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ダイオキシン中毒(カネミ油症)コミュの[GEN 620] 枯葉剤機密カルテル【第34回】

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     世界の環境ホットニュース[GEN] 620号 05年11月16日
     発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第34回)         
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 枯葉剤機密カルテル                    原田 和明

第34回 PCBも枯葉剤?

ベトナム戦争の枯葉作戦で、大量の枯葉剤をベトナムに送りこむためダウ・ケミ
カル社が世界的な分業体制を構築していたように、ダウ・ケミカル社と並ぶ枯葉
剤供給メーカーであるモンサント社はPCB(ポリ塩化ビフェニル)の世界的な
生産体制を構築していました。

モンサント社は1930年代にPCBメーカーであったスワン社を買収してPCB事
業化に乗り出し、まもなく第一次世界大戦が勃発しました。耐炎性抜群のPCB
は軍需用途に爆発的に売れたのですが、同時に事故も多発、多数の工場労働者が
有機塩素化合物の中毒と見られる「塩素挫創」に罹り、肝炎による3名の死亡も
確認されています。戦後、需要を失うと同時に被害も減少。第二次世界大戦でも
同じことが繰り返されました。第二次大戦後、軍需用途を失ったPCBは再び生
産過剰となり、新たな用途開拓の必要に迫られ、農薬に混合して効力持続剤、効
力増強剤として大きな需要を見出したのでした。

245Tは除草剤(殺草剤)、PCBは殺虫剤の添加剤という効能の違いはあっ
ても、ともに農薬としての利用と、工場労働者の被災(しかも類似の症状)とい
う共通項がここで見出されました。モンサント社が これらの 化学薬品の不純物
(このときはダイオキシンとはわかっていなかった)に化学兵器用途として関心
をもったのも1940年代後半のことでした。(エコロジスト誌編集部「モンサント
ファイル」緑風出版1999)

モンサント社は米・英・カナダで自社生産(商品名:アロクロール)する一方、
西ドイツ・バイエル社(同:クロフェン)、フランス・プレデレ社(フェノクロ
ール)、イタリア・カファロ社(フェンクロール)、スペイン・フリックス社、
ソ連(ソヴォール)、ポーランド、チェコなどにライセンス供与して世界のPC
B市場を独占しました。唯一の例外が日本で、鐘淵化学が1954年に独自技術で事
業化に成功。なぜかモンサント社は日本での事業化を見合せていたのです。しか
し諦めていたわけではなく、子会社・三菱モンサント(持株モンサント51%、三
菱化成49%)がカネミ油症事件後の1969年に事業化という不自然な経緯を辿って
います。

三菱モンサントのPCB事業化は1967年6月に申請、9月に通産省が認可、1969年
9月から 生産開始ですから、ピンクの薔薇 プロジェクト 終了後に申請を出し、
1968年3月のダーク油事件、10月のカネミ油症事件はともに、工場建設途中だっ
たことになります。

モンサント社が有望な日本市場を15年間も放置していたのは、PCBの生産量を
秘密にしておくためではなかったかと思われます。国内にメーカーが1社しかな
い工業製品はその生産量を工業統計に記載しなくてもよいというルールがあって、
そのためモンサント社が独占していた世界中のPCB生産量は秘密の状態に置か
れていたのです。PCB汚染を調査していた米国科学アカデミーの問い合わせに
もモンサント社は回答を拒否しています。もしモンサント社が日本市場に参入す
れば、1国2メーカーとなり、PCBの生産量を公表しなければならなくなるの
です。

事実、東大で自主講座を開いていた宇井純が、三菱モンサントの操業開始後、日
本の統計データを基に世界のPCB生産量を推計した資料を米国の会議で示すと、
PCB汚染に関心を持っていた世界の研究者がこれにとびついたのです。宇井も
このとき初めてPCBの生産量がそれまで秘密だったことを知り驚いています。
(1972.4.13 衆院公害対策並びに環境保全特別委員会)モンサント社にとって日
本市場を棄ててでもPCB生産量は秘密にしておくべき価値があったということ
でしょう。そして1967年春になると、PCBの生産量が公開になっても日本で事
業化することにメリットがあるというふうに状況が変化したと考えられます。

この頃の状況の変化といえば、「枯葉剤(有機塩素化剤)+ナパーム弾→ダイオ
キシン」の発想の登場であり、ピンクの薔薇プロジェクトに続き、ヒナ水腫事件
の原因判明、ダーク油事件、カネミ油症事件、三井東圧化学での被災事故とダイ
オキシン被災事件が頻発しています。米軍が米国内の生産能力を遥かに上回る大
量の枯葉剤を発注したのもこの頃でした。

1972年4月13日の衆院公害対策 並びに 環境保全 特別委員会に参考人と呼ばれた
三菱モンサント化成株式会社 第三事業部長・采野純人に 島本虎三(社会党)が
この点を質しています。

 島本虎三
 「企業化の時点で親会社であるモンサント社からPCBは危険であることを知
 らされていたのではないですか? モンサント社はPCBの危険性を認識して
 いたからこそ、その生産量を秘密にしていたのではないですか?」

 采野純人
 「あやしいという報告は、1969年の初め頃、米紙サンフランシスコ・クロニク
 ルという新聞に出ておりまして、あやしいということは聞いておりました。と
 ころが、まだ人体への毒性とかいうような点がもう一つはっきりしないという
 ような状況でありました。モンサントからもこれが絶対にあぶないというよう
 なインフォーメーションもございませんまま、それから、昨年(1971年)まで、
 どのくらいあれば人体に影響があるかというようなこともはっきりいたしませ
 んでしたので、生産は続け、販売は続けるという状況で推移をしたわけでござ
 います。」

島本はその委員会で同席していた東大助手・宇井純にその場で事実関係を確認し
ています。宇井はカネミ油症事件(1968年)もあったし、職業病としては戦前か
らあり、PCBメーカーの鐘淵化学でも被災が続いていたから人体に有毒である
ことはわかっていたと証言しています。

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