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京大西部講堂ロック史記コミュの西部講堂年表

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 京大西部講堂の1960年代後半から現在までの歴史を彩る様々な出来事や開催されたイベントを、トピック的に纏めて書き連ねたいと思っています・・・
 実は・・・西部講堂に関しては従来ちゃんとしたアーカイブが無く、あっちこっちの断片的資料や数少ない当時のリアムタイマーからの聞き取り調査から構成したため、私個人の誤解による事実と反する記載もあるかもしれません・・・(^^ゞ

 出来ましたら「いや・・ここは事実と違う!」「この重要事件・イベントが抜けている!」等がございましたら、是非ご指摘くださるよう宜しくお願い致します m(__)m

コメント(13)

*写真・・・チャー坊(16歳?)

<1967>
●この頃、チャー坊(当時16歳・後の伝説のロックバンド村八分のリーダーでvo)とマーキー(当時18才、その後70年代ヤクザ界無頼派の大スターとなり、西部講堂ロックイベントの有力な経済援助者・京都を代表するロックディスコ「ママリンゴ」オーナー・MOJOアーティスト社社長を歴任、京都の有名な侠客団体「会津小鉄会」会長とは少年時代からの友人)が京都市内の少年鑑別所内で出会う。2人共に手のつけられない地元では有名な不良少年であり出自も酷似していた為すぐに打ち解け、チャー坊が他界するまで二人の交友関係は継続。

●チャー坊は京都の某大物右翼の子息、マーキーは建設会社社長の子息として生を受け、共に裕福な子供時代を過ごした。学歴こそ高校中退だが二人とも利発で感受性が人並はずれて高く、リーダーシップも突出していた。

●水谷孝(当時、同志社大文学部1回生)が日本初の本格サイケデリックロックバンド「裸のラリーズ」結成。オリジナル・メンバーは水谷孝(Vo,G)、中村武(G)、若林 盛亮(B)、加藤タカシ(Dr)の4人。若林はその後、70年の「よど号」ハイジャック犯として北朝鮮へ。
<1968>
●京大学生部・吉田寮自治会によりバリケード封鎖される。

●京大学園闘争勃発

●チャー坊渡米、翌年ローリングストーンズの無料コンサートを現地で目撃し衝撃を受ける。と同時に「こんなんやったらオレかて出来るわ!いや・・オレの方がもっとイケてるはずや!」と思いロックバンド結成を決意。

●裸のラリーズは、当時京都で唯一存在したアンダーグラウンド劇団・「現代劇場(別名モダンアートソサエティ、小松辰夫代表←上の写真)」と関る。ここでは単なる劇団の音楽担当というようなものではなく、劇団とのジョイント公演、数度にわたる劇団のバックアップによる「裸のラリーズ」のコンサートも行われた。因に、ジョイント公演は数回あったが、ラリーズの暴力的大音量に役者が対抗しきれず解散に至る。ラリーズがストロボ、ミラーボールなどを多用したライト・ショウを用いるようになったのは、この頃からである。この劇団は解散後も69年末までラリーズをバックアップし続けた。
写真?・・・左端「小松辰夫」、右から2番目「水谷(ラリーズ)」
写真?・・・裸のラリーズ

<1969>
●京大当局による逆封鎖

●全学無期限スト・封鎖闘争・時計台占拠・時計台死守闘争

●機動隊と攻防戦・百万遍カルチェラタン闘争 *西部講堂は出撃拠点

●高瀬泰司・小松辰夫プロデュース「京大バリ祭」
吉田教養キャンパスを中心にロックコンサート「バリケード・ア・ゴーゴー」
*出演:裸のラリーズ、ムスタング、ワックス、ムスターファほか
        
●この頃、山口富士夫(元実力派GS「ダイナマイツ」のリードG)とチャー坊が出会い意気投合、ロックバンド「村八分」の原型が形成される。又、互いの才能に惹かれ合うように、裸のラリーズのリーダー水谷とも交流を持つようになる。
写真・・・1970年7月26日 山梨県・富士急ハイランド「ロック・イン・ハイランド」写真右より、水谷、チャー坊、ツネダ、冨士夫。青木はアンプの裏

<1970>
●山口富士夫・チャー坊はこの当時、裸のラリーズのメンバーとしても活動。しかし「チャー坊版ラリーズ」と「水谷ラリーズ」の2種類の「裸のラリーズ」として平行して活動していた時期がある。というのは、個性の強い水谷(左翼思想にも一定の理解を示すインテリ文学青年)とチャー坊(崇高な詩人の魂を隠し持ちつつも、無教養な根っからの不良少年としてのアイデンティティーを捨てようとはしなかった青年)とは、互いの才能をリスペクトしつつも人間的に合わなかった事に由来する。一方、山口富士夫の音楽人・ギタープレイヤーとしての天賦の才は凄まじく、当時の彼を超えるプレイヤーは40年近く経過した現在においても、探し出すことは容易でない。その後「チャー坊版ラリーズ」が「村八分」として分離発展していくことになる。従って現在の「裸のラリーズ」と「村八分」という2バンドは同じ母体から派生した兄弟バンドということができる。
      
●この時期、西部講堂は京大映画部・演劇部の映演連が管理運営 *大島渚・戸浦六宏らを輩出

●年末・・欧米旅行から帰国した京都市立美大講師「木村英輝」(通称:キーヤン27歳)の元に、小松・高瀬を通じて「ロックコンサート」をやらないか?との打診あり。「バリ祭のシンボルの一つである西部講堂を京大及び国家権力より開放しなければ、面白くならない!」という高瀬のアナーキー的戦略の一つとして、「FUCK ’70」と題したロックコンサートが、1970年12月31日に西部講堂で大音響とともに始まった。
●「なにが黄金の70年代や!」「紅白だけが大晦日か!?」との主張のもと、大晦日の徹夜ロックコンサートが始まった。この大晦日コンサートは翌年以降恒例化し「これに出演できれば、翌年必ず売れるぞ」とまでマスコミに言われた。キャロルのジョニー大倉・矢沢栄吉も無名のころ、さも期待されずに出演していたという。

<1971>
●3月20日、西部講堂にて第1回MOJOWEST開催。*プロデュース:キーヤン、田丸ひろし(ロック喫茶「縄文」)、宮川一郎(「縄文」の壁画制作者)、田坂進(デザイナー志望)、渡辺きよし(音響、ワタナベ楽器)、小松辰夫(照明)、その他総勢100名のボランティアスタッフにて運営。入場料:前売り¥300¥、当日¥400。 出演:PYG(沢田研二・萩原健一、井上堯之、大野克夫、岸部修三、大口広司)、村八分(チャー坊こと柴田和志、山口富士夫、浅田哲、青木真一、上原ゆかり)

●「村八分」は、反体制を標榜する京都の新左翼シンパの学生達にも熱狂的に歓迎されたが、「PYG」は数年前のGS(グループサウンズ)時代のスター寄集めバンド・商業主義ナベプロの回し者だとブーイングする者達も少なくなかった。*但しPYGのサウンドそのものは、21世紀現在の審美眼をもって聴いても決して大人のロックマニアの鑑賞に堪えられないことは無く、楽曲完成度自体は低くない。

●MOJOWESTは、その後隔週土曜日の午後5時から9時に開催された。出演アーティスト:村八分・内田裕也・フラワートラベリンバンド・ミッキーカーティス&サムライ・かまやつひろし・Too much・麻生レミ・小杉武久・タージマハールトラベラーズ・成毛滋・角田ヒロ・モップス・頭脳警察・カルメンマキ&エンジャルス等・・・・*大阪大学学長:鷲田精一もバンドで出演実績あり
●MOJOWESTの観客は、西部講堂のキャパシティー600名を常に上回り800人前後の若者たちが集まり盛況であった。イベントが開催される週末には、東京のヒッピー達がヒッチハイクで大挙して京都に向かう現象も見られた。

●マーキー(23歳)は当時、イギリスのロンドンへ単身渡英。彼は只のチンピラヤクザではなかった。ロックや芸術全般を愛する豊かな感受性を持つ当時では珍しい侠客だった。しかも彼のビジネス感は実に優れていて、下積み時代に水商売に関するあらゆるノウハウを貪欲に吸収し、人を惹きつける人間的魅力も並外れていた為この時代に多くのミュージシャンとの人脈を形成する。
ロンドンではピンクフロイドやフェイセズといった当時の超大物バンドのスタジオにも見学しにいき、当時フェイセズのベーシストであり人気絶頂であった山内テツとも懇意になり帰国後も交流は続いた。又彼はなかなかの美男子でもあり女性にもよくもてた。当時彼と付き合っていたオーストリア人の芸術大学女子大生は、その後大学教授になり彼女とも長期間交流が継続した。
*ちなみに彼と交流のあったミュージシャンは多彩であり、有名なところでは上記の他に・・沢田研二・内田裕也・かまやつひろし・上田正樹・柳ジョージ・ジョー山中・桑名正博・村八分メンバー全員・・・と枚挙に暇が無く、正に黎明期の邦楽ロック人脈を裏側から支え続けた人物といえよう。

●高瀬泰司(29歳)がマスターを勤める、吉田山にある文学サロン的な居酒屋「白樺」・・・ここには当時新左翼シンパ学生達の溜まり場でもあった。当時京大闘争も盛り上がりのピークを過ぎ、徐々に収束に向かっていった為、活気盛んな学生運動闘志達はエネルギーを持て余していた。
そこで高瀬は「何か最近面白く無いよな〜・・・皆もっと面白い事考えろよ! あ・・ラグビーでもやらないか? やったこと無いかお前ら? ルールなら俺が教えてやるからラグビーチーム作ろうぜ!」との掛け声の下「吉田山ラグビーチーム」が結成される(監督:高瀬泰司。応援団長:小松辰夫)。
このチームは、大学や企業に属さない日本初のラグビークラブチームとなり、ここに元学生革命闘志・京大ラグビー部OB・その他白樺の常連客らが集い、有り余るエネルギーを発散する事となった。
実はこのラグビーチームこそ、その後長年に渡り西部講堂を影で支え続けることになる「西連協」(西部講堂連絡協議会)の母体となるのである。尚、1975年より今日の長きに至るまで西連協の精神的支柱であり続けた人物「青野 荘」(通称:アオちゃん)も、当初このラグビーチームのメンバーであった。

<1972>
●2月「連合赤軍による山岳ベース事件・浅間山荘事件」が新聞やTV各社等マスコミによりリアルタイムに全国のお茶の間に放映され一般大衆に衝撃を与え、前代未聞の高視聴率を記録する。この事件発生による左翼的革命活動に対する一般市民支持層の失望感は大きく、その多くを離反により失った。
当時、大学生世代の子を持つ親達の感想・見解は大よそ以下のようなものであった。
「いくら頭が良くって東大や京大に合格したところで、赤軍派などになってしまえば一生を棒に振るばかりか犯罪者となり刑務所に入らなければならない。その点うちの子供は頭があまり良く無くって寧ろ良かった・・・(安堵のため息)」

●8月中旬の3日間、第2回幻野祭(当年5月30日、リッダ闘争で戦死した3人の革命闘士を追悼するイベント)が、西部講堂・吉田グラウンドで開催される。*出演:村八分・頭脳警察・豊田勇造・内田裕也・・他、このイベントに関しては写真や映像等の一切の記録が無いが、現場を実際に目撃した人達にとっては恐らく生涯忘れえぬ、強烈な感動を伴う音楽イベントであったらしい。
特に豊田勇造のパフォーマンスは圧巻であり、後々まで語り継がれることとなる。
大文字の送り火の日であった当日、当初のスケジュールでは送り火をバックにステージ上で能の舞が披露される予定であったが、肝心の出演予定者が交通事情等で予定時間に間に合わなかった。
そこで、主催者の高瀬が豊田を呼んで「勇造!おまえピンチヒッターでステージに立って、何でも良いから歌ってくれ。たのむ、助けてくれよ!」
「えぇ!? そんなこと急に言われても・・・なんも用意してないし、なに歌ったらええねん・・・
ま〜こうなったらヤケクソや!即興で何か歌いまっさ!」と言ってステージに向かうと、頭能警察や村八分のようなアナーキーなロックを期待していた観客から、ブーイングと野次の洗礼を受けた。
「帰れ」コール、空き缶や砂埃がステージ目がけて飛んできた。
当時の日本で最もラジカルなイベントであった「幻野祭」の場においては、フォーク系のアーティストは最早保守的・商業主義と見做され忌避排斥される対象となっていたからだ。
しかし、勇造は不思議と落ち着いていた。山の上腹部に赤々と燃え盛りつつある大の字を背に、自分では無い何かとてつもなく強い何者かによって突き動かされるように、ギターをかき鳴らし、頭に浮かんだ言霊を即興で出来たメロディーに乗せ取り付かれたように歌った・・・その曲こそ、豊田勇造の最高傑作とも噂される永遠の名曲「大文字」である。

●同時期に西部講堂の屋根が鮮やかな青色にペイントされ、パレスチナ・リッダ空港で死んだ3人を追悼して赤い三ツ星が描かれた。(デザイン:五里攻氏)*当初、五里は屋根のデザインに政治的意味を持たせることに否定的であったが、高瀬のたっての希望により赤い三ツ星を追加することになったのである。
<1972 続き>

●マーキー(24歳)がロンドンより帰国し、京都市中心街にロックディスコ「ままりんご」をオープン。未だ、京都に日本最古のライブハウスと言われる「磔磔」や「拾得」がオープンする前の時期にあって、この店の京都サブカルチャーシーンに与えた影響力は絶大であり、西部講堂に出演した有名無名のアーティスト達にとっても「ままりんご」は、刺激的な最新のロック文化を交換し合う絶好の社交場・文化サロン的な役割も果たした。
ロックディスコとは、現在において全国に普及した所謂「ライブハウス」とは違い、本場英国のクラブ(有名どころではマーキークラブ等)のシステムをそのまま踏襲したものである。毎日違う顔ぶれのアーティストが出演予定されているライブハウスとは異なり、箱バンド(その店に一定の期間連続して出演する契約をしたバンド)を雇い、客数が減少すると契約解消(クビ)となり新たな箱バンドと契約するシステムである。このシステムは安定した収入が確保できる点でアーティスト達には概ね好評であった。
当時の「ままりんご」に出演したアーティストには、ゴールデンカップス・かまやつひろし・山口富士夫バンド・上田正樹&サウストゥーサウス・柳ジョージ・桑名正博・ダウンタウンブギウギバンド・フラワートラベリングバンド等があり、そのどれもが当時人気・実力を兼ね備えた一流どころであった為店は連日盛況であり、経営者であるマーキー(24〜28歳までオーナー兼最高経営責任者)の年収は、今の貨幣価値に変換すれば3億円程あったらしい・・・
尚、1980年前後にヒットした歌謡曲「ダンシングオールナイト」(もんた&ブラザース)の歌詞は当時「ままりんご」のスタッフであった者が作詞、当時の店の雰囲気がそのまま表現されている。
当時の同業ディスコの経営者達は大体が経済ヤクザであったが、マーキーはその中でも図抜けて辣腕の経営能力があり、又中学時代から鍛えた喧嘩の能力も統率力も高く、高校3年の年齢に達した時点で配下に200人程の子分を持つに至っていた為、他の組長・若頭クラスの経済ヤクザ・博徒等の侠客達から一目も二目も置かれていた。
又、当時20代の若き侠客の中でも一二を争う男伊達でもあった為、異性からは愛され同性からは畏敬される正に裏社会のスター的存在であった。
京大西部講堂のロックイベント「MOJOWEST」の主催者であり、伝説のロックバンド「村八分」のプロデューサーとして当時一世を風靡していた京都美大講師でもある「木村英輝」(通称:キーヤン、当時29歳)も「ままりんご」の常連客であった。
キーヤンは、自分より5歳以上年下の若さでベンツSLやジャガーやポルシェを乗り回し、巨万の富を築いたマーキーの飛びぬけたビジネスセンスに驚愕及び着目し、何とかこの男と組んで今後大仕事が出来ないか・・と思いをめぐらした。
<1972 続き>

●今から思えば、1972年のキーヤンと「村八分」の関係は、1967年のアンディー・ウォーホールと「ベルベット・アンダーグラウンド」(以下VU)の関係に酷似している。
どちらのユニットも時代の風雲児として豊かな才能に恵まれ、歴史に残る数々の名パフォーマンスを繰り広げたが・・・・商業的には殆ど恵まれることなく、失意の内にそれぞれのバンド生命を終えている。
しかし、その後10年20年と長期に渡る年月の薫陶を受けるうち、彼らの芸術的価値が当初予測を遥かに上回る形で再評価されてきたことは、周知の通りである。
村八もVUもそれぞれのバンドから、2人のカリスマを輩出している。
VUからルー・リード(Vo、作詞・作曲)、ジョン・ケール(ビオラ、作曲)
村八分からチャー坊(Vo、作詞)、山口富士夫(ギター、作曲)であり、それぞれ不世出のロックアーティストとして表現芸術の歴史に残る人物達と言って良いと思う。
ただ、VU人脈のアーティスト達がバンド解散後、再評価により比較的経済的に恵まれた人生を歩んでいるのに対し、村八分人脈は解散後も不遇であり経済富裕層に到達した者は一人もいない。
チャー坊に至っては極貧の上に生涯薬物中毒(スピード・ヘロイン・コカイン・LSD等)から抜け出ることが出来ず、その後の人生において表現者としての天才性を満足に発揮することも出来ないまま、危険な組み合わせのオーバードラッグにより1994年に生涯を閉じている。

チャー坊の才能は、音楽より寧ろ文学・演劇(詩作・パフォーマンス等)において発揮されるべきであったと評する人もいる。
チャー坊の本質は、青白い頬をし痩せた文学少年なのであるが、17歳の時、アメリカでローリングストーンズを目撃し衝撃を受けた彼はその本質を何故か忌避・封印し、飽くまで反抗的で無教養な不良少年の役を自ら任じ一生涯それを演じ続けようとした。
実はこの役を演じ続けることは、最初期からして繊細で寧ろ優しい心根を持つ青年の内面を酷く苦しめることになっていたのではないか・・・と思われ、それが薬物依存に拍車をかけたのではないかとの見方も出来る。
「ライブ村八分」の1曲目「あっ!」の歌詞を注意深く聴くとそのことがよく解る。
チャー坊が、もし薬物中毒を克服し表現の対象を音楽から文学の分野にシフトしたとしたら・・・恐らく「中原中也」のレベルに肉薄する詩文学の巨人になっていた可能性もあり、今となっても尚その才が惜しまれる・・・

村八分の公式音源は1973年5月の西部講堂での解散コンサートの実況録音である「ライブ村八分」のみであり、村八分全盛期(1971〜73年)のライブをリアルタイムで目撃した人の数が極端に少ないことから「伝説のロックバンド」と称されて久しい。
あの頃にタイムスリップしてしまう

第1回MOJO WESTを知ったのは”平凡パンチ”の記事です。
こりゃ凄いと即行ったのは2回目か3回目か・・・
忘れてしまいました。
僕にとってROCK FES初体験だったのでかなり強烈でした!
スラッシュ TOO MUCH  ウエストロード・・・ムードめちゃウマかった。
爆音とサイケ照明と甘い香で別世界に連れてかれました。

あんなイイFESは、後にも先にもなかったね。

はねた後は、百万遍近くだっけ?『縄文』というロックBARがあって
フラワーな世界でした。夜泊まるとこが無かったので
京大熊野寮とか神社とかで寝てた。
あと京大生のロック好きのヤツとかも軽く泊めてくれました。
一緒にCSNYとか麻まで聴いてたな!

俺 58歳 今はレゲェ好きですわい!
>レオナルド・藤居様

コメント有難うございます! 
実は自分は1972年生まれの為、当時の事は全くの未体験であり、リアルタイマーの方が羨ましくて溜まりません(〃´o`)=3

今後とも色々とご教授下さいます様宜しくお願いします。 m(__)m
’72生まれって小学生の頃って世の中punkじゃないですか・・・
あの頃もpilとかラモーンズとかフリクションとか
まだrockもあったな!

しかしmojo westあたりをフィールドワークにする事が凄いね!
たしかにカウンターカルチャーの超みずみずしい時代だよね。
『アマちゃん』が京都で生まれた頃
僕はヒッピースタイルで縄文とかぶらついてたんだぁ
まだ市電が走ってたなぁ。

こちらこそ宜しく
別サイトで読んだどんとさんのコメントも大変面白かった。30代でハワイで客死してしまい残念でしたが、ハンサムで、常に世界への怒りと音楽ヘの情熱を持った本当に熱い行動派だった。あんなに熱い京大生は、もう出現しないのか、いや、別分野(医学とか)でがんばっているのだろうか。
小松辰夫さんは前衛アート界で多いに京都を拓いていった大立役者、彼もお酒関係で体を悪くしてあまり長生きされなかったようで、「ヘルシー」なんて感覚はまったくなかった時代が懐かしい(苦笑)。
「ナチュラル」っていうのは、今と全然意味が違いましたよね(これも苦笑)。

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