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京大西部講堂ロック史記コミュの西部講堂列伝「芸術ヤクザの半生」

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 マサキが17歳の時には既に妻子がいた。
15歳の時には既に京都中で最強の不良となり、本職の極道達からも一目置かれていた上に中々の美男子でもあった彼は、一種のスターであり女子にもイヤというほど良くもてた。
当時の京都の繁華街で遊んでいる女子高校生達にとって、マサキと寝ることが一種のステイタスとなっていたほどである。マサキの最初の妻も、彼の取り巻きの不良少女の一人であり、ちょっとした美人で負けん気が強く繁華街で遊んでいる女子コミュニティーではリーダー的な存在だったらしい。

 マサキ自身も女性は嫌いなほうではなく、誘われれば相手がよほど気の利かない女でない限り、気前良く奢ってやり要求されれば抱いてやったりしたが、これは彼の実家が建設会社を経営していて比較的経済富裕層に属していたからこそ出来た事なのだろう。
但し、当時の彼に一つ美質があるとすれば、それは意外にも古風な倫理観であり、人妻にはいくら誘われても例えどんなに上玉の女であっても抱くことは頑なに拒んだ。
この倫理観は彼が成人になってからも継続し、その後さまざまな女性達から誘われる機会が無数にあったものの、人妻である場合女性の感情を傷つけずさらりとかわす術を身に着けるようなった。
後に彼の大切な友人となる、U田U也氏の本妻であるKさんからも、若い時は何度と誘われたものの決して男女の関係になろうとはしなかった。
いくら誘ってもなびかないマサキに対し、Kさんも癇癪を起こし「マーキー!!あんたヤクザのくせに、意気地が無いね! つまんない男だよ!」となじられた事もあったが、マサキは笑ってこう返すのだった。
「僕はKさんのことは実の姉以上に尊敬しています。それにU也さんに矢を向けるようなマネしたら・・・僕はこの世界で生きていけませんよ〜」
 彼女は非常に聡明な一流の女優でマサキは彼女を深く尊敬し慕っていることは事実であり、現在に至るまでその友情は継続している。

 マサキに最初の子供が生まれて程なく、彼は自動車の度重なるスピード違反により検挙され、過去の数え切れない暴力事件の主犯格としての履歴もあり、とうとう簡易裁判所にて少年鑑別所収監の命令を受けることになった。

「判事さん・・ちょっと待って〜な!
オレは既に妻子持ちで、親父が死んでから家の土建屋の社長業もやってるねん。
そのへんの18歳のチンピラと同じと違うにゃで!
スピード違反くらいで少年院送りは、いくらなんでもあんまりや!」
「いや・・・その事情はよくわかっている。
そやけど、君は今回鑑別所に行ったほうがええ。その方が必ず君の為になる。
山田君・・君はなかなか頭のいい青年やと思っている。どうか解ってくれ・・」
判事の言葉には、一人の人間に対する愛情と誠意がこもっていた為、彼は素直に従うことにした。

少年鑑別所に入所した場合まず8人部屋の集団房に入れられ、最初は新入りとして先輩入所者(札付きの不良や愚連隊・チンピラ達)から手荒い歓迎(一種のリンチ)を受けることになるのだが、マーキーの名はこの場においても超有名であり、他の入所者からもある種の畏れの念や尊敬を受けていた為、最初からいわばVIP待遇であった。

8人部屋に入ったマサキは、その部屋のあまりの汚さに辟易し、次の朝午前5時頃未だ寝ている他の少年達をたたき起こし「コッルァ〜!!お前ら起きんかい!なんじゃい、この汚い部屋は。これから1時間全員で大掃除じゃ。
サボる奴は、ボコボコにいてまうぞ〜!」てな感じで号令をかけた。
これに逆らうものは誰もいず、全員で点呼の時間までに部屋をピカピカに磨き上げ完璧に整理整頓してしまい、その後もその部屋だけは掃除の行き届いた清潔な状態が継続し、これを見た担当の監修は、マサキのある種のカリスマ性を伴った統率力の高さに内心舌を巻いた。
その後マサキが「先生、オレはもうこんなアホらと一緒の部屋にはうんざりですわ!すんませんが、オレだけ一人部屋に変えて貰えませんか?」なんて無茶な願いを申し入れたところ、なんとすんなり一人部屋に移動させてもらえたのである。

こんなことは鑑別所の常識では考えられないことであり、彼が出所後先輩格の極道と飲み屋でその話をしたところ「マーキー!お前ホラ話もええ加減にせーよ。なんぼお前が有名っちゅうたかてそんな我侭通るわけないやろ!俺が知らんと思ってウソついてもあかん。俺かて年少は経験済みやさかいな!」と結局当時は誰にも信じて貰えなかったらしいが、正真正銘の実話である。
今から思えば、マサキがそのような特別待遇を受けた理由として考えられることは・・・プロの監修達も教育に手を焼く不良少年達をうまく管理統率し、それなりに彼らを更正に向かう切欠を演出した事への一種のご褒美だったのかもしれない。

 鑑別所に収監されてからも、家業である土建屋の経営采配が出来る者はマサキしかいなかったため、人夫や関係業者がしょっちゅう面会に訪れ、マサキは面会所にて経営判断や実務指示を出していた。
 若干18歳にして、建設会社社長となり自分より年上の人夫15人に仕事を割り当て給与計算し不満の声も出させず、鑑別所にいながらもそれなりに営業利益を上げていた事実は、死んだ父親の遺光があることを差し引いても大した経営手腕と言わざるを得ない。
彼は長じてディスコ経営をはじめ様々な事業で成功し、巨万の富と豊かな人脈を築くことになるが、その才能の萌芽は既にこの時点で明確に表れていたのだ。

マサキがチャー坊(後のロックバンド「村八分」のリーダー)と初めて出会ったのもこの少年鑑別所だった。
鑑別所では少年たちの更正教育の一環として、又心理テストを兼ねてよく絵を描かせるが、1967年春頃その現場でマサキとチャー坊は出会っている。
収監されている少年達にある課題を与え、それを連想して絵を描かす心理テストを「バームテスト」と言うらしい。

マサキの中学時代の成績は体育と美術が5段階評価の「5」で他の科目は全て「1」だったらしい。
彼の家庭環境は父親が建設会社を経営し成功していた為経済富裕層に属していたが、他の富裕家庭と異なり子供に対して両親はいわゆる高学歴を目指すような教育投資を一切せず、とにかく自由奔放にのびのび育てることに徹した当時としても珍しい家庭だった。
当時、京都の金持ちのボンボンが行く学校とは、京都教育大学付属中学・同志社中学・洛星中学などがあり、そのいずれもが現在程ではないにしてもそれなりに難しい入学試験に合格する必要があったが、そういった受験に特化した教育が実社会に出てから殆ど役に立たないことを、彼の両親は当時にして実生活上の体験から解っていたようである。

このような家庭環境が、マサキのその後の人生引いては日本のロックシーンに大きく影響を与えたことは疑いが無い。
もし、彼が人並みに受験勉強に励み京大もしくは阪大・同志社・立命大等を出て平凡な公務員や大企業のサラリーマンになっていたとしたら、京大西部講堂にフランクザッパが来ることも無かったし、そもそも西部講堂が今日あるような「ロックの聖地」となり得ていたかはなはだ疑問である。
それほど彼の存在は長じて日本のロックシーンに深く影響を与えるに至ったのだ。
彼の父親は中学高校と学年TOPの成績だったほど優秀だった為、その血を引くマサキの知的能力も人並みを上回ることは確かだったが、そもそもマサキは中学には気が向いた日にしか登校しなかった。
但し、数学や英語の授業にはまともに出席したことが無かったが、体育と美術の授業は欠かさず出席した。
運動神経が優れている為スポーツは何をやっても他の少年達より強かったし、絵画の才も幼少時よりあったらしく、中学の美術の先生がマサキの素質に気付き、自宅に招いては自身の作品を見せて感想を求めたり、岡崎の美術館に面白い現代美術の展覧会が催されれば連れて行ったりして可愛がってくれた経緯がある。
従ってマサキにとってこのお絵描きの時間は、鑑別所生活の数少ない楽しみであった。

「実のなる木を想像して絵を描きなさい」という課題だったそうだが、やる気の無い他の少年達の稚拙な絵に半ば呆れ半ば優越感に浸りながら、彼は得意のアブストラクト(抽象画)の手法でユニークなりんごの木の絵を書き上げ、ふと後ろの席の奴の絵を覗いて驚愕した。
そこに恐ろしく上手い植物の細密画があったのだった。今から思い返せば70年代に活躍したイラストレーター「宇野亜起良」の繊細なタッチに似ている素晴らしい素描画だった。
マサキはこの少年鑑別所で自分より絵の才能がある奴がいることが、俄かに信じられない気持ちだった。
「お・・お前何描いてるねん!? こんなお絵描きテストなんか手を抜いて適当に描いといたらええやんけ・・しかし、お前クソ真面目に一生懸命細かい絵かいてんにゃな〜〜〜!」
「・・・ほっといて〜な」とボソッとその少年が呟いた。

この少年こそ、その後渡米し1969年ハイドパークにてローリングストーンズのコンサートを目撃後、あの伝説のロックバンド「村八分」を山口富士夫と結成することになるチャー坊(当時16才)だったのだ。
チャー坊の本名は柴田であり、チャー坊というニックネームは彼がその後渡米し現地で世話になったアメリカの友人達から付けられた「チャーミングボーイ」が省略され定着したものであるが、当時は未だチャー坊とは当然呼ばれていなかった。
マサキにいたっては、チャー坊と知り合って直ぐに意気投合しその後生涯に渡って親友と呼べる間柄になったにもかかわらず、初対面から不思議なことに1年近く彼の名前を知らないままだったらしい。

そのときの素描画が余りに素晴らしかった為、チャー坊とマサキの作品が壁に貼り出される事となった。
マサキの絵はこの時描いた分とは別に、以前何かの週刊誌に掲載されていた母親が乳飲み子を抱いている母子像を真似て描いた水彩画も、一緒に展示されることとなった。
この水彩画は、17歳にして既に一児の父親であるマサキの心情が込められたものであり、マサキ自身この絵にはとても愛着があった。
この絵を見たチャー坊がマサキに言った。
「この絵は盗作や・・・・」
「はぁ〜? 何言うてんねん!」
「この絵は、週刊新潮に載ってた絵の盗作やんか・・・」
「お前も見たんか?あの絵。 盗作もクソも、オレは別にプロの画家とちゃうさかい・・ええやんけ別に!
お前・・オレが誰か分かってんのんけ?」
「知ってるで・・・有名なマーキーやろ?中学一校潰して新聞に載ったことあるんやろ?」
「おお、そうや! ところでお前何でパクられたん?」
「・・・・どうでもええやん」
「そうか・・・言いとうなかったら言わんかってええで別に・・・お前も絵かくの好きなんけ?」
「うん・・・」
「なかなかええセンスしてるやんか!ま〜オレに比べたらチョット劣るけどな」
「えらい自信過剰やな(笑)」

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