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史跡コミュの上野国分寺跡

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 群馬県前橋市元総社町、高崎市東国分町・引間町

 1926年10月20日指定

 https://www.google.com/maps/@36.3944956,139.0228285,17z
 上野国分寺は天平13(741)年に聖武天皇が出した国分寺建立の詔に基づいて創建されたと寺院で、榛名山南東麓の染谷(ソメヤ)川と牛池川に挟まれた台地上に位置します。『続日本紀』天平勝宝元(749)年5月15日条・閏(ウルウ)5月20日条で当寺への知識物献上の記録がある事から、詔を受けて速やかに造営された模様です。
 寺域は東西220m・南北235mと推定され、主要伽藍として、南北主軸上に南大門・中門・金堂(コンドウ)・講堂が南から一直線上に配されると共に、金堂の西側には七重と推定される塔が配される東大寺式(国分寺式)伽藍配置となっています。金堂左右からは回廊が出て中門左右に取り付き、僧房の有無は不明です。金堂・塔が東西に並立する点が特色です。
 延長5(927)年成立の『延喜式』主税上の規定では、上野国の国分寺料として稲50000束が当てられています。しかし、天慶2(939)年の平将門による上野国府占領の戦乱で衰微が始まり、長元3(1030)年の『上野国交替実録帳』では、既に諸建物が破損・荒廃していた様子が記述されています。続いて治承4(1180)年の足利俊綱による上野国府焼き打ちもあったため、14世紀には講堂の一部が墓地化して伽藍が失われていた様です。
 大正15(1926)年に国の史跡に指定されましたが、充分な発掘調査は行われず、昭和55(1980)年度から昭和63(1988)年にかけて第一期の本格的発掘調査・史跡整備が実施され、平成24(2012)年から平成26(2014)年に第二期整備が実施されました。第二期整備の結果、従来金堂基壇と見做されていた場所が講堂基壇だった事が判明しています。
 平成6(1994)年にガイダンス施設の上野国分寺館がオープンしました。
 尼寺跡は国分寺跡の東方540m地点にあり、東辺の寺域は確定しているため、寺域は方1.5町と推定されています。主要伽藍として、中門・金堂・講堂・尼房の基壇が確認されており、東大寺または法華寺を模倣し、塔を省略した伽藍配置と推定されます。国分寺とは異なって築垣は簡略だった模様です。
 以前は北東1.5kmに位置する山王廃寺跡を尼寺に比定する説もありましたが、昭和44(1969)年から翌年にかけて範囲確認調査が行われ、こちらが尼寺跡だと確認されました。平成11(1999)年から翌年にかけても寺域確認調査が行われ、平成28(2016)年から数年間に亙って本格的な発掘調査が実施されましたが、現在では礎石等は埋め戻されています。

コメント(9)

左; 上野国分寺館 南大門模型
中・右;復元築垣
左;塔基壇
中;ホトケノザ
右;講堂跡
左;赤城山遠望
中・右;上野国分尼寺跡

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