2、最初に英語を習った恩師の「英語に人為的法則はない。文法は心理学だと思って学びなさい」という言葉の影響

 によります。
 私自身のサイトで2については繰り返し述べているのですが、人が定めたルールブックに則って言語を使っているのではなく、先に自由な言語活動が存在し、あとからそれを客観的に観察・分析したところ、ある種の法則性が統計的に見出され、それを情報的に整理したのが「文法」であるという考え方が重要だと思います。

 つまり「文法」が最初にあって、それに従って言葉が使われているのではなく、人が言葉を使う現実の姿の中に自然発生的な傾向性が存在するということです。

 そのような傾向性が「どういう理由で生まれたのか」を考察することでその言語のネイティブの思考法、感じ方が理解され、非英語ネイティブが英語ネイティブ同様の考え方、感じ方に沿って英語を発するようになれるための「訓練指針」が得られると考えています。

 一部学習者の誤解として「英語を話せる日本人というのは極めて高速、正確に翻訳ができている」と思い込まれているところがあります。
 しかし英語が話せる本人の実感としては「和訳など一切していない」というのが実際のところであり、「チューニングを変えるだけで日本語が理解できたり、英語が理解できるようになる」という実感です。(私はこれを「頭の中の言語文化のチャンネルを切り替える」と表現しています)


 一定の年齢に達してから英語を学び始める場合と、まったくの赤ん坊が英語を習得するプロセスはまったく同じというわけではありませんし、たとえ同じプロセスによってネイティブレベルの英語が習得されうるとしても、赤ん坊が言葉を発し始めるまでの数年間「あー」とか「うー」とかいうだけの時間を同じようにすごさせてはもらえません。

 そこですでに高度に習得されている母国語の「補助」を得ながら外国語習得の訓練を行うことになります。ポイントはここで「訓練」がなされなければならないということであり、「はいこの英文を読んで和訳しろ」という「素人翻訳家道場」のような授業展開では技能習得にはつながらないということです。

 現実の英語ネイティブ同士のコミュニケーションがどのようになされているかを「超スローモーション」で考察してみますと、「予測>納得>疑問」という小さなサイクルが瞬時に行われており、その繰り返しによって「意味の伝達」が行われています。
 詳細は:http://roundsquaretriangle.web.fc2.com/text/003_01.html#0004

 そのような現実の言語活動のあり方を踏まえ、「いかに適切な訓練を行うか」を英語教育はもっと具体的に考え、提示しなければならないと思います。
>>[38]

>一方言語が人類固有のものとする考え方には、歴史好きの立場からは反対です。人類誕生のところで、どこからが人類かと言う議論が歴史の学問上起こりますが、詳しく見ていくと、道具の使用や社会性、言語の使用など実は意外と他の動物の間にもある事が解ります

 この場合の「言語の使用」というのがどのレベルを指すかによります。単純な情報伝達の手段というのであれば犬猫の鳴き声でも伝えられるものはありますが、人間以外の動物が「SFのストーリーを創作した」という話は聞きません(笑)。

 ですから「何を持って言語と呼ぶか」の違いだと思います。

 あらゆる生物の中で人間は「本能」の領域が最も小さいといわれています。本能による支配がなされていないことが、その存在の自由性でもあり、「学ばなければなにもできない」という弱さでもあります。その弱さはそのまま「学べば先祖にできなかった新しいことができるようになる」といいう強さでもあります。

 蟻は高度な社会性を持っていますが、働き蟻が社会に不満を持って革命を起こすことはありません。イルカはかなり高度なレベルでの言語活動をしていると近年研究が進んでいますが、イルカもまた言語による物語の創作は行っていません。

 蜘蛛が見事な巣を作るのは才能ではなく、本能です。誰から習わなくてもそれができますが、それしかできません。蜘蛛は自らの創意工夫で新しい巣をデザインしたりしません(笑)。

 そのように一見「道具を使用」しているとか「言語を使っている」と見える他の動物の行動も、本能の範疇による行動である場合は、人間と事情が異なってくるわけです。

 言語が人間固有のものというより、人間の存在そのものが「言語性」を持っているという意味でお話しました。人間から音声や文字を奪い取っても、必ず別の形で人間は言語を操るようになります。人間は本能の拘束をほとんど受けないため、「言語という座の上でしか思考できません」。幼児のものの考え方が幼稚なのは、思考の手段としての語彙が乏しいからです。

 英語初学者が英会話を始めると「自分のものの考え方が急に幼稚になったような恐怖」に襲われることがあります。実はその状態は「適切に言語チャンネルの切り替えができている」からこそ起こるもので、極めて正しく、好ましいものなのですが、多くの人はその恐怖から「日本語での思考>翻訳による英文化」という手法に逃げ戻ってしまいます。しかし本当は「まだ語彙の乏しい英語では難しいことが考えられない」状態から、徐々に語彙力の増加に伴って英語での思考力が伸びていくものです。

 ここでまた問題になるのが学校現場での成績評価ですね。
 そういう発展途上の能力は評価されないからです。点数を取るためには「英語による思考で難しいことが考えられない」よりも「日本語で高度な思考をして、パズル的な言葉の置き換えで英文を作り出す」方が近道に見えてしまうからですね。
>>[39]、

なるほど、らうんどさんの持つ言語学習に関する哲学よく解ります。
また、幼児の言語学習過程と第二言語の学習過程の違いについても教えて頂いてありがとうございます。
やはり、自分は言語学を専攻としていないので、細かく考えていないところやあいまいになっているところがあるようです。言語学習には自分の言語習得と更に今はやっていませんが、人に教える事に関しても興味があるので、またいろいろ教えて下さい。

また、言語活動に関して、予測が重要な事は最近自分でも気づいてきました。だから、コンテクストに合わない文を言われると聞き間違いを起こしたり、会話が止まって再確認したりする事がよくありますね。また、伝言ゲームで間違いが起こるのも、この言語活動によるものですね。また、日本人同士では日本語をよく理解しているとみんな思い込んでいますが、こういう言語の予測の活動の事を考えると、母国語をよく理解していると感じている事自体が一種の幻想である事がよく解ります。逆に言うと外国語が理解できていないと思うのは、ただ慣れていないだけで、外国人同士は実はそんなにお互いの行っている事をよく聞いていないで勘で判断している部分もかなりあるのだろうなぁと思います。そして、この言語の勘が付く事が、言語のスキルに関連しているのではないかとも思っています。
>>[40]、

内容が濃かったので、あえてコメント番号ごとにコメントさせていただきます。

「言語」の定義によって、言語が人間だけのものであるのか、それとも他の動物にもあるものだと考えられるのかが異なってくるというご説明、大変よく解りました。

自分の中で実は「人類は生物界で特別な存在であると考えてはいけない。」というポリシーがあるために、自分の思考がやや偏っている可能性はあります。逆に言うと人類はやはりある意味では生物界で特別な存在なのだろうなぁと思います。

学校教育と学習の理論についても面白いですね。
自分は専門家ではないのですが、将来教育に関連した仕事をやってみたいと考えています。

いろいろ教えて頂いてありがとうございます。
これからもよろしくお願いいします!
>>[41]

 同じ言語文化に属している者同士の場合、「このタイミングで、こういう言葉が伝えられてくるはずだ」という「構え」を持って耳を傾けていますよね。その期待が裏切られたとき、ときには戸惑いが、ときには驚きなどがもたらされます。

 平叙文ではない語順で文章が伝えられたとき、その「予測の裏切り」によって特殊効果がもたらされ、結果として「動作の要求」としての命令文が感じ取られたり、「疑問」の意図が伝えられたりするのだと思います。

 日本人同士が電話で会話しているとき、音声状態があまりよくなくて、言葉の部分部分が「音声としては聞こえていない」場合であっても会話が成立することがよくあります。聞こえてこない言葉が内容語だとちょっと困りますが、機能語の場合は「文脈からの推測」ができるため、「本当は音として聞こえていないのに、聞こえた気になる」ことがあります。

 そういう「不完全な情報」を予測や推測で補完できる力は、その言語文化になれ親しんでいるからこそでしょう。英語の場合も同様で、「発音」とか「音声学」を学び、母音、子音などの音素単位がしっかり聞き取れるようになっても、英語という言語の文化を自分の中に持たないと「予測、推測」ができないため、完全な音として伝えられないと意味が把握できなかったりします。

>この言語の勘が付く事が、言語のスキルに関連しているのではないかとも思っています。

 まさにそれが重要だと思います。
>>[43]、

あっ、そうだそうだ、そういえば、数年前に、文章の中の文字を入れ替えても文章が読めるという心理学実験に関する記事がミクシー・ニュースにのった事がありましたね。

そうえいば、数年前に、文章の中の文字を入れ替えもて文章が読める。

こんなような例文のやつです!
面白いですね!!
>>[42]

>自分の中で実は「人類は生物界で特別な存在であると考えてはいけない。」というポリシーがある

 社会学的にこれはとても大切なポリシーだと思います。
 食物連鎖の頂点にあるといって、他の生物の存在の上にただ胡坐をかく傲慢さが、これまで多くの環境破壊をもたらしてきたわけですので、「人類といえども、地球環境の1要素であり、その意味で人類の価値は他の生物と同等である」というのは正しい考え方だと思います。

 どんな生物にも特殊性と独自性があり、「文化の伝達と発展につながる言語活動」は人間にとってのそれだと思います。
>>[44]

>あっ、そうだそうだ、そういえば、数年前に、文章の中の文字を入れ替えても文章が読めるという心理学実験に関する記事がミクシー・ニュースにのった事がありましたね。

 実は間違ったスペルなのに誰もそれに気づかず読めてしまうというのもありますよね。
 また感覚の補正は五感すべてで行われており、視覚でも「本当は見えていない部分」を想像で補って見えている気になるというのは有名ですよね。

 視覚的補正は言語文化に依存しないため、民族を問わず共通した傾向が見られますが、これが言語音声の想像補正となると、日常的に用いている言語特有の補正が行われることになりますね。
>>[46]、

なるほど、視覚補正と言語補正のお話面白いですね。
らうんどさんにお誘いいただいて本当に良かったです。
またいろいろ教えて下さい。
少し用事がありますので、今日はここらへんでお暇させて頂きます!
>>[47]

 こちらこそ多くの有益な話題提起をありがとうございました。
 また是非ご投稿ください。
言語起源にかんしては、現在は、複数の地域で発生したと解釈するのが一般的なのでは?
 一つの言語から数多くの言語が派生したととるのは無理がありますよね。
>>[49]

 私もそう思います。
 どこかに誤解を招くこと書きましたでしょうか??

 なお複数の言語が1つの言語から枝分かれしたという歴史は考えられていますね。
>>[50]  いえ、らうんどさんの仰っしゃることに間違いはありません。しかし、現在でも、一つの言語からすべての言語が派生したと主張する学者がいることもたしかです。おそらく聖書を間に受けているのでしょう。
 ハングルと日本語でもword orderはまるっきり同じなのですが、音声(大和言葉)の音声が全然違うので同じ所から派生したとは考えにくいです。これだけ近い国であるのに・・・
>>[51]

 言葉の歴史は文字のない時代まではさかのぼりきれないので、「印欧語」全体の祖先である印欧基語(Proto-Indo-European)の存在が数千年前に存在したであろうと理論的に推測されているそうですね。

 恐らくは一定の地域にわたってそういう基語はあったと思いますが、その基語もまたかなりの数があったと思われますし、各地域で一斉に、同時に言語が発生したというのも考えにくいことですね。

 唯一言えるのは、どんな言語であっても「音声」としての成立が先であり、文字表記などは必ずそのあとであったであろうということですね。どこかのトピックに「言語の本質は音声ではない。もしそうなら手話はどうなる」なんてとんちんかんなことを言った人もいましたが、、、、。
>>[52] 確かにWebsterなどの本の語源の説明にも基語は載っていますね。語源の研究は確かに面白いですね。とくにSanskritとの比較言語学でいっきに発達した学問ではないかと記憶してます。そういえば、英文法のコミュの荒らしが馬鹿なこといってましたね。

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