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(小説家詩人作詞家)春野一樹コミュのセーレン・キルケゴール 7

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 『不安の概念』は、先に述べた『哲学的断片』と同様、1844年6月に、ヴィギリウス・ハウフニエンシスという奇妙な名前の著者名で刊行された。ヴィギリウス・ハウフニエンシスというのは、彼によれば、「夜警番」という意味である。夜警番は、人々が眠っている暗い夜に、夜の町を見回る人である。つまり、この名前には、人間の暗闇を見る者という意味が込められ、これから扱う事柄が、人間精神の暗い部分であることを象徴しているのである。その副題には「原罪という教義学的問題に向かって、もっぱら心理学的示唆を与えるだけの考察」というキルケゴールらしい長い題目が記され、「本書の目的とするところは、原罪の教義をたえず念頭に彷彿とさせながら、『不安』の概念を心理学的に取り扱うことにある」と述べられている。簡単に言えば、これから取り扱うのは「不安」という事柄であり、それを心理学的に考察する、というのである。
 副題にある「原罪」というのは、「人間は本質的に罪を犯すものである」というキリスト教の人間観を示す言葉であり、「教義学」というのは、ここでは伝統的なキリスト教の教えのことである。
 キルケゴールが、なぜ罪と不安を関連づけて考えたのかは、後で述べるが、同時期に、哲学的考察をする『哲学的断片』と心理学的考察をする『不安の概念』を、それぞれ、ヨハネス・クリマクスとヴィギリウス・ハウフニエンシスの名前で出版したのは、それぞれの考察によって人間の精神が行き着いていく果てを浮かび上がらせるためであった。一方では、人間の実存感を支える「主体性」を取り上げ、他方では、その実存感にたえずつきまとう「不安」を取り上げたのである。
 「不安」は人間精神の最大の課題のひとつであり、キルケゴールが生きた19世紀以上に、20世紀は「不安の世紀」となった。20世紀の実存哲学者M.ハイデッガーが、キルケゴールの影響を受けて、人間の不安を自分の哲学の根底にしたことはよく知られているが、すべてに確信を持つことができない現代人はあらゆる事柄に不安を感じ、「不安」は人間の行動原理の内で最も大きな要因に他ならない。心理学的に言えば、人間の欲求や行動は、その社会的な営みや文化的な営みも含めて、すべて「不安」に起因し、「不安」に結実していく。人の一生もまた、この世に誕生したことの不安の叫びである産声から始まり、死の不安に包まれていく。そして、不安の解消のための気晴らしで、人生の多くの時間が費やされる。
 キルケゴールが、その左手著作の一応のまとめとして、「主体性」と「不安」を掲げたのは、このように「不安」が人間実存の根本に横たわっているからである。そして、不安は、まさに心理学の対象である。彼が『不安の概念』を心理学的考察であると明記するのはそのためである。そしてまた、それは彼の厳密な自己限定でもある。キルケゴールは、なぜヴィギリウス・ハンフニエンシスによって自己限定しなければならないかを、その「序章」の中で明確にしている。

 キルケゴールが『不安の概念』の「序章」で、「この書物が不安の概念を心理学的に考察したものであり」、たとえば、人間の罪や過ちを説明しようとしたり、人間のいっさいを説明しようとするものではない、という自己限定を表明するのは、当時の趨勢を誇ったヘーゲル哲学と密接に関係している。
 ヘーゲルは、「歴史哲学」という画期的な思想体系をうち立てた。彼は、古代より主張されてきたイデアや神といった超越概念を「絶対精神」という概念でまとめ、世界史の発展をその絶対精神の弁証法的自己発展の過程としてとらえたのである。それによって、全ての歴史は説明可能な連続的発展過程として認識され、現実全体は「精神現象学」の体系の中に置かれることになった。ヘーゲルによれば、あらゆる事柄は絶対精神の弁証法的発展運動の中にあるのだから、すべての現象は、絶対精神の自己実現というカテゴリーの中で説明できることとなる。
 ヘーゲル哲学の後代に与えた影響は大きい。彼の哲学は19世紀から20世紀の前半をリードしてきたし、今日でも、たとえば、歴史を進歩発展の過程としてみるような歴史観を持っている人に出会うし、単に歴史の分野だけでなく、経済や文化、生物学の分野でも、そのような学説を唱える学者が後を絶たない。
 キルケゴールは、このヘーゲル哲学に対して「否」を告げ、それぞれのことには領域や限度があり、「絶対精神の弁証法的自己発展過程」という一つのことで、すべてのことを取り扱おうとすることが不遜であることを指摘するのである。彼は、絶望を取り扱った『死に至る病』の中でも、「シュライエルマッヘルは、己の知っていることしか語らなかったが、ヘーゲルとなるとその卓越した特性と巨大な学識のいっさいにも関わらず、何が何でもいっさいを説明せずにはやまぬのだ」とヘーゲルへの皮肉を語っている。
 あらゆることには、それが正当に取り扱われる領域と限界がある。人は己の「背の丈」を知らなければならない。背伸びをし、着飾り、装ったところで、それらはただ破滅に導くだけに過ぎない。自分を過大評価する人間は悲しい。ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、『哲学的断片』のヨハネス・クリマクスと同様、「いま、あるがままの自分」から出発しようとするのである。たとえ限界をもち、失敗や挫折を繰り返すだけでしかないとしても、人は己の実存からしか出発できない。そして、彼は、厳密に心理学の対象である「不安」を心理学的に考察することを始めるのである。

 『不安の概念』の第1章には「原罪の前提をなすものとしての、また原罪をその根源にさかのぼって説明するものとしての、不安」という表題がつけられている。つまり、不安は罪の根源である、というのである。
 「原罪」というのは、前に簡単に説明したが、人間が本質的に欠如感を持つ存在であるということをキリスト教が宗教的に述べた教えの一つで、5世紀の偉大な思想家アウグスティヌスがまとめあげたものが、今日でも一般に教義(教え)として伝えられている。
 旧約聖書の『創世記』の天地創造神話に登場してくる最初の人間アダムとイヴは、神から「取ってはいけない」と言われていた木の実を、ヘビの巧みな誘惑に負けて食べ、神の戒めを破り、ついには、エデンの園を追放される。それは、人間の最初の罪である。
 アウグスティヌスは、最初の人間アダムが犯した罪、神の戒めを守ることができずに、真に生きる喜び、救いを失った姿は、人間の本質として遺伝した、と考えた。そして、最初の罪を「原罪」と呼んだのである。「罪が遺伝する」というのは、まことに抽象的な表現であるが、さしずめ現代の生物学者なら、「最初の人間アダムにおける遺伝子の変化」とでも言うかもしれない。アウグスティヌスは、歴史の流れというものを考えたために、そのような表現になったが、本来、聖書の「アダム」という言葉は、誰か人の固有名詞ではなく、「人」を意味する一般名詞であり、『創世記』の創造神話は、誰かの物語ではなく、人間の本質的な姿を神話的な表象で描いたものに他ならない。つまり、『創世記』は、人間が本質的に自らの力で生きる喜びを得たり、救いを得たりすることができない存在であることを告げるものである。従って、「罪」は倫理的な概念ではなく、むしろ存在論的概念なのである。
 しかし、最近でも、ある教会の牧師の説教で、「あなたは、罪人です。あなたは悔い改めて、罪を犯さないようにしなければなりません」という言葉を聞いた。「罪」をいつのまにか倫理道徳の概念に閉じこめて、人々に説教を垂れる。全くの噴飯ものである。
 ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、初めに何度も、「アダムを歴史の外に置いてはならない。神話の衣を除かねばならない」と語る。ここで言う「歴史」とは、通史的な意味で使う時間の流れのことではなく、「現実」という意味である。つまり、アダムの罪の問題は、現実の、いまここでの、私やあなたの罪の問題である、というのである。「人はみな、生まれながらの罪人であり」、人間は本質的な欠如存在、不完全な存在である。人間は、何かの、あるいは誰かの補助を必要とする生物なのである。それ故、聖書は「罪」を「負い目」とか「負債」とかいう言葉で表現するのである。
 そして、ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、罪のない状態、負い目のない状態が「無知」の状態であることを指摘して、「不安」の概念へと論を進める。

 本質的に罪をもち、負い目を抱えている人間が、全く負い目のない、罪のない純粋無垢の状態を考えることができるだろうか。赤ん坊や小さな子ども、あるいは清純な乙女(そんな乙女はもう一人もいなくなっている)が約束する愛が純粋無垢だという人は、まだ人間を知らない。赤ん坊は、たとえそれがどんなに微笑ましく映ったにせよ、生物的どん欲さに満ちあふれている。乙女は愛を語りつつも、頭の片隅で電卓をたたいている。なぜなら彼女は、自分が愛するに値すると思えるものしか愛さないからである。その人間が、「負い目のない状態」を考えたとしても、それは単なる空想か、それとも現在の自分を否定する「〜でない状態」としてしか表すことができない。
 しかし、ただ一つ言えることは、「負い目のない状態」とは「無知の状態」であるということである。負い目のない状態とは、善悪を知る知識も、言葉の意味を理解する知識も、表情を読みとる知恵も、何もない状態、全くの「無」の状態に他ならない。
 真実の「知」は「負い目」を知る。人間の憂いを知り、ギリシャ悲劇のオイデップスのように、宿命的悲しみを知る。そして、「知」は常に新たな「不安」を生み出す。
 ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、「(負い目のない状態とは)何もないということ、無である。・・・無はどういう作用をするのだろうか。無は不安を生むのだ。負い目なさが同時に不安であるということ、これが負い目なさの深い秘密なのだ」と語る。つまり、負い目がなくても、その無の故に、不安が生まれ、「知」をもっても「不安」が生まれる。「罪」の根源は、「欲望」ではなく、この「不安」に他ならない、と指摘するのである。「不安」は迷いでもなければ、それ自体が「負い目」なのでもない。不安は、可能性、あるいは不可能性への内的衝動である。
 『創世記』の創造神話のアダムは、神から「善悪を知る木からは取ってはならない」と言われた。しかし、彼はその言葉の意味を知らない。その言葉を守るのが善で、反するのが悪だと言うことも知らない。彼は、何も知らない無の中に置かれ、その無によって、内的な衝動としての「不安」を抱えているが、そのことにも気づいていない。
 ところがここで、誘惑者としてのヘビが登場する。それまで、アダムとイヴは愛と信頼で結び合った一体であった。アダムはイヴと共に、イヴはアダムと共に生きるものであった。しかし、ヘビはイヴを誘惑する。ヘビは性的な象徴でもある。そして、堕罪が起こる。「一体」は分裂し、愛と信頼は失われる。
 こうして「罪」が「不安」の中に入ってきて、「知」とともに、「罪」が新たな「不安」を生む。
 ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、この「不安」を「主観的不安」と「客観的不安」とに区別して考える。「主観的不安は個体の中に生み出された不安であり、それは個体(各々)の罪の結果に他ならない。」「客観的不安」は、これは、そもそも不安が主観的なものであるが故に、矛盾した表現であるが、いわば、世界や時代、社会全体や歴史などが個々の人間の外から引き起こす不安のことである。たとえば、核戦争の脅威を感じる時、とか、就職がないかもしれないとか、愛する恋人に裏切られているかもしれない、とかいったときに感じる不安のことである。そして、「不安」の最も本質的なものは「主観的不安」である。「客観的不安」は外の条件が変われば、解消するが、「主観的不安」は人間の本質に根ざすからである。

 この「主観的不安」を、ヴィギリウス・ハウフニエンシスは「自由のめまい」である、と指摘する。「自由のめまい」とは、まことに詩的な表現かもしれないが、不安に駆られたときの人の心情を的確に表現している。
 彼は言う。
 「不安は、これをめまいにたとえることができる。人が、たまたま大きな口を開いた深淵をのぞきこんだならば、かれはめまいを覚える。その原因は、どこにあるのだろうか。それは、深淵にあると同様に、彼の眼にもある。なぜかと言えば、かれが凝視さえしなかったらよかったのだから。・・・自由が己の可能性の中をのぞきこみ、しかもその身を支えようとして有限性に手を伸ばす時、めまいが起こる。不安が生じる」と。
 人間が持つ可能性は、常に可能性でしかないが、その可能性が強ければ強いほど、現実への蓋然性が高ければ高いほど、人間を引きずり込む強い力を持つ。人は、その可能性に引きずり込まれ、夢みつつ、現実の自分を見失い、自分自身で存在するという自由を失う。しかし、可能性は、それがどのように確実なものに見えようとも、現在の自分にとっては、どこまでいっても虚像でしかない。この虚像でしかないものが「不安」をもたらすのである。
 そして、虚像による不安は実像による安堵を求める。肉体的、物質的、可視的なものによって安堵したくなる。真実は歪められ、安っぽいものにすり替わり、人は自己自身を失い、罪が入り込み、さらにまた新たな不安が生まれる。なぜなら、それは真実に根ざしていないのだから、常に不安定な状態に置かれているからである。
 どのようなことも可能であるという自由、この自由が可能性の前で起こす「めまい」、それが「不安」である、というのである。
 ヴィギリウス・ハウフニエンシスが「不安」を「自由のめまい」として表現する時、そこには、「不安」の本質を言い当てた二重の意味が込められている。第一に、それが「めまい」である限り、それは理性が及ぶことができない領域にあるということである。どんなに理性的であっても、いつのまにか知らず知らすに、あるいは予測不可能な突然のこととして、「めまい」、つまり「不安」が起こるのである。そして第二に、それが「めまい」である限り、どんなに強い不安であったにしても、不安は致命的なものではないということである。不安に落ちいった自分や人を外から眺めれば、それは滑稽である。「不安」は「ユーモア」に勝つことはできない。
 ともあれ、「不安」は、可能性という魔力に揺さぶられた自由が引き起こすものである。そして、この前では、人間の理性も感性も揺さぶられ、虚に取り憑かれることによって、さらに深い不安、罪に基づく不安を生み出すのである。疑心が暗鬼を生みだし、その暗鬼が人を食う。
 それ故、彼は「罪に対する不安が、また罪を生み出す」という。罪を忘れるために罪を犯す。悲しい人間の性である。人は、「罪の前提をなす不安」と「罪の結果としての不安」から逃れることはできない。それが、ヴィギリウス・ハウフニエンシスのこれまでの主張である。
 このヴィギリウス・ハウフニエンシスによって、キルケゴールは、彼のこれまでの左手著作が意図してきたことの連続を、当然意識している。いつも、人は最終的には、あの最初に提示した「あれか−これか」の問いの前に立たされる。そして、どの道を選ぼうとも、結局は「不安」が本質的につきまとうことを示そうとするのである。「あれ」を選べば「これ」を夢み、「これ」を選べば「あれ」がちらつき、結局、「あれも−これも」を選ぼうとするが、それによって、人は果てしない「不安」に、さらに襲われるのである。



8につづく





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