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羽根木コミュの足利義満

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足利義満は1392年に李氏朝鮮側の要望に応じて倭寇の取り締まりを約束したため、日本と李氏朝鮮の間に国交が開かれた。こうして発生した日朝貿易は、当初より幕府だけではなく守護大名や豪族や商人が参加していたために活発に行われるようになった。日本から李氏朝鮮へは南方貿易により得た蘇木(蘇枋[すおう]の木;赤い染料の原料)や香木(香料の原料)を始め日明貿易とほぼ同様のものを輸出し、李氏朝鮮からは木綿や、仏教研究に多大なる貢献をすることになる大蔵経(一切経)の経典版木、朝鮮人参などが輸入された。なお木綿は、庶民が平常服として着ただけではなく戦国大名も戦闘服として採用したため、その原料たる綿花の栽培が河内国や三河国などで行われるようになった。日朝貿易では幕府発行の通信符が用いられたので通信符貿易と呼ばれるが、対馬国の宗氏一族も日朝貿易に介在するため李氏朝鮮への渡航許可証として文引[ぶんいん]を発行した。宗貞茂は倭寇の取り締まりなどを積極的に行い日朝間の友好に努めたが、彼が死ぬと倭寇の再来を恐れた李氏朝鮮は、倭寇本拠地の対馬国を奇襲し、一方的な大虐殺を行った。1419年に発生したこの応永の外寇(己亥東征[きがいとうせい])により日朝貿易は当然中断されたが、1423年に再開され、宗貞茂の子の宗貞盛により1443年に嘉吉条約(癸亥約条)が締結されてより後は再び活発となった。朝鮮使節の宗稀が著した紀行文『老松堂日本行録』は摂津国尼崎付近の高い農業技術を賛美している。日朝貿易によって朝鮮半島に在住する日本人(恒居倭)も増えたが、李氏朝鮮は彼らに対して富山浦[ふざんほ](現;釜山)・乃而浦[ないじほ](現;薺浦)・塩浦[えんぽ](現;蔚山)といった三浦[さんぽ]に倭館を設置して様々な特権を与えていた。しかしやがて李氏朝鮮がこの特権を縮小していったため1510年にはこれに反発した恒居倭が三浦の乱を勃発させた。この三浦の乱以降、日朝貿易は衰退していった。

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