江戸前期の朱子学者 山崎闇斎に関するコミュ。崎門学派(佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎等々)についても自由に語ってください。
【山崎闇斎略年譜】
1628年 京都に生まれる
1632年 薙髪して僧となり絶蔵主と名乗る
1636年 土佐の吸江寺に行く
1642年 朱子学に転じて京都へ帰り、還俗
1647年 『闢異』を著す
1651年 土佐において、野中兼山の母の葬礼を助ける
1652年 「家譜」を作る
1653年 鴨脚氏の娘(名・こなべ)を妻とする
1655年 この年から京都で開講
「伊勢太神宮儀式序」を著す
1657年 『倭鑑』起稿
伊勢神宮に参拝
1658年 初めて江戸に行き、井上河内守(笠間侯)・加藤美作守(大洲
侯)らの知遇を得、『大和小学』を著す
1664年 『神代巻口訣』(忌部正通著)を公刊
1665年 保科正之に賓師として迎えられる、『玉山講義附録』を編纂
1668年 保科正之が「家訓」十五条を家臣に示す、『二程治教録』を編纂
1669年 伊勢で大宮司の河辺精長より「中臣祓」の伝を受ける
『伊洛三子伝心録』を編纂
1671年 吉川惟足より吉田神道の伝を受け、垂加霊社の号を与えられる
「藤森弓兵政所記」を著す
1672年 保科正之死去、『会津神社志』を編纂
このころ(あるいは前年か)佐藤直方が入門する
1673年 会津において保科正之の葬儀に当たる
1674年 父・浄因死去、垂加霊社を下御霊神社に祀る(後、霊璽を
自宅に戻す)
1676年 出雲路信直が入門する
1677年 このころ浅見絅斎が入門する
1679年 『大学』を講義(「大学垂加先生講義」となる)
1680年 大山為起・鴨祐之・正親町公通らが入門する
三宅尚斎が入門する
佐藤直方・浅見絅斎との間に「敬義内外」をめぐって対立
1682年 死去、黒谷に葬られる
下御霊神社境内に祠が建てられ、後に猿田彦の庚申祠に移して
配享された
1714年 『垂加文集』七巻が跡部良顕によって刊行される(後に『続』
四巻、『拾遺』三巻が刊行された)
1721年 『垂加草』三〇巻附録三巻が植田成章によって刊行される
※田尻祐一郎『山崎闇斎の世界』(ぺりかん社・2006)より作成