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史跡コミュの白山神社古墳

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 千葉県君津市俵田1452
https://www.google.com/maps/place/%E7%99%BD%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%A2%B3/@35.3201573,140.0556914,17z/data=!3m1!4b1!4m6!3m5!1s0x6022a7ab054f7b77:0x2e39fe62793c6776!8m2!3d35.3201529!4d140.0578801!16s%2Fg%2F11cs4gqdjl
 1981年03月13日、千葉県が史跡に指定。

 大友皇子と菊理比売神(ククリヒメノカミ)を祭る白山神社〔郷社〕境内にあります。
 小櫃(オビツ)川中流域右岸の低地を見下ろす台地の先端に立地する全長89mの前方後円墳で、社叢として保護されて来たため墳丘が非常に整った状態で保存されています。後円部は直径52m・高さ10m、前方部は長さ38m・幅38m・高さ7mで、前方部に比べて後円部の墳丘が高い古墳時代前期の形態を示しているため、4世紀後半頃の築造と推定されています。南方に位置する箕輪浅間神社古墳、小櫃川の対岸に位置する飯籠塚(イゴヅカ)古墳と相前後して造られたと考えられます。
 後円部の背後には幅広い周溝状の平坦面と帯状の高まりである周堤帯が認められ、周堤帯に接して陪塚(バイチョウ)と思われる小円墳があります。
 古くから上総国には、壬申の乱に敗れた人皇第39代弘文天皇〔位;672〕、即ち大友皇子(オオトモノミコ)が逃れて来て「小川宮」に居住していたものの、天武天皇の追っ手に見つかって自決し、小川宮跡に葬られたとの伝説があります。その後、天武天皇13(684)年に勅使が下向して小川宮跡に社殿を造営して大友皇子を祀り田原神と称したのが白山神社の起源だとされています。
 白山神社は『延喜式』神名帳には登場しませんが、『日本三代実録』元慶8(884)年7月15日条に上総国の「田原神」の神階が正六位上から従五位下に昇叙された旨の記事が見え、同神は当社に比定されています。
 白山神社拝殿には、江戸時代中期の神祇伯(ジンギハク)雅寿王(マサヒサオウ)の文政12(1829)年の筆による「田原神社」の額が掲げられています。
 明治元(1868)年に田原神社は白山神社に改称しました。
 明治4(1871)年以後、旧久留里藩士によって白山神社古墳を弘文天皇陵と認定して貰う運動が起こされ、明治8(1875)年頃に教部省による実地調査が行われましたが、「弘文天皇の時代よりも古い古墳である」とされ、陵墓指定は実現しませんでした。 
 しかし、その後も地元では陵墓指定運動が続いたため、明治31(1898)年に東京帝国大学人類学教室の八木裝三郎(ヤギソウザブロウ;1866〜1942)による本格的考古学調査が実施され、陪塚から海獣葡萄鏡(カイジュウブドウキョウ)・直刀(チョクトウ)・鉄鏃(テツゾク)等が出土しています。

・浅間神社古墳
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=99943549
+飯籠塚古墳
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=99922672

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