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史跡コミュの宝塔山古墳・秋元氏歴代墓地

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 群馬県前橋市総社町総社1606

 1944年11月13日、文部省が宝塔山古墳を史跡に指定。
 1981年04月27日、前橋市が秋元氏歴代墓地を史跡に指定。

 https://www.google.com/maps/@36.4075008,139.0386637,18z
 天台宗秋元山江月院光巌寺(コウガンジ)の門外の境内地にあります。
 宝塔山古墳は、総社古墳群の一つである宝塔山古墳は7世紀末築造の方墳です。
 現状で南北辺54m・東西辺49m・高さ12mもあり、群馬県最大級の方墳ですが、墳丘南側には幅約24mの一段低い畑地面があり、周堀の痕跡と見られています。これを含めると、その墓域は一辺100m前後もの規模となり、大化2(646)年の薄葬令を無視したスケールですね。埴輪は検出されていません。
 主体部は古墳築造時の地表より約3m上の基壇上に造られ、高度の技術を駆使した切石切組積みの両袖型横穴式石室を持ちます。羨道(センドウ)・前室・玄室の三室を持つ複室形式で、全長は12.04m、玄室は奥壁幅2.9m・長さ3.3m・高さ2.1mです。また、石室入り口前には幅8.85m・奥行き3.76mの長方形プランの前庭部があります。
 石室は輝石安山岩(キセキアンザンガン)・角閃石安山岩(カクセンセキアンザンガン)の切石で構築され、玄室奥壁・天井石は共に一石の巨石を加工の上で使用しています。玄室入り口には精巧な玄門を設置し、石室壁面には全体に漆喰(シックイ)塗布の痕跡が見られます。玄室中央に石室長軸線に直交して家形石棺が据えられていますが、この石棺の脚部は格狭間(コウザマ)形に加工されており、仏教文化の影響を示しています。
 総社藩主秋元氏歴代墓地は宝塔山古墳の墳丘上に設けられています。
 秋元氏は本来上総国秋元荘を領していましたが、秋元景朝(1525〜87)の代になって天文10(1541)年に安房の里見義堯(サトミヨシタカ)に追われて武蔵国へ移り、深谷上杉家の上杉憲賢(ウエスギノリカタ)に仕えて上野台と瀧瀬の二村を拝領しました。景朝は小田原北条氏との戦いで活躍しますが、天正3(1575)年に憲賢の孫氏憲が北条氏政に降るとそれに従いました。天正15(1587)年2月に上野国勝山城も与えられますが、同年11月に病没しています。
 その子長朝(1546〜1628)は天正18(1590)年の関白豊臣秀吉による小田原征伐の際、小田原城に籠った主君氏憲に代わって深谷城を守備し、前田利家・浅野長政の猛攻に対して徹底抗戦を続けました。小田原開城の報を聞いて開城した後は隠棲していましたが、文禄元(1592)年に井伊直政の推挙を受けて権大納言徳川家康の家臣となり、直政配下として6000石で勝山城に復帰しました。当時の総社の地には、蒼海(オウミ)12000石を領する諏訪頼水(スワヨリミズ)がおり、長朝は諏訪氏領の北隣の地を与えれた訳です。
 慶長5(1600)年の内大臣徳川家康による権中納言上杉景勝征伐の際には、景勝詰問の使者として会津へ赴き、関ヶ原合戦後も家康の命で再び会津に赴いて景勝に降伏を勧め、これを受け入れさせました。この功績により、信濃国へ転封した諏訪氏領のうち蒼海城を含む4000石を与えられて総社城を築き、10000石の大名となったのです。官は越中守でした。
 2代秋元泰朝(1580〜1642)は、慶長19(1614)年の大坂冬の陣後、大坂城の堀の埋立に功績があり、翌年の夏の陣の後は豊臣家の残党狩りも行っています。元和9(1623)年に越前藩主松平忠直が改易された際は、松平家の相続に関する伝達を行い、当主不在の越前の国務を行いました。寛永10(1633)年に甲斐谷村藩18000石へ加増移封された後は、日光東照宮造営総奉行も務めています。官位は従五位下但馬守でした。
 秋元氏の移封によって総社藩は廃藩となり、当地は高崎藩領に組み込まれ、旗本安藤氏領を経て、宝永7(1710)年には幕府領、寛保2(1742)年に沼田藩領、延享4(1747)年から前橋藩領となりました。
 一方、秋元氏は4代目の喬知(タカトモ)が幕府老中となったため32000石へ加増され、更に正徳元(1711)年には武蔵国川越60000石へと加増移封されています。
 しかし、老中を務めていた8代凉朝(スケトモ)が権勢を振るっていた側用人(ソバヨウニン)田沼意次(タヌマオキツグ)に睨まれ、明和4(1767)年に出羽国山形60000石に左遷転封されてしまいます。
 その後、弘化2(1845)年になって11代志朝(ユキトモ)が上野国館林60000石に転じて関東復帰を果たし、明治2(1869)年には12代礼朝(ヒロトモ)が70000石に加増されています。13代興朝(オキトモ)は子爵に叙され、15代順朝(ノリトモ)は埼玉銀行頭取を務めました。

・遠見山古墳
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+力田遺愛碑
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*蛇穴山古墳
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*総社二子山古墳
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・秋元氏墓地
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*山王廃寺跡
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コメント(4)

 秋元家墓地です。左が初代総社藩主秋元長朝(1546〜1628)、右が第2代総社藩主秋元泰朝(1580〜1642)の墓です。
 隣接する前橋市総社歴史資料館には宝塔山古墳石棺の復元模型が置かれています。

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