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摩訶耶寺の庭園を世界に。コミュの其4。師匠になんでも質問コーナー。

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早速立ち上げますわーい(嬉しい顔)

僕のようにドシロウトの者から玄人の方まで庭園に関するあらゆる質問を師匠にぶつけてみようのコーナーですぴかぴか(新しい)

さあどしどしご応募お待ちしてまーすウッシッシ

コメント(16)

ドッピャーーげっそり

行動力の・こうじさん・の面目躍如!

「訊くは一時の恥・訊かざるは末代までの恥」

「知らない事を知りませんと云うのが本当の教養」

なぁ〜んて云う事を云いますから・・

風梵は知らない事は尻満線と云います。
北村荘《5号室》さんへ

ご質問をありがとうございます。
とてもありがたい事です。

と云うのは..
質問と云うのは食べ物で云えば[空腹感]に似ていて
空腹感あればこそ食べたものが身に付くからです。

つまり・・
答え甲斐があると云うものです。

しかも、北村荘《5号室》さんの様な[直感的な素朴な疑問]と云うのは
何かの新しい事を始めた場合には最初だけに限定をされます。
暫く経ちますと出ては来なくなりますから・・

しかしながら・・
素朴な質問の中にこそ大切な要素が含まれていると
私は考えています。

順を追ってお答えを致しますが
お答えは、かなり長くなるかも知れません。

> 数多くいる鳥の中でなぜ『鶴』になったか知りたいです!!

と云う事ですが、これこそが日本庭園を形作っている基本を
知る上での大切な質問だと思いました。

北村荘《5号室》さんの感性は素晴らしいと思いました!

簡単に云いますと

[鶴][亀]の[鶴]だと云う事です。

ところで。。

北村荘《5号室》さんは多分・・
まだココの庭園をご覧になっていませんよね。

実は・・

ご覧頂きますと日本人の中にあります[鶴のイメージ]から
一見して・・

“あぁ〜鶴だ〜!”

と感じてしまうと多分・・思います。

[石]で[鶴]を表現していると云う処が
日本庭園の素晴らしい処でして
[象徴的に表現]をされています。

ですから・・
ご覧になられる方の中に[鶴のイメージ]がありますと
[石で出来た象徴]としてのものをご覧らなられても

“あぁ〜鶴だ〜!”と云う風になる訳です。

日本庭園の中の[鶴]と云う事について
もう少し書きます。

実は・・

日本庭園の1000年を超える歴史の中で庭園の中に
石組(いわぐみ)として表現をされている[鳥]は[鶴]だけです。

どぉ〜してか???

日本庭園の中には、いろいろな考え方が入って来ていますが・・

歴史の最初から[蓬莱思想(ほうらいしそう)]
と云う考え方が取り入れられていました。

これは人間は誰でも長生きをしたいし出来れば死にたくはない。
と云う事からの思想でして一種の[理想郷]としての考え方です。

[蓬莱思想]と云うのは正確に云いますと
[蓬莱神仙思想]とも云われまして古い中国にありました思想なんです。

現実には無い筈なんですが・・
永遠の理想郷としてのイメージだと云えます。

それは・・

不老長寿の仙人が住むとされる場所があるとする考え方です。

そこは一番に高い蓬莱島(ほうらいとう)を中心にして
方丈(ほうじょ)・壷梁(こりょう)・瀛州(えいしゅう)と云う四つの島を
中心に出来ている世界観です。

そこには動物の中で長寿とされている[亀]と[鶴]が居て・・

そう云う科学が無い時代の人間にとっての不老長寿に対しての
憧れる世界だった訳です。

そこで庭園を造る際には、そう云った理想郷を作って
そのイメージの中で[平穏な心持ち]を味わおうとした。

私は、その様に考えています。

そう云う事で日本庭園の中に取り入れられたのは
長生きの象徴としての[鶴]と[亀]だったのです。

ココの庭園の場合には、その中の[鶴]が強調をされている訳ですが
ただ[鶴]を模したのではなく[象徴的]に扱っていまして
それでこそ現実にはなくとも理想郷としてのイメージが出来やすいと云う訳です。

(文字数オーバーの為に次に続きますバッド(下向き矢印))
次に・・

> それから全体はどういった向きになっているんですか?

ということですが・・
[それ]と云うのは[鶴島]の事だと先ずは判断をいたしました。

40年前に私が測量をしました実測図を確認しますと
ほぼ南北の方向に長くなっています。

そして・・
[全体はどういった向きに]と云うのは
[庭園全体の向き]と云う風にも解釈が出来ました。

庭園全体も、ほぼ南北の方角にやや長めに
東西に少し幅が狭くなっています。

実際には測量図面をご覧戴きますと一目瞭然なのですが・・
もしも、現地でご一緒できます折には図面をお持ちします。

次に・・

> なぜその場所なんですか?

このご質問は専門家にとっても
作庭(庭を造る事)年代の考証をする際に大切な疑問です。

[鶴島]がなぜ?その場所かと云いますと・・
この庭園を眺める場合の建物の位置を特定する際のポイントだからです。

建物の種類と位置によって
コノ庭園の造られました時代が特定し易くなったりもします。

鎌倉時代から始まった庭園観賞の方法なのですが
コノ庭園は[座視観賞式(ざしかんしょうしき)]と云う風に云います。

平安時代の寝殿造り(しんでんづくり)と云う建物から
鎌倉時代になりますと
武家書院作り(ぶけしょいんづくり)と云う建物に変化をして来ています。

それにともないまして庭園も座敷に座って眺める形式に
なって来まして、ココの庭園は一つの方向から眺める様に
作られていますので[座視観賞式庭園]と云う訳なんです。

そうなりますと最も景色のよい場所に理想郷を象徴する
[鶴島(つるじま)]を配することは作者の必然であったであろう・・
と云う風に私は考えています。

次に・・

> 使用している岩?はどこから運ばれてきたんですか?

はい。コレに関しては確実には分かっていませんが
近くの山の石であろうと推定が可能です。

と云いますのは・・

石で角が取れて一番に丸い石は[川の石]です。
ゴロゴロと流れて転がる事で角が取れるからです。

次に角が無いのは[海の石]です。

そして・・
最も[角が有る石]は[山の石]です。

ココの石は[角のある山石]なんです。

ところで。。

昔は今の様に重いものを遠くまで運ぶ重機が発達をしていませんでしたから
重い石を運ぶのは大変だったと思います。
ココの石でも大きなモノは2〜3トンほどもあります。
従いまして
古い庭園を調べますと大抵は、その土地の近くの石を使っています。

ですから同じ作者が作ったと分かっている庭園の場合でも
場所が変わりまして石の質が全く変わりますと出来上がった趣きも
随分と変わって来ます。

実は・・
ココの庭園の東側(写真を撮っている場所あたり)の汀(みぎわ※)には
川の石が使われていますが、これは後から足したものと推定が可能なんです。

※ 汀=水際(みずぎわ)のこと。

こう云う風に石の質の違いなどに気が付く事によって
その庭園に手が加えられている事が分かるわけです。

ですから・・
北村荘《5号室》さんの疑問は
素晴らしい着眼点だと感銘を受けました。

と云う事で。。


何か気が付かれましたら又、ご質問を下さい。

古来に・・

[教うるは学ぶに半ば]

と云う言葉があります。

私の考え方ですが・・
人に何かを教える事は出来ないと思っていますので

これをもじりますと

[答うるは学ぶに半ば]

だと思いました。

自分の中で40年間も眠っていた情報が
ご質問を頂いたことで随分と目覚めました。

ありがとうございました。m(_"_)m

(携帯でお読み戴いている方・長文で・スミマセン&ゴメンナサイ・m(_"_)m)
むかっ(怒り)北村荘《5号室》さんへ

読んで戴いてありがとうございます。

折を作って・・
是非ともご一緒をしましょう〜手(パー)
 風梵さん!
 誰が誰ですか? (w`;
はい。ご質問をありがとうございます。
懐かしい写真です。

左の写真は我々が最初に調査に摩訶耶寺に入りました時の記念写真です。
大体の草木を撤去した折のものです。

右側の写真は京都林泉協会と日本庭園研究会との
合同調査の折の記念写真です。

が・・

各人のお名前ですが・・

個人情報保護法の関係で・・
直メッセにてお送りをさせて頂きます。
 質問です。

 時折、山中や廃寺の脇などで、庭園らしきモノを見つけることがあります。
 このような場合、大まかでも造られた年代を知ろうとするならば、どこを見て判断すればいいのでしょうか?

 教えていただければ幸いに思います。
 質問です!

 橋添え石は、石橋にのみに使われるものなのでしょうか?
 他の橋〜土橋、木橋等〜にも使われるコトがある物名のでしょうか?
 質問です!

『鯉魚石が退化したものが、水分石だ』 と思っていたのですが、違うのでしょうか?

 また 『鯉魚石』 と 『水分石』 の見分け方と云うか、違いはどこにあるのでしょうか?
ベタ藤原さんへ

極めて熱心なご質問をありがとうございます。
質問が溜まっちゃってまして・・
失礼をば致しちゃいました^_^;

さて・・

> 時折、山中や廃寺の脇などで、庭園らしきモノを見つけることがあります。
 このような場合、大まかでも造られた年代を知ろうとするならば、どこを見て判断すればいいのでしょうか?

これですね!

基本的には各部分の「様式」からのの時代鑑別を致します。

先ずは「池庭」に場合には「汀の線」つまり・・「地割(じわり)」の形で判断が可能です。
このあたりの事に関しては庭園史体系に詳しいですが・・
えぇ〜・・と・・例の「ナントカ庭園ガイドブック」と云う「京都林泉協会発行?」の中に
簡単な時代別の地割図が載っていたと思います。

次に・・

「石組(いわぐみ)」に関してですが・・
主には「三尊石組」の形で判断が可能です。
このあたりの時代様式の研究に関しても重森 三玲 先生の学者としての
偉大なすばらしい処だと私は思っています。
これに関しても大体のものは上記「ガイドブック」の中にあります。

えぇ〜と・・
次は・・

> 橋添え石は、石橋にのみに使われるものなのでしょうか?
 他の橋〜土橋、木橋等〜にも使われるコトがある物名のでしょうか?

はい。ご質問をありがとうございます。
このご質問の着眼点が特にすごいと思いました。
というのは実は・・
私は、今までにこういう着眼点で見ていませんでして
質問を受けまして初めて考えてみました。

従いまして
多分・・と云う答えになりますが・・
現時点での私の考え&手持ちの情報では
【橋添え石は「石組」としての「橋石組」にのみ用いられる名称。】
だと認識をしています。

というのは・・
「橋添え石(※1)」というのは石橋の構造的な点から必要不可欠なものでして
これに関しては実際に施工に従事をしていましたのでイヤと云うほどにわかります。
つまり・・
石橋を両側から守る意味合いが大きいのですが、古庭園の場合には
その際に美的な点にも留意をして組んだと云うのが作庭の実際だと推定可能です。

これに時代的な様式の変遷に関しても「・・ガイドブック」や庭園史体系の中に詳しいです。

えっ〜トトトト・・
最後のご質問ですね!

> 『鯉魚石が退化したものが、水分石だ』 と思っていたのですが、違うのでしょうか?

 また 『鯉魚石』 と 『水分石』 の見分け方と云うか、違いはどこにあるのでしょうか?

はい。おっしゃられる通りに私も認識をしていました。
つまり・・
『鯉魚石が退化したものが、水分石だ』ということですが・・
これを詳しく書いてみますと・・

造形的に「瀑(ばく)※2」の近くにあるのが本来の「鯉魚石」でして
つまり・・「龍門瀑(りゅうもんばく)」としての石組の一部として組まれている場合には
「鯉魚石」だと思います。

その造形的な意味合いが失われまして
単に「形の真似」として「置かれた様な石」の場合には「水分石」と呼べるかと・・
私は、その様に考えています。

つまり・・

龍門瀑の多くは鎌倉時代の庭園に多いですが
水分石の様な形になりますのは江戸時代ころになります。

例えて云いますと・・

古来&本来の「石組(いわぐみ)」が退化をしまして
江戸時代になりまして大名庭園の時代には石組が退化をしまして
一つの石を愛でる様になります。
その結果として生まれてきましたのが「捨石(すていし)」と呼ばれるものです。

この時点では美的な石組の構成美は既に失われてしまっていまして
観ましても「作者の心持がコチラまで来ません(届きません)」。

ということで「石組」が退化をした「捨石」の様な使い方のものが
「水分石」だと云えるかと思います。

これに関しては
重森 三玲 先生の言に拠りますと
「人間が悪くなったんじゃ!」ということです。
私も全くの同感です。

(文字数オーバーですので・・次に続きます)
※1「橋添石」というのは石橋の両側(若しくは片側)にある石ですが
  施工の実際に関しては石橋の下・・つまり・・石橋を支えている下にも
  石を使いますが、これは私的には「橋受石」とも云えるものでして
  重森 三玲 先生の作庭の際には実際に使われました。

  古庭園の研究に関してコノ言葉は未だありませんが構造的な点では
  研究の対象に成り得るものだと私は思っています。
  庭園の観賞と云う観点からは見えませんから意味がありませんが
  特に施工と云う点からは時代が下がりますと「手抜き」がハッキリとしてきますので
  作庭年代の鑑定や修復などの時代鑑別には威力を発揮すると推定可能です。
  これに関しては「発掘調査」などをした経験からも必要だと思っていますが
  いまだに研究対象にはなっていないようでして・・
  このことからも日本庭園の研究が立ち遅れているのを感じます。

※2「瀑」=一般的には滝と言われるものでも「垂直に落ちる形式」のものの名称。
  「滝」=いわゆる滝といわれるもので「水が竜のように落ちる形式」のものの名称。

以上・貴重なるご質問をありがとうございました。
また、宜しくお願いを致します。m(_"_)m
 回答ありがとうございます。

 山中で見つけるような庭園は池泉の地割りがかなり痛んでいたり、三尊石組自体が無かったり、見当たらなかったりするので判別に苦しむ事が多いのですが、概ね江戸中〜末期のものだろうなぁ〜 とは思っています (w`;

 橋添え石の件ですが、1枚目の写真に小石川後楽園の石橋の写真をUPしたのですが、現在架かっている橋の下に橋添え石らしきものがあります。 また、同庭園内には、木橋の脇にも同様な橋添え石らしきものがあるのですが、これは元々の石橋の高さがこの橋添え石の頭が出る地点にあったことを示したり、また元々は石橋であったことを示すものなのでしょうか?
 そこらへんが、ちょっと分からない点だったりします。


>『鯉魚石が退化したものが、水分石だ』
 この疑問が沸いたのが、先日、島根の小川氏庭園に行った時に、現地で所有者の方から 「瀧の前には水分石があり……」 と説明を受け 「そりゃ〜 違うだろう」 と思いながら 「日本庭園史大系」 を見ましても、この庭園の瀧石組の前に立ててある石を 「水分石」 としていたもので、どうなのかと……

 小川氏庭園の瀧石組は 『瀑』 形式であり、瀧前に立つ石も傾斜をしているのですが 『大系』 見ると 「水分石」 なんですよねぇ…… (w`;
藤原さんへ。。

再度のご質問をありがとうございます。

橋添石のことですが・・
小石川後楽園の橋添石に関しては論外だと私は考えています。
桃山期の作庭のものをご覧頂きますと分かりやすいかと思っています。

次に・・

島根県にあります小川氏庭園の瀧石組の「水分石」と云う呼び方についてですが
私の記憶を辿りますと・・
あそこの瀧石組は確かに「瀑形式」にはなっていますが・・
「龍門瀑(りゅうもんばく)」としての意匠ではないと私には認識が出来ます。

多分・・と云うことでの推定ですが・・
重森 三玲 先生も同様の認識ではないのかと・・
従いまして「立っている水分石」と云う認識かと推定可能です。

これも私の推定ですが「真性・龍門瀑」と云う意匠は
鎌倉時代においてこそのもので時代が下りますと
その意匠の意識が薄れて来ていて・・
おおむねは「水分石」として認識できるのかも知れません。

それにしても藤原さんは古庭園を真剣に観ておられると
感心をしてしまいます。

研究的な面で立ち遅れている日本庭園の世界だと
私は思っていますので出来れば研究的な眼でもご覧を頂くと
藤原さんの場合には
更にすばらしい鑑賞眼が養われる方だと思いました。

現実の日本庭園の世界に関しては離れましてから
既に40年近くを経過しています私には
ご質問を頂きますとタイムスリップをいたします。

結果的には・・
内外共に薄くなっている頭が活性化します。
今後とも宜しくお願いを致します。

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