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史跡コミュの蝦夷地開拓移住隊士の墓

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 北海道苫小牧市字勇払132番地38

 1956年03月10日、苫小牧市が史跡に指定。

 https://www.google.com/maps/place/%E5%8B%87%E6%89%95%E9%96%8B%E6%8B%93%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E5%85%AC%E5%9C%92/@42.6304707,141.7313552,17z/data=!4m13!1m7!3m6!1s0x5f751eabc5c24e63:0xc24935f00c1624e7!2z44Km44OI44OK44Kk5rmW!3b1!8m2!3d42.6979507!4d141.7128318!3m4!1s0x5f751ad78b06569d:0xa84d3d7734ea2a4e!8m2!3d42.6302545!4d141.7342212

 勇払(ユウフツ)駅東南に位置する勇払開拓史跡公園には、勇武津(ユウブツ)場所・会所関係の墓石9基10人分、八王子千人同心関係の墓石4基9人分、場所請負人関係の墓石2基7人分、その他不明の墓石3基3人分、合計18基29人分の墓石が祭られています。
 墓石群は嘗て勇払原野に散在していましたが、大東亜戦争後、勇払墓地に集合された物で、最も古いのは、八王子千人同心が勇武津に移住した寛政12(1800)年の物で、新しいものは慶応3(1867)年に建立された物です。
 寛政11(1799)年、蝦夷地がロシア帝国からの脅威に晒されたため、幕府は松前藩から蝦夷地を召し上げて直轄しました。翌年、八王子千人同心が蝦夷地の防衛と開拓を幕府に願いでて、組頭の原半左衛門(ハラハンザエモン)が隊長、その弟の新介(シンスケ)が副士となり、同心子弟100人を伴って蝦夷地に入ったのです。
 半左衛門50人を引きつれて白糠(シラヌカ)へ、新介は勇武津に入り、警備・開墾等に従事しました。さらに千人同心の河西祐助(カサイユウスケ)は原半左衛門とは別に役人の見習いとして妻子を連れて勇武津会所に入っています。
 しかし、移住した同心達の生活は苛酷な自然環境の中で困難を極め、二年目にして死亡する者16人、病を得て帰郷する者や病の辛さから自決する者等多数の脱落者を出し、四年で転進を余儀なくされました。
 半左衛門や新介は箱館奉行所に転じ、残った同心は地役御雇(ヂヤクオヤトイ)として蝦夷地に留まりました。蝦夷地開拓移住隊士の墓には、勇武津場所で亡くなった八人の同心と河西祐助の妻である梅の墓があり、苫小牧開拓の先駆者として手厚く保護されています。
 なお、苫小牧市民会館前の広場に建立された開拓記念碑には、赤子を抱いた梅の像が設けられています。

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