声名
このコミュニティは経済帝国一極主義に同義相存する神的帝国一極主義に対し概念武力をもってして革命闘争のためのコミュニティである。
すなわち、現在の既存の、地球上の唯一の神を標榜する帝的保守独裁神国を武力概念で民主的神国を樹立するための革命闘争組織である。
人々に独裁神国による愛の搾取をやめさせよう。
人々に基本的神権を!
打倒 独裁神国!
「私に本当に欠けているものは、私は何をなすべきか、ということについて、私自身、はっきりわかっていないということだ。・・・つまり、私自身の使命が何であるかを理解することこそが重要なのだ。すなわち神は、私が何をなすべきことを本当に欲しておられるのか。これを知ることが重要なのだ。私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生きそして死ぬことを心から願うようなイデーを見い出すことが必要なのだ。・・・
さあサイコロは投げられた。私はルビコン河を渡るのだ!きっとこの道は私を闘争へと導くだろう。しかし私はそれを拒絶はしないだろう。」
・女というのは泣かせてやらなければならない。
泣きぬくと、泣くべきものがなくなって、あとはすぐに忘れてしまうものなのだ。
―「反復」―
・欺かれる者は、欺かれない者よりも賢く、欺く者は、欺かない者よりもよい。
―「人生行路の諸段階」―
・人間とは精神である。精神とは何であるか。
精神とは自己である。自己とは自分自身に関わる一つの関係である。
―「死に至る病」―
・女性は自然の規定に完全に従属しており、したがって美的な意味において自由である。男性が女性に求婚するに際して、自由を与えるという言葉を使うのは、このためである。
―「誘惑者の日記」―
・汝が汝自身のごとく隣人を愛するとき、
汝はまたその隣人を愛するごとく、汝自身をも愛さねばならない。
―「愛と生命の摂理」―
・世間では愛は人間と人間との間の関係であるというが、
キリスト教の教えによれば、愛は人間と神との間の関係であるという。
というのは、神が愛の媒介であるからである。
―「愛の生命と摂理」―
・女というものは、自分の前を通った他の女が自分に注目したか否かを直感的に悟る術を心得ている。というのも、女が身を飾るのは他の女たちのためだからである。
―「追憶の哲理」―
・女性の本質は献身であるが、その外形は抵抗である。
―「あれかこれか」―
・女性は実体で、男性は反省である。
―「誘惑者の日記」―
・だまされる者はだまされない者よりも賢く、だます者はだまさない者よりもよい。
―「人生行路の諸段階」―
・裏切り者の中で最も危険な裏切り者は何かといえば、
全ての人間が己自身の内部に隠しているところのものである。
―「愛の生命と摂理」―
・人間は思想を隠すためでなく、思想を持ってない事を隠すために語ることを覚えた。
―「あれかこれか」―
・思弁が終わる。まさにそのときに信仰が始まる。
―「恐怖と戦慄」―
・絶望である事を知らない絶望。言いかえれば、人が自己を、
しかも永遠的な自己を持っているという事についての絶望的な無知。
―「死にいたる病」―
・絶望とは死にいたる病である。自己の内なるこの病は、永遠に死ぬことであり、死ぬべくして死ねないことである。それは死を死ぬことである。
―「死にいたる病」―
・全てか、しからずば無。
―「あれかこれか」―
・罪は消極的なものでなく、積極的なものである。
―「死にいたる病」―
・人間とは一つの総合――無限と有限、時間的なものと永遠的なもの、自由と必然――である。
―「死にいたる病」―
・青年は希望の幻影を持ち、老人は想起の幻影を持っている。
―「死にいたる病」―
・お世辞というものは、女の身にぴったりと当てはまる衣装である。
―「追憶の哲理」―
・われわれが恋愛について話し始めるや否や、ただちに第一の問題が出てくる。
すなわち、人は何を愛すかという問題である。これに対して人がなし得る唯一の答えは、人は愛されるにふさわしいものを愛す、ということである。
―「追憶の哲理」―
一般に、女中風情に興味はないという男があるなら、それで損をするのは、女中さんたちよりも、むしろそういう男なのだ。女中さんたちの色とりどりな軍勢こそ、ほんとに、わがデンマークの有するもっともすばらしい市民軍なのだ。もしぼくが国王だったら──何をすればいいか、ぼくはちゃんとわきまえているつもりだ──ぼくは常備軍の閲兵などはおこなわないだろう。もしぼくが市の三十二人の議員の一人なら、即座に公安委員会の設置を提案して、視察したり、相談にのったり、熱心に教えたり、しかるべき褒賞をあたえたりして、装いが趣味豊かで注意のよくゆきとどいたものになるよう、女中さんたちの督励に万全の策を講じさせるだろう。どうして美を浪費してよいものか、どうして美しいものを、一生人目につかせずに終わらせてよいものか、せめて週に一度ぐらいは、光を浴びさせて、美しく際だたせてやりたいものではないか!しかし、それには何より、豊かな趣味が、節度が必要だ。女中が淑女のような服装をしてはいけない。この点では、“ポリティヴェンネン”誌の主張は正しいが、尊敬すべき同誌があげている理由は全く間違っている。このようにして女中階級がいつか望ましい花をひらいてくれることを期待することができるとすれば、それは、やがてまた、われわれの家庭の子女に有益な影響をあたえることになろうというものではないか?それとも、ぼくが、このようにして、真に無比ともいえるほどのデンマークの将来を予見するのは、大胆にすぎるであろうか?幸いにしてぼく自身、そのような黄金時代に生きてめぐりあうことができるなら、日がな一日、心安らかに、大通りや横町をさまよいあるき、目をたのしませることもできるというものだ。これはまた、ぼくの思いは、なんと遠くまで、なんと大胆に、そしてなんと愛国的に、空想をはせたことだろう!しかし、ぼくもやはりここフレーアリクスベルクに出かけてきているのである、ここは、日曜日の午後に女中さんたちがやってくるし、ぼくも出かけるところなのだ。
−−−−−−−セーレン・キルケゴール
「人間というものは、一生のうちの九ヶ月の間に最も高尚な哲学的思索から、スープ一皿を求めるさもしい熱情にいたるまで、実にたくさんのことに思いを馳せられるもので、結局のところ全てはお腹の空き具合次第なのさ。・・・」
ーーーーーーチェ・ゲバラ
トピックを立てるのは自由です。
さあ、みなさん、共闘しましょう。