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かいわれ新書コミュの第7回 K-ichiroの答え

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「キャンパスライフ」(村上春樹へのオマージュとして)

 モラトリアムがモラトリアムであるためには、その時間の先に別の種類の時間が存在する事が約束されていなければならない。いつか何かが執行されて、この時間が切断されると約束されているからこそ、今ここにある時間は「猶予」と名を変えて存在しうる。大抵の大学生にとって、猶予期間とはキャンパスライフを意味したし、執行される何かとは茶髪を黒く染めたり、スニーカーを革靴に履き替えたり、場合によっては視線を夢から現実へと切り替えること意味した。
 
 大学生活も残り数ヶ月を残すばかりとなった僕は、いつものようにキズキとバーでビールを飲み、ナッツを食べ、音楽を聴いていた。大多数の学生達が就職先も決まり、春から流れ始める新しい時間を約束されているのに引き換え、僕たちふたりはこの大学生活が終わった後でどんな時間に身を浸すことになるのか、何が執行されるのか検討もつかなかった。つまり、僕たちは就職が決まっていなかった。それは、僕たちの性格的な欠陥によるのかもしれないけれど、かといって何か手立てがあるわけでもなかった。
 
 3年生になり、就職活動の時期を迎えると、クラスメイトたちはどんな授業でも見せたことのない真剣さで、情報を集め、ノウハウを習得し、会社説明会を駆け回った。ある者はどこで入手したのか企業の年収曲線をデータベース化し、生涯年収を算出し、ランキングの高い順から入社試験を受けるのだと言った。ある者は就職活動のためのサークルに入って、日夜面接の練習に励んでいた。どんな服で面接を受けるのが良いか、どんな志望動機が有利か、どの会社の福利厚生が良いか。さまざまな話題がキャンパス内を飛び交っていた。就職活動がきっかけで友人関係が壊れてしまうこともあった。いくつもの優良企業から内定を得たAは、それら全てに落ちた友人のBからほとんど口をきいてもらえなくなったのだと言った。ざわついたいくつもの心の羽音が教室に、廊下に、中庭に生々しく響いているようだった。
 
 僕は、バーゲンセールに入り込めない気弱な主婦のように、その嵐のような風景を距離を置いて眺めていた。誰かが人気のセーターを手に入れることは、別の誰かがそのセーターを着れなくなることを意味した。僕は一番セーターを欲しがっている人がセーターを手に入れればよいと思う。僕は他の誰よりもそのセーターを欲しいという自信が無かったし、自分が着るセーターが人気のセーターであることにもあまり意味を感じられなかった。同じように人気の商品を我先にと奪い合う群れの外で、どうしてよいかわからないといった風の顔をして立っていたのがキズキだった。それまで話もしたことがなかったけれど、そのころからキズキと僕は親しく話をするようになったように思う。
 
 それでも僕は、母の勧めもあって一社だけ面接を受けた。中堅の商社だった。
 面接官は、
「海外出張も多いですが、大丈夫ですか」
 と言った。
 僕は
「絶対に嫌です。」
 と言った。
 面接の感触を聞く母には、緊張してあまりうまく話せなかったと答えた。
 母は、最初はそういうこともあるけれど諦めずに頑張るのよ、と言った。
 結局、それ以降、一社も受けることは無かった。

 英文科の僕と違って、建築学科の直子は4年間を通して忙しく日々を送っていた。ここ最近も卒業設計の締め切りを間近に控えて製図室で徹夜を繰り返している。僕がこうしてビールを飲んでいる今日も製図板に向かって図面を引いているはずだ。一度模型作りの手伝いに呼ばれたことがあったけれど、僕の作る模型があまりにひどかったために、それ以来呼ばれることは無くなった。直子は夏に亡くなった祖母のための墓を設計していた。それはいつか直子の家で見たカルロ・スカルパという建築家の作品集に載っていたブリオン・ヴェガ墓地というイタリアの資産家一族のための墓地にどことなく似ていた。他の学生達がCADで軽やかな図面を引き、コンピューターグラフィックで鮮やかなプレゼンテーションを作る中、直子だけはトレーシングペーパーを真っ黒にしながら手描きで丹念に図面を作成していた。
 「これはおばあちゃんのためのお墓でもあるし、私のためのお墓でもあるの。」
 と直子は言った。
 「君が死んだら、入るってことかな。」
 「建築をする私が入るの。」
 「よくわからないな。」
 「これが最後の設計になると思うの。もうこれで建築はおしまい。」
直子は詳しく語ろうとしなかったけれど、建築を好きでい続けるために、卒業設計を最後に建築をやめることを決意したらしかった。
それは、お互い好きなのに別れなければならない恋人達が交わす最後のキスのようなものなのかもしれないと思った。

 皆、それぞれにモラトリアムをモラトリアムとして存在させるために何らかの決着をつけようとしていた。
でも、キズキとぼくは、終わりの無いモラトリアムがあればいいなと相変わらず学生みたいなことを思った。まだ学生だけれど。
灰皿に入れられたナッツの殻が、灰皿から溢れてこぼれ落ちた。
 「ほら、もう時間だよ。店閉めるからお帰り。」
マスターがレコードを止めた。
やれやれ。
バーの重たい木の扉を開けると冷たい風が吹いた。
キズキは家に帰るといって去っていった。

僕は何となく家には帰りたくなかった。かといって、どこへ行ってよいか分からなかった。
 

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