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昭和−ヤヌスの相貌コミュの【文献紹介】昭和天皇

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勉強のはじめは文献の収集と紹介ということで,テーマを決めて,文献を紹介してゆくトピックです。

ここでは昭和時代の要ともいうべき昭和天皇に関する文献を紹介してゆきます。

近時,様々な立場,角度から昭和天皇を論ずる文献の出版が相次いでいます。逝去20年を経て,漸く昭和天皇を歴史上の人物として論ずる機が熟してきたのだろうと思います。

既読,未読を問いません。

最低限,著者名,書名,出版社は挙げてください。

内容の簡単な紹介,感想などを述べていただけると,ありがたいです。

コメント(13)

田中伸尚「ドキュメント昭和天皇 全7巻」(緑風出版)

昭和天皇の戦争責任を問責する立場から,当時の日記等の資料を丹念に読み込みながら戦争時の昭和天皇とこれを取り巻く宮中,重臣グループの言動を克明に明らかにした書。

昭和天皇存命中から刊行され,一読して,それまでの昭和天皇に対するイメージ(立憲君主制を守って政治的発言は極力控え,只,終戦のときだけは「聖断」を下して日本を救った,生物学研究者で非政治的な人物というもの)が一変したことを覚えています。

それ以後,昭和天皇については,良くも悪くも,戦前戦後を通じて,一貫して偉大なる「帝王」としてこの国に君臨し続けた人,戦後も実質的にこの国を統治していた人,という印象を抱くようになりました。
杉浦重剛「倫理御進講草案 上・中・下」(心交会やまと文庫)

「昭和天皇が東宮殿下の時代つまり数え年16歳から21歳まで受けられた「倫理」御進講の全貌。東宮殿下はその後すぐに摂政として国務をみられることになった。やがてわが国の元首,天皇となられるお方に対して,一代の碩学杉浦重剛が,7年間にわたり精魂をかたむけて構築した真の帝王学。いわゆる「至誠の学問」としてわれわれがひとしく仰ぎ銘すべき万般の精神教材の宝庫である」(紹介文より)

戦前の国家主義思想家杉浦重剛による御進講の草案で,昭和天皇がどのような「帝王学」で育てられたかを知ることができます。
戦前日本の公認国家哲学たる国体論が一定の強度を持っていたのは,黒船襲来の国家的危機に際して,それまでの日本が蓄積してきた和漢の東洋的知を総合し,万世一系の天皇を中心として,欧米に対抗するための国家哲学として練り上げられたものだからです。
本書により,こうした戦前の国体論的言説の概要を知ることができます。
ケネス・ルオフ「国民の天皇」(共同通信社)

この書によれば,昭和天皇は戦後になっても,さまざまな政治的発言を続けていたことが明らかにされています。

「寺崎が述べるに天皇は,アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によるとその占領は,アメリカの利益になるし,日本を守ることにもなる。・・・天皇がさらに思うに,アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は,日本に主権を残存させた形で長期の−25年から50年ないしそれ以上の−貸与をするという擬制(フィクション)の上になされるべきである」(本書144頁)

「芦田は内奏という慣習に違和感を抱いていたが,それでも就任当日,天皇に拝謁し,政治状況について説明している。日記には天皇が共産党の勢力増大に懸念を表明したことが記されている」(本書146頁)

「70年代に公開された米国の文書を見れば,昭和天皇が占領後期に至るまで米政府高官と接触していたことが分かる。50年7月,天皇は米国務長官ディーン・アチソンにメッセージを送り,米軍が朝鮮半島に介入したことを感謝している。別の文書では,この年の早い時期に講和条約締結交渉担当の特別大使ジョン・フォスター・ダレスにメッセージを送ったようである。そこには,戦争に関与して政治家や官僚の公職追放を緩和してくれるよう依頼してあった」(本書153頁以下)

「サンフランシスコ講和条約の交渉が進められている期間,吉田茂は定期的に交渉の進捗状況を天皇に報告していた。参内するときは,天皇に渡すために外務省条約局が準備した特別な「説明資料」を抱えていたという」(本書154頁)

「重光の日記には,外相としてしばしば内奏した話が出てくる。55年4月には,少なくとも5回内奏があった。重光日記の次のくだりを読めば,天皇の反共・親米路線は明らかである。55年8月20日,内奏に続いて『陛下より日米協力反共の必要,駐屯軍の撤退は不可なり・・・と命ぜらる』とある」(本書161頁)

「岸は戦前も戦後も閣僚として天皇に内奏した経験を持つが,自分の回想の中で注目すべき発言をしている。新旧両憲法の下での内奏を比較して『陛下の呉態度としては,特別に変りがないように思いますね』と語っている」(本書162頁)

「1964年に首相の座に就いた佐藤栄作は,天皇に最新の政治情報を伝えるよう懸命に努めた。在任期間8年の佐藤の日記には,68年のベトコンのテト攻勢や70年の大阪万国博覧会などさまざまな話題に関し,おびただしい内奏がなされたことが記されている。そして天皇が多くの質問を浴びせるため,内奏は一再ならず長くなったという」(本書163頁以下)

「内奏が公の問題となったのは,田中角栄政権のときが初めてである。73年5月26日,防衛庁長官増原恵吉が内奏を終えて皇居から出てきた。・・・増原長官は拝謁して,明らかに感激していた。記者とのお定まりのやりとりに続き感想を聞かれた増原は,昭和天皇の発言を紹介して記者団を驚かせた。天皇はこう言ったという。『自衛力は,近隣諸国に比べて,そんなに大きいとは思えないのに,新聞などが四次防でずいぶん大きなものを作っていると書いているのはなぜか。国会でなぜ問題になっているのか。国の守りは大事なので,旧軍の悪いところは真似せず,いいところは取り入れて,しっかりやってほしい』」(本書166頁)

「中曽根の靖国参拝は国内からの抗議だけでなく,海外からも非難を招く結果となった。中国や韓国をはじめとしてアジア諸国は,過去の日本の侵略戦争を正当化するかのような行動に抗議し,中曽根は翌年の靖国参拝を中止した・・・それからしばらくして,中曽根は宮内庁長官を通して,靖国問題の処理は「きわめて適切」だったと褒めた天皇の伝言を受取った(本書178頁)

「橋本務は外務省の高官で,天皇にしばしば報告を行った経験を持つが,毎日新聞記者のインタビューを受けた一人である。天皇の様子について,橋本は注意深く言葉を選びながら,こう話している。
中国問題にしろ,ソ連に対しても,非常に重大発言がいっぱいあったけどね。しかし,これは記事にならんどころか,たとえオフレコでも,しゃべってはいかんのだろうね。言えることは,国内問題であれ,外交問題であれ,一つ一つについて陛下には,実に明確なるご自分の意見があったということだな」(本書178頁以下)

以上を見れば,戦後の日本政治は,その大枠において,ほぼ昭和天皇の意見に沿う内容で政策決定がされていたことが分かるでしょう。
後藤致人「昭和天皇と近現代日本」(吉川弘文館)

「日本人の多くが今でも漠然として持っている昭和天皇の戦時期のイメージ,『天皇は何も知らなかったし,決定権もなく,また平和主義であった』というのは,『木戸幸一日記』などを読めば誤りであることはわかる。しかし,それにもかかわらず根強く信じられているのはなぜなのか。それは,『宮中グループ』と海軍穏健派が進めた終戦工作運動とその後に連なる戦後構想,つまり陸軍に戦争責任を押し付けて,天皇をはじめとする保守層を温存させようとした構想と密接に関係しているようである。陸軍独裁説にたてば他の官僚,政党,財界といった保守層の戦争責任はなく,また天皇の戦争責任のなさを説明するときに,『何も知らなかったし,決定権もなかった』という論理はもっとも単純で分かりやすい。冷戦構造が見えはじめたころ,アメリカの占領政策としても日本が共産主義陣営と対峙するためには保守層の温存が必要との判断があり,東京裁判などを通じて,陸軍に戦争責任を押し付け,天皇をはじめとする保守層を温存するという論理が定着したものと思われる。」
「日本国憲法が施行され象徴天皇制となっても,カリスマ性のある昭和天皇が在位し続けたことにより,憲法の条文通りの天皇の国政不執政が実現したわけではなかった。佐藤栄作内閣期の『内奏』『御下問』は,あきらかに日本国憲法に規定されている国事行為から逸脱した範囲の内容を含むやりとりであった。佐藤首相をはじめ閣僚は『内奏』・『御下問』を通じて天皇との間で『君臣情義』を形成し,天皇に政治的責任を負っているような錯覚にまで陥っていた。保守政治に理解を示す昭和天皇は,保守革新の対立が深刻化するなかで,保守政治を推進する上での精神的支柱であり,天皇の言葉は金科玉条のごとく内閣では重く受け止められていた」
(以上,本文より抜粋)
ハーバート・ビックス「昭和天皇 上・下」(講談社)

「本書は,昭和天皇,天皇制,およびかつて「天皇イデオロギー」を構成していた概念,価値,信念に焦点をあて,日本の20世紀を再検討したものである。本書で読者が出合うのは,ゆがめられた公的な天皇像とはまったく異なった天皇である。
 この伝記でとり上げた昭和天皇は,受身の立憲君主でも,日本きっての平和主義者・反軍国主義者でもなかった。それどころか天皇は,昭和時代に起きた重要な政治的・軍事的事件の多くに積極的に関わり,指導的役割を果たした。その指導性の独特な発揮の仕方は,「独裁者」か「傀儡」か,「主謀者」か「単なる飾り」かという単純な二分法では理解できない。
 天皇が全権を握ったり,独力で政策を立案したりすることはなかったが,天皇と宮中グループは,内閣の決定が正式に提出される前に,天皇の見解や意思が決定に盛り込まれるよう尽力した。そして,天皇の賛否こそが決定的だった。天皇が賛否を口にしなくとも,何も言われないという行為自体が,天皇の意思を実行に移す当局者を大きく左右した。
 昭和天皇は,私が本書で示したように,次第に日本の戦争政策の絶対的な中枢になっていった。日本政府もアメリカ政府も,それぞれの思惑から,戦時中の天皇の役割をあいまいにするため,多大な努力をしなければならなかった。日本国憲法下に天皇を在位させたこと,以前の政策決定に果たした役割を追及しなかったこと,戦犯裁判の可能性から救ったこと,それらが結局は,さらに多くの問題を生み出す結果となった。こうして歴史の事実が歪められ,戦争と幸福の遅延をもたらした政策決定過程の解明が妨げられ,日本の民主主義の発展も制約された。」(「日本の読者へ」より)

著者はアメリカの日本史研究者。ニューヨーク州立大学ビンガムトン校教授。
本書は2001年のピュリッツァー賞受賞作です。

なお,本書は現在は講談社学術文庫に収録されています。
吉田裕「昭和天皇の終戦史」(岩波新書)

「戦争責任ははたして軍部だけにあったのか?天皇と側近たちの『国体護持』のシナリオとは何であったか?近年,社会的反響を呼んだ『昭和天皇独白録』を徹底的に検証し,また東京裁判・国際検察局の尋問調書など膨大な史料を調査・検討した著者は,水面下で錯綜しつつ展開された,終戦工作の全容を始めて浮き彫りにする」(紹介文)

「また,日中戦争の問題でも,天皇は驚くほど率直に,石原莞爾参謀本部作戦部長などの『不拡大方針』と対立した自己の立場を語っている。『その中に事件は上海に飛火した。近衛は不拡大方針を主張していたが,私は上海に飛火した以上,拡大防止は困難と思った』『二ケ師(二箇師団)の兵力では上海は悲惨な目に遭うと思ったので,私は盛に兵力の増加を督促したが,石原はやはりソ聯を怖れて,満足な兵力を送らぬ。私は威嚇すると同時に平和論を出せと云う事を,常に云っていた』という言明がそれである」(154頁)。

「10月9日,伏見宮博恭王殿下(天皇陛下に)拝謁,時局につき,『米国とは一戦避け難く存ず,戦うとせば早き程有利にこれ有り。即刻にも御前会議を開かれたき』旨奏上せられし際に,陛下には,『今はその時期にあらず。なお外交交渉により尽すべき段あり。しかし,結局一戦避け難からんか』との御言葉を拝せらる。(中略)11月5日,御前会議終了後に速刻御裁可あらせられしことは,既に長き間の御熟慮,御決意の結果と拝せられ,恐懼に堪えず。」(15頁以下,「嶋田繁太郎大将 開戦日記」より引用)。

「よく知られているように,この上奏文のなかで近衛は,『敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候』として敗戦をはっきりと予言し,敗戦にともなって『共産革命』が発生し,天皇制が崩壊するという最悪の事態を回避するために,ただちに戦争の終結に踏み切ることを主張したのである。近衛のこの上奏に対し天皇は,『もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う』と述べて,近衛の提案に消極的な姿勢を示した」(22頁,『木戸幸一関係文書』より引用)。

「そもそも天皇が戦争の即時終結という方向になかなか踏み切れなかったのは,ソ連の出方に対する警戒心が人一倍大きかったからである。45年5月5日,木戸内大臣はこうした天皇の判断とその変化を,次のように近衛に説明している。
 従来は,(日本軍の)全面武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れぬ,それをやるようなら最後まで戦うとの御言葉で,武装解除をやれば蘇聯が出て来るとの御意見であった。そこで陛下の御気持を緩和することに永くかかった次第であるが,最近(5月5日の2,3日前)御気持ちが変った。二つの問題も已むを得ぬとの御気持になられた(「高木海軍少将覚え書」より引用)」(166頁)。

「また,『独白録』をみても,天皇が皇位の正統性の象徴としての『三種の神器』の保持に強く固執し,『敵が伊勢湾附近に上陸すれば,伊勢熱田神宮は直ちに敵の制圧下に入り,神器の移動の余裕はなく,その確保の見込が立たない。これでは国体護持は難しい』という判断からポツダム宣言の受諾にふみきったことがわかる。」(221頁)

「しかしGHQの対応は迅速だった。46年3月6日,ボナ・フェラーズ准将は,重臣の米内光政と会見して次のように語った。長文ではあるが,重要な史料であるのでそのまま引用する。
 自分は天皇崇拝者ではない。したがって15年20年さき日本に天皇制があろうがあるまいが,また天皇個人としてどうなっておられようが関心は持たない。しかし連合軍の占領について天皇が最善の協力者である事を認めている。現状において占領が継続する間は天皇制も引き続き存続すべきであると思う。
 ところが困った事に,連合側の或る国において天皇でも戦犯者として処罰すべしとの主張非常に強く,ことに「ソ」は其の国策たる全世界の共産主義化の完遂を企図している。したがって日本の天皇制とMC(マッカーサー)の存在が大きな邪魔者になっている。
 加うるに米においても非亜米利加式思想が当局の相当上の方にも勢力を持つに至って,天皇を戦犯者として挙ぐべきだとの主張が相当強い。
 右に対する対策としては,天皇が何等の罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合である。そのためには近々開始される裁判(東京裁判)が最善の機会と思う。ことに,その裁判において東条に全責任を負担せしめるようにすることだ。
 即ち東条に,次のことを云わせて貰いたい。
 『開戦前の御前会議において,たとい陛下が対米戦争に反対せられても,自分は強引に戦争まで持っていく腹を既に決めていた』と。」(93頁以下,「新出史料からみた『昭和天皇独白録』」より引用)。
豊下楢彦「昭和天皇・マッカーサー会見」(岩波現代文庫)

「戦後史の謎でありつづけた全11回の極秘会談。二人が何を話したのか,その核心部分が,著者が解読した膨大な未解明の新史料によって初めて明らかにされた。両者の会談のみならず米国に対する昭和天皇の外交を精緻に描き出した本書は,戦後レジーム形成に天皇が極めて能動的に関与した衝撃の事実を描き出し,従来の昭和天皇象,戦後史観を根柢から覆す。」(紹介文)
高橋紘「昭和天皇 1945−1948」(岩波現代文庫)

「1945(昭和20)年8月15日,『玉音放送』以後に昭和天皇はいかに戦後を歩み始めたか。現人神から象徴天皇への転換点で,天皇は自らの危機をどう乗り切り,主体的に動いたか。戦後天皇制を設計する上でのGHQの意図とは何か。本書は木下道雄『側近日誌』の解読を縦軸にしつつ,膨大な史料に依拠して描き出した歴史ドキュメントの傑作。天皇の地方巡幸を熱狂的に出迎える国民,新憲法制定過程と東京裁判の秘話など,象徴天皇の誕生を理解するうえでの必読の書である。」(紹介文)

著者は共同通信社会部長,同社取締役などを経て,現在は静岡福祉大学教授。記者時代は宮内記者会に在籍した。
渡辺清「砕かれた神 ある復員兵の手記」(岩波現代文庫)

「著者はマリアナ,レイテ沖海戦に参加,昭和19年10月の戦艦武蔵沈没にさいし奇跡的に生還した。復員後,天皇に対する自己の思いを昭和20年9月から21年4月まで,日録の形で披瀝している。限りない信仰と敬愛の念から戦争責任追及へという天皇観の急激な変化。後年わだつみ会の活動を通して持続された志は,いかにして形成されたか。」(紹介文)

「こうして復員してきた彼ではあるが,骨の髄までしみこんだ天皇への信仰と崇拝の念まで崩壊することはなかった。いや,ある期待をもって前よりも高まっていた。しかし,帝王にふさわしい尊厳を天下に示してくれるだろうという祈りにも似た彼の思いは,一枚の写真,天皇と敵将マッカーサーが並んで立つ写真を見て無残に砕かれる。つい先ごろまで,忠勇なる汝臣民よ,敵米英を撃滅せよと言っていたではないか。それを信じて同年兵は勇敢に戦い死んでいったのだ。その日からの彼は怒りにまかせて,天皇と戦争指導者,教師やマスメディアの変節をなじり,変わり身の早い村びとたちを,手当たりしだい日記のなかで揶揄し辛辣に批判するが,『君は天皇に騙された裏切られたと騒ぎ立てるが,天皇を絶対的なものとして信じていた君自信には問題はないのか』と兄事する郁男に言われて,自分の信じていたものが『あてがいぶち』であったことに思い至る。」(「解説」より)
松本健一「昭和天皇伝説」(朝日文庫)

「昭和天皇が記憶の王だったとすれば,かれがその記憶に強く刻みつけながらも,決して口にはだしたくない人名がいくつかあったはずである。それはたとえば2・26事件における北一輝,大本教事件の出口王仁三郎,そして三島由紀夫などではなかったか,とわたしは想像する」
三島由紀夫「英霊の声」(河出文庫)

神社で行われた帰神(かむがかり)の集まりで,霊媒の青年に2・26事件の青年将校と神風特攻隊員たちが憑依し,敗戦後に「人間宣言」をした昭和天皇に対して呪詛の声を上げるという内容。

「神なれば勅により死に,神なれば勅により軍を納める。そのお力は天皇おん個人のお力にあらず,皇祖皇宗のお力でありますぞ」
「もしすぎし世が架空であり,今の世が現実であるならば,死したる者のため,何ゆえ陛下ただ御一人は,辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか」
「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」

この三島の小説は,「右」の立場から昭和天皇の戦争責任を問うた,私の知る限りでは恐らく唯一のものであり,どのような立場からであれ,昭和天皇の戦争責任の問題を潜り抜けることなしに,なにごともなかったかのように戦前と戦後を縫合することなどできないことを知らしめるものとなっている。

この小説と三島の自決との関係が否応なく問題となるが,この点については,文芸評論家磯田光一が,以下のような発言をしている。
「・・・亡くなる一カ月前に,ちょうど三島さんに最後に会ったときに彼はこういうことを言ったのです。本当は宮中で天皇を殺したい,と言った,腹を切る前に。というのは,人間宣言をしたためにだめになったという。ところが宮中へはちょっと入れないから,自衛隊でという結論になったらしいのです。というのはどういうことかといいますと,人間天皇を抹殺することによって,『英霊の声』に出てくる,超越者としての天皇を逆説的に証明する,パラドックスとして,それに対する,自分は忠実な臣下としてのアイデンティティを確立する。そのためには,戦後の現存する天皇を殺すという発想を三島さんは持っていました。」(松本健一「昭和天皇伝説」朝日文庫184頁〜)
この磯田発言の真偽は確かめようがないが,仮に本当であるとすれば,この三島の天皇殺害計画は,昭和天皇に裏切られた英霊が三島に憑依して行ったものという位置づけとなり,かくして,三島の文学世界と実践行動とが文武両道,知行合一的に完結するというものだったのであろう。

そして,こうした三島の言動に対する左翼側からの応答というべきものが,東アジア反日武装戦線による天皇爆殺計画=「虹」作戦であり,これを小説化した桐山襲の「パルチザン伝説」であったといえるのではないか。
[1]
豊下楢彦「昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉にいたる道」(岩波書店)

「敗戦により天皇制存続の危機に直面した昭和天皇。それを打開しようと、どのような行動に出たのか。冷戦が進行していくなかで、天皇は何を考え、いかなる外交を展開したのか。憲法改正、東京裁判、そして安保条約という日本の戦後体制の形成過程に、天皇が能動的に関与していく様を、『昭和天皇実録』を駆使して抉り出す。 」(紹介文より)

「あくまで立憲君主として振舞われ、終戦の決断のときだけ自分の意思を表明し、日本を破滅から救った陛下」、「平和を愛され、非政治的な学者肌の方で、政治はうとかった陛下」というような世間一般に流布している昭和天皇像は実態とかなりかけ離れていることは、本書の著者をはじめとする研究成果によりかなり明らかになってきていますが、その実像はといえば、まだまだ十分には論じつくされていないようにおもいます。

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