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アルチュウル・ランボオコミュの自己形成の記憶

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『サーカスの少年』

私が小学五年の時に転入してきた少年を思い出すと何か郷愁にも似た不思議な気分になる。     
 
 先生の紹介で、その少年は短期間滞在するサーカス一座団員の子供であることが分かった。  
 その少年の醸し出す雰囲気は同学年特有の子供らしさは微塵も無かった。既に、或る大人びた独特の悲哀と孤独を見据える強い眼光を放っていた。    
 
 私は教壇に立っている同じ年齢の彼に妙に共感と興味を感じた。  
 常に短期間で場を移動するサーカス団に生まれ育った彼にとって、親しい友人を作ることは痛みを伴うということを幼少の時に悟ったのであろう。     
 故郷喪失者、彼自身の存在自体が文学の精髄を体現している。     
 各地を転々としながら観衆の前でおのれの芸を披瀝しても、おのれ自身を決して見せないこと・・・。  
 既に舞台に立っている彼の肉体は細身ではあったが、獣のようなしなやかなバネの強さを備えていて、休み時間になると黙々と校庭の隅に設置された鉄棒で技を鍛錬していた。    
 
 私と彼との決定的な違いは環境そのものと、その自覚であろう。  
 彼にとっては、すでに与えられた状況の中で内部から外部との接触の方法を仲間から伝授されること。  
 私はその方法を外部からの圧力によって自ら形成せざるを得ないということであった。  
 彼の唯一の弱点は同質の魂を備えた「仲間」以外に本性を見られることが皆無であった。又、その自己を防御する意識自体に対する自覚が子供であったとしても無理からぬことである。    
・・・彼を陥落させることは簡単であった。
 
 日々人前に己を晒し、肉体を鍛錬している彼にとっては同年代の子供など軟弱な存在であったであろう。  
 
しかし、私はその彼の矜持を私は簡単にくずした・・・。  

コメント(11)

どうやって崩したんでしょう。。。
(;GG)
グエルさん、書き込みありがとうございます。

確かに、この内容だけだと『続く』って感じですよね。

彼と相撲をして勝ったのです。彼は負けん気が強く何度も向かってきました。
で、さすがにどうやっても勝てぬと思ってから、私に対して素直になりました。
彼の住んでいるサーカス小屋に誘われ、よく遊んだものです。
三ヶ月程で、また転校しましたが。

なんだか、文章だけ読むと小説のようですね。

彼と遊んだ光景が鮮明に蘇ります。
梅崎さんは相撲が強かったんですね!
(GuG)
村一番の貧乏でしたが、何でも養分として吸収したのでしょうね。
一学年上と比較しても体重が重かった・・;
体育の先生と押し相撲してもいい勝負でしたから。
上京しても強かったです。
・・;今は足腰から老化加速中です。。
『自伝』より一部抜粋

ーーーーーー

 私は大人だけではなく、子供も権威や周囲に対して自己中心的な鋭敏さを例外無く持っている事を知っていた。  
 幼い子が純粋で無垢などと誰が言い出したか知らないが、全くの愚鈍な解釈である。その解釈は生まれたての赤ん坊ならともかく、絵空事の観察としか言い様がない。恐らく、自分の鈍さを遮蔽する為に作り出された願望であろう。子供は単に自分の身を守る為に具えている獸の特性に正直であるにすぎない。この私自身が実際そうであったからだ。  
 私自身が例外だと思った事はただの一度も無い。他の子供や大人が何故こんな簡単な心理を見抜けないのか?このことのほうが私には不可解な事であった。いわゆる体験不足による無知ならさておき、自分が子供であった頃、今現在子供である当人がそれを分からないとすれば人間が作り上げたあらゆる幻想、空想、偏見にただ呪縛されているだけである。 
 聡い子であればそんなことは知っている。大人は相手が子供というだけで何も分からないと、たかをくくっている。私のような子供が例外だとすれば実に悲惨な状態であると言わざるを得ない。  
 
 当時の私にとって、周囲の愚鈍な人間を偽り欺くのはたやすい事であった。  
 私は村で死体や人間の骨を多く見た。  
 私の村は土葬であった。村で多くの畑に点在する墓を掘り起こし、新築した納骨堂に納める為の作業がなされていた。私はその作業を非常に興味深く見学していた。白骨化したものが多かったが、まだ髪や肉が残っていて人間の形をしたものもたくさんあった。大きな土壷に蹲って下には死体から出た水がたまっている。形のある死体は皆ドラム缶の中で焼く。それを焼く時の匂いは異様に臭い。  
 髑髏は壊れた機械の部品のように山積みにされ、墓堀人達はそれを前にしながら昼飯を食う。かつて人間と呼ばれた者達の塊がごろごろと山になっている。転がれば放り投げて上に乗せる。ただの廃品と同じ物にすぎない。 
 私は掘り起こされる前の墓に生えている土筆をよく取りに行った。栄養が豊富なせいか土手にある土筆の二倍はあった。  無論、墓堀風景は子供によっては気持ち悪がる。  
 作業員は、ただ機械的にひたすら掘り起こす作業に専念している。  
 彼らも最初のうちは、少しは物が物だけに殊勝な気持ちはあったかも知れないが、数十ケ所の墓となればいやでも慣れてしまって「ただの物」でしかなくなったのであろう。だから、転がると放り投げて積み上げるのである。  
 
 私は生物の防衛本能が様々な形で変形されていることに関心があった。だから私を一番可愛がってくれた祖母の死も悲しくも何ともなかった。私の村は浄土真宗が多かった。それで通夜の夜、村人が私の家に集まり大きな数珠を輪になり、皆がその数珠を回すのである。  
 その時、坊主がシンバルのようなものを叩いた。皆の深刻な顏や泣いているその光景の中でシンバルの音が不協和音として響いて私は無性におかしくなり大声で笑った。無論、叱られた。だが、それでも私はそのおかしさをこらえて下を向いていた。兄はわんわんとよく泣いていた。
 私の嫌いなものに坊主がいた。命の尊さを説く坊主が平気で他の命を食べていられると思った。私にとって宗教も権威のひとつにすぎない。まことしやかに命の尊さを説く坊主の頭を後ろからひっぱたいたらさぞ怒ることであろう。坊主の頭も木魚も同じ形に見えた。   
 宗教家は断じて無償ではない。お金を払わなければ何もしない。商人とどこも違わない、同じである。目に見えない教えを金で売っている。詐欺師とたいして変わらないない。私は子供の時にすでにそう思っていたのである。  
 墓堀の男達も金で動く。学校の先生も、坊主も、みんな、金だ。私は本当に無償で生きている人間を知らなかった。この考えは私が成長しても簡単には動かなかった。    
 私の目から見れば、同世代の子供は全てが幼稚であった。学校の先生も人の良い人はいたが、私から見れば人間の着飾った、化粧したものしか見えていない。人が良いとは鈍いの異名にすぎない。  私のこの考えは、生来の素質と村人の悪意の差別で鍛えられた。  
 最も、村人達は自分達の生活習慣や集団の縄張り意識、異物に対する排除が自分達を守る苦肉の策であったのだろう。それも各個人が自分自身を守るための弱者のしたたかな知恵である。単に無知であることから生み出された姑息な知恵と私は理解した。彼らはその世界で一生を終えていくのだろう。彼らの生き方には私は何の興味も無かったし、私の関与する事でも無い。  
 
 私は、自分の不快な環境からは脱したかったが、それには私はまだ幼すぎただけである。    
 当時、私がどうしても友人になりたかった子供がいた。  彼は、俗に阿呆と言われている存在である。  
 私は彼だけがどうしても理解出来なかった。
 氷が張っている池や沼にも平気で入ってしまう。その彼の常軌を逸した行動は私を感動させたのである。  
 私を感動させるものは他には稲妻だけであった。稲妻が走ると私は外に出てよく見とれたものだ。  
 彼は、私に違った感動をこの私に与えた希有な存在であった。私は彼を自分に振り向かせる為にあらゆる手段を使ったが、彼は私を一瞬は見るが、次の瞬間には私を見ていない。  私は、彼が見ているものを私も見たかった。  
 私も冬の薄氷が張っている沼に入ったことがある。魚を釣る釣り針が沼の底の何かにひっ掛かった時のことである。頭を沈めたとたんに苦しく刺すような傷みに身体が硬直した、それでも潜ろうとしたが十秒と続かない。私にとって釣り針は大事な生活のための糧である魚を確保するための大事なものであった。  
 彼は私の具えていない能力を持っている。まわりではバカにしているがこの私にとっては半ばあこがれの存在であった。  彼はおそらく何も怖れるものも恐いものも、何故?生きている、ということ等のばかげた疑問もないであろうと私は思った。いつしか彼の姿を見ることもなくなった。私は元々彼はこの世界には存在などしていなかったのだと思った。  
 一応肉体はこの世にあったが、彼には肉体などあって無きがごとくのものであったろう。 
 私は彼が羨ましかった。私が寂しいと感じたのは、彼を自分の友人に出来なかった事である。  
 彼と親しくなれなかった寂しさと比べれば親との別れなど何でもないことであった。
梅崎さん

私がこのような子供時代であったら、やっぱり今の自分とは違う自分が出来ていたろうと思います。

読むだけで、なんだか「鬱」になりますね。

環境は致し方ないところもありますが
子供時分の、人間的な悪環境は、時にはその子の自己破壊まで起こさせかねない・・・

「差別」というのは一方で自己防衛する為には必要だし、商品の差別化とも言うように、それが商売にもなる。商品が人間の、芸能界なんぞはそれだけがまかり通っているし・・・

人より優れていることを印象付けて、より高く売るわけだし。

「差別」されることが一人の人間に集中する時、他の人は、知らん顔するか、加担するしかないのかしら。

「朱に交われば紅くなる」ではなく、その反対のこと。
つまり周りがみんな黒の時、一滴の白は、黒に吸収される。
庇うものや、白の側に立つものは白と同じ罪(罪なんかないのに)を背負うことになる。

あーあ、こういう瞬間は、人間が本当に嫌になる瞬間です。
ブルーキャットさん、おはようございます。

>「差別」されることが一人の人間に集中する時、他の人は、知らん顔するか、加担するしかないのかしら。

私の家庭もちと複雑で、或る村のお婆さんが養女にした処に
養子婿として父がいった。
で、そのお婆さんが死ねば残された家族はよそ者です。

当然、村には権力を持った存在がいます。
村自体の風習やしきたりも権力に属します。

村には秘密なども無く、よその家も自分の家のように勝手に上がり込んだりします。

今日は多少は緩んだとは思いますが、当時は村自体が家族のような共同体でした。
良くも悪くもです。

>庇うものや、白の側に立つものは白と同じ罪(罪なんかないのに)を背負うことになる。

町から嫁にきた女性がいて、私達子供の悲惨な状態の時にはそっと土間に捨てるような野菜を新聞紙に包んで置いていったりして、、。
父はバランスを崩し入院、母は他県へ出稼ぎで(飲み屋)殆んど帰宅せず、食う物もなく、両親不在の時です。
いわゆる『村八分』です。

この環境は逆境に強くなる意志を、私自身を充分に鍛えました。
、、上京して、都会の無関心は私にとって気楽でした。
カミュの『異邦人』のようなものです。
徹底的に相対的意識の保持、これが人間関係の基本です。
よく言えば『偏見の無い視点観点』です。

近代から今日に至るまでの思想、哲学、文学、芸術等々に課されたわれわれの課題を日常的生活の中で学んでいきました。

話す・書くと長くなります、これ位でまた。
私今、シャンソンやっているから
ピアフの生涯などに、触れることもありますが・・・

音楽をやっている人、アーティストには、
子供の頃、悲惨な体験をした人が多い、と役者同士で
あるいはシャンソン歌手、絵描き同士で話になることが
多いです。

そして、逆に出れば大変ですが、往々にして
優しい人が多いです。

これは、私の周り、経験上もそうだけれど。

甘く見すぎかしら。
ブルーキャットさん、そうですね。

本当にコインの表裏のようです。
私自身は自分自身の意志力の問題と捉えておりますが。

深く、強い痛みを知れば、自ずと他者に対しての処し方は身につけるとは思いますが、全ての人物が、とはいかぬようです。

これは悲惨であれ通常の環境であれ、如何なる環境であっても自分自身をどれだけしかと見詰るか、自己認識の問題であろうかと思っております。

基本的には、常に自分自身との熾烈な戦いに裏打ちされた意志力・個的内的倫理と思います。
つまり・・・
自己との戦いさえしない人はともかく。

いつも差別をしないようにと戦っている人にとって

>自分自身をどれだけしかと見詰るか、自己認識の問題であろうか>と思っております。
>自分自身との熾烈な戦いに裏打ちされた意志力・個的内的倫理と>思います。

個的内的倫理って、意思力のことですか?

シドニーポアチエの主演映画だったか
差別はしないと言っている人が、
「じゃぁ、自分の娘が黒人と結婚したいと言ったら、許すか」と聞かれて、たじたじになる場面があり、私も考えさせられたことがありました。

「差別」というのは、国によっても、状況、立場などでいくらでも複雑になるし、
その時、「いいえ、差別はしません」と、言い切るだけの、
それまでずっと戦いをし続けて、それだけの認識と勇気と意思を持ち得る人間になっているだろうかと・・・

下世話だけど、芸能界や歌の世界にいると、小さな「差別」は日常茶飯事だし。勿論、私も差別化しようとして毎日毎日励んでいるわけだから、「差別」の幅は、途方もなく広い。
>個的内的倫理って、意思力のことですか?

環境、状況に左右されない自分自身に根拠を持つ倫理観です。
この説明だけでは分かりにくいかもしれませんが。

差別という概念・言葉の定義が用いる人物によって差異があると思われます。
私自身は「差別」という言葉は限定つきでしか用いません。
また区別と差別というのもかなり曖昧な用い方をされます。

差別という概念に優越という概念が結びつく場合が多いのが実情かと。

自分自身にも差別、区別というものは無自覚に用いられています。
自他共に相対化するということの重要性はあらゆる対関係、考察には不可欠かと思います。

優劣や能力というものは相対的なもので、人格に対する諸判断、価値観等には無効なものだと思っております。

>「差別」の幅は、途方もなく広い。

これは全ての言葉・概念にも当てはまると思います。
ゆえに常なる自己省察、自己考察を深めぬ限り、世界認識どころではありません。
眼には眼をの戦いは我々自身を全て滅ぼすまで続くでしょう。

人類史・人類が未だ繰り返している所業です。

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