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花の中三トリオの同級生集まれ〜コミュの山口百恵の誕生日(今日は何の日の特別編)

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チャペル経歴

かわいいデビューまで
1972年12月、オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの「回転木馬」[1]を歌い、準優勝[2][3] [4]、20社から指名を受ける。


CD芸能界デビュー
1973年4月、映画『としごろ』に出演し、5月21日に同名の曲で歌手としてもデビュー。森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。当時のキャッチコピーは「人にめざめる14才」。

デビュー曲の「としごろ」は、スタッフの期待以下のセールスに止まったため、第二弾の「青い果実」ではイメージチェンジを図り、大胆な歌詞を歌わせる路線を取った。これは「青い性路線」(「性典ソング」)と呼ばれるようになり[3]、それは1974年の「ひと夏の経験」の大ヒットで大きく花咲くこととなった。年端のいかない少女が性行為を連想させるような際どい内容を歌うという、この「青い性」路線で百恵は絶大な人気を獲得することになる。歌詞の内容は際どかったが、辺見マリや夏木マリ、あるいは1970年代に復活した山本リンダなどのセクシー路線の歌手と違い、百恵は年齢が低くビジュアル面では純朴な少女というイメージだった。歌とビジュアルのギャップ、それに伴うある種の背徳感が、百恵の人気を独特なものにしていったと言われる。これは百恵の芸能人としての資質によるだけではなく、所属事務所やレコード会社による周到なイメージ戦略の賜物でもあった。[5]

『ひと夏の経験』の大ヒットした1974年には青春映画の名作『伊豆の踊子』に主演し、演技でも評価を得る。この映画で共演した恋人役の三浦友和とはテレビドラマやCMでも共演し、共に絶大な人気を博し、二人は「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。百恵の主演映画13作のうち12作は三浦友和との共演である。

映画デビューした1974年10月からはTBSのテレビドラマ赤いシリーズ(いわゆる大映ドラマ)でも好演、高い人気を集め、6年にも及ぶ人気ドラマとなる。

1976年 にはブロマイドの年間売上成績で第1位に輝いた。この年リリースされた「横須賀ストーリー」から阿木燿子・宇崎竜童夫妻の作品を歌い、新境地を開く。結果として引退まで歌うことになる宇崎夫妻の作品の数々は、大ヒットの連続で、百恵の世界を決定的に形作った。しかし、この二人を作家として指名したのは、周囲のスタッフではなく、百恵本人だったという。

1978年の第29回NHK紅白歌合戦では紅組のトリを務めた。ポップス系のトリは、同年白組のトリを務めた沢田研二と共に初めてのことであった。また、10代の歌手が紅白のトリとなったのも百恵が空前絶後である。その記録は未だに破られていない。

所属事務所「ホリプロ」が東京都目黒区に建てた自社ビルは、百恵の成功によるところが大きいことから「百恵ビル」と呼ばれることもある。

1979年には、評論家の平岡正明が『山口百恵は菩薩である』を著すなど、多くの文化人に現代を象徴するスターとして語られた。歌も映画もヒットすることにより、美空ひばりに匹敵するような「女王」という称号も奉られることになる。写真家篠山紀信は百恵のデビュー当時からモデルとして撮り続けて来たが、度々、印象的な写真を発表し、注目を集めた。

当時の人気作詞家だった阿久悠は、百恵を「時代と寝た女」と評した。また阿久は『スター誕生!』の審査委員長であったが、同番組出身である百恵には作品を一切提供していなかった。その理由のひとつとして、「当時は桜田淳子に(詞を)書いていたから、同系統の歌手には書かないことにしていた」と、阿久自身が述べている[6]。 さらに阿久は、その『スター誕生!』では百恵に対して「主役ではない脇役の逸材」と称したことで、百恵自身も作品の提供を阿久に求めなかったというエピソードが残っている[7]。


カラオケ結婚発表と引退宣言
1979年10月20日、大阪厚生年金会館のリサイタルでその役柄のイメージのまま、「私が好きなのは友和さんです」と、三浦との恋人宣言を突如発表する。原因はその前日の10月19日の夜、週刊誌にフォーカスされたのがきっかけである。そして翌1980年3月7日には三浦との婚約と同時に、「わがままな…生き方をわたしは選びました。(中略)お仕事は全面的に、引退させていただきます」と芸能界引退を公表し、ファンに大きなショックを与える。その一方で、迫り来る引退を視野に入れた形でのレコードのリリースや公演の予定を発表。1978年のキャンディーズで定着した引退記念興行が大々的に展開されることになった。

1980年10月5日、日本武道館で開催されたファイナルコンサートでは、ファンに対して「私の我が儘、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残し、そして最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙の絶唱となった。[8]その後、百恵がマイクを置いて、舞台裏へ去っていったシーンは、ファンの間では伝説となっている(なおこのマイクは現在小樽にある石原裕次郎記念館に展示されている。詳細は「三浦友和」の記事を参照)。

ファイナルコンサートの翌日である、10月6日に放送された『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)の引退特集番組では、百恵と同じホリプロ所属の先輩だった和田アキ子、かつて花の中三〜高三トリオとして活躍した桜田淳子と森昌子、女性歌手仲間として仲が良かった岩崎宏美・太田裕美・ジュディ・オング・高田みづえ・アン・ルイス、男性歌手では新御三家の郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎など[9]が、百恵の最後の雄姿を見守った。この夜ヒットの放送は、歌謡番組史上の傑作として現在も語り草となっている。尚、この当時の同番組の司会者であり、引退直前まで親しい間柄でもあった芳村真理はこの回の放送につき、番組勇退後の著書の中で「いつもはスタッフ達の怒声も飛び交い、にぎやかなスタジオであるはずが、この時はとても静かで、感動的だった」「番組の放送が終った後も、みな去るのが辛く、VTRも回しっぱなしでお別れ会が続いた」と放送時のスタジオの様子を振り返っている。

現役最後のテレビ生出演は、10月13日放送の『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』(日本テレビ)である。この時には、もう一切の涙を見せずに晴れやかな笑顔でサラリと手を振って、秋桜の花道の向こうに消えていった。正式な完全引退は10月15日のホリプロ20周年記念式典である。その時に歌った曲は「いい日旅立ち」である。引退時は21歳(22歳の誕生日の約3か月前)で、芸能人としての活動は僅か7年半程だった。


王冠結婚
結婚式は11月19日に東京都港区の霊南坂教会、披露宴は東京プリンスホテル・鳳凰の間で招待客1800人が出席して行われた(仲人は大映ドラマで百恵の父親役を数多く演じた宇津井健夫妻、友和側の主賓は東宝社長・松岡功、百恵側の主賓はCBSソニー会長・大賀典雄)。百恵の父親代わりはホリプロ社長・堀威夫。披露宴の司会はメインが岡田真澄、サブが徳光和夫であった。

同年刊行されたエッセイ『蒼い時』[10]は、複雑な生い立ち、芸能人としての生活の裏面に加え、恋愛や性体験についても赤裸々につづられており、12月までに200万部を超える大ベストセラーになった。同書の仕掛け人といえる残間里江子にも注目が集まった。


カラオケ引退後
引退後も常にマスコミやファンからの注目を集めているが、一貫して芸能界とは距離を置いている。ただし作詞家として活動したことがあり、1982年にアン・ルイスに提供した「ラ・セゾン」がヒットしている。

私生活では2人の息子をもうけた。私生活に執拗に迫るマスコミと小競り合いを起こしたこともある。また三浦・山口夫妻宅に強盗が押し入る事件も発生したが、幸い大事もなく解決している。友和によれば百恵は、プライバシーが脅かされる生活に「私は、これ以上芸能界にいたことを後悔したくない」と漏らしたという。長男の通園に備えて、自動車教習所に通い始めたころには、教習所の周りを百恵を狙ったカメラマンが囲み、苦悩したという。友和が人権擁護局に助けを求めた翌日には、カメラマンは一人も来なくなったという。

現在はキルト作家として活躍。作品が『東京国際キルトフェスティバル』等の展示会に出品されることも多い。元トップアイドルという肩書きによってではなく、その作品の完成度から、支持を集めている。

節目ごとに多くのベスト・アルバムが発売されている。デビュー30周年にあたる2003年には未発表曲1曲を含む24枚組CD-BOX『MOMOE PREMIUM』が発売され、このヒットによりブームが再燃した。レコード会社の商業戦略という側面も否めないが、ブームとは関係なく、時代と国民に愛された永遠のアイドルスターであり、戦後日本の歌謡界においては美空ひばりに次ぐ伝説的存在となっている。

ポスト百恵として歌謡界のトップスターとなったのは、百恵の引退と入れ替わるようにデビューした松田聖子であった。

1980年のシングル「謝肉祭」は、歌詞の中で連呼する「ジプシー」という言葉が差別的表現であるとして1990年代後半以降レコード会社が発売を自粛した。このためベスト盤CDやファイナルコンサートのDVD『伝説から神話へ -BUDOKAN…AT LAST-』も不完全な形で発売されるようになった。しかし2005年5月25日発売の『コンプリート百恵回帰』(全曲新アレンジで構成)に収録されたのをきっかけに、2006年1月18日発売のライブCD-BOX『MOMOE LIVE PREMIUM』に納められたファイナルコンサートのCD及びDVDには「謝肉祭」を含むノーカット版が収録された。そして当時のシングル・バージョンも2007年7月20日発売のホームセンター向け企画CD『山口百恵ベスト・コレクション VOL.2』に収録され、9月30日に『MOMOE PREMIUM』の改訂盤として通信販売限定で発売された『Complete MOMOE PREMIUM』及び『MOMOE PREMIUM update』にも収録され完全復活を果たした。

引退してから20年後2000年頃には中国で百恵ブームが起き、ニュースステーションの評価で「中国人が日本人で想像する人物」のアンケートで1位に輝いた。(2位は田中角栄、3位は佐藤栄作)

引退25年・ホリプロ創立45年にあたる2005年、山口百恵の楽曲を使用したトリビュート・ミュージカル『プレイバックPart2〜屋上の天使』が上演された。ホリプロ創業者の堀威夫によれば、ABBAの楽曲を使用したミュージカル『マンマミーヤ』がヒットしたことに刺激され、何れは人々の記憶から薄れていく可能性がある山口百恵の存在を守っていくのが使命であると考えているとのことである。

「記憶から薄れていくことに抗う」という意味の主張を自著『百恵讃〜学生たちと先生の山口百恵』を通して展開している、同志社女子大学助教授、影山貴彦との符合性もある。

2008年、長男の三浦祐太朗が4人組ロックバンド、Peaky SALT(ピーキーソルト)のボーカル・ギターとして、シングル「イトシセツナナミダ」でメジャーデビューした。


かわいいエピソード
「ひと夏の経験」を歌っていた時期のインタビューでは大抵「女の子の一番大切なものって何だと思いますか」と質問されたが、百恵は全て「まごころ」で通した。[3]

コメント(9)

カチンコ映画
タ イ ト ル 公開年月 監 督 共演者 原 作 備 考
としごろ 1973年4月 市村泰文 森昌子   和田アキ子、石川さゆり等が出演
百恵は助演
伊豆の踊子 1974年12月 西河克己 三浦友和 川端康成 初主演
潮騒 1975年4月 西河克己 三浦友和 三島由紀夫
お姐ちゃんお手やわらかに! 1975年4月 坪島孝 和田アキ子   『潮騒』の併映作、ワンカットのみ出演
花の高2トリオ 初恋時代 1975年8月 森永健次郎 森昌子
桜田淳子  
絶唱 1975年12月 西河克己 三浦友和 大江賢次
エデンの海 1976年4月 西河克己 南條豊 若杉慧
風立ちぬ 1976年7月 若杉光夫 三浦友和 堀辰雄
春琴抄 1976年12月 西河克己 三浦友和 谷崎潤一郎
泥だらけの純情 1977年7月 富本壮吉 三浦友和 藤原審爾
昌子・淳子・百恵
涙の卒業式 出発 1977年11月 根本順吉 森昌子
桜田淳子   花の高3トリオ卒業コンサート
ライブ・ドキュメント
霧の旗 1977年12月 西河克己 三浦友和 松本清張
ふりむけば愛 1978年7月 大林宣彦 三浦友和 ジェームス三木(原案) サンフランシスコ・ロケ
炎の舞 1978年12月 河崎義祐 三浦友和 加茂昌子『執炎』
ホワイト・ラブ 1979年8月 小谷承靖 三浦友和 中川美知子(原案) スペイン・ロケ
天使を誘惑 1979年12月 藤田敏八 三浦友和 高橋三千綱
古都 1980年12月 市川崑 三浦友和 川端康成 引退記念作品、百恵一人二役


TVテレビドラマ
※ゲスト出演は除く

タ イ ト ル 放送局 放映期間 備 考
顔で笑って TBS 1973年10月5日-1974年3月29日
灯のうるむ頃 NHK 1974年7月8日-7月22日 銀河テレビ小説
赤い迷路 TBS 1974年10月4日-1975年3月27日 赤いシリーズ第1作目
赤い疑惑 TBS 1975年10月3日-1976年4月16日
赤い運命 TBS 1976年4月23日-10月29日
赤い衝撃 TBS 1976年11月5日-1977年5月27日 赤いシリーズで初の単独主演
野菊の墓 テレビ朝日 1977年7月9日 土曜ワイド劇場
美しい橋 TBS 1977年10月2日 東芝日曜劇場
赤い絆 TBS 1977年12月2日-1978年6月9日
風が燃えた TBS 1978年3月6日 日立スペシャル
人はそれをスキャンダルという TBS 1978年11月21日-1979年4月17日
日本のおんな 北国から来た女 フジテレビ 1979年4月25日
もうさみしくなんかないぞ フジテレビ 1980年5月3日 土曜ナナハン学園危機一髪
さらわれたスーパースター フジテレビ 1980年10月19日 花王名人劇場
赤い死線 TBS 1980年11月7、14日 山口百恵引退記念スペシャルドラマ


カラオケラジオ
※放送局はすべてニッポン放送

タ イ ト ル 放送期間
山口百恵のモモモモ30分 1975年4月-1975年10月
山口百恵のラブリータイム 1975年11月-1976年3月
山口百恵と大石悟郎のフォーエバー・フォーク 1976年10月-1977年3月
山口百恵のスーパー・ライブ・カンパニー 1977年10月-1978年3月
山口百恵のカラフル・ポップコーン 1978年10月-1979年3月
山口百恵と宇崎竜童のローリングタウンNo.1 1979年10月-1980年3月
山口百恵 夢のあとさき 1980年4月-1980年10月


映画 CM
グリコアーモンドチョコレート・プリッツ・セシルチョコレート(三浦友和と共演)
富士ヨット
旺文社
富士フイルム
花王
トヨタ自動車 コルサ(1979-1980年)
カシオ

シングルは↓トピのコメント1を参照
http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=1&id=33158555&comm_id=3520376
☆ロック〜

そっか〜 携帯だと長文読むの大変なのか〜( TДT)ゴメンヨー

内容は 百恵経歴なので 内容とは関係なく 自由に百恵の思い出等を書いてくれると良いよ〜手(パー)

簡略する時間が無くて 申し訳ないッスm(。_。;))m ペコペコ…
いつもながらありがとうm(_ _)m

百恵ちゃんは、わたしの青春でした目がハート
あの時代、一番のあこがれで大好きでした。
友だちは新御三家ファンばかりでしたけど・・・
もちろん、百恵・友和コンビも大好きで、映画もドラマも残さず観てますハート達(複数ハート)
スクリーンや画面に映る二人を観て、結婚を望みましたし、その通りになったときのうれしさは忘れません。
二人の姿そのままに自分の恋愛も・・・と思いましたが、現実はかけ離れてますよねあせあせ
今、芸能界を離れた彼女をそっとしときたい思いと、せめてもう一度・・・という思いがありますね。
デビューした息子さんの活躍を願わずにはいられません。
友和さんも、いい年を重ねてこられたと思います。
ドラマなどで大事な役どころを演じてますよね。
今後も夫婦円満であって欲しいと願います。
 いつものことですが、オリベッチには頭があがりません。
この調査すばらしい。
簡潔ですね。
美空ひばりさんーーーそして山口百恵さん
これが歌謡界のながれかもしれない。
最後のシーンである、マイクをおいたシーン今でも涙がでそうです。
確かにキルトの腕は最高ですよ!!

毎年東京ドームのキルト展で見てましたが

やっぱすごくきれいだし!!丁寧だし!

毎年楽しみにしてたんですが今年は、

百恵ちゃんの先生のところが、一切作った人の名前を出してなかったので

わからなかったです。

いつも人だかりになってしまうから・・・他の出品者の事を考えたのかも?

もしかしたらσ(^^)が見つけられなかっただけ??(;^_^A アセアセ…

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