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史跡コミュの本城氏の墓

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 群馬県前橋市紅雲町一丁目9-14

 1979年03月26日、前橋市が史跡に指定。

 https://www.google.com/maps/@36.3854425,139.0622314,18z
 曹洞宗芳林山栄興院長昌寺にあります。
 長昌寺は、延徳元(1489)年に長野方業(ナガノマサナリ)が石倉城を築城した際、伊香保温泉から招いた大洞禅師を開山として創建した寺院だとされ、天文3(1534)年の大洪水で石倉城が崩壊した際も利根川に呑まれる事を免れて、新利根川の東岸で存続する事となりました。
 天正10(1582)年3月に武田勝頼が織田信長によって滅ぼされ、織田軍の滝川一益が上野国を与えられた際、一益は同年6月11日に長昌寺で新たに服属した上野諸将を招いて能興行を行い、厩橋(マヤバシ)城主北条高広(キタジョウタカヒロ)や沼田城主真田昌幸も参列しています。これが上野国に於ける最初の能興行でした。
 元和8(1622)年に出羽国山形藩主最上義俊(モガミヨシトシ)が改易された際、その筆頭重臣で本庄45000石を領していた本城満茂(ホンジョウミツシゲ)が厩橋藩主酒井忠世に預けられ、そのまま1200石を与えられて酒井家に仕える様になると、長昌寺は本城氏の菩提寺となりました。寛延2(1749)年に酒井家が播磨国姫路へ転封になると、本城氏も姫路へ去りましたが、長昌寺の歴代墓地はそのまま残されました。
 左から、本城親茂(満茂の甥で婿養子)・満茂の次女(親茂夫人)・満茂夫人の墓です。
 文化8(1811)年の記録では、満茂・親茂・満旨(ミツムネ)・満武の当主四代を含む一族の墓石19基・石仏2体・初代の位牌等があったとされていますが、長昌寺が荒廃していた時期に失われてしまった模様で、今はこの3基のみが残ります。
 明和6(1769)年に前橋城が廃城になると長昌寺も衰微し、寛政2(1799)年には本堂や庫裏(クリ)が売却されて廃寺に近い状態になってしまいました。慶応3(1867)年に前橋城が再建されると長昌寺も復興しましたが、翌年の廃仏毀釈で大打撃を受け、明治12(1879)年の檀家は39戸に過ぎませんでした。
 しかも明治34(1901)年に火災で伽藍が全焼してしまい、「前橋一の貧乏寺」と嘲笑されるに至りましたが、野中興業の創始者野中倉吉の支援で再建され、昭和20(1945)年8月5日の前橋空襲の戦火は免れています。

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