ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系)コミュの「『百六箇抄』(具騰本種正法実義本迹勝劣正伝)なる相伝書は日蓮真筆ではない。後世の大石寺法主・9世日有の偽作だ」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「『百六箇抄』(具騰本種正法実義本迹勝劣正伝)なる相伝書は日蓮真筆ではない。後世の大石寺法主・9世日有の偽作だ」

日蓮正宗や創価学会、顕正会などでは、「百六箇抄」なる名前の文書の文章を引っ張りだしてきて、強引に「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊の文証(文書・文献に残っている証拠)に仕立て上げようとしている。
しかもこの「百六箇抄」を「日蓮からの重大な相伝書」などと位置づける日蓮正宗は、1994(平成6)年に出版した「大石寺版・平成新編日蓮大聖人御書」では、日蓮正宗大石寺67世法主阿部日顕が新たに「具騰本種正法実義本迹勝劣正伝」などという仰々しい、大げさな名前まで付けている。

日蓮正宗としては「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊の文証の位置づけを確たるものにしたいということなのかもしれないが、残念ながら、この「百六箇抄」なる名前の文書は日蓮の真書ではなく、後世の法主で「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊や「日蓮本仏論」「御本尊七箇相承」「産湯相承事」等々を偽作・でっち上げた日蓮正宗大石寺9世日有が捏造した偽作文書、つまり真っ赤なニセ文書なのである。

このトピックでは「百六箇抄」に焦点を当てて、「百六箇抄」なる文書の正体を徹底的に丸裸にする。ここでは
□「百六箇抄」は、日蓮、日興、日目とは全く無関係の偽作文書であること
□「百六箇抄」は、日蓮正宗大石寺9世法主日有が偽作した文書であること
□「百六箇抄」を偽作したのは、京都・日尊門流・要法寺ではないこと
ということを証拠を以て明らかにする。

(注)
このトピックに書かれている内容について、質問・意見・異説・絶賛のある方は、こちらへ。

「日蓮&日蓮正宗の教義的・ドグマ的問題点」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=9227810&comm_id=406970

日蓮正宗現役信者ないしは『百六箇抄』日蓮真造論者の反論は、「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」コミュニティの中にある下記のトピックに書き込んでください。

「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4011664

百六箇抄 全文


具謄本種・正法実義・本迹勝劣正伝・本因妙の教主・本門の大師・日蓮謹て之を結要す 
万年救護写瓶の弟子日興に之を授与す云云。脱種合して一百六箇之れ在り。
霊山浄土・多宝塔中・久遠実成・無上覚王・直授相承、本迹勝劣・口決相伝の譜、久遠名字より已来た本因本果の主、本地自受用報身の垂迹、上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮詮要す。

一、理の一念三千・一心三観の本迹、  三世諸仏の出世成道の脱益寿量の義理の三千は、釈迦諸仏の仏心と妙法蓮華経の理観の一心とに蘊在せる理なり。
   〈本迹〉 〈経の本迹は常の如し〉 
二、大通今日法華の本迹、 久遠名字本因妙を本として中間・今日下種する故に、久成を本と為し、中間・今日の本迹を倶に迹と為る者なり。
 
三、応仏一代の本迹、 久遠下種・霊山得脱・妙法値遇の衆生を利せんが為に、無作三身寂光浄土従り三眼三智をもつて九界を知見し、迹を垂れ権を施し後に説く妙経の故に、今日の本迹共に迹と之を得る者なり。
 
四、迹門為理円の一致の本迹、 松柏風波万声一如、諸法実相の理上の観心は、応仏の域を引かえたる故に、本迹とは別れども、唯理の上の法相なれば本迹理観の妙法と顕す。迹化は付属無きが故に之を弘めず。
   〈母の義なり〉  〈地の義なり〉 
五、心法即身成仏の本迹、 中間今日も迹門は心法の成仏なれば、華厳・阿含・方等・般若・法華の安楽行品に至るまで円理に同ずるが故に、迹は劣り本は勝るる者なり。
   〈女の義なり〉 
六、心法妙法蓮華経の本迹、 山家の云く「一切の諸法は従本已来、不生不滅性相凝然、釈迦口を閉ぢて身子言を絶す」云云。
方便品には理具の十界互具を説く。本門に至て顕本理上の法相なれば、久遠に対して之を見るに、実相は久遠垂迹の本門なる故に色法に非るなり。
 
七、従因至果中間今日の本迹、 像法の修行は天台・伝教弘通の本迹は、中間今日の迹門を因と為し本門修行を果と為るなり。
 
八、本果の妙法蓮華経の本迹、 今日の本果は従因至果なれば本の本果には劣るなり。
寿量の脱益、在世一段の一品二半は、舎利弗等の声聞の為の観心なり。我等が為には教相なり。情は迹劣本勝なり。
又滅後・像法・相似・観行・解了の行益も以て是くの如し。南岳・天台・伝教の修行の如く末法に入て修行せば、帯権隔歴の行と成て我等が為には虚戯の行と成るべきなり。日蓮は一向本、天台は一向迹、能く能く之を問ふべし。
 
疏の九に云く「爾前皆虚にして実ならず、迹門は一虚一実、本門は皆実不虚」云云。
爾前二種の失の事、一には存行布故仍未開権とて、迹門の理の一念三千を隠せり、二には言始成故尚未発迹とて、本門の久遠を隠せり。迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説て、爾前二種の失一つ脱がれたり。
本門に至て迹門の十界因果を打破る、是即ち本因本果の法門なり。実の一念三千も顕れず、二乗作仏も定らず云云。
世間の罪に依て悪道に堕ん者は爪上の土、仏法に依て悪道に堕ちん者は十方の土の如し。故は信心の根本は本勝迹劣、余の信心は枝葉なり。
 
九、余行に渡る法華経の本迹、 一代八万の諸法は本因妙の下種を受けて説く所の教なるが故に、一部八巻乃至一代五時次第梯隥は、名字の妙法を下種して熟脱せし本迹なり。
 
十、在世観心法華経の本迹、 一品二半は在世一段の観心なり、天台の本門なり。日蓮が為には教相の迹門なり云云。
 
十一、脱益の妙法の教主の本迹、 所説の正法は本門なり、能説の教主釈尊は迹門なり。法自ら弘まらず、人法を弘るが故に人法ともに尊し。
 
十二、脱益の今此三界の教主本迹、 天上天下唯我独尊は、迹身門、密表寿量品の「今此三界」は即本身門なり。
 
十三、脱益像法時尅弘経の本迹、 天台の本迹は倶に日蓮が迹門なり。時尅亦天地の不同之在り。 
 
十四、脱益の迹門修行の本迹、 正法一千年の修行の徳より、像法一日の徳は勝れたるなるべし。
 
十五、脱益迹門自解仏乗修行の本迹、 熟益は迹、脱益は本なり。之に就て之を思惟すべし。
 
十六、脱の五大尊の本迹、 他受用応仏は本、普賢・文殊・弥勒・薬王は迹なり。
 
   〈本迹天台〉 
十七、脱の真俗二諦の本迹、 天台大師弘通の本迹前十四品は迹門に約し、後の十四品は本門に約す云云。「是法住法位 世間相常住」文。
 
十八、前十四品悉く流通分の本迹、 如来の内証は序品より滅後正像末の為なり。薬王菩薩は像法の主天台是なり。密表の法師品に云く「今此三界」文。
 
十九、脱益理観一致の本迹、 「本迹殊なりと雖も不思議一」と云ふは、今日乃至中間の本迹は本迹と分別すれども、本因妙を下種として説く所の本迹なれば、迹の本は本に非ず云云。
 
二十、脱益戒体の本迹、 爾前・迹門・塾益の戒体を迹とし、脱益の戒体を本と為るなり。迹門の戒は爾前大小の戒に勝れ、本門の戒は爾前迹門の戒に勝るるなり。
 
二十一、脱の迹化七面の本迹、 像法には理観を本と用ふるなり故に天台は迹を本と為し、本を迹と行ずるなり。
 
二十二、脱の迹化本尊の本迹、 一部を本尊と定むるに前十四品は迹、後十四品は本と云云。是は一部八巻なり云云。
 
二十三、脱益守護神の本迹、 守護する所の法華は本、守番し奉る処の神等は迹なり。本因妙の影を万水に浮べたる事は治定と云云。
 
二十四、脱益山王の本迹、 久遠中間に受くる処の法華は本、夫れより守り来る所は垂迹なり、下種は本因妙なり云云。
 
二十五、脱迹十羅刹女の本迹、 久遠中間今日の理・事は本、中間大通今日出世冥守する処は垂迹なり、下種は前の如し云云。
 
二十六、脱迹付属の本迹、 脱益の迹化付属は中間大通を本とし、今日初住の終を迹とするなり、受くる正法は本、持つ方は迹なり。
 
二十七、脱迹開会の本迹、 大通の初を開と云ひ、今日初住の終りを会と云ふなり。本は大通、迹は初住なり。初顕を開と云ひ、終合を会と云ふ云云。案位も理上の案位なり。
 
二十八、脱益成仏の本迹、 寿量品は本、応仏は迹なり。無作三身寂光土に住して、三眼三智をもつて九界を知見す云云。
 
二十九、脱迹三種教相の本迹、 二種は迹無開会、一種は本有の開会なり。一種は開顕、二種は不開会、所従眷属の教相なり云云。
 
三十、脱の五味所從の本迹、 天台・伝教の五味は横竪ともに所從なり。五味は本、修行の人は迹なり。在世以て此くの如し云云。
 
三十一、脱迹父子の本迹、 応仏は本、迹仏は迹なり。「子、父の法を弘むるに世界の益あり」云云。
 
三十二、脱迹師弟の本迹、 義理共に上に同じ。「是れ我が弟子応に我が法を弘むべし」云云。
 
三十三、脱益感応の本迹、 久遠の天月の影を中間今日の脱益の水に移すなり。「衆生久遠に仏の善巧を蒙る」とは是なり。
 
三十四、脱益寂照の本迹、 理の上の寂照は妙覚乃至観行等の解了なり。理即の凡夫は無体有用の本迹なり。
 
三十五、脱益随縁不変の本迹、 在世と像法と之同じ。真如の義理なり。随縁も不変も共に理の一段の本迹なり。
 
三十六、脱益九法妙の本迹、 三法妙に各三法妙を具すれば九法妙なり、法中の心法妙より起る所の生仏二妙なり。本迹知るべし。
 
三十七、脱益八相八苦習合の本迹、 八相は本、八苦は迹。同体の権実是なり。
 
三十八、脱益の灌頂等の本迹、 灌頂とは至極なり。後世仏・菩薩の灌頂は法華経なり。迹門の灌頂は方便読誦「欲令衆生 開仏知見」なり。本門の灌頂は寿量品読誦「然我実成仏已来」なり。
 
             〈事戒〉 〈理戒〉 
三十九、脱益説所戒壇本迹、 霊山は本、天台山は迹、久遠と末法とは事行の戒、事戒理戒、今日と像法とは理の戒体なり。
 
四十、脱益三世三仏利の本迹、 世世番番の教主は本、所化の衆生は迹なり。世世已来常に我が化を受け、番番に出世し師と倶に生ず。
 
四十一、脱益証明多宝仏塔の本迹、 妙法蓮華経皆是真実は本、多宝仏は迹。迹門八品乃至本門之を指すなり云云。
 
四十二、脱益序正流通現文の本迹、 経文釈義の如く、理の上の正宗流通序文なれども本は勝れ迹は劣るなり。然るに迹は本無今有なれば、久遠の迹を脱として今日の本を説くなり云云。
 
四十三、脱益摂受折伏の本迹、 天台は摂受を本とし折伏を迹とす。其の故は像法は在世の熟益冥利の故なり。福智具足の故と云へり。
 
四十四、脱益二妙の本迹、 相待妙は迹、絶待妙は本。「妙法の外に更に一句の余経無し」云云、「独一法界の故に絶待と名く」の釈之を思ふべし。
 
四十五、脱益十妙の本迹、 本果妙は本、九妙は迹なり。在世と天台とは、機上の理なり。仏は本因妙を本と為し、所化は本果妙を本と思へり。
 
四十六、脱益六重所説の本迹、 已今を本と為し余は迹なり。「本迹殊なりと雖も不思議一」云云。理具の本迹なれば一部倶に迹の上の本迹なり。
 
四十七、脱益六即所判の本迹、 妙覚は本、余は迹なり。玄九に云く「初の十住を因と為し十行を果と為す、十行を因とし十廻向を果とし、十廻向を因とし十地を果とし、十地を因と為し等覚を果とし、等覚を因とし妙覚を果と為す」云云。
 
四十八、脱益十不二門の本迹、 理の上の不変の不二にして、事行の不二門には非るなり。
 
四十九、脱益十界互具の本迹、 理具の十界互具にして事行の互具には非ざるなり。九界の理を仏界の理に押し入るる方ならでは脱せざるなり。
 
五十、脱益十二因縁四諦の本迹、 経に云く、無明乃至老死云云、苦集滅は迹なり、道諦は本なり。
 
五十一、脱益の三土の本迹、 報土は本、同居方便は迹なり。
 
妙楽云く「雖脱在現」。本迹理上の一致なり、心は寿量品も文は現量なれども、上行所伝の本因妙を唱へ顕しての後は、只久遠の教相にて成仏肝要の観心には非ずと云云。
 
籖一に云く「本中体等迹と殊ならず」。脱益の妙覚乃至観行相似等の妙法蓮華経は理に即して事を含む、然も本迹一致に非ず、破廃立本云云。
玄七に云く「権実は智に約し教に約す」。化他不定の時、施す所の権実八教なり。「両所殊ならず」。久遠の本今日の脱益と両所なり。
 
籖七に云く「理浅深無し故に不殊と曰ふ」。本因本果の理を、今日中間にも寿量顕本の理に推し入れて顕すと釈するなり。
籖七に云く「経に約すれば是れ本門と雖も、既に是れ今世迹中の本を名けて本門と為す。故に知ぬ、今日正く迹中利益に当る、乃至本成已後倶に中間と名く、中間本を顕すに利益を得る者尚迹益を成ず。況や復今日をや」。
 
文の意は、久遠本果の迹を中間今日の本と為す。又久遠名字の妙法の影を中間今日に垂迹する故に、下種に対して脱益寿量を迹と得たる証拠に釈する是なり。
 
疏の一に云く「衆生久遠に仏の善巧を蒙る」。久遠下種、霊山得脱。
 
籖十に云く「故に知ぬ、今日の逗会は昔の成熟の機に赴く」。霊山下種、久遠得脱の益。
 
記二に云く「本時の自行は唯円と合す」。本時とは本因妙の時なり。「化他は不定、亦八教有り」。中間今日化導の儀式なり。
玄七に云く「迹の本は本に非ず」。今日の本果妙の事なり。「本の迹は迹に非ず」。本因妙の事なり。「本迹殊なりと雖も不思議一なり」。本因妙の外全く迹無きなり。迹門は即ち顕本の後は本無今有の方便無得道なりと。
 
中島の証俊に何と問はれし時、俊範法印答て云く、不思議一と。求めて云く、其の義如何。答て云く、文在迹門義在本門云云と。会して云く、迹門既に益無し、本門益有り、本迹勝劣不思議一と云云。
妙楽云く「権実は理なり、本迹は事なり」。天台云く「本迹を二経と為す」と。如来の本迹は理上の法相なり、日蓮の本迹は事行の法相なり。
以上脱の上の本迹勝劣口決畢ぬ。
 
一、事の一念三千・一心三観の本迹、 釈迦・三世の諸仏・声聞・縁覚・人天の唱る方は迹なり、南無妙法蓮華経は本なり。
 
二、久遠元初直行の本迹、 名字本因妙は本種なれば本門なり。本果妙は余行に渡る故に本の上の迹なり。久遠釈尊の口唱を今日蓮直に唱ふるなり。
 
三、久遠実成直体の本迹、 久遠名字の正法は本種子なり。名字童形の位釈迦は迹なり。我本行菩薩道是なり、日蓮が修行は久遠を移せり。

四、久遠本果成道の本迹、名字の妙法を持つ処は直体の本門なり。直に唱へ奉る我等は迹なり。
 
五、久遠自受用報身の本迹、 男は本、女は迹、知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決すべき者なり。
 
六、久成本門為事円の本迹、 上行所伝の妙法は名字本有の妙法蓮華経なれば事理倶勝の本なり、日蓮並に弟子檀那等は迹なり。
 
七、色法即身成仏の本迹、 親の義なり父の義なり、涌出品より已後我等は色法の成仏なり。不渡余行の妙法は本、我等は迹なり。
 
八、色法妙法蓮華経の本迹、 男子と成て名字の大法を聞き、己己物物事事本迹を顕す者なり。又今日二十八品の品品の内の勝劣は、通号は本なり勝なり、別号は迹なり劣なり云云。
 
妙楽疏記九に云く「故に知ぬ、迹の実は本に於て猶虚なり」。籖十に云く「今日は初成を以て元始と為し〈爾前〉、迹門は大通を以て元始と為し〈迹門〉、本門は本因を以て元始と為す〈本門〉」。此の釈は元始・本迹・遠近勝劣を判ずるなり。
 
本果妙は然我実成仏已来、猶迹門なり、迹の本は本に非ざるなり。本因妙は我本行菩薩道、真実の本門なり。本の迹は迹に非ず云云。我が内証の寿量品は迹化も知らず云云。重位秘蔵の義なり。本迹と分別する上は、勝劣は治定なれども、末代には知り難き故云云。
 
九、久遠従果向因の本迹、 本果妙は釈迦仏、本因妙は上行菩薩、久遠の妙法は果、今日の寿量品は花なるが故に、従果向因の本迹と云ふなり。
 
十、本因妙法蓮華経の本迹、 全く余行に分たざりし妙法は本、唱ふる日蓮は迹なり。手本には不軽菩薩の二十四字是なり。又其の行儀是なり云云。
 
十一、不渡余行法華経の本迹、 義理上に同じ。直達の法華は本門、唱ふる釈迦は迹なり。今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違はざるなり。
 
十二、下種の法華経教主の本迹、 自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。
 
十三、下種の今此三界の主の本迹、 久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり。久遠は本、今日は迹なり。三世常住の日蓮は名字の利生なり。
 
十四、下種得法観心の本迹、 久遠下種の得法は本なり、今日・中間等の得法観心は迹なり。分別功徳品の名字初随喜の文の如し云云。
 
十五、下種自解仏乗の本迹、 名字の妙法を上行所伝と聞き得る方は自解仏乗の本なり。聞き得て後受持する我等は迹なり。故に伝教より日蓮は勝るなり云云。
 
十六、末法時刻の弘通の本迹、 本因妙を本とし、今日寿量の脱益を迹とするなり。久遠の釈尊の修行と今日蓮の修行とは芥子計も違はざる勝劣なり云云。
 
十七、本門修行の本迹、 正像二千年の修行は迹門なり、末法の修行は本門なり。又中間今日の仏の修行より、日蓮の修行は勝るる者なり。
 
十八、本門五大尊の本迹、 久遠本果の自受用報身如来は本なり、上行等の四菩薩は迹なり。
 
十九、日蓮本門弘通の本迹、 本因妙は本なり、我本行菩薩道は迹なり云云。
 
二十、本化事行一致の本迹、 「本迹殊なりと雖も思議一」云云。本因妙の外に並に迹とて別して之無し。故に一と釈する者なり。真実の勝劣の手本の義なり云云。
 
二十一、後十四品皆流通の本迹、 本果妙の釈尊本因妙の上行菩薩を召し出す事は一向に滅後末法利益の為なり。然る間日蓮が修行の時は、後の十四品皆滅後の流通分なり。
 
二十二、下種戒体の本迹、 爾前迹門の戒体は権実雑乱、本門の戒体は純一無雑の大戒なり。勝劣天地、水火尚及ばず。具に戒体妙の如し云云。
 
二十三、本化七面の本迹、 末法には事行を本とし、在世と像法とには理観を本とするなり。天台の本書は理の上の事なれば一向迹門の七決、我家の本書は事の上の本なり。
 
二十四、下種三種法華の本迹、 二種は迹なり、一種は本なり。迹門は隠密法華、本門は根本法華、迹本文底の南無妙法蓮華経は顕説法華なり。
 
二十五、本化本尊の本迹、 七字は本なり、余の十界は迹なり。諸経諸宗中王の本尊万物下種の種子無上の大曼荼羅なり。
 
二十六、下種守護神の本迹、 守護し奉る所の題目は本、護る所の神明は迹なり。諸仏救世者現無量神力云云。
 
二十七、下種山王神の本迹、 久遠に受くる所の妙法は本、中間今日未来までも守り来る所の山王明神は即迹なり。
 
二十八、下種十羅刹女の本迹、 此の義理上に同じ。唯神明と十女を本迹に対する時、十羅刹女は本、神明は迹なり。
 
二十九、本門付属の本迹、 久遠名字の時受る所の妙法は本、上行等は迹なり。久遠元初の結要付属は日蓮今日寿量の付属と同意なり云云。
 
三十、本門開会の本迹、 久遠の本会を本と為す、今日寿量の脱を迹と為るなり。妙楽云く、始顕を開と云ひ、終合を会と云ふ文。
 
三十一、下種成仏の本迹、 本因妙は本、自受用身は迹。成仏は難きに非ず、此の経を持つこと難ければなり云云。
 
三十二、下種の三種教相の本迹、 二種は迹門、一種は本門なり。本門の教相は教相の主君なり。二種は二十八品、一種は題目なり。題目は観心の上の教相なり。
 
三十三、五味主の中の主の本迹、 日蓮が五味は横竪共に五味の修行なり。五味は即本門、修行は即迹門なり。
 
三十四、本種師弟不変の本迹、 久遠実成の自受用身は本、上行菩薩は迹なり。三世常恒不変の約束なり。
 
三十五、本種父子常住の本迹、 義理上に同じ。久遠の名字即の俗諦常住の父子は、今日蓮が修行に殊ならず。世間相常住是なり。
 
三十六、四土具足の本迹、 三土は迹、常寂光土は本なり。四土即常寂光、寂光即四土の浄土は、唯本門弘経の道場なり。
 
三十七、下種の感応日月の本迹、 下種の仏は天月、脱仏は池月なり。天台云く、不識天月但観池月云云。
 
三十八、下種の随縁不変の本迹、 体用同時の真実真如一口の首題なり。本有の迹、本有の一念三千是なり。随縁不変一念寂照の本迹なり。
 
三十九、下種の九法妙の本迹、 久遠下種の妙法は本、已来の九法は迹なり。
 
四十、下種の人天の本迹、 久遠下種の妙法は本なり、已来の人天は迹なり。
 
四十一、下種の八相八苦習合実勝の本迹、 脱の八相は迹、種の八相は本。脱の八苦は迹、種の八苦は本なり。煩悩即菩提・生死即涅槃・常在此不滅と云へり。
 
四十二、下種の最後直授摩頂の本迹、 久遠一念元初の妙法を受け頂く事は、最極無上の灌頂なり。法は本、人は迹なり。
 
四十三、下種の弘通戒壇実勝の本迹、 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり。
〈上行院は祖師堂云云弘通所は総じて院号なるべし云云〉 
 
四十四、下種の寂照実事体用無上の本迹、 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり。人は迹、仏は本なり云云。
 
四十五、下種の三世三仏実益の本迹、 日蓮は下種の利益、三世九世種熟脱本有一念の利益なり。天台云く、若しは破若しは立、皆是法華の意の修行の利益なり。
 
四十六、下種の証明多宝仏塔の本迹、 久遠実成無始無終本法の妙法蓮華経皆是真実は本なり、久遠の本師は妙法なり、本有実成の釈迦・多宝は迹なり。
 
四十七、下種の序正流通文底の本迹、 応仏と天台とは正宗一品二半を本門と定め、現文の勝劣。報仏と日蓮とは流通を本と定む。文底の勝劣なり。
 
四十八、下種の摂折二門の本迹、 日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む。法華折伏破権門理とは是なり。
 
四十九、下種の二妙実行の本迹、 日蓮は脱の二妙を迹と為し、種の二妙を本と定む。然るに相待は迹、絶待は本云云。
 
五十、下種の十妙実体の本迹、 日蓮は本因妙を本と為し、余を迹と為すなり。是れ真実の本因本果の法門なり。
 
五十一、下種の六重具騰の本迹、 日蓮は脱の六重を迹と為し、種の六重を本と為るなり云云。
 
五十二、下種の六即実勝の本迹、 日蓮は脱の六即を迹と為し、種の三世一即の六即、案位の理即は開会の妙覚、開会の理即は本覚の極果を本と為るなり。
 
五十三、下種の十二因縁の本迹、 日蓮は応仏所説の十二因縁を迹と為し、久遠報仏所説の十二因縁を本と定むるなり。
 
五十四、下種の十不二門の本迹、 日蓮が十不二門は事上極極の事理一体用の不二門なり。
 
五十五、下種の十界互具の本迹、 唱へ奉る妙法仏界は本、唱ふる我等九界は迹なり。妙覚より理即の凡夫までなり、実の十界互具の勝劣とは是なり。
 
五十六、下種の境智倶実の本迹、 脱の境智は迹、種の境智は本なり。名字即の境智は境智倶に本、観行即の境智は境智倶に迹なり云云。
 

コメント(57)

■検証14・日蓮・日興に「惣貫首」「貫首」思想はなかった


このように、史実を徹底検証していくならば、「百六箇抄」の

「白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず、悉く付属せしめ畢ぬ。
上首已下並に末弟等異論無く、尽未来際に至るまで予が存日の如く、日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐべき者なり」
(「富士宗学要集」第1巻p20〜21・御書全集p1702)

の文が、史実に全く反していることが明らかになる。
もし本当に日興が日蓮から血脈付法の「惣貫首」であると指名されたならば、

□1 「定」の序列を「不次第」とする必要はなく最上位に置かねばならないはずである。にもかかわらず、それがなされていない。

□2 日蓮の葬送の列で、日興が大導師を勤めていたはずであり、大導師・日昭と副導師・日朗で日蓮葬送の儀を執り行うはずがない。

□3 学頭・日向と地頭・波木井実長が四箇の謗法を犯したからといって、日興が身延離山するはずがない。日興が「惣貫首」なら、身延山久遠寺から出て行かなくてはならないのは、日興ではなく、日向のほうである。

これで明らかである。
日蓮の思想・教義の中に、「惣貫首」「貫首」というものは存在しないのである。日蓮は自らが書き残した遺文(御書)の中で、「惣貫首」「貫首」という単語をどこにも使っていない。
日蓮は「貫首」思想というものを持っていなかったのであるから、「惣貫首」「貫首」という単語を使用するはずがない。

したがって「百六箇抄」の
「白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず、悉く付属せしめ畢ぬ。 上首已下並に末弟等異論無く、尽未来際に至るまで予が存日の如く、日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」 (「富士宗学要集」第1巻p20〜21・御書全集p1702)
の文は、全く史実に反しているということになり、したがってこの文も「百六箇抄」が後世の偽作である証拠ということになるのである。






■検証15・本当に「百六箇抄」があったら「仙代問答」はなかった

日蓮正宗大石寺開祖・日興、三祖・日目が死去した翌年の1334(元弘4)年1月7日、大石寺上蓮坊(百貫坊)にて、勤行のときに方便品を読むべきか、読まざるべきかという問題を巡って、日興の弟子で、上蓮坊(百貫坊)開基・日仙と、日興から北山本門寺後継住職に附嘱された日代の間で、「仙代問答」と言われる問答が起こった。
この問答は、単なる問答では終わらず、富士門流の中に混乱・内紛を惹起し、最終的に日仙は、自らが開祖となった四国・讃岐本門寺に下向していった。
日代は、その後、北山本門寺檀那・石川実忠によって北山本門寺から擯出(追放)され、河合の地に移って西山本門寺を開創して開祖となった。1343(興国4)年のことである。
この「仙代問答」も、富士門流の中に、大きな分裂劇を引き起こした事件になった。
日蓮正宗に言わせると、「仙代問答」が起こった1334(元弘4)年、時の大石寺法主は、三祖・日目から血脈相承されたという4世日道であったはずである。

しかし、この仙代問答が起こったということ自体、「唯授一人の血脈相承」や「百六箇抄」と全く矛盾しているのである。これは、どういうことか。
日蓮正宗では、相伝書である「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」を受けた法主は、教義について紛争が生じた場合には、教義について最終的な裁定を下す立場にある。
もし1334(元弘4)年当時において、三祖・日目から「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」を受けた法主として大石寺に4世日道がいたならば、勤行のときに方便品を読むべきか、読まざるべきかという問題が生じたならば、日仙と日代は問答をするのではなく、法主の日道に裁定を仰いでいたはずである。
そしてその日道の裁定に従えばいいだけの話しで、日仙と日代は二人で問答をする必要など全くないのである。

しかし、当時の史料を繙いても、日仙と日代が、大石寺法主・日道に教義の裁定を仰いだ史実もなければ、日道が方便品の読不読問題について、日仙と日代に対して裁定したという史実もない。日蓮正宗の信者は、例によって
「日興上人御跡の人人、面面に法門を立て違へ候。(中略)唯、日道一人正義を立つる間、強敵充満候」(歴代法主全書1巻p287)
の、日道の文を以て、日道は血脈を承継する付弟としての強い自覚を持って、先師以来の正義を厳守したなどと言い訳をするが、それならば、どうして日道は「日仙・日代問答」に介入して、教義の裁定をし、問答をやめさせようとしなかったのか。
しかもこの問答は、法主・日道のお膝元?の大石寺上蓮坊で行われたものである。
しかも問答を行った日仙も日代も、日道には一切、裁定を仰がずに問答をやっているわけだから、法主・日道は完全に二人に無視されている。これでは日道の「法主の権威」は丸潰れである。
こんな矛盾した話しは、ないではないか。

つまりこの「日仙・日代問答」にまつわる史実は、何を意味しているのだろうか。
相伝書である「百六箇抄」をはじめ「唯授一人の血脈相承」なるものは当時は存在せず、「法主の権威」も「錦の御旗」も存在しなかった。だから日仙も日代も日道に裁定を一切仰がず、日道も教義の裁定も問答への介入もを全くせず、日道を全く無視して「仙代問答」が行われたということである。
この「仙代問答」が行われたという史実そのものも、日蓮正宗大石寺9世法主日有以前の大石寺には、「百六箇抄」も「唯授一人の血脈相承」なるものが存在していなかった明確な証拠なのである。





■検証16・本当に「百六箇抄」があったら「蓮蔵坊七十年紛争」はなかった

1333(正慶2)年から1403(応永10)年にいたる70年の長い間、日蓮正宗大石寺4世法主日道の一門と、保田妙本寺・小泉久遠寺の開祖・日郷の一門の間で、大石寺塔中にある蓮蔵坊の帰属を巡って、ものすごい紛争が起こった。
1333(正慶2)年とは、日蓮正宗大石寺3祖日目が美濃国(岐阜県)垂井で死去して随行の僧侶・日郷が大石寺に帰ってからのこと。
この蓮蔵坊七十年紛争は、日郷一門が蓮蔵坊を占拠したり、日道一門が占拠したり、そうかと思うと、日郷一門が大石寺の境内地の中に東御堂を建てて、日道一門に対抗したり、両者による壮絶な紛争になっていた。
蓮蔵坊は、1338(建武5)年、上野郷の地頭・南条時綱が日郷に寄進状を発行して日郷一門に帰したが、それでも日道一門と日郷一門の紛争は止まず、南条時綱の子・時長が地頭になって後、再び時長が日郷一門に証状を出した。
時長証状により蓮蔵坊を安堵(土地所有を公認されること)された日郷は、1345(康永4)年、上洛して京都守護職の案内を得て、念願の天奏を果たし、1353(正平8)年、61歳で死去した。
日郷の後継法主は、南条時綱の子・日伝である。日伝は幼名を牛王丸、出家して日賢と名乗り、後に日伝と改名した。
1359(正平14)年、日郷一門の日叡が中心になって大石寺に東御堂を建てた。
1363(正平18)年、日郷一門を支えてきた上野郷の地頭・南条時長が死去し、上野郷の地頭は、河東の代官・興津法西が兼務するようになった。
1365(正平20)年、かつての日興の坊舎であった白蓮坊(西大坊)を修復して住んでいた日道の後継法主・5世日行が、日郷一門の後継法主・日伝が安房国(千葉県)にいることを幸いに、地頭・興津法西に取り入り、日郷一門の僧侶たちは、蓮蔵坊から追放されて、5世日行一門が占拠するところとなった。
この事態に驚いた日郷一門の法主・日伝は、駿河国の領主・今川家に訴えた。
今川家は、さっそく真偽のほどを正せと興津法西に厳命。これに驚いた興津法西が厳密に調査したところ、日伝側には確かに南条時綱、南条時長の寄進状や日郷の置き文などの証状があるが、日行側には何の証状もない。
そこでこれは明らかに日行側の我欲による陰謀と断定して、興津法西は日行を叱責するとともに、彼に与えた証状をとり上げて、日伝に詫び、蓮蔵坊は再び、日伝側に戻ることになった。
そして最後は、日行の跡を継いだ大石寺6世日時一門が、上野郷の地頭・興津又六を見方にして、日郷一門(日伝)を大石寺から追い出した。今川家は地頭・興津又六に問題解決を促したが、地頭・興津氏は鎌倉管領に問題解決を委ね、これにより問題は、駿河国の大名・今川家と鎌倉管領の間の問題に発展。 これにより、日郷一門の法主・日伝は、今川家や鎌倉管領に迷惑をかけることをよしとせず、大石寺・蓮蔵坊を断念した。
1403(応永10)年、蓮蔵坊の所有権は日蓮正宗大石寺6世法主日時に、つまり日道・日行・日時一門、いわゆる今の大石寺一門のものとして最終決着している。
この紛争の影響で大石寺一門は大きく疲弊し、経済的にも困窮を窮めることになる。

この蓮蔵坊七十年紛争も、もし本当に「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」なるものが存在していたら、起こるはずがない。日道が相伝書である「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」という「法主の権威」で、蓮蔵坊の所有権を裁定して日郷を大石寺から追い出せばいいだけの話しであり、こんなに紛争が七十年もつづくはずがない。しかもこの紛争は、「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」で解決したのではなく、駿河国の大名・今川家と鎌倉管領が介入して、解決したものである。「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」の影も形もない。
この蓮蔵坊七十年紛争も、日蓮正宗大石寺9世法主日有以前の大石寺に「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」が存在していなかった証拠なのである。






■検証17・本当に「百六箇抄」があったら「興津法西状」はなかった

蓮蔵坊七十年紛争の真っ只中の1366年(貞治5年)に、上野郷の地頭・興津法西が日郷一門の法主・日伝に与えた書状―「興津法西より日伝への返付状」の内容は、実に注目に値するものである。

「興津法西より日伝への返付状」
「駿河国富士上方上野郷大石寺御堂坊地
先例に任せ地頭時綱寄進状、並に師匠日郷置文以下証文などにより、宮内郷阿闍梨日行の競望を止め、元の如く中納言阿闍梨日賢に返付申し候了んぬ。
仍て先例を守り勤行せらるべきの状件の如し。
貞治五年九月十七日 沙弥法西 判
大石寺別当中納言阿闍梨の所」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』9巻p39)

中納言阿闍梨日賢というのは、日郷一門(保田妙本寺・小泉久遠寺の一門)の法主・日伝の改名前の名前である。
この文書の中で、上野郷の地頭・興津法西が日伝ことを「大石寺別当」と呼んでいることは、まことに注目すべきことである。
日蓮正宗が発行している「日蓮正宗・富士年表」によれば、当時の大石寺法主(別当)は、日伝ではなく、5世法主の宮内卿阿闍梨日行になっている。日行から日伝に大石寺法主が代替したとは書いていない。日伝は、大石寺の歴代法主の中に名前はない。
日伝とは、当時、大石寺と対立・紛争をしていた日郷一門の小泉久遠寺・保田妙本寺5代住職であって、歴代大石寺法主の中に名前はない。
しかし、この当時の文献では、大石寺のある上野郷の地頭・興津法西は、大石寺の日行ではなく、日郷一門の日伝を「大石寺別当」と呼んでいるのである。ということは、この当時、日蓮正宗が「法主」と認めていない人物が、「大石寺別当」(法主)職にあったということになる。
つまりこれは、平たく言えば、当時の大石寺は、日郷一門の法主・日伝らによって占拠されていたということに他ならない。

しかしこの「興津法西状」と呼ばれるこの書状の存在も、大石寺が言う相伝書「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」なるものの矛盾をさらけ出す結果になっている。
地頭とは、、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職で、在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した、いわば幕府の役人である。
その幕府の役人が、日伝のことを「大石寺別当」(法主)と呼んでいるという事は、日蓮正宗が言う「唯授一人の血脈相承」を受けていない人物を、幕府の役人が「大石寺別当」(法主)と呼んでいたという事になる。当時、この書状が大問題になったという形跡は全くない。
もし本当に「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」なるものが当時、存在していたならば、これでは「法主の権威」は全く丸潰れである。
現代でも、文部科学省の官僚が、日蓮正宗大石寺と対立関係にある正信会議長を「大石寺法主」と呼んだ文書を発行したら、大問題に発展するだろう。
つまりこの「興津法西状」と呼ばれるこの書状も、「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」の存在を否定している事になる。これも日蓮正宗大石寺9世法主日有以前の大石寺に「百六箇抄」や「唯授一人の血脈相承」が存在していなかった証拠なのである。






■検証18・日有以前の大石寺門流に「百六箇抄」は存在しなかった

日蓮正宗では盛んに「大石寺の住持には日有上人以前から、大聖人の正統な後継者として権威があったのです。唯授一人の血脈相承をみんな認めていた」などということを盛んに吹聴している。
しかしこれは、歴史的史実に基づいていない、全くの虚言である。

日蓮正宗大石寺9世法主日有以前には、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊も存在していなければ、「日蓮本仏論」もないし、もちろん「百六箇抄」も「唯授一人の血脈相承」という名の法主の血脈も存在していなかった。

歴史的会通・照合という観点からいうと、日有以前の大石寺法主には「百六箇抄」をはじめとする「唯授一人の血脈相承」という「大聖人の正統な後継者として権威」なるものがなかった。だからこそ、

□身延離山、日興門流と五老僧門流の分裂(1289〜1290)
□方便品の読不読を巡っての日仙・日代問答(1334〜1343)
□大石寺蓮蔵坊の所有権を巡って大石寺門流と日郷門流との七十年紛争(1334〜1405)

という内紛・分裂劇が起こったわけで、「大聖人の正統な後継者として権威」なるものがあったならば、そもそもこういう内紛・分裂劇が起きるはずがない。
日興をはじめ、大石寺法主たちは、「法主の血脈」という「水戸黄門の印籠」「錦の御旗」を門下の僧俗に「これが目に入らぬか」「控えよ」とばかりに示せばいいわけで、内紛・分裂劇など起きる道理がない。
まさに富士門流の歴史とは、1282年の日蓮入滅以降、日有の代になるまでの間は、内紛・分裂劇の歴史の連続であった。
つまりこれは、大石寺の開祖・日興から8世法主日影までの大石寺法主に「大聖人の正統な後継者として権威」なるものがなかった証拠である。
それが、こういった大石寺門流の大きな内紛・分裂劇が、日有以降から、現代における妙信講・正信会・創価学会問題まで、ほとんど起きていないのは、まさに法主の血脈によって、法主の座を権威付ける「唯授一人の血脈相承」というものが、日有によって偽作され、日有の代にはじめて登場した、何よりの証拠である。

つまり歴史的事象として検証していくと、日有以前の大石寺門流は、
□身延離山、日興門流と五老僧門流の分裂(1289〜1290)
□方便品の読不読を巡っての日仙・日代問答(1334〜1343)
□大石寺蓮蔵坊の所有権を巡って大石寺門流と日郷門流との七十年紛争(1334〜1405)
というふうに、内紛・分裂劇の連続の歴史であったものが、日有以降、こういったものが20世紀に入るまでほとんど起きなくなったのである。つまり、日有の代が、日蓮正宗の歴史において大きなターニングポイントになっていることは明らかである。

このターニングポイントになったのは、まさに「錦の御旗」「水戸黄門の印籠」よろしく、自称相伝書「百六箇抄」をはじめとする法主の血脈である「唯授一人の血脈相承」というものが、日有によって偽作され、日有の代にはじめて登場したからにほかならないのである。





■検証19・こんなにある「百六箇抄」に書いてある史実に反する記載

「百六箇抄」に記載されている「史実に反する文」は、それこそたくさんある。

□「百六箇抄」の文中に
「或は又末代において経巻の相承直授日蓮と申して受持知識を破らんが為めに元品の大石・僧形と成つて日蓮が直弟と申し狂へる癖人出来し予が掟の深密の正義を申し乱さんと擬すること之れ有らん、即ち天魔外道破旬の蝗蟲なり上首等同心して之れを責む可きなり」
と明らかに日什が開いた顕本法華宗のことを指すと思われる文がある。
顕本法華宗の開祖・日什が「経巻相承論」を立てて京都に妙満寺を開いて日什の門流を開いたのは、日蓮入滅後100年以上も経った後の1389(元中6)年のことだ。いくら蒙古襲来を予言した日蓮といえども、生前にここまで書けるわけがない。

□「百六箇抄」の文中に
「名を日蓮に仮りていはん・本迹に就いて勝劣無きにあらず・・・」
と、あたかも日蓮が入滅後の門下の中に起こった本迹勝劣問答を予言しているかのような箇所があるが、この日蓮門下の中で本迹勝劣の問答が起こったのは、日蓮入滅後50年を経てからのことだ。こんなことを日蓮が予言して書けるはずがない。これなんかは、余りにもデタラメが過ぎる記載である。

□「百六箇抄」の文中に
「然るに鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁と為して諸所を去り遁世の事・甲斐の国三牧は日興懇志の故なり」
とあるが、日蓮が鎌倉殿(鎌倉幕府・将軍・執権)から十万貫の寄進を受けたという史実は全く存在しない。
日蓮は、身延山在住の間は、信者の供養等々による、実に質素で貧しい生活を送っていた。
それは日蓮自身が執筆した遺文(御書)の「乙御前御消息」「南条殿御返事」「兵衛志殿御返事」「上野殿御返事」「富木殿御書」といった書物に明らかである。これらの文献の中で日蓮は
米一合もない。餓死するかもしれない。僧たちも養うことができないので、皆、里に送り返した。 食は乏しく信者から供養もない。下痢が起こっている。小袖がなかったら、凍死していたかもしれない。・・・
身延山中のそれこそ凄惨な生活の窮状ぶりを日蓮自身が書き綴っているのである。
もし日蓮が鎌倉幕府から十万貫の寄進を受けていたとすれば、これだけで巨大な経済力を有することになり、「米一合もない。餓死するかもしれない。僧たちも養うことができないので、皆、里に送り返した」という凄惨極まりない極貧の生活を送るはずがないではないか。

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨自身が、この「百六箇抄」の記載について真っ向から否定する見解を、自らの著書「富士日興上人詳伝」の中で、次のように書いている。

「この付記は相伝書以降二百年は下るまい。その間に、これらの伝説がいずれかより発生せしものと見ゆる。十万貫なんという途方もない厚遇ができようはずがない。一石一貫としても、日本六十六国の中の極小国の一つに当たるものである。名山大寺がしだいに募りて特種の厚遇を受け、幾千の円顧が密集しても、まず一万石は出でまい。かくのごとき漫筆をたくましゅうするから、塩尻なんどに漫罵せられて宗祖(日蓮)の顔に泥を塗ることになる」
「いわんや十万貫なんどトッ拍子もないことは、大聖(日蓮)を愚弄するもはなはだしいものであるが、一般はこんな馬鹿げたことが好物らしい」 
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」p61〜62)

このように堀日亨自身が、「十万貫なんという途方もない厚遇ができようはずがない」「十万貫なんどトッ拍子もないことは、大聖(日蓮)を愚弄するもはなはだしいものである」と、完全に否定しているのである。

・・・まだ他にもあるが、ここまででも「百六箇抄」という文書がいかにデタラメな文書かがわかろうというものだ。「百六箇抄」という文書が、いかにデタラメな偽作文書か、明々白々ではないだろうか。






■検証20・日蓮・日興・日目は生涯、天奏をしていない

「百六箇抄」の中にある「史実に反する文」は、他にもある。

□「百六箇抄」の文中に
「又玉野卿公日目は新所建立と云ひ・予天奏の代として而も二度流罪・三度の高名是れあり」
とあるが、日蓮在世の時代に、日目は新寺院建立もしていなければ、日蓮の代理で天奏(京都の天皇に諫暁をすること)をしたという事実もない。
歴史的事実として、日蓮門下で最初に京都に上ったのは1294(永仁2年)の日像が最初である。
日目は1333(正慶2)年、天奏に行く途中で、美濃国垂井で急死しているが、これが日興門流にとって、最初の天奏の旅であり、日目にとっては、最初で、最期の天奏の旅だった。しかし日目は結局のところ、天奏を果たすことができなかった。
日蓮も日興も日目も、その生涯において、天奏(てんそう)、つまり京都に上って天皇に申状を言上したという事実は全くない。

日蓮も日興も日目も、その生涯において、天奏(てんそう)、つまり京都に上って天皇に申状を言上したという事実は全くない。当然のことながら、日蓮がまだ生きていた時代に、日蓮の代理として天奏をしたという事実もなければ、時の天皇から「御下文」を下賜されたという事実もない。
日蓮正宗が出版している富士年表によると1281(弘安4)年、日興が「園城寺申状」を日蓮の代理として天奏したと記述しており、これを「初度天奏」と位置づけている。
しかし、この日興が「園城寺申状」を日蓮の代理として天奏したなどという事実は全くない。

歴史的事実として、日蓮門下で最初に京都に上ったのは1294(永仁2年)の日像が最初である。
日目は1333(正慶2)年、天奏に行く途中で、美濃国垂井で急死しているが、これが日興門流にとって、最初の天奏の旅であり、日目にとっては、最初で、最期の天奏の旅だった。しかし日目は結局のところ、天奏を果たすことができなかった。
だから、この文がある「百六箇抄」はニセ文書である、ということになるではないか。

したがって、この「百六箇抄」の記述も、歴史的事実に反しているものである。






■検証21・ストレートに日蓮本仏論が説かれている「百六箇抄」は明白な後世の偽作

「百六箇抄」という文書が、日蓮や日興とは何の関係もない偽作文書である証拠は、他にもある。
最大の証拠のひとつとして「百六箇抄」の中に「日蓮本仏論」がストレートに説かれているということを言わねばなるまい。「百六箇抄」に説かれている「日蓮本仏論」の文とは以下の文である。

「久遠名字已来本因本果の主、本地自受用報身の垂迹・上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」(御書全集p1685)
----久遠元初の名字即の修行以来、本因本果の仏法の主であり、本地が久遠元初自受用報身如来の垂迹である上行菩薩の再誕であり、法華経本門の大師である日蓮----

「自受用身は本、上行日蓮は迹なり。我が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり」
------久遠元初の自受用身如来は本地の姿であり、上行菩薩の再誕日蓮の姿は垂迹の姿なのである。日蓮の内証に秘めた寿量品とは、釈迦牟尼が説いた脱益の寿量品の文の底にある本因妙の事なのであり、その本因妙の教主は日蓮なのである----

「久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり」 (御書全集p1696)
---久遠実成の釈尊よりも昔の久遠元初に天上天下唯我独尊と悟りを開いたのは、この日蓮なのである----

かなりストレートに「日蓮本仏論」が説かれているのだが、日蓮が書き残した遺文(御書)の中に、「日蓮が久遠元初の自受用身如来」「日蓮は久遠元初の本仏」ないしは「日蓮は末法の本仏」と書き記したものは、他に全く存在しない。
よく日蓮正宗や創価学会が出してくる文献である
「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」(日蓮51才の著書・開目抄)
---日蓮は日本国のあらゆる衆生にとっては、主君であり、師匠であり、父母なのである----
「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(日蓮53才の著書・聖人知三世事)
---日蓮は世界第一の聖人である----

これらの文は、江戸時代の日蓮正宗大石寺法主である26世日寛が、“日蓮が末法の本仏という意味で述べたもの”と解釈したものだ。
したがって、“日蓮本仏論”“末法本仏論”というものは、日蓮本人が説いた教義ではなく、後世の日蓮正宗大石寺をはじめとする富士門流の者たちが偽造し、デッチあげたものである。
したがって、そもそもこんな「百六箇抄」に「日蓮本仏論」なるものが説かれていること自体がおかしいわけで、「日蓮本仏論」の文そのものが、後世の何者かが「百六箇抄」を偽造した証拠になるわけである。






■検証22・日有以前の大石寺には「日蓮本仏論」はなかった1(日蓮の尊称)

日蓮正宗大石寺門流で、はじめて「日蓮本仏論」を完成させたのが、日蓮正宗大石寺9世法主日有であるから、日有以前の大石寺門流には、「日蓮本仏論」なるものは存在していなかった。
「日蓮本仏論」の検証は、ここから始まる。

日蓮正宗では、日興が弟子や信者に書き残した消息文(手紙)の中に、日蓮のことを「本師」「聖人」「法華聖人」「法主聖人」「御経日蓮聖人」「仏」「仏聖人」等と尊称して書いていることや、日興の直弟子で重須談所の二代学頭(住職に次ぐナンバー2の職)の職にあった日順が書いたと伝えられる「従開山伝日順法門」という文書の中に

「身延山には日蓮聖人九年、其後日興上人六年御座有り、聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ。御影を造らせ玉ふ事も日興上人の御建立なり」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』2巻p95)

と書いてあることから、日興が生きていた時代における日興門流において、日蓮の御影像(木像)が大漫荼羅本尊とともに崇拝の対象になっていたとして、このころから「日蓮本仏論」が存在していたと主張している。

日興は日蓮の木像を尊崇の対象のひとつとしていたのかもしれないが、だから日蓮を「釈迦牟尼を超越する末法の本仏」と定義づけていたとすることとは、全く意味が違う。
日蓮正宗が言う、日興の代から「日蓮本仏論」が存在していたというのは大ウソであり、信者を騙す、欺瞞である。

まず第一に、日蓮の御影像(木像)を大漫荼羅本尊の前に安置して祀ったり、あるいは日蓮の御影像(木像)を独立して祀ったりする宗教上の化儀は、何も日興門流、富士門流、日蓮正宗だけのものではなく、日蓮正宗のような日蓮本仏論を全く用いていない身延山久遠寺をはじめ日蓮宗全体において広く行われている化儀である。
したがって、日蓮の御影像(木像)を祀ったり、尊崇の対象にするという宗教上の化儀が「日蓮本仏論」の証明になるはずがない。当然のことである。

それから、日興が日蓮のことを「仏」「仏聖人」等と尊称して書いていたことを以て「日蓮本仏論」の文証(文献上の証拠)にしようとするというのは、無理なこじつけも甚だしいものがある。
これなどは、死に際して南無妙法蓮華経を唱えて成仏したという、一般的に故人を仏と呼ぶ世間の習慣に従って、「仏」と呼んだにすぎないものであることは明らかである。

日蓮正宗は、少しでも都合のいい文を持ち出してきて、無理やりにでも「日蓮本仏論」の文証に仕立て上げたいのだろうが、残念ながら、学問的、学術的に冷静・中立な研究を積み重ねていけば、日蓮や日興、日目が生きていた時代に「日蓮本仏論」なるものが存在していなかったことが、明らかになっていくだけである。





■検証23・日有以前の大石寺には「日蓮本仏論」はなかった2(日興の本仏感)

日蓮正宗大石寺門流の「日蓮本仏論」の歴史学的な展開を論じていくに当たって、その決定的になるものは、大石寺の開祖・日興の本仏感がいかなるものであったかということが、最大の論点になってくる。

日蓮正宗では、日興が弟子や信者に書き残した消息文(手紙)の中に、日蓮のことを「本師」「聖人」「法華聖人」「法主聖人」「御経日蓮聖人」「仏」「仏聖人」等と尊称して書いていることや、日興が生きていた時代における日興門流において、日蓮の御影像(木像)が大漫荼羅本尊とともに崇拝の対象になっていたとして、このころから「日蓮本仏論」が存在していたと主張しているが、これらは全くの見当違いなものであることは、先に論じたとおりである。

では、日興がいかなる本仏感を持っていたかを如実に物語る文献はないのか、ということになるが、これが存在するのである。

「此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども未だ木像は誰も造り奉らず候に」
(日興から原弥六郎への返状「原殿書」/日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8巻P10〜11)

「日蓮聖人の御法門は、三界衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておはしまし候」(「原殿御返事」歴代法主全書2巻p173)

「上下万人初発心の釈迦仏を捨て進らせて、或いは阿弥陀仏、或いは大日如来、或いは薬師仏とたのみて、本師釈迦如来に背き進らせ候」(「報佐渡国講衆書」歴代法主全書2巻p178)

短い文であるため、現代語訳は省略させていただくが、「南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来」「釈迦如来こそ初発心の本師」「本師釈迦如来」の言葉に、日興の本仏感が如実に現れていると言える。

すなわち、日興は「久遠実成の釈迦如来」を本仏として尊崇していたことが諒解されるのであり、日興が釈迦牟尼を本仏として著書の中に明記している以上、日興が随所でいかに日蓮を尊崇していたとしても、それは「日蓮本仏論」を本仏感として認識していたからの行動ではないことが、明白である。
つまり日興は、日蓮が図顕した紙幅の大漫荼羅本尊を根幹にして、その上で日蓮の御影に供物をささげていたということである。

又、「原殿書」の「南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像」という日興の言葉からして、大石寺門流においては、日蓮本仏論はおろか、大漫荼羅本尊を日蓮の当体とする教学すらも未だ形成されていなかったことを物語るものではないか。
つまり日興は、久遠実成の釈迦如来を本仏と見ていたことは明らかで、すなわちこれは、日興が在世の時代において、大石寺門流に「日蓮本仏論」が存在しなかったことを明確に物語っている。



■検証24・日有以前の大石寺には「日蓮本仏論」はなかった3(五人所破抄見聞)

日蓮の死去から約百年後の1380(康暦2)年に富士門流の本山寺院・妙蓮寺(現・日蓮正宗本山)の五代住職・日眼が書いたと伝えられる「五人所破抄見聞」という書物に

「威音王仏と釈迦牟尼とは迹仏也、不軽と日蓮とは本仏也。威音王仏と釈迦仏とは三十二相八十種好の無常の仏陀、不軽と上行とは唯名字初信の常住の本仏也」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』4巻p1)
と、日蓮本仏論が説かれており、さらに

「日興も寂を示し玉ひ次第に譲り玉ひて、当時末代の法主の処に帰り集る処の法華経なれば法頭にて在す也」(『富士宗学要集』4巻p9)

と、法主信仰的な表現の文が見られることから、これを証拠に日蓮正宗側では、「古来から日蓮本仏論はあった」と主張する。
しかし、この「五人所破抄見聞」なる文書は、妙蓮寺5代住職・日眼の著書ではなく、後世の人間が偽造した文書なのである。

まず「五人所破抄見聞」なる文書は、妙蓮寺五代住職・日眼の真筆文書は存在せず、『富士宗学要集』4巻に「五人所破抄見聞」を編纂・収録した日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の意見によると、古来から伝わっている写本と称するものには、通読しがたいほどの錯誤や誤りが多数あり、現行の『富士宗学要集』に収録されている「五人所破抄見聞」は、堀日亨が大胆に編集・編纂したものであるという。
宮崎英修氏の説によると、「五人所破抄見聞」の内容からして、明らかに1470(文明4)年以降でなければ書けない記述があり、日眼の著書説に対して、重大な疑問を投げかけている。

池田令道氏の説によると、「五人所破抄見聞」では、従来からの日蓮正宗を含めた富士門流の所伝と異なる日昭・日朗・日興・日頂・日持の五人の身延離山説を唱えていること、この五人離山説の発祥は、京都要法寺の日尊門流であって、日尊門流出身の大石寺僧侶・左京阿闍梨日教の著書「百五十箇条」にも見られることなどからして、「五人所破抄見聞」は左京阿闍梨日教の「百五十箇条」の成立以降に書かれたものとしている。

さらに決定的な証拠なのは、この「五人所破抄見聞」の末尾の文に次のようにあることだ。

「伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼 在御判」

この「康暦二」と「年」の間に「庚申」という干支を書き入れるような用法は、戦国時代から江戸時代にかけて一般的に定着していく、というのが古文書学説上における定説なのであり、それからすると1380(康暦2)年に、「康暦二庚申年六月四日」といった書き方はされない。したがって、この「五人所破抄見聞」の末文は、1384(至徳1)年に死去している妙蓮寺五代住職・日眼の筆ではなく、後世の時代の人の筆ということになる。

この「日眼」とは、妙蓮寺5代住職・日眼ではなく、日蓮正宗大石寺9世法主日有とほぼ同時代を生きた西山本門寺8代住職・日眼(文明18年4月8日死去)であるという説のほうが説得力がある。そのほうが、宮崎英修氏の「1470(文明4)年以降でなければ書けない記述がある」という説とも符合する。
又、池田令道氏の「『五人所破抄見聞』は左京阿闍梨日教の「百五十箇条」の成立(文明12年)以降に書かれたもの」という説とも符合する。
大石寺門流で最初に「日蓮本仏論」を唱えたのが、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した日蓮正宗大石寺9世法主・日有であることからして、宮崎英修氏や池田令道氏の説のように、日有の時代以降における作であろうと考えられている。

■検証25・日有以前の大石寺には「日蓮本仏論」はなかった4(本因妙口決)

大石寺の開祖・日興の弟子で、重須談所の二代学頭(住職に次ぐナンバー2の職)の職にあった日順が書いたと伝えられる「本因妙口決」という書物に

「久遠元初自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり」(『富士宗学要集』2巻p83)

と、日蓮本仏論の言説があることから、これを証拠に日蓮正宗側では、「古来から日蓮本仏論はあった」と主張する。

しかし、この「本因妙口決」なる文書も、重須談所二代学頭・日順の著書ではなく、後世の人間、と言うか、少なくとも戦国時代以降の人間の手による偽造された文書であるとする説が有力である。

「本因妙口決」後世偽作説の根拠になっているものは、この「本因妙口決」の中に
「日蓮一宗」(『富士宗学要集』2巻p80より)
「日蓮宗」(『富士宗学要集』2巻p82より)
といった言葉があるからである。
日順の他の著書である「日順阿闍梨血脈」「摧邪立正抄」「念真所破抄」では、いずれも「法華宗」と書かれている。

この「日蓮宗」という名称は、1536(天文5)年の天文法華の乱で、京都が灰塵になり、各日蓮教団が、幕府から「法華宗」の名称を使用することを禁じられてから使われるようになったという説が、歴史学的な通説である。

富士門流・日蓮正宗大石寺門流の史料では、「日眼御談」(『富士宗学要集』2巻p132)や日蓮正宗九世法主・日有の説法を弟子の南条日住が筆録したという「有師御物語聴聞抄佳跡・上」(『富士宗学要集』1巻p194)に「日蓮宗」の言葉が出てきている。

さらに1558(永禄1)年11月、日蓮正宗大石寺13世法主・日院が、富士門流本山寺院・京都要法寺十九世法主・日辰に送った、日辰からの通用申し出を拒絶する書状『要法寺日辰御報』(『歴代法主全書』1巻p450)の中に、日院が「本因妙口決」の一部の記述をそっくりそのまま借用して書いている。
したがって、「本因妙口決」は少なくとも、1558年までには成立していたということになるが、やはり少なくとも、日蓮正宗大石寺門流の中で「日蓮宗」という言葉が使われはじめた、日蓮正宗大石寺9世法主・日有の時代(15世紀)より以降ということになろう。

したがって、少なくとも、14世紀においては、どの日蓮門流においても「日蓮宗」「日蓮一宗」という言葉は使っていなかった。日順の他の著書では、いずれも「法華宗」と書かれていることからしても、「本因妙口決」を1300年代(14世紀)に生きた日順の著作とすることはとうていできない。

日蓮本仏論というものを、日蓮正宗大石寺門流ではじめて公然と説いたのは、日蓮正宗大石寺9世法主・日有であるから、「五人所破抄見聞」にしても「本因妙口決」にしても、日蓮正宗大石寺門流の者が、日有の時代より前の、古来から日蓮本仏論が唱えられていたことを証したいが為に、偽造したニセ文書である説が今日有力である。





■検証26・日有以前の大石寺には「日蓮本仏論」はなかった5(日道の本仏感)

それでは日興以降、日有以前の大石寺門流において、「日蓮本仏論」は存在しなかったのか、ということになる。
日興の新六僧の一人で、大石寺4世法主の座に登座したとされる日道が、1332(元徳4)年1月12日に筆録した「日興上人御遺告」を、自らの著書「三師御伝土代」に記している。
「御遺告」とは、日興の遺言ということであるが、それを見ると、次のように記してある。

「日蓮聖人云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり。久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。
本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常住不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり」(「三師御伝土代」日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』5巻p11)

大半が経文等の引用文であるため、精密な現代語訳は省略しますが、
「日蓮聖人…久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子」
「本門教主は久遠実成無作三身…本仏なり」
とあることからして、日興は、日蓮は上行菩薩の再誕であり、久遠実成釈尊の第一の御弟子であること、そして久遠実成無作三身の本門教主が本仏であることを、弟子たちに遺言していたというのである。
これは日興の本仏感であると同時に、この「日興上人御遺告」を自らの著書「三師御伝土代」に記載した日道の本仏感でもあるということになる。

つまりこの文からすると、大石寺門流で「日蓮本仏論」が形成された時期は、少なくとも5世法主日行以降ということになる。

それでは大石寺5世日行、6世日時、7世日阿、8世日影に到るまでの大石寺法主の、本仏感等における教学的意識は、余りにも史料に乏しいことから、残念ながら明瞭ではない。
ただし一点だけ述べると、日蓮宗系の大石寺教学研究者・東祐介氏が自らの論文の中で、面白い見解を発表している。
それは日蓮正宗大石寺9世法主日有が「聞書拾遺」という文の中において
「若しも世の末にならば高祖御時之事、仏法世間ともに相違する事もやあらんとて日時上人の御時四帖見聞と申す抄を書き置き給ふ間我か申す事私にあらす、上代の事を不違申候」(「聞書拾遺」歴代法主全書1巻p426)
と書いていることに注目し、日有の教学は大石寺6世法主日時が上代の法義を違わずに編纂したという「四帖見聞」という文書に基づくものであったという言説から、東祐介氏は、日蓮本仏論の所見は、従前から論じられてきた日有の代ではなく、それよりも若干、遡った6世日時の代なのではないかという仮説を立てている。

しかし残念ながら、日時が上代の法義を違わずに編纂したという「四帖見聞」なる文書は、全く散逸してしまったのか、今日には伝わっておらず、日有教学の土台になったとされる「四帖見聞」に、どのような教学が記載されていたのかは、全く不明である。
日時は、1388(嘉慶2)年、日郷門流によって小泉久遠寺に持ち出された日蓮御影の代替の御影を造立している。しかし御影造立=日蓮本仏論者とは、直截に断定できない。
又、そのような根拠も証拠もあまりにも薄弱であるからして、日蓮本仏論・日時所見説は、いま一つ説得力に欠けていると言わざるを得ない。





■検証27・日有以前の大石寺には「日蓮本仏論」はなかった6(解釈本仏論)

「日蓮正宗大石寺9世法主日有の代以前の大石寺に『日蓮本仏論』なるものは存在しなかった」と言うと、日蓮正宗の信者は、必ずと言っていいほど、日蓮の遺文の文を引っ張り出してくる。

「教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち…」(「下山御消息」・御書全集p1150)
「日蓮は日本国の諸人にしたし父母」(「開目抄」・御書全集p830)
「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(「聖人知三世事」御書全集p748)
「日蓮天上天下一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり」(「産湯相承事」御書全集p1710)
「久遠名字已来本因本果の主、本地自受用報身の垂迹・上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」(「百六箇抄」御書全集p1685)
「久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり」(「百六箇抄」御書全集p1696)

日蓮正宗の信者たちは、概ね、こういう遺文を出してきて「日蓮大聖人御自ら御本仏と宣言された」などと騒ぐのである。
しかし、それらの解釈は全くの虚言である。
「下山御消息」で、日蓮のことを「教主釈尊より大事なる行者」と言っているのは、日蓮を釈迦牟尼より上位の仏に位置づけ、日蓮を本仏とせよ、などという意味ではない。末法に法華経を弘通する法華経の行者として、予言しただけの釈迦牟尼より、実際に末法に出現して弘通している日蓮のほうが大事だという意味である。

さらに日蓮正宗の信者は
「夫一切衆生の尊敬する者三つあり。所謂、主・師・親これなり」(「開目抄」御書全集p523)
「仏は人天の主、一切衆生の父母なり。而も開導の師なり」(「祈祷抄」・御書全集p628)
とあるごとく、「一切衆生が主・師・親と仰ぐべきは仏である」などと言って、それは「日蓮大聖人だ」などと手前勝手な論を展開してくるが、その日蓮正宗の信者が挙げた「祈祷抄」の文の次下に
「釈迦仏独り主・師・親の三義をかね給へり」(「祈祷抄」・御書全集p628)
とあり、日蓮自身が釈迦牟尼だけが主・師・親三徳を備えていると言っているから、お粗末極まりない日蓮正宗信者の論である。

それから日蓮正宗では「開目抄」の「日蓮は日本国の諸人にしたし父母」の文を勝手に「主師父母」と読んで、「日蓮本仏論」の証拠としているが、これも虚言である。
「開目抄」の日蓮真筆は、身延山久遠寺の明治の大火で焼失しているので、「したし父母」か「主師父母」かは特定できないが、たとえ「主師父母」と書いてあったとしても、それが「日蓮本仏論」の証拠にはならない。
それは、「開目抄」著作以降の遺文「撰時抄」「曾谷殿御返事」「下山御消息」「祈祷抄」等において、釈迦牟尼を主師親三徳を備えた本仏と言っているからである。
そもそも「主師親三徳」や「一閻浮提第一の聖人」を本仏の文証としたのは、江戸時代の日蓮正宗大石寺法主である26世日寛が最初で、“日蓮が末法の本仏という意味で述べたもの”と解釈した、いわゆる「解釈本仏論」なのである。

「百六箇抄」「本因妙抄」「産湯相承事」といった相伝書なるものは、ことごとく後世の偽作である。
したがって、これらも「日蓮本仏論」が存在した証拠にはならない。

つまり日蓮自身は、自らを「本仏」とは、一言も言っていないのである。
もしそのようなことを日蓮自身が言っていたら、日蓮を宗祖にする宗派全てが「日蓮本仏」を根幹とする教義にしているはずである。
又、日興、日目、日道ら歴代大石寺法主の文献に、「日蓮本仏」が明快に顕れているはずである。
しかしそのような事実は全くない。日蓮正宗の信者たちの論は、完全に破綻・自滅していると言うべきである。


■検証28・日有以前の大石寺には「日蓮本仏論」はなかった7(日蓮は日蓮本仏を説いていない)

日蓮正宗の信者たちは、
「もしも本当に“日蓮本仏”ということを日蓮自身が言っていたら、日蓮を宗祖にする宗派全てが“日蓮本仏”を根幹とする教義にしているはずである。」
「日興、日目、日道ら歴代大石寺法主の文献に、“日蓮本仏”が明快に顕れているはずである。」
とツッコミを入れられると、今度は、「“日蓮本仏”という大事な教義は、日興上人ただお一人のみにご相承された」などと言い訳してくる。
しかし、これもまた大いに矛盾した話しである。

そもそも本仏(ほんぶつ)とは、無数の仏(如来)の中で、衆生が成仏するために最も根本となる仏(如来)のこと。
釈迦牟尼が入滅した後、釈迦牟尼が仏になることができたのは、在世の修行のみならず、過去世における長い修行の結果であるという思想が生まれた。また釈迦牟尼の過去世には無数の仏の下で修行したこととされ、やがて、それらの仏のなかでも、成仏の一番の原因となる本仏が想定されるようになった。
本仏思想は12世紀頃の天台宗に見られ、日蓮本仏思想は、中古天台思想の影響とする説もあるが、現在の天台宗は本仏思想を説いていない。本仏思想は日蓮宗勝劣派と呼ばれる宗派のみが積極的に主張しているものであるが、しかしいずれも釈迦牟尼を本仏とするものである。
「日蓮本仏」を積極的に説いているのは、富士門流だけであり、なかんずく日蓮正宗系である。

仏教において、「衆生を仏道に導く本仏が誰であるか」というのは、門下の僧俗全員に教えなくてはならない根幹の教義であり、秘密にしなければならない教義でも何でもない。
秘密にするどころか、積極的に門下の僧俗に教えていかなくてはならない根本教義のはずである。
それにも関わらず、日蓮正宗の信者が言うように、日蓮が門下の僧俗には「釈迦牟尼が本仏」と言い、日興一人には「日蓮が本仏だ」と言ったとすれば、日蓮は門下の僧俗に対して「衆生を仏道に導く本仏が誰であるか」という教義について、ウソを教えたことになる。二枚舌を使って、門下の僧俗を騙したことになるではないか。
日蓮を本仏と仰いでいるはずの日蓮正宗の信者は、宗祖・日蓮は「二枚舌を使って門下の僧俗を騙した」と罵っていることになる。
そんなバカな話があるはずがない。

日蓮が遺文「撰時抄」「曾谷殿御返事」「下山御消息」「祈祷抄」等において、釈迦牟尼を主師親三徳を備えた本仏と言っているのは、信者を騙したのではなく、日蓮の教義が「釈迦牟尼を主師親三徳を備えた本仏」とする教義だからである。
だから日興は
「此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども未だ木像は誰も造り奉らず候に」 (「原殿書」/『富士宗学要集』8巻P10〜11)
「日蓮聖人の御法門は、三界衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておはしまし候」(「原殿御返事」歴代法主全書2巻p173)
「上下万人初発心の釈迦仏を捨て進らせて、或いは阿弥陀仏、或いは大日如来、或いは薬師仏とたのみて、本師釈迦如来に背き進らせ候」(「報佐渡国講衆書」歴代法主全書2巻p178)
と、釈迦牟尼が本仏であると、門下の僧俗に説いたのだ。
日蓮が日興一人に「日蓮が本仏だ」などと秘かに教えるはずがない。「日蓮本仏論」は日蓮が説いた教義ではなく、後世に偽作された教義なのである。
よって後世に偽作された教義である「日蓮本仏論」が堂々と書いてある「百六箇抄」という文書も又、後世の偽作ということになるのである。






■検証29・大石寺門流の中で最初に「日蓮本仏論」なる教義を説いた日蓮正宗大石寺9世法主日有

一般的な宗教学上の学説などでは、日蓮本仏論なるものは、日蓮正宗大石寺26世法主・日寛によって確立されたとの見解がなされているが、日蓮を人本尊(本仏としての本尊)とする教義を富士門流、なかんずく大石寺門流の中で、明確に確立したのは、日蓮正宗大石寺9世法主・日有である。
このことは、「百六箇抄」なる文書を誰が偽作したのか、という問題の解明に深く関わってくることである。

日蓮正宗9世法主日有が、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作して日蓮真筆だなどと詐称し、日蓮正宗大石寺門流の中心・根本の本尊(法の本尊と日蓮正宗が呼んでいる)に据えた以上、日蓮を根本の仏(末法の本仏・久遠元初の本仏・人の本尊と日蓮正宗が呼んでいる)に据えないと、日蓮正宗大石寺門流の教義の骨格の辻褄が合わなくなる。
日蓮の教義の中でも最重要教義としている「本門事の戒壇」に安置する「本門戒壇の大御本尊」なる黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊の“造立主”は『仏』でなければならなかった。釈迦牟尼から相承を受けた上行菩薩が末法の世に再誕した僧侶・日蓮という位置づけでは、『仏』よりも格下の『僧』が『法の本尊』を説いたことになり、教義が自己矛盾に陥ってしまう。

日有は、大石寺門流の中で、最初に「日蓮本仏論」なる教義を説いた人物であった。 日有は、弟子の南条日住が筆録した「化儀抄」において、
「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』1巻相伝信条部p65)
と明示し、その上から、仏教教学的な観点から、日蓮本仏の教義を種々に説き示している。

又、日有の説法の聞書を筆録した「有師談諸聞書」には
「高祖(日蓮)大聖は我れ等が為に三徳有縁の主師親・唯我一人の御尊位と云へり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻p159)
という日有の説法が残されていて、日蓮の位は、法華経で「唯我一人能為救護」と説いた釈迦牟尼と同じ仏の位であると日有が言っている。

日有の時代に、京都の日尊門流から日有に帰伏し、日有の教義展開の旗振り役を演じた大石寺の僧侶・左京阿闍梨日教は、日有の日蓮本仏論に付随する形で、自らの著書の中で

「本門の教主釈尊とは日蓮聖人の御事なり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻p182収録の日教の著書「百五十箇条」より)
「当家には本門の教主釈尊とは名字の位・日蓮聖人にて御座すなり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻p320収録の日教の著書「類聚翰集私」より)
等と述べて、日蓮本仏論を鼓舞している。

日教の著書の背景には、大石寺法主・日有の教義があったことは明らかで、日有は日教を使って、日蓮本仏の信仰の思想化をした始めての人物であると言える。
日蓮や日興が生きていた時代には「日蓮本仏論」なる思想は、全く存在しておらず、日有の代になって、はじめて世に出てきたのである。
つまりこのことは、「百六箇抄」が日有によって偽作された文書であることを物語る。即ち「日蓮本仏論」の文証をでっち上げるために「百六箇抄」を偽作したのである。



■検証30・大石寺門流の中で最初に「日蓮本仏論」なる教義を説いた日蓮正宗大石寺9世法主日有2

日蓮を人本尊(本仏としての本尊)とする教義を富士門流、なかんずく大石寺門流の中で、明確に確立したのは、日蓮正宗大石寺9世法主・日有である。
日有は、弟子の南条日住が筆録した「化儀抄」において、
「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし。仍て今の弘法は流通なり。滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり」
「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり。其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に地住已上の機に対する所の釈尊は、名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり。其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり」
(日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』1巻相伝信条部p65)
と、はっきりと明示し、仏教教学的な観点から、日蓮本仏の教義を種々に説き示している。

又、日有の説法の聞書を筆録した「有師談諸聞書」には
「高祖(日蓮)大聖は我れ等が為に三徳有縁の主師親・唯我一人の御尊位と云へり」
(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻159ページより)
という日有の説法が残されていて、日蓮の位は、法華経で「唯我一人能為救護」と説いた釈迦牟尼と同じ仏の位であると日有が言っている。

日有の時代に、京都の日尊門流から日有に帰伏し、日有の教義展開の旗振り役を演じた大石寺の僧侶・左京阿闍梨日教は、日有の日蓮本仏論に付随する形で、自らの著書の中で
「本門の教主釈尊とは日蓮聖人の御事なり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨編纂『富士宗学要集』2巻p182収録の日教の著書「百五十箇条」より)
「当家には本門の教主釈尊とは名字の位・日蓮聖人にて御座すなり」(日蓮正宗59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』2巻p320収録の日教の著書「類聚翰集私」より)
等と述べて、日蓮本仏論を鼓舞している。

左京阿闍梨日教は、日有の時代の晩年のころには日蓮正宗大石寺門流に帰伏し、「三大秘法」「日蓮本仏」「法主の血脈」といった日有の教義を、説法の聞書がほとんどの日有とは対称的に、日教は自らの著書などで盛んに宣揚・鼓舞していっている。
これら日有の説法を書きとどめた史料、ならびに左京阿闍梨日教の著書以前に、「日蓮本仏論」は大石寺門流には、全く存在していなかった。
「日蓮本仏論」を大石寺門流の中で、歴史上はじめて明確に確立したのは、日蓮正宗大石寺9世法主・日有である。
左京阿闍梨日教の著書の背景には、大石寺法主・日有の教義があったことは明らかで、日有は日教を使って、日蓮本仏の信仰の思想化をした始めての人物であると言える。
と同時に、日有が大石寺門流ではじめて唱えた「日蓮本仏論」の完成・吹聴に当たって、重大な役回りを演じたのが、日教であり、この日教という人物は、日有が唱えた「日蓮本仏論」に関して、大きなポイントの人物ということになるのである。









■検証31・富士門流各本山や二十六世日寛の教学にも影響を及ぼした日有の「日蓮本仏論」

日蓮正宗大石寺門流で、日有がはじめて唱え出した「日蓮本仏論」を、弟子の左京阿闍梨日教は、「三大秘法」「唯授一人」「血脈相承」「金師相承」「金口相承」といった教義と同様、自らの著書の中で鼓吹・宣揚していった。左京阿闍梨日教の著書「百五十箇条」では
「本門の教主釈尊とは日蓮聖人の御事なり」(『富士宗学要集』2巻p182)
と述べており、同じく著書「類聚翰集私」では
「当家には本門の教主釈尊とは、名字の位・日蓮聖人にて御座すなり」(『富士宗学要集』2巻p320)と、述べている。

この「日蓮本仏論」は、大石寺門流以外の日興門流・富士門流にも、大きな影響を及ぼしたようで、房州(千葉県)保田の日目の弟子の日郷門徒の系統の富士門流本山寺院・保田妙本寺11代住職・日要や14代住職・日我も、「日蓮本仏論」を唱えている。
たとえば保田妙本寺11代住職・日要は、著書「六人立義草案」で
「未曽有の大漫荼羅は末法の本尊也、其の本尊とは(日蓮)聖人の御事也」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』4巻p71)
と述べて、日蓮本仏論を唱えている。
保田妙本寺14代住職・日我は、著書「観心本尊抄抜書」の中で
「脱の観心本尊は釈迦、熟の観心本尊は天台、種の観心本尊は日蓮也」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』4巻p139)
と述べており、同じように日蓮本仏論を唱えている。

保田妙本寺11代住職・日要という人物は、日蓮正宗大石寺9世法主・日有の説法を筆録した聞書を書き残しており、日蓮正宗大石寺教学の影響を相当に受けている人物である。
保田妙本寺14代住職・日我もその説いている教義の内容は、日蓮正宗大石寺のものと全く同じであり、さらに日我は、前出の著書「観心本尊抄抜書」の中で、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、日蓮が生きていた時代に造立したものだ、などという文まで書いている有様である。
日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨は、1959(昭和34)年6月号『大白蓮華』32ページの中の「富士宗学要集の解説5」において
「有師(九世法主・日有)の説が寛師(二十六世法主日寛)の説になった。有師と寛師との中間に有師のものが房州(千葉県保田の本山妙本寺)に伝わって房州の日要・日我の説になっている」
と述べて、保田妙本寺住職が唱えた「日蓮本仏論」は、日蓮正宗大石寺9世法主・日有の唱え出した「日蓮本仏論」の影響によるものであると、述べていると同時に、日有の教学は、江戸時代中期、今の日蓮正宗の教義・教学の骨格をほぼ完成させた大石寺26世法主日寛の教学にも影響を及ぼしたと述べている。

それにしても、日有以前までは極貧と疲弊の極みにあった大石寺が、どうしてここまで他の富士門流の本山寺院の教学まで影響を及ぼす存在にまでなったのか。
やはり日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる名前の黒漆塗りに金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊を目の前で見せつけられたことが大きかったと言えよう。
大石寺門流のみならず富士門流においても、鎌倉・室町・戦国期において、このように楠木の大木に掘り下げた巨大で、漆塗り。金箔加工を施した豪華絢爛な板本尊は他に類例がない。
日有の晩年、大石寺と北山本門寺・保田妙本寺・小泉久遠寺の門徒が論争を起こしているが、文献を見る限り、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を持つ大石寺が他の富士門流寺院にまで、教学的に覇権を持っていた様子が窺えるものだ。








■検証32・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ1

□「百六箇抄」本文の偽作者は日有、末文の偽作者は日尊門流である

では「百六箇抄」を偽作したのは一体誰なのか。
その前に「百六箇抄」について、明確にしておかなくてはならないことがある。それは、「百六箇抄」の文は大きく分けて本文と付文の二つに分けられる、ということ。
日蓮正宗大石寺が発行する「御書全集」に収録されている「百六箇抄」』(具騰本種正法実義本迹勝劣正伝)は、全文を正確に収録していないし、都合の悪い部分を意図的に削除するという欺瞞をやっている。
したがって、「御書全集」ではなく、「百六箇抄」全文を収録している日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」1巻p9〜p25を見ていただきたい。

私が本文と言っているのは、「富士宗学要集」1巻p9の「百六箇抄」の冒頭からp24の5行め
「弘安三庚辰正月十一日 日蓮在御判」
までのこと。つまり「百六箇抄」のメインの部分である。

付文とは、本文につづく「富士宗学要集」1巻p246行めからラストp25まで。これは全部でも11行しかない。

ではこれを誰が偽作したかだが、付文を見ると、こんなことが書いてある。
「玉野太夫法印(日尊)は王城の開山、日目弘通の尊高なり、花洛並に所々に上行院建立有り云々、仍て之を授与するのみ。
正和元年壬子十月十三日 日興 日尊に之を示す」
「右件の結要本迹勝劣は唯授一人の口決なり・・・功力に依つて之を附嘱す。王城六角上行院の貫主日印、学匠惣探題日大、世出世の拝領並に中国西国等の貫主日頼と定め畢んぬ。
康永元年壬午十月十三日 日尊・日大日頼に之を示す」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1巻p24)

日尊とは、日目の弟子で、京都要法寺の前身である上行院の開祖であり、要法寺法主4世である。日印、日大もそれぞれ要法寺の前身である上行院、住本寺の住職である。この上行院と住本寺は1550(天文19年)に合併して要法寺となっているが、日印は要法寺5世法主、日大は要法寺6世法主に列せられている。

「百六箇抄」の付文をそのまま読むならば、日尊はこれを「唯授一人の口決」と言っているので、これが日興、日尊を経て、要法寺法主(住職)に伝わっていったことになる。

ここまでくると「百六箇抄」の付文を誰が偽作したかが見えてくる。
「百六箇抄」の付文をデッチ上げて偽作したのは京都・要法寺の僧侶なのである。つまり要法寺を正統化して粉飾するためものに他ならない。

では、「百六箇抄」の本文を偽作したのは誰なのか。それは本文の中味をよくよく検証していくと見えてくる。「百六箇抄」の本文を偽作したのは京都・要法寺ではない。それは、日蓮正宗大石寺9世法主日有なのである。









■検証33・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ2

□「百六箇抄」がはじめて歴史上出てきたのは日有門下の左京阿闍梨日教の著書である

「百六箇抄」を偽作したのは一体誰なのか、ということを検証していく上で、「百六箇抄」という文書が、歴史上、はじめて出たのはいつなのか、ということを明らかにすることが第一のポイントになる。
日蓮宗系の学者の一部は、「百六箇抄」なる文書が、歴史上、はじめて出たのは、京都・要法寺貫首・広蔵院日辰の文献であるとして、日辰の次の文を掲げている。

「御正筆の血脈書を拝せざる間は謀実定め難し」(『二論議』5巻・日蓮宗宗学全書3巻p370)
「興上本因妙抄百六箇両巻の血脈書を以て日尊に付属すと云ふ事、西山重須大石争いなし」
(『富士宗学要集』6巻p42)

しかし、日辰初出説は誤りであり、これ以前に「百六箇抄」が歴史文献に登場している。
それは、左京阿闍梨日教の著書「類聚翰集私」であり、それには次のように書いてある。

「不渡余行法華経の本迹、 義理上に同じ。直達の法華は本門、唱ふる釈迦は迹なり。今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違はざるなり」
「下種の法華経教主の本迹、 自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」2巻p314)
「当家には本門の戒壇院。
下種の弘通戒壇実勝の本迹、 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり。…
天生ヶ原に六万坊を建て法華本門の戒壇を立つべきなり」
(左京阿闍梨日教の著書「類聚翰集私」・日蓮正宗む大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』3巻p323)

その外にも「御本尊七箇相承」の「嫡々代々」(『富士宗学要集』1巻p32)の「嫡々」という言葉は、「百六箇抄」の「嫡々付法の上人」(『富士宗学要集』1巻p21)や「本因妙抄」の「日蓮嫡々座主」(『富士宗学要集』1巻p8)に出てくる「嫡々」と同じ言葉である。
又、「百六箇抄」の
「上首已下並に末弟等異論無く、尽未来際に至るまで予が存日の如く、日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(『富士宗学要集』1巻p21)
の文に説かれている法主思想は、「御本尊七箇相承」の
「代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(『富士宗学要集』1巻p33)
の法主思想と共通性がある。

さらにもっと云うと、左京阿闍梨日教がまだ本是院日叶と名のっていた時代に書いた「百五十箇条」という文書に、「百六箇抄」と共通する思想が見える。

左京阿闍梨日教の正確な履歴については
「日蓮正宗大石寺の『日蓮本仏論』は日蓮・日興の教義ではない。後世の偽作である」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=54501374&comm_id=406970#page
「日蓮正宗大石寺法主の『唯授一人の血脈相承』は後世の偽作である」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=61520053&comm_id=406970
において、詳述しているので、ここでは再論しない。

左京阿闍梨日教は文明4年(1472年)ころ、すでに日尊門流から日有門下に会下・帰伏しており、「百五十箇条」はすでに日有門下にいた時の著書である。したがって、「百六箇抄」が歴史上、はじめて文献に登場したのは、日蓮正宗大石寺9世法主日有の代であると言うことが出来る。
すなわち、このことは、「百六箇抄」なる文書を偽作した人物は、日有であるということを裏付けるものである。








■検証34・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ3

□「百六箇抄」を偽作したのは京都・日尊門流・要法寺ではない1(要法寺偽作説の誤り・二論議)

「百六箇抄」なる文書が、日蓮正宗大石寺9世法主日有の代、左京阿闍梨日教の著書にはじめて出てくること。
京都・要法寺貫首・広蔵院日辰が『二論議』という著書の中で
「御正筆の血脈書を拝せざる間は謀実定め難し」(『二論議』5巻・日蓮宗宗学全書3巻p370)
と述べていることは、この「百六箇抄」なる文書を偽作したのは、京都・日尊門流・要法寺ではない、ということを明確に物語っている。
特に「御正筆の血脈書を拝せざる間は謀実定め難し」の言は、明白である。
この文の意味は
「百六箇抄・本因妙抄の二つの血脈抄は、日蓮正筆を拝して中身を見極めるまでは、日蓮真筆なのか、あるいは誰かの手による偽作なのか、判断が出来ない」
ということである。

もし「百六箇抄」が京都・要法寺で偽作された文書だったとしたならば、日辰はこんな言い方をしなかったはずである。こういう言い方をしなかったどころか、「百六箇抄」を日蓮真筆だと明言しているはずである。しかも
「日蓮正筆を拝して中身を見極めるまでは、日蓮真筆なのか、あるいは誰かの手による偽作なのか、判断が出来ない」
と日辰が言っているということは、「百六箇抄」という文書が要法寺に元々あった文献ではなく、他門流から要法寺に輸入された文書であることを、明確に物語っている。

ではなぜ日辰は、こんなことを言ったのか。
それは「百六箇抄」の中に
「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」
「直達の法華は本門、唱ふる釈迦は迹なり。今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違はざるなり」
「下種の法華経教主の本迹、 自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり」
「久遠名字より已来た本因本果の主、本地自受用報身の垂迹、上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」
「白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と為して、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず、悉く付属せしめ畢ぬ。 上首已下並に末弟等異論無く、尽未来際に至るまで予が存日の如く、日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐべき者なり」
「又五人並に已外の諸僧等、日本乃至一閻浮提の外万国に之を流布せしむと雖も、日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」
「日蓮大将なれば上行菩薩か・日目は毎度幡さしなれば浄行菩薩か」
「又広宣流布の日は上行菩薩は大賢臣と成り・無辺行菩薩は大賢王と成り・浄行菩薩は大導師と成り・安立行菩薩は大関白或いは大国母と成り、日本乃至一閻浮提の内一同に四衆悉く南無妙法蓮華経と唱へしめんのみ、四大菩薩同心して六万坊を建立せしめよ。何れの在処為りとも多宝富士山本門寺上行院と号す可き者なり」
といった、日辰が「未聞未見」の教義が、山のように満載されているからである。

したがって、この日辰の言は、「百六箇抄」を偽作したのは、京都・要法寺ではない、ということを明確に物語るものである。






■検証35・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ4

□日辰の「二論議」を「百六箇抄」真書説にこじつける高橋粛道説を斬る

京都・要法寺貫首・広蔵院日辰が『二論議』という著書の中で

「御正筆の血脈書を拝せざる間は謀実定め難し」(『二論議』5巻・日蓮宗宗学全書3巻p370)
---「日蓮正筆を拝して中身を見極めるまでは、日蓮真筆なのか、あるいは誰かの手による偽作なのか、判断が出来ない」

と述べていることについて、日蓮正宗僧侶・高橋粛道氏が、これを何としても「百六箇抄」真筆説に無理矢理にでもこじつけようとして、次のような妄説を吐いている。
-----------------------------------------------------------------------
(日蓮正宗僧侶・高橋粛道氏の妄説)
少なくとも、『二論議』には両巻血脈抄を引用していることは確かである。偽書なら引用するはずもないのであり、日辰は両書を排斥していないことに注視すべきである。
先に引用した『二論議』に日辰は、「百六箇抄」の文を引き、自受用身は本、上行日蓮は迹と判じて百六箇抄の文を釈迦本仏の論拠にしているが、その引用がどうあれ、それは富士門との解釈の相違を示しただけで日辰が偽書扱いしていることにならない。たとい日辰がどのように解釈しても、その成立を否定するものではない。
(高橋粛道氏の論文『百六箇抄の真偽・浅井要麟氏の説に対して』)
----------------------------------------------------------------------

この高橋粛道氏の論文は、日辰の『二論議』の文の中身をろくに検証もせずに、ただ日辰が「百六箇抄」を引用しているだけで、偽書扱いしていることにはならず、したがって「百六箇抄」は日蓮の真書だ、というのである。

こんな暴論があろうか。
日辰の『二論議』の文の意味は
「日蓮正筆を拝して中身を見極めるまでは、日蓮真筆なのか、あるいは誰かの手による偽作なのか、判断が出来ない」
というものであり、明らかに「百六箇抄」の内容について不信を表明したものである。
であるにも関わらず、「日辰がどのように解釈しても、その成立を否定するものではない」などと言って、何が何でも「百六箇抄」真書説に結びつけようとするのは、こじつけも甚だしい。

逆に言えば、日蓮正宗の「百六箇抄」真書説は、もはや完全に根拠を失っているということを、日蓮正宗僧侶・高橋粛道氏が認めたものであると言うべきである。












■検証36・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ5

□「百六箇抄」を偽作したのは京都・日尊門流・要法寺ではない2(要法寺偽作説の誤り・上行院の三文字)

「百六箇抄」が、京都・日尊門流・要法寺の偽作ではないかとする「要法寺偽作説」は、古くから指摘されてきたことである。
別の「要法寺偽作説」の根拠になっている文は、「百六箇抄」の
「何れの在処為りとも多宝富士山本門寺上行院と号す可き者なり、時を待つ可きのみ云々」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻p22)
である。
つまり、京都・要法寺の山号は、この「百六箇抄」に書いて有るとおり、日蓮正宗大石寺と同じ「多宝富士山」であり、「上行院」というのは、広蔵院日辰が上行院・住本寺を合併して要法寺を建立する以前の寺号である。よってこの文が、要法寺偽作説の証拠とするものである。

しかし、この説は誤りである。
日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「堀上人に富士宗門史を聞く」の中で
「百六箇抄は本山(大石寺)には残っていない」(『富士宗門史』p90)
と述べているが、堀日亨より約200年前に、大石寺法主だった26世日寛が、自らの著書「文底秘沈抄」の中で、「百六箇抄」の当該箇所を引用している。
日蓮正宗大石寺26世法主日寛は、次のように「百六箇抄」の当該箇所を引用して書いている。

「痴山日饒が記に云く『富士山に於いて戒壇を建立すべしとは…富士山本門寺の戒壇なり。故に百六箇抄に云わく、何れの在処為りとも多宝富士山本門寺と号す可き者なり云々…』
…百六箇抄に云わく、『日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり…何れの在処為りとも多宝富士山本門寺と号す可し』」(『文底秘沈抄第二』p66〜68)

日寛が引用している痴山日饒とは、京都・要法寺30世法主・信行院日饒のことで、日寛は、要法寺法主だった日饒の著書を引用する形で、「百六箇抄」の当該箇所を引用して書いている。
それを見ると、当該箇所は「多宝富士山本門寺と号す可き」となっていて、「多宝富士山本門寺上行院と号す可き」とはなっておらず、「上行院」の三文字が抜けているのである。

日饒は、自らの著書で「百六箇抄」の当該箇所を引用して、要法寺戒壇説を唱えた者なのだが、もし要法寺法主・日饒が所持していた「百六箇抄」に「多宝富士山本門寺上行院と号す可き」と書いてあったならば、上行院の三文字をわざわざ削除したりせずに、そのまま引用して書いたはずである。そのほうが、日饒が要法寺戒壇説を展開していく上で有利になるからである。
しかし、日饒が「多宝富士山本門寺と号す可き」と引用しているということは、日饒が所持していた「百六箇抄」の該当箇所は、「多宝富士山本門寺と号す可き」となっていて、上行院の三文字はなかったということである。

ということは、「百六箇抄」の該当箇所の「多宝富士山本門寺上行院と号す可き」の中の上行院の三文字は、京都・要法寺30世法主・信行院日饒より後の時代に於いて、要法寺法主によって加筆されたということである。
したがって、「百六箇抄」には、元々「多宝富士山本門寺と号す可き」と書いてあったということになり、「多宝富士山本門寺上行院と号す可き」の中の上行院の三文字を根拠にした要法寺偽作説は、根拠を失ってしまうということになるのである。






■検証37・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ6

□「百六箇抄」を偽作したのは京都・日尊門流・要法寺ではない3(要法寺偽作説の誤り・弘通所は院号)

「百六箇抄」要法寺偽作説の第二の根拠になっているものに、「百六箇抄」の文中
「四十三、下種の弘通戒壇実勝の本迹、 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」
の付文である
「上行院は祖師堂云云弘通所は総じて院号なるべし云云」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻p18)
を挙げているものがある。上行院とは、要法寺が建立される前身の寺号である。
「弘通所は総じて院号なるべし」とは、要法寺の塔中坊が全て、大石寺や北山本門寺、西山本門寺のように「○○坊」という坊号ではなく、「○○院」という院号になっていることから、これを「百六箇抄」要法寺偽作説の根拠にしているというものである。

しかし、この文は、当然のことながら、「百六箇抄」要法寺偽作説の根拠にはなり得ないものである。
「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」の文は、「百六箇抄」の末文の
「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻p21)
「何れの在処為りとも多宝富士山本門寺上行院と号す可き者なり、時を待つ可きのみ云々」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻p22)
に連動している
後から詳しく書くが、「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」の二つの文は、日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した9世法主日有が発明した独自の「事の戒壇」論である。
日蓮の教学・思想にもなければ、もちろん要法寺の教学・思想のものでもない。
したがって日有独自の戒壇論の文である「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」の附文に「上行院は祖師堂云云弘通所は総じて院号なるべし云云」と書いてあること自体、まことに不審なのである。
前段で述べたように、「何れの在処為りとも多宝富士山本門寺上行院と号す可き者なり、時を待つ可きのみ云々」の上行院の三文字が、要法寺30世日饒より以降の時代に於いて加筆されたものであるならば、同様に、「上行院は祖師堂云云弘通所は総じて院号なるべし云云」の文も、加筆された可能性が非常に高く、「百六箇抄」の元々の文に書いてあったというふうに認めることはできないのである。

したがって、「上行院は祖師堂云云弘通所は総じて院号なるべし云云」の文を根拠にした、「百六箇抄」要法寺偽作説も根拠を失ってしまうことになるのである。









■検証38・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ7

□「百六箇抄」を偽作したのは京都・日尊門流・要法寺ではない4(要法寺偽作説の誤り・末文)

「百六箇抄」要法寺偽作説の第三の根拠になっているものに、「百六箇抄」の末文

「右件の口決結要の血脈は聖人出世の本懐・衆生成仏の直路なり。上人御入滅程無く聖言朽ちず符号せり。恐る可し一致の行者、悪む可し獅子身中の虫なり。建治三年壬八月十五日聖人曰く日蓮が申しつる事ども世間出世間共に芥爾計りも違せば、日蓮は法華経の行者に非ずと思ふ可し云々。未来世には弥よ聖言符合すべしと之を覚知せよ貴し貴し云々。
設ひ付弟たりと雖も新弘通所建立の義無くんば付属を堅く禁じ給ふ者なり。然る間玉野太夫法印は王城の開山・日目弘通の尊高なり。花洛並に所々に上行院建立有り云々。仍って之を授与するのみ。正和元年壬子十月十三日               日興日尊に之を示す
右件の口決結要本迹勝劣は唯授一人の口決なり。然るに畠山の本覚法印日大、佐々木豊前阿闍梨日順は同位主伴の聖人なり。馬来、平田、東郷、朝山等在々所々に上行院を建立せしむるなり。都々等に於いて日尊数輩の学匠之れ有り。然りと雖も功力に依って之を付属す。
王城六角上行院の貫主日印、学匠惣探題日大、世出世の拝領並に中国西国等の貫主日頼と定め畢ぬ。康永元年壬午十月十三日                日尊・日大日頼に之を示す」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻p24〜25)

を挙げるものがある。
つまりこれは、最後の末文が、要法寺によって加筆されたものであるから、「百六箇抄」全体が、要法寺の偽作であるとするものである。

しかしこれは誤りである。
というのは、最後の末文が、要法寺によって加筆されたものであるから、「百六箇抄」全体が、要法寺の偽作であるとは、あまりにも拙速すぎるもので、あまりにも根拠が乏しすぎる。
本文は本文、末文は末文であって、それぞれを具に検証した上で証拠・根拠に則って結論を導き出すべきであり、この説は、論の組み立て方に問題があると言わざるを得ない。

「百六箇抄」最後の末文が、要法寺によって加筆されたものであるから、「百六箇抄」全体が、要法寺の偽作であるとは、決定づけることはできないのである。







■検証39・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ8

□「百六箇抄」を偽作したのは京都・日尊門流・要法寺ではない5(要法寺偽作説の誤り・秘伝抄)

「百六箇抄」要法寺偽作説の第四の根拠になっているものは、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「隠れたる左京日教師」の記述と、その中に紹介されている史料によるものである。
この説は、大石寺・富士門流研究家・東佑介氏が唱えている説である。

堀日亨はその中で、静岡県沼津市の岡宮・光長寺の学頭・大林日有氏から左京阿闍梨日教の前名・本是院日叶の史料を得たことを明かして、次のように書いている。

「岡宮にて得たる日叶師の史料とは、本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本の奥書なり。この写本は筆者不明なりといえども、最奥に寂光寺(顕本法華宗)の貫首なる通義日鑑の直筆の記文あれば、ほぼその時代を得。また日鑑はこれを隣地の要山より得しものなるべし。
その奥書に云く
本云本是院日叶之(原本は日叶師のものなりしや)
本云、…以前、此の秘蔵抄を先師日耀より相伝有りと雖も当(雲州)乱馬来本堂院坊破壊畢ぬ。然る間本尊聖教皆々紛失…
文明十一年八月二十八日 日叶在判
唯我与我の大事、七面七重の大事並びに産湯の大事等に付き、相承云之り在り。然るに選略の分なり。但し去る文明九年、堺の乱に依り、諸聖教等を淡州岩屋に運び、而に彼の在所焼失、彼の所に於いて焼き畢ぬ。又、先年、有る人の方より七面七重の相伝を畢ぬ。此の本は広く悉く也と雖も、不審多多也。…然る処に本是院日叶上人より送り給うて、相伝の恩備に預かり畢ぬ。…
文明十七年巳十月十九日   八十六歳日乗在判
本云 調御寺日乗上人に授与し奉る
文明十五年卯五月十五日   日叶在判」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「隠れたる左京日教師」p58〜60)

この中の「寂光寺(顕本法華宗)の貫首なる通義日鑑」とは、京都洛東・寂光寺二十二世永昌院日鑑(1806〜1869)のことと思われる。日鑑は数多くの著書を持っている学者で、1866(慶応2)年11月に『金剛亀羊弁』2巻を著して日蓮正宗を批判している人物である。
調御寺とは大阪府堺市にある法華宗真門流の寺院で、明徳元年(1390年)に日乗が開創した寺院。1483(文明15)年5月10日、左京阿闍梨日教(日叶)が、調御寺・日乗に宗義相伝書を授与したことが複数の史料に出てくる。

つまり堀日亨の著書・「隠れたる左京日教師」の中で紹介されている史料・本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本の奥書の中に
「此の秘蔵抄を先師日耀より相伝有り」
と書いてあることから、「此の秘蔵抄」を「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」と解釈し、本是院日叶が出雲の師匠・日耀(日尊門流)から相伝したものであるから、「百六箇抄」を偽作したのは日尊門流(要法寺)であるとする説である。

そうなると堀日亨が岡宮・光長寺の学頭・大林日有氏から得たとされる「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本の写本」の信憑性がまず第一に問題となる。
堀日亨は、この写本について「筆者不明」であるとしながらも、「日鑑の直筆の記文」があるとしているが、その一方で、堀日亨は「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」についても、「原本は日叶師のものなりしや」と疑問符をつけて書いている。



■検証40・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ9

□「百六箇抄」を偽作したのは京都・日尊門流・要法寺ではない6(要法寺偽作説の誤り・秘伝抄)

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「隠れたる左京日教師」で紹介している、岡宮・光長寺の学頭・大林日有氏から得たとする「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」であるが、これは本是院日叶(左京阿闍梨日教)が書いた文献ではなく、後世の偽書である。
理由は以下の証拠による。

□1京都・要法寺貫首・広蔵院日辰が『二論議』という著書の中で述べている「御正筆の血脈書を拝せざる間は謀実定め難し」(『二論議』5巻・日蓮宗宗学全書3巻p370)との矛盾

「秘蔵抄」と称している「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」の奥書の記述は、明らかに広蔵院日辰が『二論議』で述べている見解と矛盾している。
もし本是院日叶が出雲の師匠・日耀から「秘蔵抄」を相伝していたとしたら、日辰よりはるか上代に「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承」が日尊門流に存在していたことになり、要法寺貫首がこれを知らないはずがない。
よって日辰が「御正筆の血脈書を拝せざる間は謀実定め難し」などと書くはずがない。この日辰の『二論議』で述べている見解は、本因妙抄、百六箇抄が明らかに他門流から日尊門流に流入してきた文書であることを物語っている。

□2 同じく要法寺側の史料である「日宗年表」によると、1483(文明15)年5月10日、左京阿闍梨日教(日叶)が、調御寺・日乗に宗義相伝書を授与したときの名前を、改名前の本是院日叶ではなく、左京阿闍梨日教としている。

1482(文明14)年の日有死去後、著書や文献においては、「左京阿闍梨日教」と名のっており、「本是院日叶」の名前は使っていない。
したがって「秘蔵抄」と称している「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」の奥書に「本是院日叶」の名前が使われているのは、大きな不審点である。
「本是院日叶」とは、左京日教が日尊門流にいたときからの名前だが、日蓮正宗大石寺9世法主日有の門下に帰参して後は「左京阿闍梨日教」と改名している。
しかし改名後も、京都・鳥辺山に碑を建てたときも「本是院日叶」の名前を使っているが、これは日教が元々は日尊門流出身であるから、京都では「本是院日叶」の名前をそのまま使っていたと思われる。
しかし一旦、改名した以上、対外的には「左京阿闍梨日教」と名のることが本筋であり、したがって「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」の奥書に「本是院日叶」の名前が使われているのは、どう考えても不審なのである。

□3 「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」の奥書における「文明十七年巳十月十九日 八十六歳日乗在判」と「文明十五年卯五月十五日 日叶在判」の記述がアベコベになっている。

このようなことから、堀日亨自身も、合本の写本について、「筆者不明」であるとし、「原本は日叶師のものなりしや」と疑問符をつけて書いており、不審を呈している。

したがって、「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」は、「本是院日叶」が書いた文献とは認められず、後世の偽書と結論づけられる。
したがって、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「隠れたる左京日教師」の記述と、その中に紹介されている「本因妙抄、百六箇抄、本尊七箇相伝、産湯相承の合本」を根拠にした、「百六箇抄」要法寺偽作説は根拠を全く失うのである。






■検証41・百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ10

□日有が「百六箇抄」を所持していたことを認めている日蓮宗系・興風談所の学者

日蓮正宗大石寺九世法主・日有は、これら「百六箇抄」「本因妙抄」をすでに入手していたことは、立正大学の日蓮宗系学者や興風談所の日蓮正宗系学者も、認めていることである。

立正大学教授・執行海秀(しぎょうかいしゅう・1907〜1968)氏は、著書「興門教学の研究」の中で
「日有の教学には『本因妙抄』の思想は既に存しており、それは日有によって初めて石山教学として、形成されている。しかし『本因妙抄』並びに『百六箇抄』の両血脈を直接文献として引用するところがなく、またその書名も挙げていない」
という見解を示している。

執行海秀(しぎょうかいしゅう・1907〜1968)
立正大学教授。文学博士。明治40年(1907)11月18日佐賀に生る。幼名秀雄。
大正14年(1925)佐賀県小城郡勝妙寺平山海量について得度す。
 苦学勉励し、後、立正大学仏教学科に入学、浅井要麟教授について日蓮学を専攻、教学研究に非凡な才を発揮して将来を嘱望された。
昭和11年(1936)首席で仏教学科を卒業したが、その卒業論文が有名な『御義口伝の研究』。
氏の教学史研究の成果は昭和27年『日蓮宗教学史』としてまとめられ、現在でも版を重ね日蓮宗の思想を学ぶ者の必読書として高い評価を得ている。
 昭和18年(1943)立正大学専門部講師に任ぜられ、以後大学の宗学研究と学徒養成に従事し、昭和29年(1954)仏教学部教授に就任した。
昭和31年(1956)には千葉県市川の浄然寺に住職し、創価学会の社会問題化する中で興門教学を究明し、学問的立場から学会に鋭い批判を浴びせている。
昭和40年(1965)頃から病いを得、それまでの研究と病床で執筆中の『興門教学の研究』によって昭和43年(1968)博士号を授与せられるも、同年12月4日遷化す。
海秀院日学、行年62歳。

大黒喜道氏は興風談所発行「興風」14号の論文「日興門流における本因妙抄思想形成に関する覚書」の中において、日蓮正宗大石寺九世法主・日有の言説の中に「百六箇抄」「本因妙抄」の内容と共通するもの表現があるとし、日有の説法を筆録した「化儀抄」116条において引用されている「権実約智約教」「本迹約身約位」「雖脱在現具騰本種」といった法華玄義や法華文句記の釈文が、「百六箇抄」「本因妙抄」において重要視されていることや、「日有雑々聞書」の中の「高祖開山唯我与我」(『富士宗学要集』2巻p166)との文が、『本因妙抄』の「唯我(日蓮)と与我(日興)計り」『富士宗学要集』1巻p8)と似ていることから、「百六箇抄」「本因妙抄」が日有教学の形成に当たって何らかの影響を及ぼしたのではないかという意見を述べている。

大黒喜道

元日蓮正宗の僧侶。日蓮正宗大石寺66世法主細井日達のもとで出家・得度。
教師になった後、「在勤教師会」に所属。阿部日顕法主登座の後、法主の血脈問題で日蓮正宗から「擯斥」される。
現在は、興風談所で日蓮宗学・日蓮正宗学の研究に没頭し「興風」等にさまざまな教学研究論文を発表している。

しかしそれよりも何よりも、日蓮正宗大石寺9世法主日有の門下にあった左京阿闍梨日教の著書「類聚翰集私」の中に「百六箇抄」本文が引用されていることを指摘しなくてはならないだろう。

これによって日有がすでに「百六箇抄」「本因妙抄」を直接披見していたことが明白になる。
少なくとも「百六箇抄」「本因妙抄」は、日有の代のころには成立していて、日有はそれらの「原本」ないしは「正本」を自ら所持していたということが明白なのである。

■検証42・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ11

それでは、「百六箇抄」の本文が日蓮正宗大石寺9世法主日有によって偽作されたという証拠はどこにあるのだろうか。それは、本文をくまなく検証していくと、その本文の中にある。

□「百六箇抄」に説かれている日有独自の「戒壇論」

「百六箇抄」の本文が日有によって偽作されたという証拠の第一は、「百六箇抄」に、日有独自の戒壇論である「事の戒壇」が説かれていることである。

「四十二、下種の弘通戒壇実勝の本迹、 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1巻p18)
「又五人並に已外の諸僧等、日本乃至一閻浮提の外万国に之を流布せしむと雖も、日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1巻p21)

ここに述べられている「三箇の秘法建立」=「富士山本門寺本堂」というのは、日蓮の三大秘法にはない、日有独自の三大秘法論であり、「事の戒壇」論である。
すなわち「三箇の秘法」とは、日有自身が弟子に対して
「日有云く、また云く、大石は父の寺、重須は母の寺、父の大石は本尊堂、重須は御影堂、大石は本果妙、重須は本因妙、彼は勅願寺、此は祈願寺、彼は所開、此は能開、彼は所生、此は能生、即本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」(「新池抄聞書」/「富士日興上人詳伝・下」p84)
-----かつて日有上人がこのように説法していた、と日要上人が語っていた。大石寺は例えて言えば父親のような本山寺院であり、重須の北山本門寺は、例えて言えば母親のような本山寺院である。父親の本山寺院である大石寺には、「本門戒壇の大御本尊」を安置している本尊堂があり、母親の本山寺院である北山本門寺には、日蓮大聖人の木像(御影)を安置している御影堂がある。……此の大石寺は、衆生を成仏に導く根本の寺であり、即ち、「本門戒壇の大御本尊」を安置している本尊堂がある大石寺こそ、本因、本果、本国土妙の三妙合論の事の戒壇なのであり、根本の寺院・道場なのである。-------
と指南している「事の戒壇」。又、日有の弟子であった左京阿闍梨日教が
「三箇の秘法とは日蓮、日目と御相承し、…この三箇の秘法は当家の独歩なり」(同『富士宗学要集』2巻p257収録の日教の著書『穆作抄』より)
「此の三箇の秘法、余流に存知無き」(同『富士宗学要集』2巻p313収録の日教の著書『類聚翰集私』より)
と述べている如く、日蓮が唱えた「三大秘法」とは別個の、戒壇中心・本尊中心の日有独自の「三大秘法」である。
「三箇の秘法建立」=「富士山本門寺本堂」ということは、この「三箇の秘法」というのは、「富士山本門寺本堂」に祀る「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊ということである。
この日有独自の戒壇論をより明確にする文が「富士宗学要集」1巻p21の文
「又五人並に已外の諸僧等、日本乃至一閻浮提の外万国に之を流布せしむと雖も、日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」
の文であり、「日興嫡嫡相承の曼荼羅」とは、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことであり、「本堂」とは先に述べた「富士山本門寺本堂」のこと。つまり「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を「富士山本門寺本堂」の「正本尊」(中心に祀る本尊)とせよ、という意味の文であり、これが「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」の示す意味ということだ。
つまりこれは、日蓮正宗大石寺9世法主日有が独自に発明した「事の戒壇論」「三大秘法論」が直截に述べられている箇所ということである。
これを「代々の法主のみが相伝してきた」と称する相伝書に書ける人物は、「本門戒壇の大御本尊」「戒壇論」を偽作した日有以外にいないではないか。







■検証43・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ12

「百六箇抄」の「三箇の秘法建立」=「富士山本門寺本堂」というのは、日蓮の三大秘法にはない、日有独自の三大秘法論であり、「事の戒壇」論であること。「三箇の秘法」というのは、「富士山本門寺本堂」に祀る「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊であることを証する傍証がある。

それは同じく「百六箇抄」の中にある文
「鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁と為して諸所を去り遁世の事・甲斐国三牧は日興墾志の故なり」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻p22)
である。

鎌倉幕府と厳しい対立関係にあった日蓮が、鎌倉殿、つまり鎌倉幕府の将軍、ないしは鎌倉幕府そのものから十万貫の寄進を受けるなどと言うことはあり得ない話である。この記述が史実に反するものであることは、『富士宗学要集』を編纂した日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨も認めていることで、堀日亨自ら
「十万貫なんという途方もない厚遇ができようはずがない」「かくのごとき漫筆をたくましゅうするから、塩尻なんどに漫罵せられて宗祖の顔に泥を塗ることになる」
「いわんや十万貫なんど突拍子もないことは、大聖を愚弄するもはなはだしいものであるが、一般はこんな馬鹿げたことが好物らしい」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『富士日興上人詳伝』p61〜62)
と述べて、強く否定しているくらいである。
では、そういう史実に反する記述を、どうして日有は「百六箇抄」の中に書いたのか。

それは「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立するには、大きな経済力が必要で、それは「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した日有が一番よく知っていた。
しかし身延山の山中で極貧の生活をしていた、鎌倉時代の日蓮には、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立できる経済力もなければ、技術力もなかった。「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した日有は、これを「日蓮が造立した」と詐称しているわけだから、日蓮に「本門戒壇の大御本尊」が造立できる経済力があったことにしなくてはならない。
つまり「身延山の山中で極貧の生活をしていた」鎌倉時代の日蓮と、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立できる経済力のギャップを埋め合わせるためのものが、「百六箇抄」の「鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁と為して諸所を去り遁世の事・甲斐国三牧は日興墾志の故なり」の文なのである。
つまり、「鎌倉殿より十万貫の御寄進」があったから、日蓮には「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立できる経済力があった、というわけである。
つまり、造立にかなりの経済力を要する「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立できるだけの経済力を、日蓮は鎌倉殿から寄進された十万貫で持ち合わせていたという意味を含ませていることが明らかである。

十万貫というと、金1両=4000文=4貫文と計算すると、何と金2万5000両にもなる大金である。こんな大金を、いくら何でも、鎌倉幕府が日蓮に寄進するはずがない。
堀日亨も、さすがに否定せざるを得なかったわけだが、その堀日亨が、「鎌倉殿より十万貫の御寄進」の文がいつ頃書かれたかについて、興味深いことを言っている。それは
「この付記は相伝書以後二百年は下るまい」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『富士日興上人詳伝』p61)
と言っていることだ。
「相伝書以後二百年」というのは、「百六箇抄」が成立した年だと日蓮正宗が詐称している1280(弘安3)年から数えて200年ということ。そうすると1480(文明12)年ということになる。「下るまい」ということは、1480(文明12)年以前ということになるが、日有は1419年から1482年まで足かけ64年、法主ないし隠居法主として大石寺の最高指導者として君臨していた人物。
堀日亨の「この付記は相伝書以後二百年は下るまい」の文は、実質的に「百六箇抄」は日有が書いた偽書だと認めているに等しいのである。



■検証44・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ13

□「百六箇抄」を偽作したのは京都・日尊門流・要法寺ではない6(要法寺偽作説の誤り・日興嫡嫡相承の曼荼羅の解釈)

「百六箇抄」要法寺偽作説を唱えている大石寺・富士門流研究家の東佑介氏は、「百六箇抄」の
「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1巻p21)
の「日興嫡嫡相承の曼荼羅」とは、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことではなく、
日蓮が1272(文永9)年正月元日に図顕したと要法寺門流が自称している「称徳符法の本尊」、ないしは、日蓮が1276(建治2)年正月元日に図顕したと要法寺門流が自称している「符法の曼荼羅」であるとしている。

ただし東佑介氏の「日興嫡嫡相承の曼荼羅・称徳符法の本尊説」は、
「後加文は尊門僧によってなされたものであるから、『日興嫡嫡相承の曼荼羅』とは、本門戒壇の大御本尊をさすものではなく…
「称徳符法の本尊」「符法の曼荼羅」をさすものと考えるのが妥当である」
(東佑介氏の著書『大石寺教学の研究』p23〜24)
と書いているように、「百六箇抄」は日尊門流による偽作なのだから、「日興嫡嫡相承の曼荼羅」とは、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことではなく、要法寺の「称徳符法の本尊」「符法の曼荼羅」のことだ、という、いわば自動推論により結論を導き出しているのであって、何らかの証拠を示すなどして、積極的に「日興嫡嫡相承の曼荼羅・称徳符法の本尊説」を展開しているわけではない。

しかし、「百六箇抄」の偽作者が日尊門流ではなく、日蓮正宗大石寺9世法主日有だと言うことになると、日有が要法寺の「称徳符法の本尊」「符法の曼荼羅」を想定して、
「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」
「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」
と書くわけがなく、これは日有が偽作した大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことであることは明白である。
したがって「百六箇抄」の偽作者が日有であることが明らかになったことによって、東佑介氏の自動推論は、不成立ということになる。

もっと言うと、「百六箇抄」の「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」とは、日有が偽作した独自教義である「事の戒壇」である。「事の戒壇」論そのものは、日有独自の教義であり、日蓮・日興・日目の教学にもなければ、日尊門流の教学にもない。

さらに「百六箇抄」には
「鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁と為して諸所を去り遁世の事・甲斐国三牧は日興墾志の故なり」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻p22)
という、鎌倉幕府からの十万貫の寄進などという史実の捏造まで行って、日蓮にさも経済力があったかのような文まで見られる。
つまり、「鎌倉殿より十万貫の御寄進」があったから、日蓮には「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立できる経済力があった、という「本門戒壇の大御本尊」日蓮造立を意図的にでっち上げる謀略文である。

これらの証拠からしても、「日興嫡嫡相承の曼荼羅」とは、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことであることは明らかである。




■検証45・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ14

□「百六箇抄」に説かれている日蓮本仏論

「百六箇抄」という文書を繙いていくと、これでもか、これでもかとばかりに「日蓮=本仏」を説く文、いわゆる「日蓮本仏論」が出てくる。

■「具謄本種・正法実義・本迹勝劣正伝・本因妙の教主・本門の大師・日蓮謹て之を結要す」
■「久遠名字より已来た本因本果の主、本地自受用報身の垂迹、上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮詮要す」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1巻p9)
■「二、久遠元初直行の本迹、 名字本因妙は本種なれば本門なり。本果妙は余行に渡る故に本の上の迹なり。久遠釈尊の口唱を今日蓮直に唱ふるなり」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1巻p15)
■「十一、不渡余行法華経の本迹、 義理上に同じ。直達の法華は本門、唱ふる釈迦は迹なり。今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違はざるなり」
■「十二、下種の法華経教主の本迹、 自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり」
■「十三、下種の今此三界の主の本迹、 久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり。久遠は本、今日は迹なり。三世常住の日蓮は名字の利生なり」
■「十六、末法時刻の弘通の本迹、 本因妙を本とし、今日寿量の脱益を迹とするなり。久遠の釈尊の修行と今日蓮の修行とは芥子計も違はざる勝劣なり云云」
■「十七、本門修行の本迹、 正像二千年の修行は迹門なり、末法の修行は本門なり。又中間今日の仏の修行より、日蓮の修行は勝るる者なり」
■「十八、本門五大尊の本迹、 久遠本果の自受用報身如来は本なり、上行等の四菩薩は迹なり」
■「十九、日蓮本門弘通の本迹、 本因妙は本なり、我本行菩薩道は迹なり云云」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1巻p16)
■「二十九、本門付属の本迹、 久遠名字の時受る所の妙法は本、上行等は迹なり。久遠元初の結要付属は日蓮今日寿量の付属と同意なり云云」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1巻p17)
■「三十四、本種師弟不変の本迹、 久遠実成の自受用身は本、上行菩薩は迹なり。三世常恒不変の約束なり」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1巻p18)

日蓮を人本尊(本仏としての本尊)とする教義を富士門流、なかんずく大石寺門流の中で、明確に確立したのは、日蓮正宗大石寺9世法主・日有である。
日有は、弟子の南条日住が筆録した「化儀抄」において、
「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし。仍て今の弘法は流通なり。滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり」
「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり。其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に地住已上の機に対する所の釈尊は、名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり。其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり」
(日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨が編纂した『富士宗学要集』1巻相伝信条部p65)
と、はっきりと明示し、仏教教学的な観点から、日蓮本仏の教義を種々に説き示しているが、日有が説いた「日蓮本仏論」が富士門流・大石寺門流ではじめて説かれたものである。
つまり「百六箇抄」で「日蓮本仏論」が説かれていること自体、「百六箇抄」が日有によって偽作されたものであることを明確に示すものである。





■検証46・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ15

□「百六箇抄」に説かれている本門戒壇の大御本尊(戒壇本尊)論・日興相承論

日蓮正宗大石寺9世法主日有が「富士山本門寺本堂の正本尊とすべき」と言った「日興嫡嫡相承の曼荼羅」とは、日有自身が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のことである。
「日興嫡嫡相承の曼荼羅」とは、同じく日有が偽作した文書「日興跡条条事」の中にある「日興が身に宛て給わる弘安二年の大御本尊」と軌を一にするものである。
「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を「日興嫡嫡相承の曼荼羅」「日興が身に宛て給わる弘安二年の大御本尊」と言うからには、日興が日蓮から相承した唯一の後継者でなくてはならない。
そこで、「百六箇抄」には、「日興だけが日蓮から結要付属を相承した唯一の後継者である」とする「日興相承論」なるものが延々と説かれている。

■「又五人並に已外の諸僧等、日本乃至一閻浮提の外万国に之を流布せしむと雖も、日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」
■「但し直授結要付属は一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず、悉く付属せしめ畢ぬ。上首已下並に末弟等異論無く、尽未来際に至るまで予が存日の如く、日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」
■「所以は何ん、在世滅後殊なりと雖も付属の儀式之同じ。譬へば四大六万の直弟の本眷属有りと雖も、上行菩薩を以て結要の大導師と定むるが如し。 今以て是の如し。六人以下数輩の弟子有りと雖も、日興を以て結要付属の大将と定むる者なり」
「問て云く誰人を証拠と為して之を付属せるや。答えて云く釈迦・多宝・十方三世の分身・本化迹化並びに声聞・縁覚・梵釈・四王・日月・衆星・天神地祇・二界八番の衆・殊に天照大神・正八幡等諸の大明神・別しては久遠下種の鬼子母神・十羅刹女・三十番神・山王明神・惣しては日本国中・大小の冥神・日昭・日朗・日向・日頂・日持等の上老・日高等の中老・日比日弁等の下老、其の外諸檀那等を以て悉く証人として日興を付弟と定め了んぬ。然る間・予が入滅の導師として寿量品を始め奉る可し・是れ万年已後・未来惣貫主の証拠と為る可し」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1巻p20〜21)

しかし現在の日蓮正宗大石寺は、「日興相承論」に関しては「百六箇抄」ではなく、室町・戦国時代まで北山本門寺に格蔵されていたと称している「二箇相承」を正とし、この「百六箇抄」を傍とする。
「二箇相承」は、日有が死去する直前の1482(文明14)年9月に起こった大石寺と北山本門寺・小泉久遠寺・保田妙本寺の論争以降、大石寺が北山本門寺から輸入したものである。というか、大石寺が北山本門寺の「二箇相承」をそのままパクって、さも自分たちが相承した文書であるかのように詐称しているものである。

そうすると、「百六箇抄」に説かれている戒壇本尊論・日興相承論の正体が見えてくる。
つまり「百六箇抄」の「日興相承論」は、大石寺が未だ北山本門寺の「二箇相承」の存在を知らなかったときに書かれたということである。
したがって、「百六箇抄」の「戒壇本尊論・日興相承論」は1445(文安2)年に日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作してから、1482(文明14)年9月の大石寺と北山本門寺・小泉久遠寺・保田妙本寺の論争までの間に成立したものであるということである。
つまり、「百六箇抄」の「戒壇本尊論・日興相承論」は、「百六箇抄」の本文が日有によって偽作されたことを示す証拠なのである。





■検証47・「百六箇抄」本文を偽作したのは日蓮正宗大石寺9世法主日有だ16

□「百六箇抄」に説かれている日目再誕論

「百六箇抄」には、広宣流布の日における日目の再誕論が説かれている。

■「日興先をかくれば無辺行菩薩か・日朗後にひかうれば安立行菩薩か・日蓮大将なれば上行菩薩か・日目は毎度幡さしなれば浄行菩薩か」
■「広宣流布の日は上行菩薩は大賢臣と成り・無辺行菩薩は大賢王と成り・浄行菩薩は大導師と成り・安立行菩薩は大関白或いは大国母と成り、日本乃至一閻浮提の内一同に四衆悉く南無妙法蓮華経と唱へしめんのみ」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」1巻p22)

日蓮正宗において「広宣流布の日の御法主様は日目上人の再誕である」という伝説が古くから伝えられており、少しばかり信仰活動歴のある信者であれば、知らぬ者はいないくらいである。
この「広宣流布の日の法主は日目の再誕」なる伝説の元ネタは、この「百六箇抄」である。
つまり「百六箇抄」で「日目=浄行菩薩」であり、広宣流布の日は「浄行菩薩は大導師と成り」と言っている。大導師とは日蓮正宗大石寺の法主のことである。
さらにこの「日目再誕論」なるものを検証していくと、これのルーツが日蓮正宗大石寺9世法主日有が創建した客殿と東向きに設えられた大導師席に行くつくのである。
これはどういうことか。
「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した日有は、「日興跡条条事」を偽作してその第二条に「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝する。本門寺に懸け奉るべし」 という文を造り、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊が「日蓮真造である」という文証にして、それが日蓮、日興、日目と相伝されていたという文証にしようとした。

日蓮正宗では本尊が誰かに授与した場合、「授与之 ○○」「授与之 願主○○」というふうに名前が入る。末寺寺院に祀る板本尊だと「授与之 △△山○○寺安置 願主□□」というふうになる。
個人授与の本尊の場合、授与された本人が死去した場合、寺院に感得願を出して、相続人が本尊を相続していく。日興の時代においては、「弟子分帳」に記載したり、授与書を本尊に加筆したりしていた。
ということは、日興・日目からそれ以降の法主へと「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊が相伝されたとデッチ上げるには、法主から法主への代替の度に、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を授与したとする相伝書が必要になってきてしまう。
これは無理だと考えたのか、日有は、「日興跡条条事」第二条の「本門戒壇の大御本尊」の文を「相伝」とすることによって、「大石寺歴代法主=日目」という教義を発明した。
つまり大石寺客殿の大導師席を日目の座であると称して、その大導師席に座る大石寺法主は全員が日目であると定義づけた。 大石寺歴代法主は全員、日目であると定義づけ、「日興跡条条事」の「授与」を「相伝」と上書きすることによって、日目以降の法主の代替にともなう「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊の授与書を不要にしてしまったということである。
日蓮正宗大石寺67世法主阿部日顕は、1982(昭和57)年12月15日の日目六百五十遠忌法要の説法の席で
「すでに『二箇相承』『日興跡条条事』に確定されたことなるゆえに、日目上人より以下、日道上人、日行上人等、代々の附嘱相伝においては、改めてこの内容を文書として書く必要はないから、その形式が存在しないのであります」
と言っており、「日興跡条条事」によって日目以降の法主代替の相承書が不要だと認めている。
つまり「百六箇抄」の「日目再誕論」とは、日有が発明した「大石寺歴代法主=日目」という教義と全く同轍のものなのである。
つまりこの「日目再誕論」も日蓮正宗大石寺9世法主日有が「百六箇抄」の本文を偽作した有力な証拠のひとつということである。




■検証48・「二箇相承」があるのになぜ日有は「百六箇抄」を偽作したのか


日蓮から日興への相承を詐称する文書としては、「百六箇抄」の他に「二箇相承」があまりにも有名である。「二箇相承」はかつては北山本門寺に蔵されていた偽書であるが、今の日蓮正宗大石寺は、日蓮から日興への相承を証する文書として「二箇相承」をメインに持ってきている。
毎年4月に日蓮正宗大石寺で奉修される「霊宝虫払い大法会」では、法主自ら「二箇相承」の写本を手にとって信者に披露するが、「百六箇抄」の写本を披露すると言うことはない。
「百六箇抄」は、「二箇相承」の前に、完全に存在感が霞んでしまっている感じが否めないのだが、ではなぜ日蓮正宗大石寺9世法主日有は、「二箇相承」があるのに、わざわざ「百六箇抄」を偽作したのか、という問題が発生する。

これはどういうことかというと、日有は、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」を偽作し、これを正統化して権威づけるために、「日興跡条条事」「百六箇抄」「産湯相承事」「御本尊七箇相承」といった文書を偽作して「日蓮本仏論」「唯授一人血脈相承」といったものを偽作した。つまり全て準備万端整えて、完璧な完全犯罪として「本門戒壇の大御本尊」「日蓮本仏論」「唯授一人血脈相承」の偽作をやり遂げたわけだが、その時点に於いて、「二箇相承」を知らなかったということである。

北山本門寺も当初は大石寺とは親密であったのだが、大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」などを偽造したころから大石寺と仲が悪くなり、大石寺と小泉久遠寺との間で血脈論争がおこると、北山本門寺は小泉久遠寺側に味方して大石寺と離反した。
その紛争の中で、北山本門寺は日蓮の名前まで騙って「二箇相承」や「大日本国、富士山、本門寺根源、日蓮在御判」なる『本門寺額』も秘かに謀作し、用意万端の手筈を整えて時の権力(駿河国の国主今川氏)に迎合して「富士山本門寺」の山号・寺号を今川家から下賜されることに成功し、かくて北山本門寺が興門派の盟主・主導権を握ろうとした。

つまり日有が「本門戒壇の大御本尊」を偽作して、これを日蓮真筆・真造であると詐称し、「大石寺の法主だけが内々の相承で今日に伝承してきた」と言って、大石寺こそ「事の戒壇」であり、日蓮一門・富士門流の盟主であり、総本山なのだと言った。
これに対して、北山本門寺貫首・日浄が、そんな板本尊は「未聞未見の板本尊」だと喝破し、日有が未聞未見の板本尊や偽書を偽造したと非難ののろしを上げた。
この大石寺と北山本門寺の論争の中で、北山本門寺が「我こそが日興門流の正統本山なり」とて、出てきたのが「二箇相承」である。
つまり、日有は「百六箇抄」を偽作した時点に於いて、「二箇相承」そのものを知らず、大石寺にも「二箇相承」はなかったということである。

その後、「二箇相承」は、富士門流の僧侶達が北山本門寺を訪ねて写本を作り、一気に広まった。中でも、京都要法寺貫首・日辰の写本はあまりにも有名であり、大石寺にある「二箇相承」の写本も、日辰の写本である。

一方で、「百六箇抄」のほうも、大石寺から京都・日尊門流に広まり、「日蓮本仏論」や「血脈」という言葉は、大石寺の他に京都・要法寺の日尊門流、小泉久遠寺・保田妙本寺の日郷門流、北山本門寺や西山本門寺も使ったりはしたが、「百六箇抄」は「二箇相承」ほど存在感は大きくならなかった。
富士門流の中で、日蓮から日興への相承を証する文書と言えば「二箇相承」というくらい、その存在感が大きくなったということである。こういう流れの中で、大石寺も日蓮から日興への相承を証する文書として「二箇相承」を持ってきた。
つまり大石寺は、日有が偽作した「百六箇抄」よりも、北山本門寺が偽作した「二箇相承」をそのままパクって、自宗の教義のメインに据えているのである。









■検証49・なぜ大石寺に「百六箇抄」がなくなったのか1


日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「堀上人に富士宗門史を聞く」の中で

「ただ残念なのは、百六箇抄が本山に残っていない。本因妙抄が残っているから、百六箇抄も、むろんあったにちがいない」(『富士宗門史』p90)

と言っており、大石寺には百六箇抄が残っていないと明言している。この文面からだと、大石寺には日有が偽作した百六箇抄の正本がないと言う意味なのか、それとも正本も写本もなくなってしまている、という意味なのかは判然としないが、大石寺に写本が残っている本因妙抄について堀日亨が「本因妙抄が残っている」と言っていることからして、百六箇抄は、大石寺から正本も写本もなくなってしまている、という意味に解釈される。

堀日亨は、自らが編纂した「富士宗学要集」1巻に「百六箇抄」の全文を収録しているが、これをどこから写したかについて
「編者曰く日辰上人・日我上人等古写本(巻頭に其写真を掲ぐ)に依って之を写し一校を加へ、又後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり」(『富士宗学要集』1巻p25)
と書いており、その写本の元は「日辰上人・日我上人等古写本」と言っている。
日辰上人とは、日尊門流の京都・要法寺19世・広蔵院日辰(1508〜1576)のこと。日我上人とは、日郷門流の小泉久遠寺・保田妙本寺14世・日我(1508〜1586)のこと。
要法寺とは、1536(天文5)年の天文法華の乱で焼失した上行院・住本寺を合併して1550(天文19)年に新たに建立した寺院。
日辰は元々、住本寺の僧侶だが、1545(天文14)年に住本寺貫首・日在から跡目を相続したとされている。住本寺焼失から9年後のことである。日辰は1550(天文19)年の要法寺建立から1576(天正4)年12月に死去するまでの26年間、要法寺の貫首であった。
日我は、先代の日継が1527(大永7)年に死去してから、1586(天正14)年に死去するまでの59年間、小泉久遠寺・保田妙本寺14世であった。

「百六箇抄」は日蓮正宗大石寺9世法主日有の手によって偽作されて以来、1488(長享2)年に左京阿闍梨日教が著した「類聚翰集私」にすでに「百六箇抄」の文面が登場している。
これから日辰や日我が貫首として登座するまでの間に、富士門流の中ではかなり広がったと考えられ、そういう中で、日辰や日我の写本が造られたと考えられる。
堀日亨は、自らが「富士宗学要集」に収録した「百六箇抄」については
「日辰上人・日我上人等古写本に依って之を写し一校を加へ、又後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり」
(『富士宗学要集』1巻p25)
と言って、日辰写本・日我写本も内容はほぼ同じであることを示唆している。そうすると「百六箇抄」の末文は、明らかな日尊門流の後加文であるから、日辰以前に於いて、「百六箇抄」は日尊門流に流入していたことになる。

しかしこの日辰は、1560(永禄3)年の自らの著書「二論議」で
「御正筆の血脈書を拝せざる間は謀実定め難し」(『二論議』5巻・日蓮宗宗学全書3巻p370)
と言って、「百六箇抄」「本因妙抄」について、大きな不審を表明している。
そうすると、堀日亨は、「百六箇抄」に対して大きな不審を表明している広蔵院日辰の写本を元にして、「百六箇抄」を「富士宗学要集」に収録したことになり、ここのところが何とも大きく矛盾しているようで面白い。








■検証50・なぜ大石寺に「百六箇抄」がなくなったのか2


日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、大石寺から「百六箇抄」がなくなった理由について、次のように弁解している。

「本山でもですね、あの時代は直接の法門に関係あるものは大事にしたか知れませんけれども、そういう難しいものは、平常は使わない。大事にしすぎて使わないでいて、なくなったかしらんと思う。あまり大事にすると、しょっちゅう、見ないんですからね。いつかしら、見ないうちに無くなってしまう。大事にして、しょっちゅう、写し写ししているというと、どっかに転写本がありますけれども、写しもしないで大事にどっかに、しまっておくというと無くなってしまう」
(「堀上人に富士宗門史を聞く」/『富士宗門史』p90)

立正大学で身延離山史の教鞭を執った学者とは思えないような言い訳をしているが、この文を読む限り、百六箇抄は、大石寺から日有が偽作した正本も写本もなくなってしまている、という意味に解釈される。
もっとも、日蓮正宗大石寺9世法主日有が偽作した「百六箇抄」の「正本」なるものは、もし存在していたとしても、最初から「写本」と銘打っていたと思われる。もし、日有が大々的に「百六箇抄」の日蓮の「正本」と銘打って偽作したとしたら、たちまちに偽作がばれてしまう。

室町時代・戦国時代の昔においても、筆跡による真偽の鑑定ぐらいは行われていた。
実際、法華宗陣門流総本山・越後本成寺8世法主日現は、1516(永正11)年、「五人所破抄斥」という文書の中で、「二箇相承書」を「御正筆に非ず。偽書謀判也」と弾劾し、さらにその上で「日興の手跡にもあらず」と断定し、偽書であると断じている。
これは、1581(天正9)年3月に「二箇相承」の「正本」と称していた文書が、武田勝頼の軍勢と西山本門寺の群徒によって北山本門寺から強奪され紛失してしまう以前、日現が北山本門寺で「二箇相承」を直接拝した上で書写し、「二箇相承書」を「御正筆に非ず。偽書謀判也」「日興の手跡にもあらず」と弾劾したわけである。

つまり日有が「百六箇抄」の日蓮正筆と称するものを偽作したとしたら、これが他門流の誰かの目にとまった場合、たちまちのうちに筆跡鑑定されてしまって、「百六箇抄」が偽書であると告発されてしまう。
しかし「百六箇抄」の日蓮正筆の「大石寺△世○○の写本」と称するものを偽作したとしたら、仮に
これが他門流の誰かの目にとまったとしても、少なくとも筆跡鑑定で偽作がバレることはない。
「写本」なのだから、日蓮との筆跡が違っていて当たり前だからである。

実際、大石寺には、「本因妙抄」「三大秘法抄」の日蓮正宗大石寺6世法主日時の「写本」と称するものがあるが、近年の学者の研究により、日時の筆跡に疑義が呈されている。
つまり、日有は、「百六箇抄」の日蓮正筆と称するものではなく、「百六箇抄」の日蓮正筆の「大石寺△世○○の写本」と称するものを偽作したということである。
したがって、堀日亨が
「ただ残念なのは、百六箇抄が本山に残っていない。」
と言っているのは、実質的に「百六箇抄」が日有の偽作であることを認めたことに等しいのである。




■検証24の補足

宮崎英修(1915〜1997)

昭和十二(1937)年三月、立正大学文学部(宗学科)を卒業。
立正大学仏教学部教授、同日蓮教学研究所長、日蓮宗現代宗教研究所長、身延山大学学長、日蓮宗勧学院長などを歴任。
立正大学・身延山大学名誉教授、文学博士。
「波木井南部氏事跡考」「法華の殉教者たち」「日蓮とその弟子 」など、たくさんの著書がある。

池田令道

元日蓮正宗の僧侶、在勤教師会のメンバー、現在は「興風談所」で、日蓮宗学、富士門流宗学研究に取り組んでいる。


ログインすると、残り19件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系) 更新情報

アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系)のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング