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史跡コミュの勇払会所の跡

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 北海道苫小牧市字勇払50番地13

 1956年03月10日、苫小牧市が史跡に指定。

https://www.google.com/maps/place/%E5%8B%87%E6%89%95%E4%BC%9A%E6%89%80%E3%81%AE%E8%B7%A1/@42.6263165,141.7339787,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x5f751ad69f05587b:0x8b5f4ef0bfbc9c!8m2!3d42.6263165!4d141.7361674

 寛政11(1799)年に東蝦夷地が幕府領になると、場所請負制は廃されて勇払会所が設けられ、ユウブツ場所が成立しました。更に翌年には、蝦夷地の警備と開拓のため八王子千人同心50人が勇払に入植、翌年15人が追加されました。しかし、過酷な自然条件に阻まれ、四年で転進を余儀なくされています。ただ、勇払は石狩川流域へ通じる勇払越えルートの起点として交通の要地でもありましたので、勇払会所は維持されました
 文化元(1804)年には、勇払川の東側にあった会所を現在の記念碑が建っている地点に移動し、会所は立て替えられました。会所の周囲は、米・塩・網・産物などを納める倉庫、大工・鍛冶などの作業小屋、通行人などの下宿所、弁天社・稲荷社など船乗りが信仰する堂社等が囲み一集落を形成しました。
 文政4(1821)年に幕府は蝦夷地直轄を止めて松前藩へ返還しましたが、安政2(1855)年に再び蝦夷地の大半を直轄し、蝦夷地の防備を強化しました。この頃には、会所はさらに改築し拡大されており、幕末の勇払は、当時の主力産物であった鰯(イワシ)漁による〆粕(シメカス)の重要な集積地や出荷地としての位置付けが高まっていました。
 箱館戦争後の明治2(1869)年に開拓使が設置され、勇払会所は開拓使出張所となりますが、明治6(1873)年に出張所は苫細(トマコマイ)村へ移転、勇払は寒村と化して行きました。
 勇払ふるさと公園内にある勇武津資料館は、勇払会所を模して作られています。

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