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-日本人の誇り-コミュの日本語の神秘

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■大和魂とは「軍国教育」の産物なのか

サムライ精神や大和魂などというと、正々堂々とフェアな精神で事に望み、「継続は力なり」と言われるような「忍耐」や「修行」を尊び怠ることを律した意味合いや、武士道など「道」の精神を表現する場合に使われるなど、日本人の精神的アイデンティティーを維持する上で、今でも重要な「言葉」である。しかし、一方では、過去の歴史において旧日本軍が「軍国教育」と言われる教育手法で用いた「精神論」で「忌むべきもの」と見なされる事も多い。

終戦当時、合理的な経済感で発展してきた、アメリカを筆頭とする「連合国」は、日本の文化や技術の発達、また、戦争末期における「軍国教育の無茶ぶり」が全く理解できず、そして、その異様なまでの強固さを目の当たりにした。そして、それらを生み出す精神論であろう「武士道」や「大和魂」なるもを「大きな脅威」と感じた。そこで、連合国側はこれらを生み出しているであろう「教育勅語」や、崇拝対象である「天皇」を反日プロパガンダに使用し、徹底的な炊書を敢行し、日本人の心の中から「武士道」と「大和魂」なるものを排除し、修行や鍛錬による喜びよりも、他の植民地同様、怠惰で与えられる喜びを感じるような国民にするための「愚民化政策」が実施された。


■日本人の精神論と戦後教育

終戦後GHQにより、日本を美化した書物や精神論、躾や精神教育に関するもの、不利と思われる他国に関する調査書等々のことごくを「焚書」により消失し、学校の教職員はすべて共産主義系人間に入れ替わった。

そこでの教育は、これまでの「天皇」を中心とする「立憲君主制」を強烈に批判し、あたかも「独裁政治」であり「鬼畜蛮行」が平然と行われていたかのような「刷り込み教育」と、これまでの教えは「軍国主義」を助長するものであり、忌むべき教育方法である。と、これまでの教育を全否定することから始まった。

本来であれば、そのような教育を受け続け60数年を経過した現在、戦前に行われていた武士道から始まる精神論や、大和魂に繋がる精神教育を非常に嫌悪し憎んでいても不思議ではないはずである。

しかし、現実は少し違うのである。

最近の若者の多くは、「戦前の日本は鬼畜蛮行を繰り返した『日帝』であり、忌まわしい過去がある。」と、思い込んでいるし、また、小学校からそのような刷り込み教育を受けてきた。にも拘わらず、戦前の精神教育の要である「武士道精神」を象徴する「サムライスピリッツ」やら「大和魂」なるものを心のよりどころにし、自己のアイデンティティーをこの辺に求めようとする向きが非常に多い。

日本人が昔から培ってきた「美徳感覚」や「精神論」は、生理的に非常に受け入れやすく馴染みやすい。あたかも、本来それが「正しい日本人のありかた」のようななじみ易さがある。正義感、フェアプレー精神、礼儀、慈愛心、忍耐力、精神力、控え目などが連想される。なぜ馴染みやすいか理由はわからない。しかし、日本人はその中に人としての「美徳」や「かっこよさ」を感じてしまうのだ。


■日本語の謎

日本語は漢字を使うことから「中国」が起源と思う人もいるかも知れないが、中国語と日本語は言語族から言うと、全くと言って良いほど関係が薄い。敢えて関係があるとすれば、日本語の「音読み」が中国漢字の発音とほぼ同じである。発音が同じであることから「音読み」と言うようになった。

例えば「勇」という漢字を、中国では「ユウ」と読む。これは日本語の「音読み」と同じで、訓読みでは「いさま」しい(送り仮名)などと、「送り仮名」がついて意味を表す。この「イサマしい」などという発音は、中国語では全く意味が通用しない。この読み方は一体どこから来たのだろうか?

以下の文は、言語学者「安本美典博士による計量言語学の研究」から抜粋したものである。
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安本美典博士による計量言語学の研究によれば(『日本語と日本語の起源』[1991] 毎日新聞社、『新・朝鮮語で万葉集は解読できない』[1991]JICC出版局などを参照)、首里語(琉球方言)は日本語に近く、孤立語の日本語からするとほとんど方言にすぎない。しかし、日本語と韓国語はかなり異なる。文法以外に類縁性を見いだせないほど離れている。韓国語と日本語より、日本語とアイヌ語の方が近い。

上古日本語(奈良時代ぐらいの近畿方言だと考えて良い)と現在日本語(東京方言)も、首里方言ぐらいの差しかない。古代朝鮮語はほとんど分かっていないため、高麗朝の中期朝鮮語と現代朝鮮語を比べても余り変わらない。言語は時間に対して頑健なのである。
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ここでは解説しないが、日本語は「アルタイ語族系」に属しているらしいのだが、それでも類似する言語がほとんど無く、言語の孤島とも言われている。上記説明のように、敢えて言うなら他の言語より「アイヌ語」のほうがより近いという結果が出ている。しかし、これは日本語の起源を示唆するものではなく、日本語がどこからやって来たのかは、まったく分かっていない。謎の言語を使う謎の人種なのである。

日本語の起源は「韓国語」という絵空ごとを言う「たわけ者」など、相手にするのも馬鹿らしい。

さて、わたしが次に注目したのは、日本語の「音読み」と「訓読み」の使い分けである。
日本語は、他の言語と異なり、3種類の表記方法、2種類の発音方法を適宜使い分けなければならない。

筆記文字では、?カタカナ ?ひらがな ?漢字  発音では、?訓読み ?音読み
また、実際に使用する場合はこれらに加えて ?謙譲語 ?丁寧語 など、日本特有の言い回しや言葉遣いなどが存在する。これに「熟語」や「造語」、「同音意義語」などが加わり、さらに複雑なことになっている。

日本人は、このように数種類の表記方法と発音方法、いく種類かの表現方法を匠に操ってコミュニケーションを実現するという、他の人種では考えられない、たぐいまれな複雑怪奇な人種なのである。

しかし、この「複雑怪奇」が「武士道」や「大和魂」を生み出したのではないか?と、考える。


■「脳」と日本語

ここからは言語学と人間の「脳」つまり「脳科学」に関連する話題です。

人間は言語を解釈するとき、通常は主に左脳を使用しています。しかし、上記で説明したように、日本語は他の言語と違い、大変複雑な組み合わせを使用するため、他の人種より複雑に脳を使用していると言える。

文字として認識する場合、日本語は「漢字」が多いため「象形文字」として認識するため、右脳が活性化されます。しかし、カタカナやひらがなは、1文字では意味のない欧米の言語と同じように言語中枢が働くために左脳が活性化されます。さらに、「同音異義語」など発音は同じでも意味が全く違う場合があるので、脈絡や文脈によって正しい意味を成す言葉や文字に置き換える「推察」を日常的に行わなければならない。

つまり、「言語=左脳」としての日本語と「象形文字(形)=右脳」としての日本語を、更に「推察=左脳」して理解しなければならない。という事を、日本人は常時、交互(状況に合わせて瞬時に判断する=右脳)におこなっており、日本語を使うこと自体、常に脳が活発に働いていることを意味している。

とくに、日本語には非常に多くの「同音意義語」が存在するために、文脈の前後から常に「次に来る文」を推察しており、他の人種には見られないほど論理中枢(左脳)が働いている。

日本人が比較的「数学」に強いのも、こう言ったことが原因なのかも知れない。さらに、形を判別したり、言語の意味を瞬時に判断しなければならないため、より多く右脳が働かなくてはならない。日本人は生まれてから死ぬまで、無意識のうちに、常にこう言った脳の使い方をしている。


■「大和魂」という言葉はいつ、どのようにして産まれたのか?

わたし的には、調べるつもりも無ければ、興味も無い。この言葉がいつ何処で生まれたかを知ってたところで、大した意味をなさない。ただ、こういった「武士道精神」や「大和魂」といったものは、軍国教育によってではなく、実は、日本語に隠された、言わば「言霊」のようなものであると考えられる。

これは先日聞いた話。

先の北京オリンピック、サーッカー・ワールドカップ、日本が優勝したWBC。この観客席において、日本人と他の人種との大きな違いが非常に際立っていたと言う。

一体、なにが違っていたのか? それは「声援」だった。

日本人の観客は対戦選手がファインプレーをした時、対戦相手であるにも拘わらず、大きな拍手と声援を贈るのだ。それに対して他国の観客は、日本人選手がファインプレーをすると、あからさまなブーイングと嫌悪感を示すのだそうだ。その光景を見るにつけ、ブーイングを繰り出す観客に対してよりも、声援を贈る自国民を見て「誇り」に思える。と語った。

日本人選手、観客、それを見る日本人の観察者。全てにおいて、信じがたいほど見事なまでの「フェアプレー精神」だ。

先に説明したように、日本語は非常に複雑であり「全体のバランス」や「美的感覚」、「瞬間的な判断(ひらめき等)」を得意とする右脳を良く使う言語である。それと同時に「丁寧語」や「謙譲語」、「同音異義語」を多用するため、常時、論理的な推論を余儀なくされるため、左脳はより多く使われる。

社会や人間としての善悪、正しい「人」としてのありかた。などのような「バランス感覚」は、「しつけ」や「武士道」に通じるものであり、他の言語を使いう人種より数段優れている。

さらに、人としての行き方の中に「粋」、「酔狂」、「わび」、「さび」や、生活の中では、和食に見られる「色」「形」「盛り付け」「食器」「工芸」などの美的感覚も日本文化の特徴である。

また、これらの考えが「論理矛盾」していないか?常に「無意識」のうちに思え、修正を加える。

人間が創造するものは全て「万物の模倣」からすスタートしているが、日本人が模倣するものは、やがて「あるひらめき」によって、違うもの、もしくは一段階上のものへと昇華する。

更にさらに、相手を敬い尊ぶ「謙譲語」や「丁寧語」は、日本語を使う日本人の全てが使う言葉である。この言葉は「武士道」や「ファインプレー精神」を生み出している。これは、戦う戦士や選手だけのものでは無い。前述したように「観客」「選手」「傍観者」全てに共通する意識なのである。

以上のように、日本語を使うことによって養われる「思考回路」が、驚くべき事にそのまま日本特有の「文化」へと繋がっている。

このように、「武士道」や「大和魂」と言われるものは、実は「日本語」に宿る「力」を文字化、文章化して「具現」させたものであり、我々が日常的に使用している「日本語」には、もともとそれらの精神が宿っていると言わざるを得ない。

学問や知識で「黒」と教えられれば、「そうかも知れない。いや、きっとそうなのだろう」と、理屈では納得できても、生理的にはそれを拒否してしまう。なぜなら、日本語そのものに「それは違う」「間違っている」と感じさせる「力」を持っているからである。

我々日本人の多くが、未だに「武士道精神」やら「和の心」などと言って尊ぶのは、それらが「日本語」の分身であるからに他ならないからだ。


孔子の第75代直系子孫の孔健さんはこう言った。

中国では、孔子の「論語」は単なる古典で、それを学問として学ぼうとするものは誰一人としていない。しかし、戦前の日本では「論語」を学問として取り入れ、学校でも論語を授業で教えていた。日本人の最もすばらしいところでもあり、最も恐ろしいところでもある。

この「論語」が、後に「教育勅語」として昇華したかは定かではないが、その可能性は十分ありえる。


いまこれを書いていて、ふと思ったのだが、最近「謙譲語」や「丁寧語」を書いたり話したりすることを出来ない人が多い。これをきっちり身に着けることによって、犯罪数そのものが減ったりする事はないだろうか?これらの言葉の持つ意味はそう言う事ではないだろうか?と感じたのだが・・

私の言っている事が全て正しいと言っているのではないが、このような解釈や見解もある。という事だ。

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