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史跡コミュの総社二子山古墳

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 群馬県前橋市総社町植野字二子山368

 1927年04月08日指定

 https://www.google.com/maps/@36.4116507,139.03732,17z
 正式名称は「二子山古墳」ですが、前橋市文京町にある二子山古墳と区別するため、一般に総社二子山古墳と呼ばれています。
 総社古墳群の一角を成す前方後円墳で、全長89.8m・後円部径44.2m・後円部高さ7.5m・前方部幅60m・前方部高さ8.0mの規模を持ち、墳丘の中心軸は東西方向で、前方部を西に向けています。周囲の地形から周堀の存在が予想されますが、詳細は不明です。
 前方部と後円部の両方に両袖型横穴式石室がありますが、両者は工法を異にしています。
 後円部石室は、全長9.4m・玄室長6.88m・幅3.4mと群馬県内有数の規模を持ち、榛名山二ッ岳噴出の角閃石安山岩(カクセンセキアンザンガン)の切石を互目積みにしています。現状では天井石が崩落しているため、羨道(センドウ)は現状長さ1.9mとなっていますが、本来の長さは2.5mと推定されています。
 前方部石室は、全長8.76m・玄室長4.27m・幅2.22mとやや規模が小さく、自然石を以って構築しており、後円部石室とは趣を異にしています。
 石室は共に江戸時代に開口し、遺物が高崎藩に届出られています。このうち勾玉・金耳環(キンジカン)・銅製六鈴釧(ロクスズクシロ)・鉄鏃(テツゾク)・脚付長頸壺(アシツキチョウケイコ)等が東京国立博物館に所蔵されており、長頸壺は寛政年間(1789〜1801)、その他の遺物は文政2(1819)年の出土と伝えられています。古記録によれば、他に銀装頭椎大刀(ギンソウカブツチノタチ)等も出土したとされていますが、行方不明となってしまいました。
 築造時期は使用石材・石材加工等の点から前方部石室が6世紀末、後円部石室がそれにやや遅れるとされて来ましたが、この築造順序を逆に見る説も出ています。
 明治4(1871)年2月に皇族陵墓の全国調査が太政官布告として全国に通知され、これを受けて群馬県ですぐに対応したのが総社二子山古墳です。群馬県は明治7(1874)年、教部省に上野毛(カミツケヌ)・下野毛(シモツケヌ)両氏の始祖で、人皇第10代崇神天皇第一皇子の豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)の陵墓として当古墳を申請して認められ、翌年には教部省から豊城入彦命の墓に墓掌・墓丁が置かれる事となりました。
 ところが、明治9(1876)年に至って、宮内省からの給料を巡って村内で紛糾が起こり、墓掌・墓丁が辞職したため、陵墓指定は解除されてしまい、大室古墳群の前二子古墳が豊城入彦命の陵墓として申請される事となりました。

・遠見山古墳
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+力田遺愛碑
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*山王廃寺跡
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