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史跡コミュの曽谷貝塚

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 千葉県市川市曽谷(ソヤ)2丁目15

 1979年12月22日、指定。
 2009年07月23日、指定範囲を拡大。
 2016年03月01日、指定範囲を拡大。

 https://www.google.co.jp/maps/@35.7468593,139.9332478,17z
  一級河川国分(コクブ)川中流左岸の下総台地西縁にある標高20〜25mの台地上にある東西210m・南北240mの縄文時代中期末から後期末にかけての貝塚で、後期末の土器型式曽谷式の標式遺跡となっています。中央窪地型で北側に開いた馬蹄型貝塚であり、単独の馬蹄型貝塚としては日本で最大の面積を持ちます。貝塚形成以前の縄文前期にあたる地層からも遺構が発見されています。
 明治26(1893)年に帝國大学理科大学の学生山崎直方(ヤマサキナオマサ;1870〜1929)によって初めて発掘され、昭和10(1935)年に内務省神社局考証課嘱託の大場磐雄(オオバイワオ;1899〜1975)が二体の埋葬人骨を発掘しました。昭和12(1937)には在野研究者の山内清男(ヤマノウチスガオ;1902〜70)が竪穴住居跡を発掘し、二年後にそこで発掘された土器を加曽利式と安行式の中間形態を持つ土器として「曽谷式」と命名しました。ところが、その後、根拠となる土器が行方不明となってしまい、公開されなかったために「幻の土器」と称され、存在自体を否定する説も出されろ事になってしまいました。
 その後、周辺の宅地化や曽谷式土器の存在の是非に絡んで、度々発掘が行われました。即ち、昭和25(1950)年には東京大学、昭和34(1959)年には明治大学、昭和35(1960)年には早稲田大学、昭和37(1962)には再度明治大学、昭和40(1965)年には千葉県教育委員会、昭和49(1974)年〜昭和52(1977)には市川市教育委員会が発掘調査を行っています。
 その結果、早稲田大学の調査で抜歯跡が見られる人骨が見つかった外、貯蔵穴から貝輪の材料である板甫牡蠣(イタボガキ)の貝殻が大量に発掘され、貝輪が集落のみならず外部との交易に用いられていた可能性が指摘される事となりました。
 更に、縄文前期4件・中期1件・後期38件の竪穴住居跡や貯蔵穴21基、埋葬人骨20体も発掘されました。
 そして、昭和62(1987)年に至って、漸く山内が主張した曽谷式土器が再発見されたのです。
 現在も周辺地域の都市化・宅地化に対応する形で貝塚周辺地域での発掘作業が市川市教育委員会を中心に行われており、それに伴って史跡指定範囲の拡大も行われています。

コメント(3)

 1月4日土曜日に行って来ました。
 貝殻が露出しているエリアがありました。

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