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対馬ナビコミュの伝説

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 ◆1.河童伝説

河童の正体
1985年8月1日、長崎の対馬で奇怪な事件が起こった。釣りを日課とする城崎竜作氏(当時71歳)は、夕釣りを終え、自転車に乗って自宅への帰り道を急いでいた。角を曲がれば自宅が見えるというとき、彼は前方およそ30メートルほどの地点に動く物体を目撃した。身長は1メートルくらいだろうか。ほっそりとした手足で、ザンバラ髪をした子供が素っ裸で歩いている。裸の子供は右手の茂みから出てきたかと思うと、左手の草むらへ駆け込み、そのまま久田川の中へ飛びこんだ。対馬では夜釣りは珍しくない。その子も釣りの手伝いでもしているのだろうと考えた城崎氏は、たいして気にも止めず家路についた。
 
 翌朝5時頃目覚めた城崎氏は、いつものように日課の朝釣りに出かけた。家の前の角を曲がり、例の現場に差し掛かったとき、城崎氏は奇妙なことに気がついた。濡れた足跡のような黒っぽい染みが点々とついているのだ。その数、約50個。お船江という入り江の淵から、昨晩子供が茂みに隠れたあたりまで、20メートルにわたって足跡が見える。城崎氏は変だと思ったものの、そのときは先を急いだ。ところが、朝釣りを終えて戻って来た城崎氏は、その現実に唖然とした。足跡がまだ残っていたのである。真夏の炎天下の中、ただの足跡が朝見たときとまったく変わっていないということはあり得ない。城崎氏は自転車を止め、その足跡に触ってみた。
 
 すると、乾いてはいるもののヌメっとするような茶褐色の液体が指についた。明かに水ではない。足跡は、長さ20センチ前後、幅10センチ前後、どれもみな三角形、もしくはオタマジャクシのような形をしていた。自分の足を見て比較してほしいが、長さと幅が2:1の足跡など明かに人間のそれではない。城崎氏はふと気がついた。ひょっとして、この足跡は、昨夜の子供がつけたものではないのか?しかし、濡れた足でアスファルトを歩いても、こんなに多くの足跡が残るはずはない。真夏の太陽に照らされて、湿気を保っているというのも変である。このとき、城崎氏の頭の中に浮かんだのは、この地方の伝説に登場する有名な妖怪であった。
 
 その名は「ガッパ」。一般には「河童」と呼ばれている。事の重大さを悟った城崎氏は、町役場に勤める息子に一部始終を報告。河童出現の噂は人から人へと伝わり、厳原の町は騒然となった。役場と警察の人間が現場を検証した結果、同じ足跡が久田川の対岸の道にもあることが判明した。どうも、ガッパは城崎氏に目撃された後、川を泳ぎ対岸に渡ったらしい。この事件はマスコミが大々的に報道するに及び、全国的に知られる河童騒動となった。ちなみに、警察は分泌物のサンプルの最終を行ったが、結局分析はされず、そのまま廃棄処分とされてしまう。あれ以来、対馬で再び河童が現れることはなかった……

http://www.fitweb.or.jp/~entity/uma/kappa.html


 ◆2.陶山訥庵の猪退治
●猪追詰
 世にいう犬公方様(5代将軍綱吉)の「生類憐れみの令」のもと、猪駆逐の実行には「からくり」が必要であった。この大事業はよく「訥庵の猪退治」といわれるが、退治ではなく「追逐(詰)」と表現を変えたところも訥庵の企画性を窺(うかが)わせる。
 その追詰の策は、対馬を南北に6つに区分し、その境に大垣をつくる。北の方から第1番は、東は唐舟志から西は西津屋、第2番は五根緒南方から刈生の出崎まで、第3番目は志多賀と小鹿の間から女連の南まで、第4番目は佐賀の南から銘付と小綱の間まで、第5番目は●知と根緒の間から今里と阿連の間まで、第6番目はそれ以南である。大垣の内側には小垣をつくった。訥庵の計画・準備は周到であった。猪追いは麦の植えつけを終えた11月11日から翌年2月20日まで、雨の日と正月の休みを除いて行われた。
  こうして元禄13年(1700)から宝永6年(1709)まで、対馬藩執念の猪追詰は行われた。
http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/iki_tsushima/053.html

 ◆3.海幸彦・山幸彦物語 和田都神社
<海幸彦・山幸彦物語>
天照大神の孫、瓊々杵命(ににぎのみこと)に、火照命(ほでり)、火遠理命(ほおり)という兄弟が居た。兄は海で魚をとって暮らし、弟は山で獣を追って暮らしていたので、兄は海幸彦、弟は山幸彦と呼ばれた。ある時、山幸彦は嫌がる海幸彦から、無理矢理釣り針を借りて、海の魚を釣ろうとするが、一匹も釣れずに大事な釣り針をなくしてしまう。兄はどんなに弟が詫びても許さず、元の釣り針を返せと言う。困り果てた山幸彦が海岸でしょんぼりしていると、塩土翁(しおつちのおきな)がいぶかって、「どうして日の皇子が泣きたもうか?」と訊くので、山幸彦がわけを話すと、翁は舟を与えて、
「これに乗っていけば、魚鱗(いろこ)の宮に着く。そこはわたつみの神の宮で、きっと力になってくれる。」
と言う。舟は無事にわたつみの神の宮に着く。そこで出会った海神の娘、豊玉姫と結婚し、なくした釣り針も、鯛の喉から見つかる。3年後、わたつみの神の支援を受けて、山幸彦は本土に攻め上り、兄の海幸彦を服従させる。この山幸彦と
豊玉姫の子供が、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)で、神武天皇の父になる人である。
http://inoues.net/club/wajinden_no_tabi3-2.html


 ◆4.八幡神社の発祥 『海神神社』

『對州神社誌』には「八幡宮」と記され、明治までは「八幡宮」と称していた。
一説には、継体天皇の御代、祭殿を建て、八幡宮と称したといい、我が国八幡宮の発祥の地とも。

当社は、式内社・和多都美神社の論社の一つ。
「海神」と書いて「わたつみ」「わだづみ」と読めるらしい。
よって、明治三年に、和多都美神社と改称したが明治六年、現社号・海神神社となった。

仁徳天皇の御代、異国の軍船が本州西面の海上に来襲した時、木坂山の峰から奇雲と烈風が起り、軍船を退けたという。

このように、当社は海神への信仰と八幡としての信仰が渾然となった複雑な神社のようだ。

また、当社を式内社・和多都美御子神社とする説もある。
対馬の祭祀では、親子神が祀られるとき、親神を里近くに、子神を人里離れた聖地に祀ることが多いが、和多都美御子の場合も、聖地(伊豆山)に祀ったという考え。

また、当社を式内社・胡簶神社とする説、式内社・胡簶御子神社とする説もある。
これは、胡簶を「やなぐい」と読み矢との関連から当社・八幡宮が矢を献上していたという記録によるもの。

http://www.genbu.net/data/tusima/kaijin_title.htm


 ◆5.美女塚伝説

たいそう昔の話です・・・。
 村の阿比留(あびる)の家に、鶴(つる)という、それは大変美しく、そして賢(かしこ)く親思いの娘がおりました。その評判は村々を越え、ついには、はるか遠くの都まで届きました。それゆえ当時の島役人に命じ、鶴を宮中の采女(うねめ・女官)として召し出すように、申しつけたのでした。

 鶴の父はすでに亡く、母を残して家を出ることなど思いもしないことであり、何よりも、生まれ育ったこの村をこよなく愛していました。何とか断ってくれるよう母に頼みましたが、母は「不憫(ふびん)なことはわかっているが、お断りすることなど叶(かの)うはずもない・・・。天子様(てんしさま)の御命令と同じだからね・・・。私もどれほどつらいことか・・・。どうか辛抱して行っておくれ・・・」と言うしかありませんでした。

 
 鶴にしてみれば、これほど悲しいことはありませんでしたので、なす術(すべ)もなく、涙に明け暮れる日々となりました。

 そんな鶴のうわさは、やまわろうとかお−ら達にも伝わってきました。
 みんなは、「俺たちにとって、鶴さんは特別だった。たいそうお世話になた。何とかご恩返しに役には立てないものだろうか」。

やまわろうのゲンが言う。

 「鶴さんは、嵐が続き、山に食べ物が少なくなってしまったとき、こっそり山の入り口の祠まで食べ物を何度も運んでくれたね」。


かおーらのかんたも続けて、
 「・・・雨が降らずに川が干上がり、食べる物が何にも無くなったときに、おいらたちのために、大川の岩の上におにぎりをたくさんつくって、置いててくれた。村も大変だったのに、鶴さんだけは、本当に心の優しい人だったよ・・・」。

みんなで思案しているうちに、ついに鶴が村を立つ日が来てしまいました。
せめて、姿を消すことのできる、村はずれまでお供をさせてもらうしかない・・・ということになり、代表して、ゲンとかんたが行くことになりました。

すでに門の前には迎えの者が待っており、駕籠が用意されていました。奥の座敷では母と、そして亡き父に別れの挨拶が行われています。
やがて鶴は、涙ながらに見送る母のもとを離れていきました。

ゲンとかんたは鶴をはさんで、駕籠の両脇につきました。彼らの姿は供の者たちには見えません。


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いよいよ村はずれまで来たところで二人は心を合わせ、鶴に言いました・・・。
「鶴さん!、僕らはここまでしか見送り出来ないけれど、優しい、優しい鶴さんのことは、みんな決して忘れないよ。どうぞ達者でいてください、そして、いつかまた僕らのいる村に帰ってきて下さい!・・・」と。

ふたりと、そして皆の思いはしっかりと鶴の胸へ入っていきました・・・・・
ゲンとかんたは辛くてたまらなくなり、仲間のいる山と川に泣きながら帰っていきました。

やがて村が見下ろせる山の道にさしかかったとき、鶴はお供の者に言いました。
 「お願いがあります! 私の村を最後に一目だけ見せて下さい」・・・・・

駕籠はとめられ、鶴は生まれ育った村、そして山や川をしみじみと見つめていましたが、突然、「私のような、辛く不幸な思いは、これから決して誰にもさせたくありません!、この村からは美人が生まれませんように!」と叫ぶと同時に舌を噛み、自ら生命を絶ったのでした。 
 
母の悲しみは言葉には言い表せず、村人、そしてやまわろう、かおーら達も深い悲しみにつつまれました。
人々も、村思い、親思いの鶴を深く哀れみ、『鶴王御前』(つるおうごぜん)と呼び、美女塚を建て、弔(とむら)いました。

このこと以来、村の娘たちは、顔が目立たぬように手ぬぐいで隠し、ハギレを縫い合わせてこさえた、みすぼらしい衣服を身にまとうようになったのです。

これが、この地域独特の服装である「はぎとうじん」の起こりとなり、また言葉使いも「濁(にご)し」が入る、「豆酘方言(豆酘弁)」が出来たといわれています。

しかしながら鶴の哀れな悲しい願いとは別に、今なおここは美女の里として知られていますが、「豆酘美人」のいわれは、この鶴王御前の美女塚伝説が始まりと伝えられています。

http://www1.ocn.ne.jp/~kurose/minwa05.htm
http://www1.ocn.ne.jp/~kurose/minwa06.htm


◆6.ロシア軍艦対馬占領事件
1861年3月14日(文久元年2月3日)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリュリョーフは軍艦「ポサドニック」号に座乗し対馬島尾崎浦に投錨し、その後、浅茅湾内に進航し、芋崎を占拠した。さらに、兵舎・工場・練兵場などを設置して半年余にわたって淹留した。

はじめ「ポサドニック」号が尾崎浦に投錨すると、島主宗対馬守義和は重臣を急派し、非開港場投錨の非を責め、速やかに退帆することを要求させたところ、ビリリョフは難破し航行に耐えず、修理のため来航した旨を答え、藩吏の抗議を無視し、ついに芋崎の突角を占領した。

その後、宗氏は問状使を派遣し、その不法を何度か詰問したが、ロシア側は無回答を貫き、脅威をもって日本側を脅かしたり、甘言をもって農民を懐柔したりし、木材・馬や牛・食糧・薪炭を強奪または買収して淹留の準備を整えた。それと同時にロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を跋渉して野獣を捕獲し、なかには婦女を追跡し脅かす水兵もおり、近郷士民は激昂し、しばしば闘争を生じた。

4月12日、ロシア兵が短艇に乗じ、大船越の水門を通過しようとしたが宗藩の守兵はこれを拒止し、このために卒の松村安五郎がロシア兵に銃殺された。

ところが、ロシア兵はこれに満足せず、数人の里人と十数頭の牧牛を奪って帰船し、翌日にはさらに水兵100余を派して大船越の近郷村落を劫掠して乱暴狼藉の限りを尽くした。

はじめ宗氏は時勢にかんがみて温情をもってこれに接し、諄々と国法を説示して速やかに退去することを要求し、しばしば米塩薪炭を贈りこれを厚遇する一方で藩内士民には軽挙を戒め、かつ急使を江戸にはしらせて江戸幕府の指示を仰ぎ、また船を長崎に向かわせ奉行所に援助を求め、密かに沿岸に砲台を築造し万が一の事態に備えた。

長崎奉行岡部長常は書を船長に与え、その非法行為を詰問し、佐賀、筑前、長州をはじめ隣藩諸侯は軍艦を艤して実情を調査させ、檄を飛ばして対州援護の要を説き、対策を議した。

宗氏の所領の筑前田代では代官平田平八が手兵をひきいて急航、対馬に渡島し、憤然、ロシア兵の暴を懲さんとする気勢をしめした。江戸幕府は報を得て驚き、箱館奉行村垣範正に命じて、同地駐在のロシア総領事ゴシケビチに厳談して、速やかに「ポサドニック」号退去を強談させ、一方で外国奉行・小栗忠順を対馬に急派して事態の収拾にあたらせた。

5月7日、忠順は目附溝口八十五郎などをひきいて対馬に渡航し、船将に会見し、論難熟議、数度におよんだ。これよりさきロシア将は芋崎の永久租借を宗氏に稟請し、これに代えるに大砲の進献、警備の受引などの大事を提議し、しかしこれが峻拒されるや、贈品謝礼を口実に藩主謁見を強請してやまなかった。忠順は来島ののち、ロシア兵の実情を看破し、容易に退去させることの不可能を察し、ひそかに他の一策を案じつつ、島主会見の希望のみを許容し、忽惶として帰任の途についた。

ここにおいて26日、ビリリョフは軍艦をひきいて府内に回航し、部下の将士をしたがえて、島主宗対馬守に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日淹留の恩を謝した。

沿道警備にあたった藩内士民はロシア兵の倨傲を目撃し、憤怒を発し、切歯扼腕し、長剣が腰間にたかなるのを感じたが、かろうじて事なきを得た。

忠順帰府ののち、老中・安藤信正は厳命を箱館奉行にくだし、村垣淡路守にかさねてロシア領事に抗議を提出させたため、ゴシケビチは軍艦「オプリーチュニク (クリッパー・初代)」を対馬に急派し、ビリリョフを諭してついに芋崎を撤退させた。これは8月26日のことであった。

9月、外国奉行野々山兼寛その他は幕命を奉じて対馬に渡航し、箱館談判の決議にもとづいてロシア艦滞泊後の善後処置に任じ、ロシア人の造営物はことごとくこれを毀ち、その材料は長崎に保管した。
http://jiten.biglobe.ne.jp/j/e7/00/0b/2d1879f08a8f0de980b3bbe564d15381.htm


 ◆7.ナヒモフ号の引き揚げに私財投入

笹川良一が心血を注いでつくりあげた競艇事業から生み出される資金は、今や世界規模の団体である日本財団を通じて、社会のために使われている。

その資金は全国の競艇ファンからいただいたものである。笹川は毎年末、日本財団、全国モーターボート競走会連合会の御用納めを終えると、東京近郊の競艇場を回る。

これはファンに対して一年間のお礼を言うためで、年が明けて正月には、新年の挨拶のためにまた競艇場に行くのであった。さぞかし秘書は大変であったことであろう。

ファンあっての競艇事業、競艇事業があって初めて日本財団が活動できる。そのことを一番よく知っていたから競艇現場に足を運んだのであった。そのため、公私の区別はきちんとしており、競艇のお金は一切手をつけなかった。

そんな笹川であったが、自らのお金は当然のことながら自由にそしてダイナミックに使った。その一例がナヒモフ号の財宝の引き揚げであった。

1980年秋、長崎県対馬沖に時価一兆円の財宝を積んで沈没したとされる帝政ロシア時代の巡洋艦「ナヒモフ号」の引き揚げに笹川は巨額の私財を投じた。

ナヒモフ号はロシア・バルチック艦隊の装甲巡洋艦で1853年からのクリミア戦争で活躍したナヒモフ提督から名を取った。日本海海戦では第2艦隊に属し、海戦初日の夜に沈没したのであった。

何故笹川が私財を投じてまでナヒモフ号にこだわったかというと、世界の視線を北方領土問題に集中させるためであった。

北方領土は、日本古来の領土であったが、1945年8月から9月にかけてソ連軍は北方領土に上陸し占領した。

現在に至るまで戦後約60年以上にわたりソ連およびそれを継承したロシアが実効支配を継続している。

笹川は、北方領土問題解決にはナヒモフ号が絶好のチャンスだと思った。本当に財宝が引き揚げられれば、ソ連は必ず自らの所有物だと主張し、返還要求してくるに違いない、と考えていた。

その場合にはナヒモフ号は日露戦争の戦利品とみなされており、かつて久原房の助(戦前の政治家であり財界人として有名)らが引き揚げ作業に手をつけたことがあったが、ソ連は何も言ってこなかったわけだから引き揚げた者が所有者である、という理屈である。

そしてナヒモフの財宝が引き揚げられた場合、ソ連にプレゼントし、食糧問題で国民が苦しんでいるので、その財宝を国民のために使ってもらおうと考えていたのであった。

その代わり、日本から取り上げたままになっている北方領土を返還させることが交換条件であった。

笹川にとってナヒモフの財宝には全く興味がなかった。しかし巨額の私財を投入した。それは北方領土返還に向けてソ連を話し合いの土俵に乗せるための材料、切り札に使えると信じていたのである。

笹川が多額の私財を投入したナヒモフ号から引き揚げられたものは財宝ではなかった。

http://blog.goo.ne.jp/sasakawaryouichi/e/aa3338c9e178a3e95d5f1dbae2dae3d4


 ◆8.オソロシドコロ
・673年、対馬南部の豆酘郡内院村(つつぐんないいんむら)に超能力者が生まれた。
・その母は虚船(うつろぶね、うつぼぶね)に乗って漂着した高貴な身分の女性であり、太陽に感精して子供を産んだ。太陽=お天道様であり、太陽の子=天童と名づけられた。
・天童法師は嵐をまとって空を飛ぶことができ、上京して文武天皇の病を治し、「宝野上人」の菩薩号を賜った。

・天道信仰の中心人物である天童法師の墓所が龍良山南面・浅藻(あざも)の八丁角(はっちょうかく)にあり、その母の墓所は北面の山中の裏八丁角にある。その2つは特に強いタブーの地として「オソロシドコロ」と呼ばれた。
・龍良山全体(山自体)が天道信仰の聖地であり、内院・浅藻・豆酘などの集落はすべて龍良山のふもとに位置している。
・豆酘の集落内に遥拝所(ようはいじょ)があり、ここで神事を行っていた。それが多久頭魂(たくずだま)神社。

・龍良山は聖地として立入や樹木の伐採が禁じられていたため、極めて自然度の高い照葉樹林が残されており、大正時代に「龍良山原始林」として国の天然記念物に指定された。
・豆酘は、古代米の一種・赤米が神事とともに伝承されていたり、かつて中国や日本で行われていた古代の占いの技術「亀卜」(きぼく)が現在も行われているなど、固有の民俗・習俗を伝承する地域。

・天道信仰は、天童法師という超能力者の物語を骨格としているが、穀霊崇拝や太陽信仰、山岳崇拝などさまざまな要素が混ざり合っている。
・天道信仰は、伝承では7世紀が起源とされているが、平安時代から中世にかけて神仏習合により形成された対馬固有の修験道の一種で、その祭祀形式や行事には古神道の要素が多く伝承されている。

・対馬北部の上県町佐護(かみあがたまちさご)にも「天神多久頭魂神社」(てんじんたくずだまじんじゃ)があり、こちらも天道信仰の中心地だった。

【おまけ】
・豆酘には、天皇の釆女(うねめ)に選ばれたものの、老いた母を一人残して京に上ることを悲しみ自害した鶴王御前(つるおうごぜん)の伝承(美女塚伝説)があり、美女塚という塚(石碑)がある。


ちなみに、多久頭魂神社は雰囲気もよく、オソロシくはありませんが、表・裏八丁角には不気味なオソロシい雰囲気が漂っており、一般人の訪問はお奨めしません(^^;)

http://tsushima-net.org/blog/?eid=132


 ◆9.青森の「ツシマ姓」

 本州の最北端、青森県津軽地方には、何故か「ツシマ」姓が多い。  

同じツシマ姓でも、対馬、津島、對馬、津嶋などがあるという。

その数は津軽地方だけで2000軒以上に上るというから驚き。 

 ツシマ姓は長崎県の最北端にある韓国が見える島、「対馬」と関係があるかもしれない。

津軽のツシマさんのルーツは対馬の可能性もある。 ちょっくら調べてみるべ。

               

その謎を解く鍵は、津軽地方に伝わる子守唄にあった。 

子守唄に、「泣けば山からモッコ(蒙古)来る」という歌詞が伝わっている。

 この歌詞は長い間、津軽では意味不明だった。  

そもそも、蒙古軍は津軽に来襲していない上、なぜ泣くと山から蒙古が来るのか。

おかしい、変だ、謎だ、理屈に合わない・・・・・・結局わからん。   

 ところが、対馬の現地で考えると、なんとなく理解できるから不思議だ。

約730年前の文永の役(1274年)、蒙古の大軍は対馬西海岸の佐須に襲来する。   

一山越えた東の国府にいた守護代の宗資国(すけくに)は家臣ら80余騎を率いて

戦いを挑むが全員が壮烈な死を遂げる。

 その話が、国府に伝わると住民はパニックになった。  



    以下はフィクションです。   あしからず、(ペコリ)


「大変だ、大変だ」。  「蒙古が山を越えて攻めて来たらどうしよう」。

住民は、戸締りをし、家の灯火を消して恐怖に震えていた。

 しかし、どうしたらよいか分からん、「困った」、「恐ろしい」・・・・。

そのうち、女、子どもを九州に避難させよう、と提案する者がいた。

そして、未明に数隻の舟を仕立てて浜から出発。泣きながら船を見送る家族。

 沖に出て壱岐の島が見えるところで風が吹き始め、ますます強くなり波も高くなる。 

船底の子どもたちは恐怖で泣き出すが 、海上を木の葉のように当てもなくさまよう舟。

そして夜になり、方角も位置もわからなくなり、舟は漂流する。

 朝になり明るくなったが、舟から陸地は見えない。船頭も子どもたちも懸命に水平線に山を探す。 

数日漂流、波間に船が見えた。皆が大声で「オラビ(叫び)」、大きく手を振った。

気付いた船は、船首を舟に向け近寄ってくる。  

 船上に助け上げられ、船頭が「かくかく、しかじか」と事情を話し、 お礼を述べた。

救助した船は、津軽の安東水軍に属し、若狭湾から津軽に向かう途中という。

 水軍の親方は主だった船員と打ち合わせた後、

「事情を聞くと気の毒だが、こちらにも都合があり対馬まで送り返すゆとりない。勘弁してくれ」と詫びる。

「それより津軽で暮らさないか。住めば都と言うし」と提案した。  

 対馬の一行は、「命の恩人」の提案を受け入れることを決め、

対馬出身であることを後世に伝えるため 「ツシマ」姓を名乗ることにした。

 それから700年余、ツシマ姓のルーツを知る手がかりは子守唄だけになった。

そして、ツシマさんは全国に広がったが、肝心の対馬にはツシマさんは

一人もいない。   これも又、おもしろい。  
 
 対馬と津軽の関係はツシマ姓だけではない。

江戸時代初期の対馬藩の重役でお家騒動「柳川事件」の主役だった柳川調興(豊前)は

津軽に配流になった。しかし、弘前では賓客として丁重なもてなしを受け、藩主の菩提寺に

葬られている。

 津軽と対馬は深い縁で結ばれている。   
http://blogs.yahoo.co.jp/taisyuu_torayama/396453.html

コメント(43)

 ◆6.ロシア軍艦対馬占領事件

ロシア軍艦対馬占領事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ロシア軍艦「ポサドニック号」対馬を占拠
http://www.pax-net.com/bakumatsu/?p=1439

ポサドニック号芋崎占拠
http://www.pref.nagasaki.jp/t_reki/imozaki.html

対馬(13) 大船越
http://shikado.cocolog-nifty.com/zakki/2008/05/13_8249.html

近代日本戦争史 世界史的背景
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai01.html

対馬の歴史
http://marugoto.cool.ne.jp/tsushima/seakayak/picts/history/history.htm

『歴史学研究』2004年
http://books.google.co.jp/books?id=jKpbA-02T7wC&pg=RA1-PA39&lpg=RA1-PA39&dq=%E3%83%9D%E3%82%B5%E3%83%89%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF+%E5%AF%BE%E9%A6%AC&source=bl&ots=cTGgndF0oV&sig=weUoqbnTtkvCERzmhJ23h0eefGw&hl=ja&ei=V5jOSdqrI6X26gO-q9zYAg&sa=X&oi=book_result&resnum=4&ct=result#PRA1-PA40,M1

ロシア軍艦対馬占領事件
http://jiten.biglobe.ne.jp/j/e7/00/0b/2d1879f08a8f0de980b3bbe564d15381.htm

龍馬がブログ 対馬事件
http://bakumatu.blog82.fc2.com/blog-entry-463.html

ロシア軍艦対馬占領事件
http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

「小栗忠順のすべて」
http://tozenzi.cside.com/hon-subete.html

小栗上野介〜土蔵付き蔵〜
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5110/newpage6.htm

歴史の勉強・宗氏
http://roadsite.road.jp/history/muromachibuke/so/so-tousyu2.html
 ◆7.ナヒモフ号金塊引揚げ事件
マリー・ローザンヌ号金塊引揚事件ってなんでしょうか? お教えください ...
http://q.hatena.ne.jp/mobile/1224734587

ナヒモフ号の金塊を探せ
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_3670.html

http://blog.goo.ne.jp/sasakawaryouichi/e/aa3338c9e178a3e95d5f1dbae2dae3d4

衆議院会議録情報 第093回国会 予算委員会 第2号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/093/0380/09310110380002a.html

「日本の埋蔵金」研究所 The TREASURE JAPAN RESEARCH 九州の埋蔵金
http://www.komiyama.gr.jp/treasure/kyusyu.htm

ナヒモフ号の引き揚げに私財投入 - 世界は一家 人類みな兄弟 笹川良一
http://blog.goo.ne.jp/sasakawaryouichi/e/aa3338c9e178a3e95d5f1dbae2dae3d4

旅ごよみ トコトコツー 上へ北へ 対馬旅
http://gyoku33mham7.blog17.fc2.com/blog-entry-209.html

茂木浜海水浴場(対馬)・写真満載九州観光
http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/tushima/mogihamaky/mogihamaky.htm

Electronic Journal: 山縣有朋の主権線と利益線(EJ1712号)
http://electronic-journal.seesaa.net/article/9093860.html

上対馬町 茂木
http://tsushima.world.coocan.jp/kamitusima/mogi/mogi.htm

マリー・ローザンヌ号金塊引揚事件ってなんでしょうか? お教え ...
http://q.hatena.ne.jp/1224734587

日本海海戦100周年特別企画 再現対馬沖 前年に始まった日本とロシアの ...
http://www7a.biglobe.ne.jp/~senkan/nihonnkaikaisenn1.htm

戦史 日露戦争6
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai-nitiro6.html

ソビエト、ロシア艦船アイコン
http://www.warbirds.jp/kiyochan/by-sinn/207rosia.html

「日本の埋蔵金」研究所 The TREASURE JAPAN RESEARCH 九州の埋蔵金
http://www.komiyama.gr.jp/treasure/kyusyu.htm

日 露 戦 争 史 年 月 日 陸 軍 海 軍 明治37 1904 2 6 夙に準備し ...
http://www.geocities.jp/shiozawa850/nichirosensou/newpage5.html
河童のぬいぐるみを作って町おこしに使えませんか?

****
対馬の河童
2009.12.12 (土)

7年くらい前のことですが、
図書館で調べものをしている時に偶然見つけた本に、
対馬で河童が目撃されたと書いてありました。

おそらく、今から20年くらい前のことだと思いますが、
対馬の厳原(いずはら)という町で、
町役場に定年まで勤めた人が、
退職後、毎晩夜釣りに行っていたそうです。
ある日の夜中の3時頃、
小学生くらいの子供が、
川のそばを歩いているのを見かけました。
こんな夜中に子供が歩いているなんておかしいな、
と思ったそうですが、
きっと親と一緒に来ているのだろうと思い、
自転車でその子のそばを通り過ぎたそうです。
すると、背後でポチャンと水音がし、
振り返るともう子供はおらず、
あわてて引き返すと、川のそばに足跡が残っており、
その足跡にはネバネバしたものがこびりついていたそうです。
その人は、河童だと思い、次の朝警察に連絡し、
鑑識課が来てそのネバネバを採取したんだそうです。

ちょうどその本を読んだ頃、
同じ職場に対馬出身の青年がいたので、
「ねえ、対馬で河童が目撃されたっていう話知ってる?」
と聞いてみると、
「ああ、それ、俺の友達のじいちゃんが見たんですよ」
という答えでした。僕が絶句していると、
「それ、厳原の町報にも載った有名な話ですよ」
と彼はつけ加えたのです。
あんまりあっけらかんと言うので、それ以上は追求できませんでした。
対馬の人たちにとっては、河童を見たというくらいのことは、
ごく普通のことなのだろうかとさえ思いました。

ちなみに、その話を聞いた河童研究家が、
後日対馬の警察署を訪ねたそうですが、
どこを探しても、鑑識課が採取したネバネバは、
見つからなかったそうです。

河童が侵入して証拠隠滅したのでしょうか?

http://www.moonwalk.jp/diarypro/diary.cgi?no=182
【河童伝説】前のコメントに続く河童伝説

お船江に河童よけの猿石があるってしっていました?
潮が引いたときしか見れないって、面白いですね。

***
[河童]
■現代も生きている伝説のUMA

▼九州で道を歩く河童の姿が目撃された!
 河童は「伝説上の生き物」という印象が強いが、全国各地で実際に目撃されており、その数は決して少なくない。
 ただし、ほとんどの目撃は第2次世界大戦後の時代までのもので、以来プッツリと目撃談は途絶えてしまっていた。ところが近年、貴重な報告があった。長崎県下県郡厳原町(現対馬市)で、河童とおぼしき姿が目撃され、足跡まで摂取されたというのだ。
 1984年8月の夜11時過ぎのことである。夜釣りから帰宅途中の男性が、道端で身長1メートル10センチ前後、頭が大きくザンバラ髪で、肌がテカテカと光る素っ裸の子どものような生き物を目撃したという。その謎の生き物は、男性の姿を見るやいなや草むらに駆け込み、道と並行に流れている久田川に飛び込んだような気配がしたという。
 その生き物が出没したあたりには、アスファルトの路面に点々と濡れた足跡が残されており、真夏の暑い陽射しが照りつけているのにもかかわらず、蒸発せずに現場に残っていたのだ。この地域には昔から河童伝説が多いことから、「ついに河童が現れた!」と騒然となった。
http://53.xmbs.jp/fushigiyashiki-3477-n.php?guid=on&page=5&view=1



カッパ ガタロ カワノトノetc...<

・1984年対馬にて、深夜に漁を終えた男性が、自転車で帰宅する途中、川辺で数人の子供達が遊んでいることに気が付いた。不審に思い、声をかけようとしたところ、人の気配を察したのか、彼らは次々と川へ飛び込み、姿を消した。男性の証言によれば、よく見ると、彼らはヌメッとした青黒い肌をしており、人間とは似て非なる生き物だったという。また翌日、現場を再び訪れたところ、路面のアスファルト上、20mに渡って、足跡のようなものが残されていた。
http://page.freett.com/Umania/kappa.html



1984年に目撃された対馬の河童の目撃者直筆イラスト。単に水遊びしてたただのガキではないかとも思える容姿だ!
http://www.mobypicture.com/user/cult666/view/10060709
(写真添付)


河童

 世間では単なる伝説上の生き物とされていますが、実は現代においても目撃事件が絶えない妖怪です。1985年8月1日、長崎県対馬の城崎竜作氏の目撃証言によると、河童らしき生物が粘着質の小さな三角形の足跡を道路上に約50個残していったといいます。また1991年6月30日には、宮崎県西都市の杉本貢氏宅で同様の足跡が多数見つかり、これも河童のものではないかと言われました。
http://www1.plala.or.jp/ryuo/fairies/japan/kappa.htm



なぜ干潮かといいますと、猿石の説明をしたかったんです!
久田には河童がでるという話があり、河童は猿を嫌うということから河童避けの石があるんです。
この写真では確認しづらくて申し訳ないのですが

写真の向かって中央より右奥側に干潟(ちょっとおおげさですが)がありそこの真ん中に石があります。
実際の見に行かれたらすぐにわかります

河童がきて悪さをしないようにとの願いがこめられてるとのこと。


場所はコチラ。
厳原町久田です。厳原港から車で5分程度で到着します。
http://ameblo.jp/tsushimarenka/page-38.html
(写真添付)
◆9.オソロシドコロ

オソロシドコロについて
2010-04-03 03:24:17 (1 year ago)

 2010年4月1日放送の「奇跡体験!アンビリバボー」(フジテレビ)で、対馬の「オソロシドコロ」が紹介されました。
 「オソロシドコロ」とは、対馬固有の宗教「天道信仰」の聖地で、今回は、(1)八丁角、(2)裏八丁角、(3)多久頭魂神社の3ヶ所が紹介されていました。

 フジテレビのスタッフの方も視聴率的にそれほど期待していなかったらしく、バックナンバーを見ても対馬は紹介されていませんでした。
http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/469/p469_2.html

・・・が、4月2日のヤフー急上昇キーワードランキングで、同日のアンビリバボーで紹介された沖縄の新城島(53,874点)をダブルスコア以上の123,592点で破ってぶっちぎりの1位(^^;)
しかも、19位に「美女村」(対馬市厳原町豆酘)、23位に「天道法師」(天道信仰の聖者)という超マニアックな単語がランクイン(笑)

「オソロシドコロ」は、同フジ系列の「とくダネ!」(4月6日放送予定)でも取り上げられる予定だそうです。
いやー、世の中、何が受けるものやら・・・(-_-;)

2010年4月2日 ヤフー急上昇キーワードランキング
http://searchranking.yahoo.co.jp/burst_ranking/20100402


オソロシドコロについては説明が難しいので、以下にまとめてみました。

【まとめ】

・673年、対馬南部の豆酘郡内院村(つつぐんないいんむら)に超能力者が生まれた。
・その母は虚船(うつろぶね、うつぼぶね)に乗って漂着した高貴な身分の女性であり、太陽に感精して子供を産んだ。太陽=お天道様であり、太陽の子=天童と名づけられた。
・天童法師は嵐をまとって空を飛ぶことができ、上京して文武天皇の病を治し、「宝野上人」の菩薩号を賜った。

・天道信仰の中心人物である天童法師の墓所が龍良山南面・浅藻(あざも)の八丁角(はっちょうかく)にあり、その母の墓所は北面の山中の裏八丁角にある。その2つは特に強いタブーの地として「オソロシドコロ」と呼ばれた。
・龍良山全体(山自体)が天道信仰の聖地であり、内院・浅藻・豆酘などの集落はすべて龍良山のふもとに位置している。
・豆酘の集落内に遥拝所(ようはいじょ)があり、ここで神事を行っていた。それが多久頭魂(たくずだま)神社。

・龍良山は聖地として立入や樹木の伐採が禁じられていたため、極めて自然度の高い照葉樹林が残されており、大正時代に「龍良山原始林」として国の天然記念物に指定された。
・豆酘は、古代米の一種・赤米が神事とともに伝承されていたり、かつて中国や日本で行われていた古代の占いの技術「亀卜」(きぼく)が現在も行われているなど、固有の民俗・習俗を伝承する地域。

・天道信仰は、天童法師という超能力者の物語を骨格としているが、穀霊崇拝や太陽信仰、山岳崇拝などさまざまな要素が混ざり合っている。
・天道信仰は、伝承では7世紀が起源とされているが、平安時代から中世にかけて神仏習合により形成された対馬固有の修験道の一種で、その祭祀形式や行事には古神道の要素が多く伝承されている。

・対馬北部の上県町佐護(かみあがたまちさご)にも「天神多久頭魂神社」(てんじんたくずだまじんじゃ)があり、こちらも天道信仰の中心地だった。

【おまけ】
・豆酘には、天皇の釆女(うねめ)に選ばれたものの、老いた母を一人残して京に上ることを悲しみ自害した鶴王御前(つるおうごぜん)の伝承(美女塚伝説)があり、美女塚という塚(石碑)がある。


ちなみに、多久頭魂神社は雰囲気もよく、オソロシくはありませんが、表・裏八丁角には不気味なオソロシい雰囲気が漂っており、一般人の訪問はお奨めしません(^^;)

http://tsushima-net.org/blog/?eid=132
トピの説明に
 ◆8.オソロシドコロ
 ◆9.青森の「ツシマ姓」

を入れました。


◆9.青森の「ツシマ姓」

青森小話〜太宰治の本名(津島)と長崎の不思議な関係?
http://blogs.yahoo.co.jp/mepochzo/21726672.html

余談ですが、蒙古襲来(1274年、1281年)の際
元・高麗の連合軍が対馬に侵攻する。
彼らは男達を惨殺し、婦女子を集めて生け捕りにし
手の平に穴をあけ船に括り付けて連行した。
壱岐の住民も、同じ目に遭っている。
津軽地方に「つしま(対馬・対島・津島・津嶋など)」
対馬にまつわる姓が多いのは、この時島から逃げた
対馬住民がルーツで、
故郷の対馬を忘れないように「つしま」姓を
望郷の思いを込めて名乗ったらしい。
「泣けば山からモッコ(蒙古)来る」という子守歌
も残っているそうです。

因みに、あの太宰治の本名は
「津島修治」
津島家の菩提寺の南台寺の墓碑も、祖先は対馬姓と
なっているそうです。
同じ青森県人でも、津軽の人が津軽衆と呼ばれ
方言も、「津軽弁」と「南部弁・下北弁」に
別れるそうです・・・

http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-1774.html




"泣けば山からモッコ(蒙古)来る" の検索結果
http://www.google.co.jp/#hl=ja&site=&source=hp&q=%22%E6%B3%A3%E3%81%91%E3%81%B0%E5%B1%B1%E3%81%8B%E3%82%89%E3%83%A2%E3%83%83%E3%82%B3%EF%BC%88%E8%92%99%E5%8F%A4%EF%BC%89%E6%9D%A5%E3%82%8B%22&rlz=1R2ADFA_jaJP455&oq=%22%E6%B3%A3%E3%81%91%E3%81%B0%E5%B1%B1%E3%81%8B%E3%82%89%E3%83%A2%E3%83%83%E3%82%B3%EF%BC%88%E8%92%99%E5%8F%A4%EF%BC%89%E6%9D%A5%E3%82%8B%22&aq=f&aqi=&aql=&gs_l=hp.3...2053.5268.0.5959.3.3.0.0.0.0.802.1203.4-1j0j1.2.0...0.0.6wdY8nhNTIE&pbx=1&bav=on.2,or.r_gc.r_pw.,cf.osb&fp=deab7145bd863bee&biw=800&bih=482
ここ面白い


対馬のびっくり箱
http://m.blogs.yahoo.co.jp/taisyuu_torayama


この中からひとつ紹介


対馬の七不思議 鳴滝の謎
http://m.blogs.yahoo.co.jp/taisyuu_torayama/1887746.html

抜粋なので、リンク先には他にいろいろあります。

@@@@


対馬統一

そのルート上にあるのが対馬である。出雲国王になったスサノオは,日本列島統一に絶対必要な最新技術を恒常的に手に入れるため、 対馬を出雲国の支配下に入れることを考えた。紀元前10年ごろのことであろう。

 対馬の考古学的状況

 対馬における弥生時代の遺跡は、南端のつつ地区から北端の豊地区に至るまで、各地の浦で知られているが、それらの浦々に共通した条件として、後背にいくらかの耕地をひかえ、前面に良好な入り江をもっていることで、全体に南部(下島)より北部(上島)に多く、西海岸の中央部に遺跡の密度がもっとも高い。弥生文化の発祥地(北部九州)に近い東南部(厳原町東海岸)に遺跡が少なく、韓国南部と向き合った西北部(上県町、峰町西海岸)に多い。これは南部に良い入り江が少ない地理的条件によるものと考えられる。
 対馬では弥生時代中期末(西暦紀元前後)になると、多量の副葬品を所有した墳墓が三根湾の一角に出現する。ガヤノキ、タカマツノダン、サカドウといった首長級の墳墓の出現である。副葬品としては前漢鏡、楽浪系銅釧、半島産小銅鏡などの青銅製品が多い。この周辺が対馬国の発祥の地であろう。
 中期後半になるとにわかに遺跡が増加し、これより後期にかけて、空前の活況を呈したことがあらわれている。それは舶載の青銅器や鉄器、玉類を輻輳した墳基が出現し、後期になると広型銅鉾が大量に移入されていることなどから考えて、このころ、重大な歴史的変動があったことは間違いなく、それは対馬国の誕生を示すものと推量されている。峰町の三根川中流域の小高い傾斜地に弥生時代の住居跡をたくさん残したヤンベ遺跡の発掘が行われ、対馬では始めての大規模な弥生時代の集落の跡ということで、卑弥呼の時代の対馬の国の中心地ではないかと推定されている
 遺跡数の多さ、分布密度の濃さにおいて三根浦と仁位浦が島内で卓越しているが、時代区分は少しずれており三根浦の主要な遺跡は中期末に集中し、仁位浦は後期に集中している。

 対馬に伝わる伝承では対馬はスサノオが開祖で代々スサノオの子孫が対馬を統治しているとされている。対馬では中期末以前には王墓らしき墳墓は存在しないので、 伝承と照合すると、スサノオが対馬にやってきて国を作ったということになる。対馬は山が多い島であり、スサノオがやって来るまでは、まとまった国としての存在はなく、 スサノオはここに国を作ることにより出雲と朝鮮半島の交流拠点を確保したものと考えられる。その拠点を三根湾沿岸に作ったものであろう。 そして,対馬から朝鮮半島に渡り,先進技術の導入を謀ったのである。そのため、対馬には出雲系神社が多く出雲と同じ神在月伝承が残っていると推定する。

 博多と釜山は玄界灘を隔てて、約200Km。対馬は博多港から138Km,釜山から50Km,対馬海流は3ノット(5.6Km)/時で北東へ流れている。晴れた日には、対馬の北側から朝鮮半島の山々や建物を望むことができる。この海は壱岐、対馬を挟んで常に陸地を見ながら安全に航行出来る航路であった。対馬は、魏志の倭人伝、古事記、日本書紀にもその名を記され、
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-03-2tushima.html
こちらも抜粋です。

@@@@

三韓征伐 - Wikipedia
仲哀8(199)年9月条に仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲討伐のため儺県(ナガアガタ[2]。現在の福岡博多[3]にあった奴国)の香椎宮を訪れる。そこで、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。託宣では熊襲よりも宝のある新羅を攻めよとされた。しかし、仲哀天皇は、これを信じず、高い丘にのぼり、海を見ても、そんな国は見えないとして、神になぜ欺くのかといった。神はなぜそのように誹るのか、汝はその国を得ることはできないが、汝の子がそれを成すだろうと述べた。仲哀天皇は託宣を聞かずに熊襲征伐を行うが、敗北し、撤退した。さらに翌200年年2月、筑紫の香椎宮で崩じた。神の託宣を聞かなかったためと皇后をはじめ嘆いた。遺体は武内宿禰により海路穴門を通って豊浦宮で殯された。『天書紀』では熊襲の矢が当たったと記されている。

(次のコメントへ)
(前のコメントから)


夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9(200)年3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、 住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。

渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた。月延石は3つあったとされ、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納。また、播磨国風土記逸文には、播磨で採れた顔料の原料である赤土(あかに)を天の逆矛(あまのさかほこ)や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に祭ったとある[4]。

皇后は帰国後、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えた。また、新羅を鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町に納めた(木坂八幡宮)。

神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。

以上が『古事記』・『日本書紀』に共通する伝承の骨子であり、日本書紀には、新羅に加えて高句麗・百済も服属を誓ったこと、新羅王は王子を人質にだしたことが記される。

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(前のコメントから)

神功皇后 摂政5(205,または325)年3月7日に新羅王の汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らが派遣され、人質として倭国に渡った微叱旱岐(みしこち)の妻子が奴婢とされたので返還を求めるとしてきた。神功皇后はこの要求を受け入れ、見張りとして葛城襲津彦を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられた。怒った襲津彦は、毛麻利叱智ら三人の使者を焼き殺し、蹈鞴津(たたらつ。釜山南の多大浦)から上陸し、草羅城(くさわらのさし。慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰った。このときの捕虜は、桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90

コメント11と文化の伝わり方が逆で
朝鮮半島から対馬、日本です。

前方後円墳の文化の伝わり方は

日本から対馬、朝鮮半島です。

前方後円墳 - Wikipedia
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%A2%B3

@@@@

対馬の名石館
自然が織り成す神秘的な紋様・造形美

★北方騎馬民族征服説で対馬を考察すると、3世紀末にツングース系騎馬民族(夫余族)の高句麗が南朝鮮を支配し『辰』という王朝を建てる。百済王はこの騎馬民族の首長ではないかと考えられています。やがて北方系騎馬民族は馬韓(百済)から対海国(対馬)に渡り任那(君主の国)を建国、このときの王がスサノオ(崇神天皇…ハツクニシラススメラミコト)と考えられています。また、弥生時代の「魏志倭人伝」が記す倭国には馬がいなかったと伝えられていることや5世紀の遺跡から急に大量の馬具が出土するようになったことなどから、この頃に乗馬の習慣がある騎馬民族が初めて対馬に馬を持ち込み、倭国の各地に広めていったのではないかと考えられます。スサノオ(崇神天皇)は任那を、倭国統一のための根拠地、そして百済や中国との政治・外交面の根拠地にしました。崇神天皇(スサノオ)は、任那の地名を冠する御間城入彦(ミマキイリヒコ)と言われ 、文字通り
、ミマ城にいた天皇という名を持っています。このことから、『記紀』が記す『津島県直(津の島は、すなわち港になる島の意)』や『任那』を読み解くと、ミマ城は、4世紀の遺跡(*1)が見つかった美津島町鶏知(ミツシママチケチ)ではないかと考えられます。
(次のコメントへ)
(前のコメントから)

後にスサノオは、中国地方統一のために出雲国(島根県)へやってきました。スサノオはまず、この地の主で娘を食べているというヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治する。その後、この地の娘の奇稲田姫(クシイナダヒメ)と結婚。この出雲が気に入ったスサノオは、奇稲田姫と住むための宮殿を造る。スサノオと奇稲田姫の間には多くの子供が誕生。そのうちの7世の孫が大国主命で、後に出雲の主神になったと言われています。
またスサノオはこの頃、出雲地方の斐伊川・飯梨川上流では砂鉄が採れたということで、ここでも馬具や武具などを製造させたと推察されます。

4世紀末から5世紀初め(390年〜410年)頃、九州出身の応神天皇は北九州から畿内に進出し、大和朝廷を創始した立役者であろうと考えられています。

★*1………対馬の中央部東海岸、美津島町鶏知には、前方後円噴3基、円噴2基の古墳群がある。
全長40メートルほどの畿内形の前方後円噴『出居塚(でいづか)古墳』があり、九州では最も古い時期の古墳に属し、4世紀のものとされている。出土品は、柳葉形銅鏃、菅玉、鉄剣、鉄刀などが発見され、他にも任那国の豪族層につながる貴重な遺物があったのではないかと思われる跡が見つかったのですが、残念ながら盗掘にあい持ち去られたそうです。
これに後続するのが、出居塚古墳から数百メートルの日本海に面した丘陵地にある『根曽古墳』で、6世紀のものとされている。出土品は、須恵器の破片、鉄剣、土師器、鉄拳鏃、菅玉、勾玉など。
鶏知は、『日本書紀』の顕宗紀にある『下県直』、『古事記』にある『津島県直(津の島、港になる島)』の根拠地とされる場所であり、この頃の対馬の古代豪族は鶏知にいて、本古墳群での発掘から対馬は畿内勢力の枠組みの中に組み込まれていたと考えられる。
(次のコメントへ)
(前のコメントから)

★4世紀初め、大和政権が日本統一に向けて動いていたころの朝鮮半島の状況は、朝鮮北部においては、中国北東部からおこった『高句麗』が、次第に朝鮮北部にまで領土を拡大していき、313年には中国の植民地であった楽浪郡を滅ぼしてしまいます。
一方、南部においては、3世紀に馬韓、弁韓、辰韓という小国の連合が形成されていましたが、4 世紀中葉には馬韓から百済、辰韓から新羅がおこり、それぞれ国家を形成していきました。
残る弁韓については国家として統一されず、伽耶(かや)や加羅などと呼ばれる小国家連合が形成されました。

また、この頃の対馬は日本書紀・中国史料・朝鮮史料によると、加羅(新羅、高句麗、百済)などの朝鮮半島から日本列島に進出しようする植民地と、任那(10国)と呼ばれる日本の大使館的存在である小国家連合が形成され、5世紀〜6世紀まで続き 、この頃の対馬の古墳がみつかったところ(*1)が任那の根拠地ではなかったかと考えられています。

367年頃、朝鮮南部に進出した倭国は百済と同盟を結んで、朝鮮半島南部に勢力を拡大しようとする高句麗と交戦するようになる。以来倭国は、663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て、668年の高句麗が滅亡するまでの303年間で、倭が政治、軍事、外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回(約4年に1回)にも及ぶと言われていますが、それは当然、対馬(任那日本府)を経由して渡ったと考えられます。

高句麗の王都であった丸都にある好太王碑(広開土王碑)の碑文には、倭と高句麗の戦いなどが刻まれいる。
http://mitsusima.jugem.jp/?eid=393
コメント8

◆9.オソロシドコロ
http://tsushima-net.org/blog/?eid=132


の関連です。


02-03.第2柱 高皇産霊神―3 ◎天童伝説と市の民と赤米
6月 30th, 2012 @ 03:55 pm › admin


 対馬の高皇産霊神(タカミムスビノカミ)が“うつほ舟”に乗った不思議な霊石に憑(つ)いて対馬に漂着したという物語の型を用いて、中世の修験者たちは天道伝説を編集し、その海域の信仰を募りました。これによれば、宮中の女院が不義の疑いをかけられ、“うつほ船”に乗せて流され、対馬北島(上県:かみあがた)の内院の浜に漂着したというのです。女院は山(古くは天道山、現龍良山)の渓流のかたわらで男の子を出産し、その子が長じて天道法師となったと伝えます。

あるいは『對州神社誌』によれば、天武天皇の時代、白鳳13年(673)、対馬州醴豆郡(つつぐん)の照日の菜(てるひのな)という女の娘が日光に感じて妊娠し男の子を生んだともいいます。照日は巫女や遊女の名の典型でもあります。こうして生まれた子は天道童子といわれます。その子は聡明だったので、9歳になったときに上洛して学び、文武天皇のときに対馬に帰って巫祝(ふしゅく)、僧侶として活動していました。ところが霊亀2年(716)、元正女帝の健康が崩れたとき、博士が占うと、対馬の法師を呼びよせるとよいというのです。そこで対馬に勅使が派遣されました。

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勅使が天道法師の住む内院村にくると、天道法師は空中に舞いあがり、まず壱岐の小牧に飛んで渡ったといいます。小牧には天道神社(今の主神は素盞嗚尊)があります。地域の伝承を集めた『古考伝』では、天道大明神は韓国(からのくに)から小牧の大江の浜にやってきたと伝えます。小牧は古くは駒牧(こままき)といい、海岸に天道大明神が乗ってきた駒の足跡があるという大岩があり、ここは海の民が信仰した壱岐の聖地でした。さらに天道法師は筑前国に飛んで、宝満嶽(ほうまんだけ)に立ち寄ったといいます。

宝満嶽は筑紫平野、壱岐、対馬を見晴らす国見山で、古くは竃門山(かまどやま)といい、神功皇后が韓半島遠征に登山して戦勝を祈ると騎馬の軍神があらわれたという聖地です。白鳳2年(673)、竃門山に法相宗の先達、心蓮上人がこもって修行していると、玉依姫(たまよりひめ)の霊があらわれ、皇統を守護すると宣誓して、金剛神から9頭の竜馬に変身して飛び去ったといいます。これを伝え聞いた天武天皇は宝満嶽の山頂に竃門山神を祀る上宮を建立したのでした。ここは筑紫の修験の本拠地ともなり、近年、明治維新に禁じられた宝満嶽の修験道が復活したそうです。

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天道法師は海の民を守る天道大明神、皇室を守る竃門山神に助力を願い、そこから奈良の都に飛来したのでした。そして元正天皇のもとで、天道法師は「吉祥教化千手教化志賀法意秘密しやかなふらの御経」を誦(じゅ)したといいます。すなわち、まだ奈良の都でも知られていなかった雑密の千手観音菩薩の経をとなえたのでした。その功徳によって元正天皇の病気は快癒し、天道法師の望みのままに褒賞を出そうということになりました。

天道法師は対馬の年貢を赦(ゆる)すこと、銀山を封じ止めること(鉱毒の防止)を願い、醴豆之郷(つつのさと)の三里の浜の寄物浮物(漂着物)、和布や箆(へら)・黒木弓木・鴬や雀・紺青や鰯(特産品)の免税、対馬撰女(遊女)、川の中州に住み着いた罪人や天道法師の結界に逃げてきた人々(浮遊民)の免罪を願ったといいます。これらは対馬の農民、市の民、山の民、海の民の願いでもありました。とくに対馬銀山は天武天皇3年(674)に発見され、天武天皇が無文銀銭を発行してから大量に採掘するようになり、中世にいたるまで鉱毒問題が発生していたのです。

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対馬の民の願いを聞き届けられた天道法師は、宝野上人(ほうやじょうにん)の号をたまわり、行基を弟子にして、対馬に帰ったといいます。行基は対馬に六体の観音を彫り、これを対馬の聖地がある佐護・瀬田・三根・曽・佐須・豆酘(づつ)に分けて祀ったといいます。これらは対馬六観音の巡礼地となったのです。

天道法師は対馬の民のためにつくして暮らしましたが、母の照日(てるひ)が亡くなり、対馬の最高峰、矢立山(下県:対馬南島)に葬られたといいます。矢立山の前に天道法師が生み落とされた天道山があります。これが多久頭魂神社(たぐつたまじんじゃ)の神体とされ、その境内に摂社の高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)があります。そして天道法師が入定すると、卒士山(上県:対馬北島)に葬られ、神となって湊山に示現したのです。これが今の天神多久頭魂神社(あまのたぐつたまじんじゃ)の神体とされました。その摂社に神御魂神社(かみむすびじんじゃ)があるのです。この二つの聖地は一対をなして対馬を守っています。

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多久頭魂神社には、今も赤米を栽培する神田があり、赤米を育て収穫し神に捧げる赤米神事が残され、日本最古の稲作神事として有名です。赤米は中国大陸、朝鮮半島を経由して対馬に伝わった古い品種とされています。飛鳥、奈良に畿内政権が成立すると、徴税のための白米が奨励され、赤米の栽培はすたれていきました。しかし、多くの米が白米になっても、長らく親しまれてきた赤米の神聖性は払拭されることはありませんでした。それはお祭りやお祝いのとき、小豆で赤く染めた赤飯を炊く風習となったのです。辺境の対馬南島(下県:しもあがた)の高御魂神社は顕宗天皇から神田を与えられたという伝承もあって、弥生時代からの赤米神事が残されたのでした。

対馬の赤米神事とは産霊神(むすびのかみ)を迎える「ヨマイリ」(旧1月2日)・「潮あそび」(旧1月5日)」・「頭受け神事」(旧1月10日)、播種して田植をおこなう「種下し」(旧4月4、5日)・「田植神事」(新6月10日)、そして赤米を収穫し産霊神に感謝する「お吊りまし」(旧10月17日)・「初穂米」(旧10月18日)、「口開き」(旧12月18日)・「寺田様の餅つき」(旧12月28日)とされています。

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多久頭魂神社の赤米の田は、8世紀のはじめころまでは「神田」とされていましたが、天道伝説にもとづく神仏習合が進むにつれて、「寺田」と呼ばれるようになります。この赤米田に赤米を栽培し、赤米神事を継承してきたのは高御魂神、あるいは高御魂神が人間としてあらわれた天道法師への祭祀の絆で結ばれた「頭仲間」(当仲間)でした。しかし明治維新の神仏分離令は対馬にもおよび、頭仲間は解散させられ、赤米の栽培は終わりを迎えたかのようでした。しかし紆余曲折をへて、対馬独自の神仏習合体系が復活され、9戸の「供僧」(くぞう)と3戸の百姓によって、赤米神事が受け継がれるようになったということです。「供僧」は神であり、仏であった天道法師の後継者にふさわしい呼び名でした。

多久頭魂神社の高御魂神社は別名を「悠紀宮」(ゆきのみや)、天神多久頭魂神社の神御魂神社は別名を「主基宮」(すきのみや)とされています。これらは天皇の皇位継承の儀式とされる践祚大嘗祭(せんそだいじょうえ)の「悠紀殿」、「主基殿」の構成の古い原型とも考えられます。大嘗祭の「嘗」(じょう)は「なめる」ということで、新たに実って収穫された“米をなめる”儀式であり、それによって新たな「ひ」(活動力)をとりいれ、新たに再生する儀式です。

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このような践祚大嘗会(せんそだいじょうえ)の原型とみなされる構造が、対馬北島の北西端、神御魂神社(悠紀宮)、対馬南島の南西端、神御魂神社(主基宮)に設けられていたのです。すなわち対馬の首長が代替わりするとき、主基宮に仮死して祖霊の高御魂神(ヤカミムスビノカミ)にまみえてその魂(ひ)を受け、悠紀宮に神御魂神(カミムスビノカミ)の加護をえてよみがえるという擬死再生(仮に死んで再生する)の儀礼がおこなわれていたのでしょう。このような首長継承の儀礼は日本各地におこなわれていたにちがいないのです。

対馬にかすかな痕跡として残されていた地域首長の擬死再生の継承儀礼は、新たに即位する天皇に新たな「ひ」を導入する践祚大嘗祭に昇華していったと考えられます。高御魂神は高皇産霊神と尊称され、天皇の後継者の皇子に、米をなめることによって天皇霊とでもいうべき「ひ」をとりませる「むすひ」の神ともされていったのでした。
http://vajira.jp/vajira/vajira-2/181

コメント18からはここで終わり。

コメント12〜14

三韓征伐 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90

の対馬由来の地です。

対馬観光物産協会のブログから

対馬の式内社をめぐる2 〜神功皇后関連の神社群〜
http://blog.tsushima-net.org/?eid=1004




14. 邪馬台国周辺の考古学 −その1−

1. 対馬の考古学

1.対馬(つしま)
2.「魏志倭人伝」における対馬

「対馬国」の名称がはじめて出現するのは魏志倭人伝の中であって、その記述からすれば対馬が倭国の一員であるのは疑
いのないところである。「隋書」倭国伝には「都斯麻」とあり、古事記や、旧事本記に「津嶋」と書かれている事から、
「ツシマ」という倭語に「対馬」の字をあてたものだろう。「馬」の字は「卑弥呼」同様、ことさらに卑語を用いたもの
らしい。「馬韓」に対する島という意味を見いだす人もいる。倭人伝の記述が元になり、以後、朝鮮の資料では一貫して
「対馬」と記され、国内でも日本書紀をはじめ正史にはすべて「対馬」が用いられている。これは倭人伝中でも唯一の例
で、他の三十ケ国も同様に表記してあれば、今頃邪馬台国はとっくに判明していて、このHPも存在していなかったこと
だろう。


始めて一海を渡ること千余里、對馬国に至る。其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。
土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市
糴す。」
(・・・狗邪韓国(くやかんこく)に到る。七千里余りである。)
始めて大海をわたること千余里で対馬に至る。其の長官を卑狗(ひく/ひこ)といい、副官を卑奴毋離(ひなもり)
という。この地の人々が住んで居る所は孤島であり、周囲四百余里しかない。土地は山ばかりで険しく、深林も多く、
道路は獣道のようである。千戸あまりの人口。良い田がなく、海産物を食べて生活し、船で南北(韓国や北九州)に
のりだし交易を行っている。
(また大海を渡ると千余里で、壱岐に到達する。)

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狗邪韓国から海を渡って、まっすぐ対馬に到達するのは非常に難しいと思われる。狗邪韓国を今の釜山・金海付近だと想
定すると、西から東へ流れている対馬海流では、たとえ海が凪いでいる夏(6−7月頃)だけ選んで航海しても相当東へ
流されるはずである。魏使は朝鮮半島の西側から、絶えず海流に逆らいながら対馬を目指したのだろうと思われる。もっ
とも、対馬から釜山が見えるということは釜山からも対馬が見えるはずなので、対馬を目で見ながら必死で軌道修正しな
がら漕げばあるいはとも思えるが、相当な腕力と体力を持った漕ぎ手がいないと難しいだろう。
直線距離で行けば釜山と対馬の最北端は約50kmであるが、従来の1里=90m〜100m説に従えば、これでは千余
里にはならない。倭人伝を信用しきれば、魏使は対馬の南側に上陸したことになる。「對馬國」が今日の対馬であること
にはほぼ異論がないが、魏使がどこに上陸したのかは不明であるし、我が歴史倶楽部の馬野さんのように、魏使は対馬に
は上陸していないという人もいる。
官名の「卑狗」は「ヒク」又は「ヒコ」と読まれ、日本語では「彦」にあたると思われる。「卑奴母離」は日本書紀にあ
る「夷守」だろうと思われる。後の「防人」同様、辺境を守る人々という意味がすでに紀元あたりから存在している。
しかし官吏となると、その仕えていた人或いは機関は一体誰だったのだろうか。対馬の王か邪馬台国の卑弥呼か、或いは
我々の知らない古代国家が対馬を支配していたのだろうか。

「土地は山険しく深林多く」「道路は禽や鹿の径の如し」「千余戸有り」「良田は無く」「海の物を食べて自活し」「船
に乗りて南北に市糴す」については、読んだそのままである。確かに山が険しく、道が無く、良田が少なそうである。
魏使は少なくとも一回は対馬に上陸しないと、これらの情報は集まらないように思う。あるいは上陸していないとすれば、
対馬の住人か、対馬をよく知っている人物に聞かなければわからないような情報である。

ちなみに、魏志倭人伝に記された数値情報を抜き出すと以下のようになる。

(1).水行し韓国をへて狗邪韓国に至る。7千余里 。
(2).始めて一海を渡る千余里。対馬国に至る。方4百里可。千戸余。
(3).南、一海を渡る千余里。一大国に至る。方3百里可。戸数3千許。
(4).又一海を渡る千余里。末盧国に至る。4千余戸。
(5). 東南、陸行5百里。伊都国に到る。千余戸。
(6).東南、奴国に至る。百里。2万余戸。
(7).東行、不弥国に至る。百里。千余戸
(8).南、投馬国に至る。水行20日。5万余戸。
(9).南、邪馬台国に至る。水行10日、陸行1月。7万余戸。

http://inoues.net/yamahonpen11.html
(抜粋です。)


阿比留さん 対馬の高3全員に民話集

 対馬市の民話を掘り起こして収録した同市出身の阿比留敏洋さん(60)(福岡市城南区)の自費出版本が12日、市内の高校3年生全員に贈られた。対馬では高校卒業後に島を離れる生徒が多く、阿比留さんは「古里を忘れずに新天地で頑張ってほしい」とのエールを本に込めた。(島居義人)

 元郵便局員の阿比留さんは、古里の民話が消えつつあるとの危機感を募らせ、百貨店でのアルバイトの合間を縫って帰郷。約7年間に100人以上から聞き取りを行い、昨年10月、21話を収録した民話集「対馬むかーしむかし」(A4判、44ページ)を自費出版した。

 対馬市には対馬、上対馬、豊玉の3高校があり、贈られたのは3年生全員分の260冊。このうち46冊は、阿比留さんの知人で同市出身の看護師上田たかこさん(67)(福岡県古賀市)が、母校の上対馬高向けに購入し、用意した。

 贈呈式は対馬高の校長室で行われ、3校を代表して受け取った対馬高の安江一勢さん(18)は「自分の子どもたちにも島の民話、歴史を伝えていきます」とお礼の言葉を述べた。安部成年校長も「郷土愛を高めるのに最適な本。本当にありがたい」と感謝した。

(2013年1月13日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagasaki/news/20130112-OYT8T01106.htm



対馬に隕石落下の跡?
 写真ニュース (2013年3月1日更新)
長崎新聞

写真
大昔に隕石が落ちてできたとされる「星池」と池を紹介する地元ケーブルテレビの取材班=対馬市厳原町阿連

 世界中を驚かせたロシア南部チェリャビンスク州の隕石(いんせき)落下。対馬市厳原町阿連地区にも昔、隕石が落ちてできたとされる水たまり「星池」があり、にわかに関心が高まっている。周辺には隠れた名所も多く、対馬観光物産協会は旅行者の呼び水にできないか模索している。

 「ロシアが話題になっていますが、実は阿連にも隕石が落ちた池があるんです」。2月28日、同地区北部の海岸近くの丘の上で地元ケーブルテレビ「対馬市CATV」の女性リポーターが、眼下に広がる直径20メートルほどの「星池」を紹介。近く放送する番組の撮影をした。

 同協会によると、星池は江戸時代の地誌「津島紀事」に登場。村の長老が「昔、星が落ち、その土地が池となった」と証言している。一時は周辺を石垣で囲い水田として使ったが、その後、土地がくぼみ、水がたまった状態になったという。こうした伝説は地域住民の間で今も語り継がれている。

 阿連は日本の原風景が広がる半農半漁の集落。南の海岸には隣の集落に移動するため手作業で掘ったトンネル「洞門」や、遣唐使として大陸へ渡った最澄が帰路で立ち寄ったと伝えられる記念碑、日本最古の銀山跡とされる「古代坑」など独特の歴史を物語る遺構が残っている。

 一方、対馬南部を訪れる観光客の大半は交通の便がいい東側だけを見て回り、西側の阿連地区にはあまり足を運ばない。同協会の西護事務局長は、星池への注目が高まっていることを機に、周辺の散策マップを新たに作製。「世界的ニュースに便乗し、阿連全体の歴史と伝説の奥深さを知ってもらいたい」と話している。
http://www.nagasaki-np.co.jp/news/photonews/2013/03/01030735009775.shtml
◆6.ロシア軍艦対馬占領事件
1861年3月14日(文久元年2月3日)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリュリョーフは軍艦「ポサドニック」号に座乗し対馬島尾崎浦に投錨し、その後、浅茅湾内に進航し、芋崎を占拠した。さらに、兵舎・工場・練兵場などを設置して半年余にわたって淹留した。

の追加情報です。

【村垣淡路守範正の墓】
墓は本堂の真裏にあり、正面に村垣家の墓があってその右側に建っています。村垣家は庭番(将軍直属のスパイ)の家柄。天保12年(1831)新規召出で小十人格庭番となり、安政元年(1854)海防掛并松前蝦夷地掛となり北蝦夷地を視察します。万延元年(1860)日米修好通商条約の批准書交換のため副使として正使新見正興らと渡米、世界を一周して帰国。文久元年(1861)露艦ポサドニックの対馬占領事件では退去を求め、在箱館露国領事ゴシケヴィチと交渉解決。明治元年(1868)病のため隠居。明治13年3月15日没。
http://www.tesshow.jp/chiyoda/temple_kojimachi_shinpo.html

◆10.天照大神


神無月
概要
「神無月」の語源に明確な語源があるわけではない。

「10月 」を参照

しかし、一番有力な説が神無月の「無・な」が「の」にあたる連体助詞「な」で「神の月」とする事である。また、出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなると言われるのは、後付けの中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた俗説とされる。また留守神という性格を持つ神も存在し、すべての神が出雲に出向くわけではない[1]。

なお、御師の活動がなかった沖縄県においても、旧暦10月にはどの土地でも行事や祭りを行わないため、神のいない月として「飽果十月」と呼ばれる[2]。

神無月にまつわる諸説

出雲に行くのは大国主神系の国津神だけであるという説や、天照大神を始めとする天津神も出雲に行くという説もあり、この考えと一致するような、「出雲に出向きはするが、対馬の天照神社の天照大神は、神無月に出雲に参集する諸神の最後に参上し、最初に退出する」と言う伝承もある。
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=%E7%A5%9E%E7%84%A1%E6%9C%88&source=web&cd=1&cad=rja&ved=0CC4QFjAA&url=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%25A5%259E%25E7%2584%25A1%25E6%259C%2588&ei=TkFfUaT9DYSciAeBwIBY&usg=AFQjCNFCpcT2JUeVoK3ZGDsQX0Bn3ABd-w&bvm=bv.44770516,d.aGc


対馬国アマテル

http://m.youtube.com/watch?v=lh-lBWDbLx4
トピの説明の

 ◆8.オソロシドコロ

の関連です。

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対馬のアジール。島の南北(佐護・豆酘)の天道山に罪人が逃げても捕えない。天道山は天童信仰の聖地で、豆酘の天道山には八町角というピラミッド状の石積みの塔のある聖地があり、祭祀が営まれた。八町角周辺を卒土(そと)といい、卒土は古代朝鮮の蘇塗と同義とされ、鬼神を祭る場のこと、逃げたものを還らすことはできないとされた。
http://m.blogs.yahoo.co.jp/yuuutunarutouha/31290482.html

【天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ) 】


トピの説明の

 ◆3.海幸彦・山幸彦物語 和田都神社
<海幸彦・山幸彦物語>

の関連です。


対馬は
天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)
なんだそうで、

島大國魂神社

に祀ってあるそうです。

@@@@


伊邪那岐神と伊邪那美神
二神の国産み

次に壱岐島を生んだ。
又の名を天比登都柱(アメヒトツハシラ) という。
次に対馬を生んだ。
又の名を天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ) という。

http://yaoyorozu.main.jp/01J/story/0202.html
(抜粋です。)


天之狭手依比売
あめのさでよりひめ

伊邪那岐神・伊邪那美神の夫婦神が生んだ国土の神の一つ。津島(対馬)の別名。

天之狭手依比売 を祀る神社
(玄松子が参拝した神社のみ)

島大國魂神社
國本神社
那祖師神社
敷島神社
都々智神社
http://www.genbu.net/saijin/sadeyori.htm


島大國魂神社
しまおおくにたまじんじゃ
長崎県対馬市上対馬町豊409

長崎県対馬市にある。

対馬北端にある豊漁港から、海岸岩場を数百m辿った場所。

地図で確認すると、白水山までの道が無いので、豊の港で話を聞いた。海岸線の岩場を歩くのだが、距離は1Km近くあるかもしれない。所々岩を飛び越えて歩いたが、満潮・干潮など、潮の状態によっては危険だったかもしれない、と港に戻ってから気付いた。

社殿等はなく、白水山と呼ばれる丘の下に石碑があるだけ。

創祀年代は不詳。

式内社・嶋大國魂神社の論社。対馬の北端にあり、島首大明神・嶋頭大明神とも称した古社。

素盞嗚尊が御子神・五十猛命とともに韓地・曾尺茂梨の地へ渡った時の、行宮の跡。神籬磐境の古制に従って白水山に人が入ることを禁じられており、海辺に遥拝所を設けている。

古くから、豊には、当社・嶋頭大明神、若宮大明神、豊港にある那祖師大明神の三社が祀られており三社合わせて、嶋大國魂神社とする資料もある。

また、『大小神社帳』には「豊島首神社。祭神天日神命。右者官社舊號大嶋神社」とあり当社を式内社・大嶋神社と見る資料もある。

現在、当社祭神は、那祖師神社に若宮と供に合祀されている。

地元の方の話では、白水山の上には何も残っていないらしい。

白水山の麓から先へ続く浜は、通称「不通浜(とおらずのはま)」。石碑の案内では、神功皇后が祀った場所であり、禁足地となっているようだ。


 豊漁港から、磯(岩場)沿いに歩いていくと、「不通浜(とおらずのはま)」がある。その浜を通ると、「シケになる」とか「腹痛になる」という伝説があり、地元の者は絶対に通らない。昔、禁を破った兵隊が戦地へ向う船の中で腹を壊して死んだ。
 不通浜に白水山という丘が有り、そこが「島大國魂神社」。ただし、今は何も無い。その白水山からは、白い水が流れるという。石灰か粘土かの山で、雨水が白く濁るということ。
 今は、不通浜手前に、石碑があるのみ。現在、「島大國魂神社」は、「若宮神社」とともに、豊漁港にある那祖師神社に合祀されている。
http://www.genbu.net/data/tusima/simaookunitama_title.htm
(リンク先に写真たくさんあり)



コメント25「三韓征伐」のからみです。

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カテゴリ:神功皇后(息長帯比賣命)
http://himeluna.exblog.jp/i8/

【日本最古の寺?梅林寺】

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 7(梅林寺)
2010/10/03 14:44

 梅林寺(美津島町小船越)は、国道382号線沿いの坂を少し上った処にある。その382号線の200m先を右に入った一帯が鴨居瀬地区になるので、先に紹介した住吉神社に行く途中に訪ねるとよい。
http://hero1945.livedoor.biz/archives/50510971.html
(リンク先で見て下さい)
【明治維新は対馬から始まった?】

◆6.ロシア軍艦対馬占領事件

の関連です。

他人のブログから記事抜粋すると明治維新は対馬から始まったように見えます。

@@@@

対馬占領事件の時系列整理 「勝海舟と幕末外交」
テーマ:歴史/歴史⇔現代

1859年5月
・イギリス軍艦勝海舟アクティオン号、対馬で測量
1859年9月
・井伊直弼、ロシア海軍士官惨殺関係者を処刑(安政の大獄)
・幕府が樺太をロシアに譲渡したとの噂流れる

1860年2月
(ロシア)
・ロシア漢文通訳官ゴシケーヴィチ、アクティオン号の対馬測量をロシア外交省アジア局長に報告
・ゴシケーヴィチ、幕府に対馬に砲台をおいてイギリスを排除することを提案

(イギリス)
・オールコック、イギリス外務大臣に対馬占領策を上申

(日本)
・遣米使節団、アメリカに向けて出港
(勝海舟もアメリカへ)

・ロシア極東艦隊司令官リハチョフ、海軍省宛に函館、対馬がイギリスに押さえられる懸念を報告

1860年3月
・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)

1860年7月
・ロシア海軍総裁コンスタンチン大公、ロシア極東艦隊司令官リハチョフに、対馬占領を指令

1860年10月
・フランス、朝鮮半島攻撃のため、対馬租借を幕府に申し入れる

1861年3月
・ロシア極東艦隊ポサドニック号(船長ビリリョフ)、対馬に到着。対馬占領に着手

・函館ロシア領事館ゴシケーヴィチ、江戸に入り、幕府に対馬浅茅湾のロシア基地化を提案(基地が許されれば全島占領はしない)

・アメリカ、南北戦争勃発

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(前のコメントから)

1861年4月
・シーボルト、幕府の外交顧問に推挙され、江戸に向かう
・ロシア極東艦隊司令官リハチョフ、対馬を訪問。ポサドニック号船長ビリリョフに占領加速を指示

1861年6月
・イギリス東洋艦隊アクティオン号、対馬でロシア軍艦を発見

・外国奉行・小栗忠順、対馬到着。ポサドニック号船長ビリリョフと交渉

1861年6月21日、ゴシケーヴィチ、英仏の手に対馬が渡るならば、ロシアは断固としてこれを排除すると幕府に宣言

1861年6月27日、小栗忠順、江戸に戻り、外国奉行を罷免される

1861年8月
・13日、イギリス東洋艦隊司令官ホープ提督、江戸に到着

・14日、老中・安藤信正、江戸で、イギリス東洋艦隊司令官ホープ提督、第一書記官オリファントと会談

・28日、イギリス東洋艦隊エンカウンター号、リンドーブ号、対馬に到着

1861年9月
・ロシア極東艦隊ポサドニック号、対馬から退去
http://s.ameblo.jp/hamikara/entry-11989324907.html
(記事抜粋です)


日本の近代化構想の実現に奔走した、明治の父『小栗忠順』
Posted on 2015年3月22日, 7:00 AM

1861年にロシア軍艦対馬占領事件が起こった際、事件の処理に当たるも、幕府の対処に対して限界を感じ、江戸に戻って老中に自身の意見を提言する
また1862年には、勘定奉行に就任し幕府の財政立て直しに尽力しました。その間、駐日フランス公使と交際し、製鉄所についての具体的な提案を練り上げた小栗は1863年、幕府に対し製鉄所建設案を提出、幕閣から反対を受けたが、将軍・徳川家茂に認められ1865年11月15日、横須賀製鉄所の建設が開始されました。
小栗は横須賀製鉄所の代表にレオンス・ヴェルニーを任命し、職務分掌や雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記、月給制などの経営学や人事労務管理の基礎を日本に導入しました。
さらに1862年12月に銃砲製造の責任者になると、湯島大小砲鋳立場を幕府直轄の関口製造所に統合し、組織の合理化を図り、またベルギーから弾薬用火薬製造機械を購入して滝野川反射炉の一角に設置することにより日本初の西洋式火薬工場を建設しました。
併せて小栗は更なる軍事力強化を推進し、幕府陸軍をフランスから軍事顧問団を招きフランス式に変更、さらに大砲90門、シャスポー銃10,000丁を含む後装小銃25,000丁、陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵器・装備品をフランスに発注しました。
http://anecdote-of-the-bakumatsu.com/oguridutifully/

 ◆3.海幸彦・山幸彦物語 和田都神社
 ◆4.八幡神社の発祥 『海神神社』
 ◆8.オソロシドコロ
 ◆10.天照大神

の関連です
対馬の神様
2012-02-13 22:49 Trackback(0) コメント(0)


対馬の神様には天神(あまつかみ)と海神(わだつみ)がある。

天も海もアマと読む。水平線が天とも海とも境目がなく茫洋としたとき、海の民は神々の国、また黄泉の国と思い、漂着したものを神と考えた。折口信夫が称した客人(まれびと)信仰である。

客人は経済的、優性学で考えても島の人にとって有難いことで、神がやってきたと考えた。

沖縄のニライカナもそのひとつで、後に山岳からやってくるものは、降臨という考えになった。

海神がさきで、天神はあとだという。

海神は、目の前の海を体験しているので、縄文からあったと思われるが、天神は大陸から伝わってきた天帝という哲学思考なので、弥生に伝わったものと考える。

ということは、天神も海神も同一のもので、対馬の天神は北の天神多久頭魂神社(てんじんたくずたまじんや)、南の多久頭魂神社(たくずだまじんじゃ)で対をなし、海神は東の和多都美神社、西の海神神社などがある。

対馬の天道


天道とは太陽信仰のことで、対馬にはアマテルで日神、壱岐にはツクヨミで月神がいるといわれる。

太陽を祀ることは世界中にあり、原始宗教共通のものである。

天道地とは、不入の聖地のことで、自然が守られ今では原生林になっている。

そして母神と童神二神を祀る母子神信仰は、三韓征伐で九州に縁のある神功皇后=息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)と応神天皇=誉田別尊(ほむたわけのみこと)の母子の祭神につながり、九州にキリシタンが多いのは母子信仰に抵抗がなく、聖母マリアとイエスを受け入れやすかったとも考えられる。

天童と天道


天童は神話の時代、天道は仏教が入ってきてからの呼び名である。

少童命をわだつみのみことと読む。
なぜ、童、子供を表すのか。大昔、海の神は童形(どうぎょう)で表す原始信仰があった。

子供は生まれて死ぬまでの一生を輪にすれば、最も死に近い位置にあることから、神聖なもの、霊に近い者とみると何かの本で読んだことがある。

この考えが一寸法師、かぐや姫など、小さい子供の霊的な話が作られたという。

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天道法師の伝説

高句麗王朝の始祖・朱蒙(ちゅもん)の生誕伝説のように、神気に感精して懐妊するという北方系の「日光感精型神話」が、対馬に天道法師の神話を伝えさせたと思われる。

天道法師とは、豆酘(つつ)郡内院村に照日某(てるひなにがし)という者がいて、その娘が生まれた。

天武天皇の時代、娘は日の光に感じ懐妊した。その子が天道法師である。

他に、宮中の女院が懐妊し、密通の疑いでうつろ舟にのせられ、漂着したのが豆酘内院の浜であった。

そして生まれた子が天道法師だという話もある。

いずれもその子は聡明な子に育ち、9歳で都に出て、巫祝(ぶしゅくー神の言葉を伝えること)の術を得た。

そして帰郷して718霊亀2年、元正天皇が病に倒れた時、陰陽師の占いで「天道法師を呼んで、祈らせよ」と託宣がでた。この時33歳の天道法師は空中を飛んで、都に向かい見事天皇の病気は癒えたという。

*修験道の祖、役小角(えんのおづぬ)が空中飛行をしたという伝説があるが、小角は701年64歳で亡くなっている。

694年に天道法師は都に出ていることになるが、関係があったのだろうか。

空中飛行の話は実際のところ、弟子たちがあちこちに布教したため、役小角が超人的にあちこち移動したことになり、空中飛行伝説が生まれたといわれている。

病気平癒の褒美に対馬の税を免除し、天道法師の神域(龍良山)に罪人が逃げ込んだ場合、追捕しない約束をしたという。

これについて、対馬と朝廷が関係していることは、白村江の敗戦以来新羅外交に朝廷が苦心していたこと、天武、持統朝の交易にすでに対馬が絡んでいること、また、海の民の能力が必要とされていたことがある。

天武、持統朝の交易は遣新羅使のことで、この往来で天然痘が国内に流入したとも、日本から遣新羅使により、流入したともいわれているが、天然痘発生は後に奈良の大仏建立のきっかけのひとつといわれる。


天武時代に天道法師はいたのか!?


ところが、天道法師の出現は実はもっと以前で、仏教が伝えられる前から天道信仰はあったのではないか。
山を神体とする自然信仰で、全国の神社の原点である。

今ある神社の前に祖霊神と祀られていたのだ。対馬の祖霊=わだつみ=天道神=日の神だと思われる。

結局昔からあった対馬の祖と仏教を結びつけて対馬を朝廷寄りに抱き込むことが目的だったのではないか。

674年対馬は朝廷に全国はじめての国内産銀を献上している。

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天道山

神の山で、航海の目印にもなる山であった。

鹿児島県野間岬の野間岳、長崎県野母崎の権現山、海の女神を祀る。

娘媽神女であるニャンマとかニャンニャン、ロウマともいう。

媽祖(まそ)は、航海、漁業の神で、台湾、福健省など華南地方海岸一帯で信仰されている。

「娘媽神」「媽祖」「天妃」「天后」などいろいろな呼び方がある。ロウマが訛って野間になったといわれる。

 つまり海の民の象徴である。東シナ海など行き来する海洋民族で海の民(蜑民タンミン)を治めていた海洋民族は、地元に派手な媽閣廟(マーコウミウとマカオでは読み、マカオの語源)を構え、船の舳先に娘媽神を飾って船出していく。横浜中華街にも媽祖(まーそ)は祀られている。

日本神話の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日本に上陸したとき、本当に天から降りるわけがないのだから、海からやってきた海の民ではなかったかと思う。

闇の日本史:沢史生氏は、妻の阿多都比売(あたつひめ)=木花開耶姫 (このはなさくやひめ)は大山祇命(おおやまつみのみこと)が父で、その父は地の神、海の神といわれる。

海の民だった瓊瓊杵尊が日本に上陸し、娘媽が海の神の娘、木花開耶姫に変化していったのではないかという。

参考:HP 玄松子の記帳 対馬観光物産協会 ウイキぺディア
   海童と天童・海神と天神:永留久恵  闇の日本史:沢史生  密教の本:学研  
   街道をゆく:司馬遼太郎 
http://rekisisuki.exblog.jp/17797096/
(リンク先には写真があります)
トピの説明の
 ◆2.陶山訥庵の猪退治

です。

詳しくのがありました。

@@@@

イノシシに恨みを買った対馬の聖人
陶山訥庵(すやまとつあん)
(1657年〜1732年6月14日)75才。対馬の聖人と呼ばれた対馬藩の農業大臣。財政再建が急務であり、そのために自給自足を目指した農地改革を行ったのですが、せっかくの農作物を、人が食べる前に食べるのがイノシシ&シカ。憎きイノシシを撲滅することが、限られた対馬における農業で自立する手段ということで、シシ退治をした人で有名。

1657年(明暦3年)に、儒医の陶山玄育の長子として誕生、名前を存(ながろう)、幼名を五一郎、そして庄右衛門といって、訥庵は号、そのほかに、鈍翁、西丘老人、海隅小生(かいぐうしょうせい)ともいったそうです。11才の時に江戸に出て、木下順庵の下で、勉強、17才の時に対馬に戻って、1680年(延宝8年)に父親の隠居によって跡を継いだ。

1690年(元禄3年)に病弱ということで、家業の医者をやめて、1699年(元禄12年)に農業大臣にあたる郡奉行に就任。同役の平田類右衛門と一緒に、翌年からイノシシ狩り。殲猪令(せんちょれい)を出し、冬から春にかけての農閑期に、島内の農民を総動員して、シシ狩りを島を9分割し、境界を土の壁、さらに仕切垣を作って、イノシシとシカを追いつめ、鉄砲でズドン。1年に一区画ということで、9年かけて8万頭あまりのイノシシを撲滅したんです。そして、イノシシの居ないところで安心して農業が出来るように、農民すべてに農地を再分配、農地改革を行ったのです。
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すると、イノシシに襲われていたために収穫が芳しくなかったのに、敵がいないから収益アップ。焼畑を行うとき、イノシシが畑に入ってこないように柵を作るのですが、イノシシの攻撃に耐えられるような太さになるまで、栽培したあと十分な休閑期間を取っていたんです。イノシシが居ないので、休閑期間を短縮。すると、耕作期間が長くなり、地力の低下で収量ダウン、森が減ったので、雨が降ると洪水、土砂崩れ等々、イノシシが居なくなってから20年後には、最悪の事態に命に危機が。

イノシシが、森を維持するためのフタみたいな役割を担っていたのに、フタが取れたというか、農民のやりたい放題で、逆に窮地に。そこで、焼畑をやめろと「木庭作停止論」を出したのです。すでに引退はしていたのですが、農業振興のために、いろいろ本を出したりしていました。1715年には島になかったサツマイモを導入したり、農業指導をしていたと。根底には、自給自足の必要性を感じていたからだといわれています。

開発と安定した生活。そのためには過度な焼畑を押さえなければならなかったのです。イノシシが居なくなっては、人間の理性が森を守る唯一の手段なのです。農民の反対を押し切り、耳を傾けつつも、己の信じる森の再生に向けて実行したのです。

この人のすごいところ、だから聖人なんでしょうが、反対者の意見までちゃんと耳を傾けたのです。もちろん採用はしなかったでしょうけど。それらの意見の集約が1729年(享保14年)に、木庭作停止の指示に対する反対意見、賛成意見、そして自分の見解を加えて「木庭停止論」を著したのです。

http://www.kikori.org/nippon/nagasaki/province-02.htm

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