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(小説家詩人作詞家)春野一樹コミュのセーレン・キルケゴール  8

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「あれ」にしろ、「これ」にしろ、「不安」は常に、罪という形で欠如感を本質的にもち、有限であるにすぎない人の生につきまとう。ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、このことを、さらに「時間」との関連で考察する。
 彼は「人間が時間的なものと永遠的なものの総合である」という。ここでいう「人間」という言葉には、「いま生きているということを実感している実存」という意味が込められている。つまり、いま生きているということの実存感は、時間的なものと永遠的なものが総合されるところで生じる、と言っても良いかもしれない。そして、この時間的なものと永遠的なものが総合される時を「瞬間」という。瞬間は単なる時間の規定ではない。瞬間は時間における永遠の反映であり、時間の流れに永遠が突入する時をいう。
 通常、人は過去から未来へと流れていく時間を考え、「瞬間」も「永遠」も、その時間の流れの中で理解しようとする。だから、「瞬間」と言えば「ごく短い時間」を示し、「永遠」と言えば、その時間が未来永劫に続いた未知の時間を意味するものと思ってしまう。時間の延長が永遠であるならば、そこには「未来」はあっても、「永遠」は存在しない。それ故、死すべき生命をもっている有限な人間は、「永遠」を考えることができないのである。だが、「永遠」が時間の流れに突入する「瞬間」を感じ、また考えることができる。
 たとえば、何かに熱中した時、人は時の流れを忘れ、時間を感じない。まるで時間が止まったかのように思われる。そして、そんな時の人は、実存の充実感にあふれている。生きている喜びにあふれている。それは精神のエクスタシーであり、「瞬間」とは、まさにそのような「時」に似ている。
 だから、「瞬間」が、その人生の限り続いている人は幸いである。しかし、人生の時間の流れの中に「永遠」を見た人は、底知れぬ空しさをも知ることになる。祭りの後の変わらない無意味な日常を感じる時のような、言いしれぬ悲しみを知る。「永遠」ではなく、自分の「有限性」を実感しなければならないからである。そして、この空しさと悲しみは「絶望」へと向かう。
 それ故、人は、自分の実存が充実する「瞬間」を望みながらも、多くの場合、ただ時間の流れに身を任せ、無意味なつぶやきの人生を送ろうとする。「安定」とか「安心」とか言う言葉で自己満足させ、過去も現在も、ただ流れていくだけの人生を送ろうとする。全てを水に流して何事もなく過ぎる人生。ヴィギリウス・ハウフニエンシスはこれを「無精神性」と呼ぶ。こうして人は自分自身を失い、「見せかけの安定」を何か他の安っぽいもので埋めようとし、自ら滅びの道を進んでいく。
 ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、それ故、「人は、まず、自分自身へと自己を向けるべきである」と語る。それは、これまでの左手著作で繰り返し主張されてきたことである。世の楽しみを追い求める自分、倫理道徳なしに生きられない常識的な自分、本来の自分を自分の中に求めて失敗する自分、喜びつつ罠に陥る自分、神の前に立つ自分、どこに真実の自分がいるのか。どこに本当に大切にしなければならない自分がいるのか。
 愛するものに背を向け、自分を本当に愛してくれるものに背を向け、人はどこに行こうとしているのだろうか。迷える羊の悲惨は、羊自身が迷っている自分の姿を知らないところにある。ヴィギリウス・ハウフニエンシス、すなわちキルケゴールは、真実の自分を見いだすために涙ながらに苦闘を続ける。

 人間は、「無」に包まれている。人間の生のどこを切っても、「無」が顔を出す。「死」はその「無」の象徴である。「空しさ」はその「無」への感覚である。生きていても空しい。何をしても空しい。懸命に努力したところで、何になるか、どうせ人は老いさらばえて、苔むして土に帰る。
 人がこの「無」を知った時、人間の生に本質的につきまとう「無」を感じた時、人は、そのあまりの深さの故に「めまい」を覚え、「不安」に陥る。そして、この「無」を虚像で埋めようとする。手近にある安価なもので埋めようとする。B. パスカルの言葉を借りて言えば、「気晴らし」で埋めようとする。しかし、それは、どこまでいっても「虚像」でしかない。「みせかけのもの」でしかない。それ故、それは、さらに大きな「不安」を生むものでしかない。
 ヴィギリウス・ハウフニエンシスが、これまで考察してきたことは、こういう「無」に起因する「不安」である。そして、それはまた、あの『あれか−これか』で提示された「美的段階」で生きている者の不安に他ならない。
 「倫理的段階」で生きる者、つまり、生きることの安定を、社会的な安定を保証する倫理道徳の中に見出し、一見、何の不安もなさそうに見える知性と教養にあふれた常識人にも、「不安」は容赦なく襲いかかる。なぜなら、彼の生もまた「無」に包まれたものでしかないからであるが、その場合の「不安」の本質をなすものは、「悪に対する不安」という形を取る。
 ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、この「悪に対する不安」で、三つの場合を提示する。第一は「不当な現実性として、否定へと向かう」場合である。表現が少し難解であるが、要するにこれは、悪や罪に対する恐れや不安のことである。世間の常識に従い、倫理道徳を尊守し、罪を犯さないように心がけ、社会的な安定を求める心には、自分が罪を犯すのではないかという不安が渦巻いている。そして、この「不安」は、自己正当化の衝動に駆られ、不安をごまかすために、罪や悪の存在そのものを否定しようとする。この不安のごまかしは、実に巧妙に行われる。
 第二は、罪や悪がどのようにごまかしても否定できないことを自覚し、やがて、罪や悪に対する恐れと不安が鈍化していく場合である。悪も悪人も、確実に存在する。知人のように、善人ぶった顔をして人を破滅に追いやるような、まるで悪魔のような人間も厳然と存在する。罪はぬぐいがたくある。自分の中に根ざす罪性もある。これらが否定できない時、人は、悪や罪に対する感覚を鈍化させ、これと「馴れ合い」、自分自身を安心させようとする。「不安は、罪の現実性を全部ではなく、ある程度まで取り除きたいと思うのである。より正確に言えば、不安は罪の現実性が、ある程度までそのまま残ることを欲する」と彼は言う。つまり、罪と馴れ合うことによって、人は不安を解消しようとするのである。「この程度までは、罪でも、悪でもない。誰でもやっていることじゃないか」と考えることによって安心へと向かおうとするのである。「不安が鈍くなればなるほど、それは、罪の結果が個体の血肉の中に食い込んだこと、罪がこの個体の中に市民権を確保したことを意味する。」その時、彼(彼女)は、善人の顔をした悪魔となり、接吻をもってキリストに近づいたユダとなる。
 第三の場合は、「不当な現実性の故に悔いを生む場合」である。「悔い」は現実の後からついてくる現実の影である。従って、「悔い」は決して現実の罪そのものを変えることができない。にもかかわらず、罪を除く可能性を追う。この現実の罪と「悔い」との関係が不安を頂点にまで高め、結局、自分自身を捨ててしまうか、狂気となるかのどちらかである。たいていの場合、これは「あきらめ」によって、自己自身を納得させようとする。

 この三つの場合に、いずれも共通して行われるのは、「不安の詭弁」である。不安自身は、この詭弁によって自ら姿を隠し、あたかも不安が解消されたかのように装い、別のものを生み出していく。第一の場合は「ごまかし」であり、第二は「馴れ合い」、そして第三は「狂気の興奮」と「あきらめ」である。第一と第二で、人は、一見の安心を得、第三の場で、あきらめる。こうして不安は勝利し、罪は人の心の中に安住の地を得る。不安によって、罪は人の心に根づいてしまう。
 詩を歌い、美を愛し、真理を求め、善良さを喜ぶ人間、誠実さを求める人間。優しく微笑みをもって接し、豊かな愛情を注ぎ出す人間。まさに、この人間の奥底に「悪魔的なもの」が住みついている。そして時々、顔を出す。
 この「悪魔的なもの」が顔を出すのは、それが「善」に触れたときである。「悪魔的なもの」は「善」に耐えることができずに、「善」の前で直ちに顔を出し、二重の仕方で自己をその内に閉じこめようとする。一方では自己防衛という方法によって、他方では攻撃的自己主張という方法によって。それらは相手に応じて自己防衛的となったり、攻撃的自己主張となったりする。こうして「悪魔的なもの」は自己を不自由さの中に閉じこめ、沈黙を守ろうとする。ちょうど罪を犯したアダムとイヴが神の呼びかけから身を隠そうとしたように、人が呼びかけに答えなくなった時、彼(彼女)は「悪魔的なもの」に支配されている。
 「悪魔的なもの」は、ヴィギリウス・ハウフニエンシスによれば、「喪失された自由」である。言い換えればそれは、真の生命を腐食させるもの、破滅と死へ向かわせるものである。これがもたらす作用は、忘我性(本来の自分自身を忘れること)、自暴自棄、自己欺瞞、迷信、内面性の欠如、精神性の欠如などである。ここから、ある時には極めて能動的な、また別のある時には受動的な行為が生まれ、さらに「悪魔的なものは」これらを一体化して、自己を追求するというのではなく、自分自身を興味の対象とすることによって、ごまかす方向をとる。たとえば、「不信と迷信」、「ごう慢と卑怯」を表裏一体のものとして、「敵意」を生みだし、自己中心主義的な利益を生み出そうとする。「迷信は自己自身に対する不信であり、不信は、自己自身に対する迷信である。」「ごう慢は底深い卑怯であり、卑怯は底深いごう慢である。」いずれの場も、その中心にあるのは自己自身であり、自己防衛と攻撃的自己主張によって、自己の罪性、悪魔性をごまかそうとする。こうして人は、さらに大きな不安に包まれる。
 それ故、ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、まず、「真摯たれ」という。たとえそれがどんなに愚かでも、たとえそれが苦しみや悲しみの満ちたものであれ、たとえ取り返しのつかぬ過ちの中にあったとしても、「真摯たれ」という。それによって「確信と内面性」を得ることができるからである。
 有限な人間は、死に向かいつつある生の中で、生をあえぎ求めつつ、自ら死を望む矛盾に満ちた存在である。人間は、その最も深いところで分裂している存在である。この分裂は、こともあろうに「善」や「幸福」、「最も愛すべきもの」や「最も喜ぶべきもの」に対して「不安」を生む。人間は救いがたい存在である。この人間の分裂、自分の分裂を真摯に見る者は、逆説的に、不安から自分を一歩前へ進めることができる。
 ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、『不安の概念』を閉じるに際して、「不安」が「存在」の手がかりとなることを示す。

 「人間は心情を備えて生まれてくることはできるが、真摯さを備えて生まれてくることはできない。」真摯さは自ら意識的に獲得していかなければならないものである。世の中の流れに身を任せたり、周りに同調したりする人間、無意識でいる人間や、精神性を失い、内面性を失った人間には、「不安」から一歩を踏み出し、真実の自分自身を獲得する「真摯さ」は無縁である。
 真摯さは、何かに熱中したり、夢中になったりすることとは根本的に異なる。それらのものは一時的な興奮やつかの間の喜びを与えはするが、一つの「道化」に過ぎない。「真摯さは、真摯の対象たるべきものに対して真摯である時、初めてそれはまことの真摯と呼ばれうる。」
 ヴィギリウス・ハウフニエンシスにとって、そしてキルケゴールにとって、「真摯の対象たるべきもの」は、何よりも自己自身に他ならない。ヴィギリウス・ハウフニエンシスは言う。「自己自身に真摯であるところで、不安は自由の可能性である」と。
 彼は、『不安の概念』全体の中で、不安が自由の「めまい」であり、自由の閉鎖性であることから出発し、ようやくここに至って一つの「てがかり」を見出したのである。
 時間的にも空間的にも限界を持つ人間が自覚できるのは、どこまでいっても「虚無」の空しさでしかない。「いっさいは空である。」人はそこで「めまい」を起こし、「不安」に捕らわれる。しかし、その絶望的な不安のどん底で、自己自身になお真摯であり続けようとするものは、「無限性を先取りして内面的確信」をもつことができる可能性が開かれている、と言うのである。どこまでいっても有限でしかない人間が無限性を獲得する道、痩せこけた小さな人間が大宇宙を内包する道、この道を行く者は、有限性がもたらす不安から解放される。人はそこで自由である。
 20世紀を代表する哲学者M. ハイデッガーはその実存哲学をここから始めた。ハイデッガーは、人間が死(無)に向かって生きる存在であり、死によって規定されており、それ故、絶えず死に脅かされ、死の不安に覆われた存在である、と考えた。しかし、その不安は限界をもつ生に実存、現存在(今ここにあるということ)を知覚させるものである、と言う。ありていに言えば、死を考えることによって生を知覚することができる、と言うのである。その主張は、ヴィギリウス・ハウフニエンシスの「不安が自由の可能性である」と言うことの延長である。
 ヴィギリウス・ハウフニエンシスが、この『不安の概念』で示したものは、結局、不安が生み出す可能性は「有限性の中で息を引き取るか、無限性の獲得か」のいずれかである、ということである。不安は絶望を生み、絶望は破滅の危機に人を導く。しかし、不安はまた、そこで真摯であろうとすることによって、「無限性を先取りし」、自由への可能性も開く。それは、不安に包まれた人間の究極の精進努力の姿である。
 しかし、ここには限界があり、滑稽さがある。このこと自体が滑稽なのではなく(このこと自体は、もちろん、人間の真摯さの最高峰である)、真摯さを求めても真摯であり得ない、信じることを求めても信じることができない人間性が滑稽なのである。その滑稽さはドンキホーテの滑稽さである。ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、ドンキホーテのように、人間の有限性を自らの小さな力で、それも力こぶを入れて、打ち破ろうとする。しかし、真の打開の道はそこにはない。
 では、どこにあるか。キルケゴールは、この問題を、『哲学的断片』で提示した主体性の問題と合わせて、2年後に出版した『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』で再考する。しかし、キルケゴールはその前に、左手著作として『序文−時と機会による個々の状態のための一般的読み物』と『人生行路の初段階』の2冊を出版している。彼の執筆力、集中力、著作活動への情熱には、本当に驚かされる。




9につづく




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