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ダイオキシン中毒(カネミ油症)コミュの「58年間ヒバクシャを診てきた 3」たんぽぽ舎 

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●何日もたって遠くから来た人から同じ病気が出始めたんです●

3日目ぐらいから、私たちの村にも遠くから身内を訪ねてくる人がいっぱい来てました。大阪からも来る、九州からも来る、青森からも。もう1週間目のあたりはわんわんに人が来ます。それは自分の身内が広島へ行っていて、息子だったり、あるいは娘だったり兄弟だったり。で、みんな、新聞を見てもラジオを聴いても、「広島に米軍が特殊爆弾を投下した。相当な被害が出た模様」と、これだけが大本営発表なんですね。翌日の新聞を見ても大きな見出しでこれだけしか書いてない。何が起こってどうなったかっていうのは全然書いてないんです。だから、そういうのを見た人はみんな、自分の息子どうなったか、娘どうなったかっていうのが心配で来られるわけですね。

 で、村へ来ると、そういう人たちはみんなきれいなもの着てますから、すぐ分かるんです。ヒバクシャはみんな裸かボロです。焼け焦げたボロをまとってる。きれいなもの着てる人はみんなあとから来た人ですね。この人たち、僕らが忙しい仕事をしてても村へ入ってくるとみんな大きな声で、「大阪のどこどこの何の誰姉ちゃーん」とか「東京の何とかの何とかちゃーん」とかね、名前を言うんです。そして捜すんです。なぜなら、顔を見ても誰も分からない。息子だろうが娘だろうが、顔で分かる人は誰もいない。だからみんな大きな声を出して、誰かいないかって捜すんですね。そうすると、どっかで大きな声で、「ああ、その何とかちゃんはここにはいないよー。どこどこの村へ逃げたの知ってるよー」、そういう情報が出るんですね。まれに、そこでばったり本人に会う場合もあります。

 そういう中で、本当にびっくりしたんですけれども、爆弾を浴びてない、何日もたって遠くから来て広島へ入って捜して歩いた、この人から同じ病気が出始めたんです。これは本当に恐ろしかったですね。

 あの、私の受け持ちがありましてね、受け持ちっていってもそのむしろのベッドですよね。区域が決まってて、向こう側の松の木からこっちの土蔵の角、その間が私の受け持ちなんです。病室なんですね。それを毎日回って手当てをする。私の受け持ちの所に土蔵が一つあった。土蔵って中は涼しいですね。屋根は飛んでますけれどもそこは一番涼しくて居心地がいいから、重症をそこに入れてある。20数人のもう焼け焦げた人が入ってました。毎日3人、4人がそこで死にます。死ぬとすぐまた重症が運び込まれる。だから私は朝起きると一番先にそこを見る。そしてまた、お昼を持っていくんですね。

 ある日、朝行ったら何でもなかったのに、お昼に行ってみたら、その中で一番軽い人が1人いたんですよね。その農家の親戚の人らしくて、重症でなくて軽いんだけどそこにいた。それは一番隅に寝てたんですが、その隅の隣に若い女の人が着物を着て仰向けに寝てるんです。で、何かおかしい。まあ見舞いに来たか捜しに来たんだろう、風邪引いて寝てるんだなと、もう診もしない。こっちはご飯も食べなければ水も飲まない、夜も寝ないでもうくたくたになって仕事してますから、そんなもの診る気がない。
 それでまあずっと仕事をしてて、そのすぐ隣に一番重症の兵隊さんがいたんです。この重症の人を診終わって帰ろうとしたら、その重症の人が私をつかまえて言いました。もうそれから3日後に死んだ人ですから大して力もないんですけれども、私をつかまえて小さな声で、「軍医殿、お忙しくて悪いけれども、隣に寝てる奥さんが熱を出してるから診てあげてください」。もう本当にあの頃の人間はみんな親切でした。自分が死にそうになっても人のことがとても心配になる。
 で、言われたから、放っておくわけにはいかないのでそばへ行って、どうせ風邪だろうと思うから、奥さんは目をつぶってましたから目を開けて診て、聴診器を当てて、口の中を診て、「ああ、風邪ですね。お薬一つあげましょう」。もうあの頃、お薬が貴重品だったんです。熱冷ましでも、当時の日本には今のように錠剤はありません。みんな薬局ですり鉢みたいな所で擦って混ぜ合わせて、1包、1包、薬包紙に包んであるわけですね。そのもったいないのを一つあげて、「これ飲んで寝てらっしゃい。何日かしたらこんなものすぐよくなります」。で、そのまま私は出た。

 翌日行って、同じ寝てる。その翌日も寝てた。3日目の時に声かけようかと思ったんだけど、忙しいからやっぱり診ないで出ちゃった。4日目に行ったら、同じ格好で寝てるんですよ、仰向けになって。で、顔が真っ青なんです。これ、ちょっと心配なんでそばへ寄ってひょっと見たら、若い20代の奥さんですが、はだけてる白い肌に紫色の斑点が出てるんです。あの原爆にやられて死んでった人と同じなんです。えー、と思ってね。恐ろしいから、「奥さん、どうしたんですか」。そしたら、だいぶもう体が弱ってました。目を細く開けてね、「実は」って話してくれたんです。

 この人はちょうど1年前に、広島の真北の日本海に出た松江で結婚をしたんです。だんなは、松江の県庁に勤めてた当時のお役人、公務員ですよね。結婚をしてすぐ広島の県庁に転勤になった。だから新婚のまま広島へ来て、それでどこかの間借りをして、だんなは県庁へ勤める、奥さんは国防婦人会のたすきを掛けて、千人針で戦地の慰問袋を作ったりということをしてた。ちょうど1年たって、お腹が大きくなる。それで、お産をするのには知らない広島じゃ駄目だから、実家へ帰るっていうんで、奥さんはちょうど一月前の7月にお産のために松江へ帰った。それで松江で子供を産んだんです。
 だんなはその間ずっと県庁へ勤めて、当日の朝早くの6時頃、上役の人に言われて書類を探すために県庁へ行って、地下室で書類探してた。だからだんなはピカも何にも知らないんですよ。いきなりドーンといって天井が落ちてきて、大きな丸太に足を挟まれて足の骨が折れちゃった。で、その下敷きになってるんですね。で、そばにいたあまり怪我の少ない連中が来て寄ってたかって助け出して、背中に負ぶって、ちょうど火の出始めた広島を突っ切って、親戚があるっていう私のいた村まで逃げてきたんですね。

 で、奥さんはちょうど1週間目にラジオと新聞で広島が大変だって言うのを聞いたもんだから、どうしようかと思ってたら、広島から逃げてきた人がいたんです。その人があることないことじゃないけど、広島大変だっていうんでとにかくしゃべって回ってる。「広島はもう家は1軒も建ってない。全部焼けて潰れた。そして人間は1人も生きてる者はおらん」。そういう話をするもんだから、奥さんそれを聞いてちょうど1週間目に広島へ出てきたんです。赤ん坊をお母さんに預けて出てきて、それで焼け跡を捜して歩いた。

 皆さんご覧になったか分からないけども、広島へ入ってちょっと小高い所から街を見渡して、一番目印になるのはお城なんですよ。真ん中に広島城がある。これがあれば、海はあっちで広島城はここだから自分の所はこの辺だって見当がつく。ところが、真っ平で何にも見えないんですね。何にもない。で、奥さんは自分の家はどの辺だか訳が分からずに、とにかく歩き回った。5日か6日歩いて、とにかく何にも見当もつかない。
 そしたらやっぱりたくさん歩いてる人が、「奥さん、誰を探してるんだ」って言うから、「亭主を捜してる」って言ったら、「もし亭主が生きていたら、こんな所にはいない」、「この辺は下にあるのは骨ばっかりだ。だから、生きた亭主を捜したかったら村へ行って捜せ」と。で、それを聞いて村をずーっと捜して歩いて、僕の村へ来てだんなとばったり会った。だんなはそこで足が折れて、いたんですよね。だから重症なら奥さんは一所懸命看病するんだけど、だんなは足が折れて座ってるだけだけど、体は何ともないんです。だから奥さんはすることないから、近所の重症の手伝いをしてくれた。

 それで、その奥さんは結局は血を吐いて死にました。で、ヒバクシャが死んだのは、僕らは焼けて死んだと思ったけれども、そうじゃなくて、みんな放射線でやられてたんです。それで死ぬときはね、大量に血を吐く。それからお尻から出ます。女の人の前からも出る。だから血の海の中でみんな死ぬんです。で、こういうのを見て、しゃべれる医者はもう誰もいません。みんな死にました。まあ86まで今生きてる医者はもういませんからね、とうに。

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