三韓征伐 - Wikipedia
仲哀8(199)年9月条に仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲討伐のため儺県(ナガアガタ[2]。現在の福岡博多[3]にあった奴国)の香椎宮を訪れる。そこで、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。託宣では熊襲よりも宝のある新羅を攻めよとされた。しかし、仲哀天皇は、これを信じず、高い丘にのぼり、海を見ても、そんな国は見えないとして、神になぜ欺くのかといった。神はなぜそのように誹るのか、汝はその国を得ることはできないが、汝の子がそれを成すだろうと述べた。仲哀天皇は託宣を聞かずに熊襲征伐を行うが、敗北し、撤退した。さらに翌200年年2月、筑紫の香椎宮で崩じた。神の託宣を聞かなかったためと皇后をはじめ嘆いた。遺体は武内宿禰により海路穴門を通って豊浦宮で殯された。『天書紀』では熊襲の矢が当たったと記されている。