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史跡コミュの館林城跡

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 群馬県館林市城町甲23-1 他

 1973年04月01日、館林市が史跡に指定。
 2019年05月20日、日本遺産「里沼−「祈り」「実り」「守り」の沼が磨き上げた館林の沼辺文化−」の構成要件に指定。

https://www.google.com/maps/place/%E9%A4%A8%E6%9E%97%E5%9F%8E%E8%B7%A1/@36.2453823,139.5397488,18z/data=!4m10!1m2!2m1!1z6aSo5p6X5Z-O6Leh!3m6!1s0x601f300e319fc9c1:0x99f6c78dd8a6876d!8m2!3d36.2456654!4d139.5406057!15sCgzppKjmnpfln47ot6GSAQZjYXN0bGXgAQA!16s%2Fg%2F1tfzxl7k

 当地は佐貫荘に位置し、南北朝時代には青柳城主舞木氏が佐貫荘の支配権を握っていました。
 永享10(1438)年に鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の間で永享(エイキョウ)の乱が起きると、舞木持広は持氏側近の一色直兼の縁者でしたが中立を保ちました。そして、持氏滅亡の翌年である永亨12(1440)年に関東管領代理上杉清方(ウエスギキヨマサ)は舞木持広に本領安堵を約束し、上杉家重臣の長尾忠政が持広を自らの宿所に招いて酒宴を開きました。しかし、この席で持広は謀殺されてしまい、持広の寄騎(ヨリキ)の侍赤井若狭守照氏は激怒して長尾家中の士を多数討ち取るも、主君同様に討たれてしまいました。
 この後、舞木氏は没落して赤井氏が佐貫荘地頭を称し、荘内の立林(館林)・青柳・大袋等に要害を築いて佐貫荘の支配権を固めました。
 文明3(1471)年に鎌倉公方足利成氏(シゲウジ)が関東管領上杉憲忠を暗殺して享徳の乱が勃発すると、立林要害城主だった赤井文三・文六は成氏方に与し、成氏重臣の高師久(コウノモロヒサ)と共に籠城しましたが、関東管領上杉房顕方の長尾景信・太田道灌(オオタドウカン)等の猛攻を受けて落城、赤井氏は上杉方に転じて本領を安堵された模様で、本拠を青柳城から大袋城へ移しました。
 その後、伝説によると赤井山城守勝光(照光)が子供に苛められていた小狐を救ったところ、霊狐が出現し、自らの尾を曳いて立林要害跡に築くべき城の縄張りを教えたため、館林城が築城されたとされています。このため館林城は別名「尾曳(オビキ)城」とも呼ばれ、今も城跡に尾曳稲荷が祀られています。館林城は梯郭連郭(テイカクレンカク)複合式平城とされますが、本丸は城沼に浮かぶ水城的性格を有していました。
 その後、天文15(1546)年に古河公方足利晴氏が小田原の北条氏康と戦った際、赤井氏は晴氏に与しましたが、晴氏が没落すると小泉城主冨岡氏と共に北条方に転じています。また、勝光の孫の照康は弘治2(1556)年に大袋城から館林城へ本拠を移しています。
 永禄3(1560)年に越後の長尾景虎が関東に出兵した際も、館林城主赤井照景は北条方に立ったため、永禄5(1562)年に上杉謙信(長尾景虎)に攻撃されて館林城は落城、照景は逐電して赤井氏の当地支配は終焉しました。
 謙信は下野国足利城主長尾政長に館林城を預けます。永禄12(1569)年6月に謙信と氏康の間で越相同盟が締結した際、政長は上杉・北条両家の軍事的・外交的な折衝に当たりましたが、直後の7月に死去し、由良氏から婿養子に迎えていた顕長が後を襲いました。
 元亀2(1571)年、北条氏康の死によって越相同盟が解消されると、長尾顕長は上杉方に立ちましたが、天正6(1578)年の謙信急死によって御館(オタテ)の乱が起きると、上杉方の勢力は関東から消え去ってしまいました。
 この結果、顕長は織田信長に接近する策を採り、天正10(1582)年3月に信長が武田勝頼を滅ぼして上野国を滝川一益へ与えると、長尾顕長は実兄の由良国繁と共に一益への臣従を誓いました。
 ところが、同年6月の本能寺の変で信長が横死すると、滝川一益は北条氏政に敗れて逐電してしまったため、顕長は孤立無援の状況となり、天正12(1584)年末に北条軍との間で激しい館林城攻防戦が展開されましたが、足利城の長尾顕長が古河公方足利義氏の勧めで降伏、北条氏政に臣従する事となったため、館林城も翌年正月に開城しています。
 北条氏政は館林城を長尾氏から接収して氏政の弟である相模国三崎城城主北条氏規(ウジノリ)の属城とし、大藤長門守・森三河守等が在番衆となりました。館林領西部は小泉城主冨岡氏へ与えられましたが、青柳城は館林城の属領とされています。
 天正18(1590)年の関白太政大臣豊臣秀吉の小田原征伐の際は、南条昌治が6000の兵を率いて館林城に籠城、5月22日に石田三成・大谷吉継・長束正家(ナツカマサイエ)等の率いる15000人の関白軍による攻撃が開始されます。三成は沼地の濠を強行突破するため、大袋山の木を沼に投じて通路を造り、総攻撃を行いましたが、通路が沼中に没して攻撃は失敗してしまいました。しかし、関白軍に降伏した相模国玉縄城主北条氏勝の勧告で南条昌治は月末に開城する事となったのでした。
 天正18(1590)年8月、小田原北条氏滅亡によって権大納言徳川家康が江戸へ入府すると、徳川四天王の一人榊原康政が100000石で館林城に入り、城下町の建設を進めました。
 康政の町割り計画は、城下中央付近に南北方向の大通を貫通し、長尾氏時代に設けられていた東西方向の大通である竪町通(タテマチドオリ)と城下中央部で交差させて、この両道を枢軸として前後左右に碁盤目の様な城下町を発展させ、更に城下全体を水濠と土塁で囲う総構えとする構想でした。総構え工事は文禄2(1593)年に開始されましたが、構想実現のためには、南方の鶴生田(ツルウダ)川沿いの湿地と、北方の沼田が障害となるため、康政は所領北方を扼する渡良瀬(ワタラセ)川と南方を扼する利根川の両大河の堤防工事に着手し、総構え工事完了と同じ文禄4(1595)年に完成させました。
 この結果、雨の度に氾濫していた両大河からの水の流入が止まったため、城下南北の湿地・沼田も次第に減衰して地肌を表す様になり、これを受けて南北道路の建設が開始、慶長2(1597)年に幅3間の南北道路が完成しました。これが、後の日光脇往還になります。
 こうして、東西・南北の大通を基幹に碁盤目状の小路が設けられ、大手門以東が武家地、以西が町人地となりました。町人地を囲む水濠には、東北の加法師口・北の佐野口・北西の太田口・南西の小泉口・南の江戸口の五つの門が設けられていました。
 町人町には足利町・大工町・肴町(サカナマチ)・材木町・鍛冶町等の19町(後に18町)が設けられ、各町には名主が置かれ、名主を統轄するために検断が設けられて、有力町人の青山・小寺両家が任命されました。そして、その上に藩士の町奉行が置かれたのです。
 東西・南北の大通りの交差点には高札場が設けられたため、札の辻と呼ばれ、軽微な刑罰はここで執行されました。日光脇往還の本陣は足利町に設けられています。
 武家町エリアは総曲輪(ソウグルワ)と呼ばれて、鷹匠町・代官町等の8町があり、北方は中間(チュウゲン)町でした。こうして俗に「屋敷千軒、町千軒」と呼ばれる大規模な城下町が生まれたのです。
 城の南方と東方は城沼(ジョウヌマ)で、城の南部に西から三の丸・二の丸・本丸が連なり、本丸南方に御厩曲輪、東方に八幡曲輪、大濠を挟んだ北方に尾曳(オビキ)曲輪(稲荷曲輪)があり、三の丸・二の丸北方に外曲輪が展開していました。
 康政は慶長5(1600)年の天下分け目の合戦の際、徳川秀忠軍に属して、秀忠が真田昌幸の上田城を攻めようとするのを諫止しましたが果たせず、上田城攻防戦に参加しています。戦後、常陸国水戸への加増移封の話もありましたが、「自分には戦功が無く、館林は江戸に近くて何かと都合が良い」との理由から、これを断っています。但し、慶長8(1603)年に近江国内で5000石を加増されています。
 慶長11(1606)年に康政が死去した際、長男の忠政は母方の大須賀家を継ぎ、次男の忠長は夭折していたことから家督は三男の康勝が継ぎました。康勝は慶長19(1614)年の大坂冬の陣に参戦し、佐竹義宣隊の窮地を救う活躍をしましたが、腫れ物が破れて大量の出血をしたと伝えられます。翌慶長20(1615)年の大坂夏の陣にも参加し、5月6日の若江の戦いで豊臣方の木村重成と戦闘、翌日の天王寺・岡山の戦いにも参加して戦功を挙げましたが、腫れ物からの出血が悪化し、5月27日に死去してしまいました。康勝には3歳になる庶子の勝政がいましたが、家老達が幕府に勝政の存在を報告していなかったため、榊原家は断絶の危機に立たされました。しかし、家康は由緒ある榊原家の家名が絶える事を惜しんで、忠政の子の大須賀忠次を康勝の養嗣子として跡を継がせました。勝政の子孫は後に旗本となっています。
 忠次は寛永2(1625)年に10000石の加増を受け、寛永20(1643)年に陸奥白河140000石に移されると、館林藩は廃藩となり、藩領は天領となりました。
 寛永21(1644)年、老中の大給松平乗寿(オギュウマツダイラノリナガ)が遠江浜松36000石から加増転封されて館林60000石を与えられ、館林藩が復活します。
 承応3(1654)年に乗寿が死去して乗久が後を襲った際、弟の乗政に5000石を分知しています。寛文元(1661)年、大給松平乗久は下総国佐倉60000石へ移封され、4代将軍家綱の弟である従三位左近衛中将徳川綱吉が館林藩主となりました。綱吉の封土は下野・美濃・近江・甲斐にも存在しており、合計250000石の有力親藩大名が誕生したのです。
 正三位参議となった綱吉は寛文3(1663)年から二年がかりで館林城の大改築を行い、本丸には三層の天守と二重櫓が一基、八幡曲輪にも二基の二重櫓が設けられて威容を誇る事になりますが、綱吉は常に江戸神田の屋敷に滞在し、館林へ赴いた事は一度だけでした。延宝2(1674)年の館林町人町は806軒・3739人と記録されています。館林藩政は城代家老の金田氏に委ねられていましたが、延宝4(1676)年には貢租軽減を求める直訴が起きています。
 延宝8(1680)年5月、跡継ぎのいない将軍家綱の病状が悪化、その養子になれたであろう三兄の甲府藩主綱重も既に亡くなっていたため、綱吉は家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月に家綱が死去したために5代将軍となりました。
 そして綱吉の子である2歳の徳松が将軍世子と館林藩主を兼ねる事となりましたが、徳松は天和3(1683)年に5歳で夭折したため、館林藩は再び廃藩とされて藩領は天領となり、館林城も破却されてしまいました。
 その後、綱吉の養子となっていた徳川家宣の弟である松平清武が宝永4(1707)年に館林24000石を与えられて館林藩が復活しました。清武は、館林城を復興しますが、天守閣再建は断念し、本丸に天守代用の二重櫓が、南曲輪と三ノ丸にも二重櫓が一基ずつ上げられたに留まっています。宝永5(1708)年の館林町人地戸数は802軒でした。
 清武は、宝永6(1709)年に兄家宣が6代将軍となると加増を重ねられ、最終的には54000石となり、正徳6(1716)年に7代将軍家継が危篤となった際には有力な将軍候補とされましたが、館林藩主就任以前は家臣の越智氏の養子となって家督を継いでいた経歴が問題視され、結局、紀州藩主徳川吉宗が8代将軍となったのです。
 清武は当初は税を軽くして領民を憐れんだため喜ばれましたが、米の暴落により藩財政が困窮すると重税を強いたため、領民の不満が爆発、享保3(1718)年に百姓一揆と江戸藩邸への強訴が起きてしまいます。これに対して、清武は百姓側の指導者を死罪に処したものの、年貢減免を認めざるを得なくなっています。この事件は館林騒動と呼ばれます。
 清武には子が無かったため、尾張藩の支藩である美濃高須藩主松平義行の四男武雅(タケマサ)が養子として迎えられ、享保9(1724)年に館林藩主となりますが、武雅にも子が無かったため、水戸藩の支藩である常陸国府中藩から武元(タケチカ)が迎えられて養嗣子となり、享保13(1728)年に藩主となりました。
 しかし、その直後に松平武元は陸奥国棚倉(タナグラ)54000石に転封され、入れ替わりに若年寄の太田資晴が棚倉から館林50000石に入府しました。同年の館林町人地人口は4945人でした。元文5(1740)年に資晴が死去すると、長男の資俊が後を襲いましたが、延享3(1746)年に遠江国掛川50000石へ転封されて、松平武元が陸奥国棚倉から再び館林54000石に転じて来ました。同時に武元は親藩大名であるにも関わらず、将軍世子家治付の西の丸老中に任じられ、延享4(1747)年には本丸老中に転じ、宝暦11(1761)年以後は老中首座を務めました。明和6(1769)年には7000石を加増されて計61000石となっています。
 安永8(1779)年に武元が死去すると、四男武寛(タケヒロ)が後を継ぎ、天明3(1783)年の天明の大飢饉で大被害を受けた領民救済に尽力し、90歳以上の高齢者に米を与えるなどの策を講じましたが、天明4(1784)年に31歳で死去してしまったため、2歳の長男斉厚(ナリアツ)が後を襲いました。斉厚は寺社奉行を務めた後、天保7(1836)年に石見国浜田61000石へ転封され、寺社奉行の井上正春が陸奥国棚倉60000石から館林60000石に転じて来ました。同年の館林町人地人口は3259人でした。正春は老中も務めましたが、治水工事の負担と財政悪化の負担を高税率で領民に押し付けたため、農民の逃散が多数発生したとされています。
 弘化2(1845)年に井上正春は遠江浜松60000石に転封され、譜代の秋元志朝(アキモトユキトモ)が陸奥国山形60000石から館林60000石に入府しました。弘化3(1846)年の館林町人地の戸数は848軒・3205人でした。
 志朝は、安政2(1855)年の安政の大地震を契機に岡谷瑳磨介(オカノヤサマノスケ;1807〜65)を登用して藩政改革を断行、江戸詰の家臣の屋敷を館林に移して藩主権力の強化を図り、学問所である造士書院(求道院)を創設するなどしました。安政6(1859)年の館林町人地人口は4161人でした。
 しかし、志朝は長州藩支藩の徳山藩主毛利広鎮(モウリヒロシゲ)の子だったため、元治元(1864)年7月に長州藩が禁門の変を起こすと幕府から内通の嫌疑を受け、同年10月に養子の礼朝(ヒロトモ)へ家督を譲って強制隠居させられてしまいました。しかし、その後も志朝が藩政の実権を握り、長州征伐では幕府・朝廷・毛利家の仲介役を務めています。
 秋元礼朝は、慶応4(1868)年の戊辰戦争では、飛び地領の河内から新政府軍に対して兵を派遣し、軍資金20000両を出して協力したため、その功により明治2(1869)年に賞典禄10000石を加増され、館林藩は70000石となったのです。同年の館林町人地戸数は967軒・4396人でした。
 同年の版籍奉還で礼朝は館林藩知事に任命され、明治4(1871)年7月の廃藩置県を迎えました。
 廃藩によって設置された館林県の県庁は館林城に置かれ、旧藩の大参事以下の藩士が業務に当たりましたが、同年11月に栃木県へ吸収されました。なお、館林城の建物の大半は明治7(1874)年の火災で焼失してしまいました。
 明治9(1876)年に館林等の栃木県の旧上野国エリアは群馬県へ編入されています。明治11(1878)年には旧館林藩士が金禄公債を出資して第四十国立銀行が館林に設立されました。なお、最後の藩主秋元礼朝の養子興朝(オキトモ)は明治17(1884)年の華族令で子爵に叙され、外交官として活躍する一方、館林に別邸を構えて城沼の干拓事業等にも尽力しています。
 指定地は三の丸のみで、本丸付近は別枠で指定されています。

◎城下町館林
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=194642&id=100327788
・館林城本丸土塁および八幡宮
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=100379021

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左;三の丸土橋門土塁
中;城沼墾田碑
右;館林城絵図

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