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WW?軍艦よもやま話コミュの海軍軍人列伝

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「軍艦」や「艦載機」は当然人間の手によって作られ、そして動かされていきます。第2次大戦時のなかで、いろんな人間がそれにたずさわり、過ぎ去っていったことを思い出すべくこのトピを立てたいと思います。

山本五十六などの司令官、淵田美津雄などのパイロット、米内光政などの政治家、さらには一介の船員など職種、階級などは問いません。ある一人の人間の人生から学び取るものはかならずあると思います。

コメント(45)

海軍軍人列伝・・・今回はミッドウェー海戦で「飛龍」と伴に散った悲運の名将「山口多聞」少将を取り上げたいと思います。

真珠湾のとき、山口少将が「第2波攻撃の準備完了」との信号旗をあげ、旗艦「赤城」へ意見の具申を申したてた(異説もあって、これはしていない説もありますが今回はした方で考えました。)さらにミッドウェーの時、敵空母発見の報を受けた時すぐさま「赤城」へ「直ちに攻撃隊の発艦の要ありと認む」と信号を送ったなど、その後を知るわたし達からみると、この方が良かったのでは?とおもわれる適切な判断を下し、仮に「南雲ではなく山口だったら?」とのIF心をくすぐる名提督だと思います。

海兵40期にあたり、同期の桜には「大西瀧治郎」「宇垣纏」の終戦自決組や着艦一号の「吉良俊一」、のちに海大を主席で卒業し、「海軍乙事件」を引き起こす「福留繁」などの面々が見うけられます。海兵卒業の席次は2番で、同期でも自分より下のものに対しては不遜な態度をとったといわれる宇垣纏でも山口には一目置いていたみたいだし、大西とは大変気があったといわれています。

また山本五十六とは師弟の関係みたいなもんで、先妻を亡くしたあと後妻になる孝子嬢を山口に紹介したのは山本だし、山本がたどった米国海軍武官などを跡を追うように歴任していました。平時なら山本の後を継ぎ連合艦隊司令長官の席に座ったかもしれない逸材だったと考えられるんじゃないかな。

いろいろ面白い逸話も残されており、見ず知らずの人と歩く速さを競ってみたり、脱糞(失礼!m(__)m)しながら、汲み取りのおじさんと会話をしてみたりしています。あと大変な愛妻家で、多聞と孝子の間の手紙などは読んでいる方が、顔を赤らめるような文(特のアメリカ時代・・・)の連続です。わたしの場合それを知ってから山口多聞という人間がひどく身近に感じられるようになりました。
こんばんわ みーくんさん

「亡くならない」というこは、ミッドウェーで勝利したという事になってしまうと思うのね。山口の性格から考えたら、南雲みたいに退かず「必ず」艦と命運をともにしちゃうと思います。3空母がやられた後、「飛龍」が単艦で米空母に攻撃をしかける際、第一次攻撃隊の小林道夫大尉にも、第2次の友永丈一大尉にも「我も必ず後から行く」と付け加えていますし、「軍人としてどうしていいか分からない時は、死ぬほうに行け!」などの訓示もしています。ほーんと骨っぽい一本芯が入っている軍人さんだと思うのね。

個人的には「ミッドウェー」は日本が勝てた作戦だと考えています。いろんな不幸(?)が偶然絡み合って(例えば、索敵を2段にしておくとか、総隊長の淵田中佐が盲腸にかかる、燃料少ない米艦爆隊が駆逐艦「嵐」の航跡を発見してその後3空母をしとめた・・・など)をあれだけの大敗になってしまうんだけど、その中で「飛龍」の敢闘精神はすごい!もんだなぁと思いますよ。命を投げ出せる指揮官にこそ部下にある面「死んでこい」と言えるんだと思う。
山口多聞が出ているので、南雲忠一中将と比べるいい機会だと思います。

南雲忠一は海兵36期に当たり、ハンモックナンバーは5番。その後水雷学校を経て、海大に進み卒業は2番でした。かなりの努力家ではありましたが、ただの「がり勉野郎」ではなく、柔道に精をだし、小柄ではありましたがいつも肩を怒らせて歩き、浅黒い風貌で周囲の注目を集めていました。軍縮条約反対派の「艦隊派の雄」としてならし、山本五十六や山口多聞とはソリがあまり遭わなかったといいます。

いわいる「赤レンガ」組の陸上勤務はあまり好まず、海上にでていないとおちつかないような真の海の男の体裁で、さらに水雷の権威として海軍部内の評判も高く、現場の下士官などにも威張り散らさない寡黙な提督でした。

1941年4月1日の第一航空艦隊の開隊に伴い司令官に補職されその任に着任しました。その前は生徒がいない状態の海大の校長をしており、閑職から見事現場の司令官に返り咲きました。山本の胸の内にはすでに「真珠湾攻撃」の青写真ができ上がる時期に当たりますが、当時は軍令部も連合艦隊も南方作戦が主流でしたから、得意分野でない南雲でも良かったのかもしれません。一航艦の参謀たちも草鹿、源田、吉岡などのエキスパートで固めていましたしね。

ミッドウェーでは南雲の決断の鈍りなども敗因の一部とわたしゃ思うけど、果して「真珠湾攻撃」に対して、何故南雲は第3次攻撃、あるいは第2波攻撃隊を出して施設や石油タンクを破壊しなかったのか?総隊長の淵田中佐を含めたパイロット達は当然あるものだと考えていたみたいだけど、
1 敵空母の所在がハッキリしない、潜水艦もいるかもしれない
2 2次攻撃は「強襲」になりかなりの被害があった
3 海はかなり荒れていて、3次攻撃は薄暮の着艦になりさらに被害がでる可能性も高いし、仮に翌日の攻撃だと敵艦隊の行動を起こし、3000海里も離れた所で戦闘になればどうなるか予想もつかない。
4 補給等に問題を生じる
5 軍令部からはなるべく無傷で艦隊を帰還させるよう要望をうけていた。開戦前の事前演習では機動部隊にもかなりの被害が予想されていて、パイロットや乗り組み員の多くが遺書をしたためていたくらいだから、艦隊が「無傷」という事自体が凄い!と南雲は考えていた。

などの理由により反転北上し、敵空母を索敵しつつ帰還の途につきました。

南雲自身「東北人気質」の頑固な所があったみたいだし、新しいものを素直に受け入れるということは苦手だったんじゃないかしら。自ら新しい攻撃方法を世に示したのに、その本人がその凄さに気がつかなかったみたいな印象をわたしゃ受けるんだ。まだこれからが本当の戦いつまり「艦隊決戦」が発生するという妄想を彼は持っていたと思う。

あと実際に石油タンク破壊してたら、今みたいに「日本人」が気軽にハワイには行けなくなってるんじゃないかな?湾内の海面は火の海だし、米軍の戦死者の数も跳ね上がっているよ。その恨みは現代まで続くような気がします。原爆ももっと落とされたかもしれないし。

淵田、島崎の1次、2次の攻撃隊隊長が、皇居で真珠湾のあとで天皇陛下に謁見した時、陛下は何度も民間施設や民間人、病院などを攻撃しなかったことのを彼らに確認したといいます。当然しなかったのですから両隊長は胸を張ってその返答ができたと淵田氏の手記にも書かれています。
おばんです みーくんさん

ミッドウェーでの敗戦は決して南雲だけのせいではないと思いますよ。機動部隊にも問題はあったと思いますが、山本を含む連合艦隊の司令部にもあったと思います。例えば「大和」では敵空母がミッドウェーに出てきているのを分かっていたのに、機動部隊には教えていませんでしたしね。黒島参謀が「赤城」でも無線を傍受しているでしょうの発言を、真にうけた山本に当然責任はありますよね。自分は「赤城」の艦長経験をあるわけで、空母の無線傍受能力を把握していなかったのかもしれません。

勝てば官軍、負ければ賊軍。WW2にもそれが当てはまったわけで、負けた時の責任者が南雲なり、山本なりで誰かに負けの責任を押し付けただけの事かもしれませんね。
今回は南雲の他に日本の空母艦隊を指揮したもう一人の提督「小沢治三郎」を取り上げたいと思います。

小沢は海兵37期にあたり、180cmを越える偉丈夫で付いたあだ名が「ジサ」「鬼瓦」で、柔道が非常に強かったといいます。入学時は150番くらいでしたが、卒業のときのハンモックナンバーは45番でかなり勉強したみたいです。海兵同期には、2番で卒業、のちに軍政官として力量を発揮し親友でもある井上成美、ラバウルに取り残された草鹿任一、海軍航空の草分けの桑原虎雄などがいます。

兵学校の時代特有の「鉄拳制裁」には常に疑問を抱き、中学時代に自分がおこした暴力事件の反省から、下級生を指導監督する時は、自己修練のため禅寺で座禅を組み、禅話に耳をかたむけてから指導したそうです。

「摩耶」「榛名」の艦長、連合艦隊参謀長、第8戦隊の司令官などを歴任して、1939年11月に第一航空戦隊の司令官となりました。一航戦は「赤城」「加賀」の2隻からなり、このときの「赤城」の飛行隊長が淵田美津雄でした。

小沢はそれまで水雷屋の権威とされていましたが、非常に発想が柔らかく、いいものは取り入れようという姿勢をもっていました。南雲と決定的に違うのはこの部分かもしれません。その小沢は淵田からの意見をよく取取り入れ、空母の集中運用による母艦攻撃隊の集中攻撃、その統一指揮を空母からでなく、空中にある指揮官機から行うなどの攻撃方法の変革をまとめ、航空艦隊編成の意見具申として書き上げて、吉田善悟海相、山本連合艦隊司令官に提出しました。これがのちに機動部隊として1941年4月に開隊される第一航空艦隊となりました。小沢が機動部隊の生みの親と云われる所以はここにあります。

小沢自身も淵田も当然小沢が司令官に任命される事を望んでましたが、定期移動に基ずき「金剛」など高速戦艦を擁する第3戦隊の司令官に移動になりました。

対米戦を突入を意識しだした1941年10月に小沢は南遺艦隊の司令官に任命されます。開戦となる以上は南方への進出は必ずであり、優れた戦術家で外交能力もあった小沢に白羽の矢が立ったといわれています。

開戦になるとマレ−攻略時には山下奉文、ジャワ攻略時は今村均と協力して、陸軍の作戦を有効しサポートして作戦を成功されていきました。当時は陸軍と海軍はあまり仲がよくなかったので、南方作戦は「小沢だからできた」とわたしは考えます。戦局に応じて判断を下さなくてはいけなかった為、党利一編の指揮官では到底無理だったんじゃないかな?仮に南雲ならあんなに速く陸軍は南下できなかったと思う。いちいち「軍令部の指揮を仰がなくては・・・」なんて事を言ってね。

ガダルカナルの争奪直前の1942年7月に軍令部次長になり日本に帰国、さらに南太平洋海戦ののちに、南雲にかわり新たに機動部隊として編成されていた「第3艦隊」の司令官の任に付きました。小沢は早速搭乗員の育成に乗り出しますが、「い」「ろ」号作戦の発動のために空母艦載機をラバウルに投入しなければならず、育成はさらにおくれることになっていきました。

1944年にはいると米軍の反抗作戦は本格化してゆき、6月に絶対国防圏の一角サイパン島の攻防をめぐる「マリアナ沖海戦」が発生します。小沢が苦心の末考え出した「アウトレンジ」作戦は当初成功したがに思われましたが、この頃になると米軍の圧倒的な物量、レーダー、VT信管などの技術力の差が如実に表れて、「大鳳」「翔鶴」の貴重な空母、さらに艦載機の大半を失うという大敗を喫してしまいました。

その後の小沢は囮艦隊として、エンガノ岬沖海戦で最後の空母艦隊を率いて敵の空母を引き付けることには成功しましたが、栗田艦隊の反転によりレイテ作戦は失敗し、連合艦隊の終焉が近いことを悟ります。

終戦時は最後の連合艦隊司令長官となりますが、もはや動かす艦船もほとんど無い状態でした。大西や宇垣などの自決をするものが出ましたが、小沢は司令部に部下を集めて「自分は決して自決はしない、だから君達も決して自決をしてはならない」と訓示して、部下たちの死を戒めたといいます。連合艦隊司令長官の自分が自決しないことで、当然強い批判がでるのはきっと承知の上だったのでしょう。しかし部下たちの殉死を見事に防いだのは小沢の功績なのかもしれません。
こんばんわ みーくんさん

小沢が南雲にかわり、真珠湾やミッドウェ−で指揮していたら?のIFは、ついかんがえちゃいます。その可能性は山口よりも高かったわけですしね。真珠湾案外同じ結果かもしれないが、ミッドウェーは間違いなく変わっていたと思いますよ。

小沢の戦術眼が優れていた例として、珊瑚海のとき薄暮攻撃を敢行しようとした攻撃隊が、敵空母を捕捉できず帰還しようとした時、いきなり雲の中から敵戦闘機が飛来し、味方が8機撃墜されたことを受けて、南遺艦隊の参謀たちに「敵はレーダーの開発に成功したのではないか?」と話したことや、ミッドウェーでは日本の作戦企画を事前に、しかも詳細に知らないとできないような布陣で待ちうけていた事を不思議に思い、山本に「日本の暗号文が解読されていたふしがあります」と打診していた事などが挙げられると思います。

終戦直前に、ポツダム宣言をアメリカ西海岸のラジオ放送によりいち早くキャッチした宇垣が彗星11機を率い、最後の特攻をしかけたときに「自決するなら一人でやれ!」と激怒したことからも、次代を担うであろう若者たちに、これ以上無駄な血を流させたくないという彼の意思を感じますね。

小沢の戦後の生活はかなり苦しかったみたいです。軍人恩給が出るわけでもなく、小さな自宅の大部分を人に貸して、わずかな家賃収入のみでの暮らしぶりでした。親友の井上成美も同じような貧困の暮らしをしながらも、近所の子供達に英語を教えていると伝えきいて、彼らしいと感想をもらしています。小沢にしても井上にしても相当自責の念が強かったんじゃないかな?兵学校時代に井上が小沢に何度も「戦争なんかはしない方が絶対いいんだ」と言ったことを重ね重ね思い出していたんじゃないかと思います。
こんばんわ ミッチーさん

南雲に欠けていた物は「臨機応変」ということじゃないかと思います。南方作戦の指揮をとった小沢にはそれがあった事は明らかですし、南雲には艦載機の集中運用という真珠湾、インド洋と成果を挙げた攻撃方法に固執していたと思います。山口の「ただちに発艦の要ありと認む」の意見具申も聞かなかったですしね。「飛龍」の単艦であれだけの成果を挙げることができたんで、4隻揃っていたらどうなっていただろうと思うと想像するだけで楽しくなっちゃいますね。

1943年の「ろ」号作戦の艦載機のすり減らしが痛かったと思います。戦術家としては凡将と思われる古賀峯一と福留繁のラインでは、山本がやった「い」号作戦の継続が精一杯という感じかな。せっかく訓練したのに、すぐ搭乗員を引きぬかれては作戦の立てようもない気がします。

1944年の3月にようやく小沢が主張してきた「機動部隊集結構想」が古賀戦死の置き土産的な状況で認められ、「あ」号作戦の立案が開始されました。アウトレンジから敵空母を攻撃し空母を使用不能としてから、前進部隊として前方に進出している戦艦部隊で敵艦隊に突入するというのが作戦の格子なんだけど、もう力の差は如実に表れていましたよね。ホントに誰がやっても結果は同じだったと思います。

わたしゃ、この海戦で負けた時に日本が白旗を振るチャンスだったと思うんだ。仮に前進部隊に配属されていた「大和」「武蔵」「長門」などの主力艦が無理を承知で突入、かなりの被害を受けていれば歴史は変わったかもしれませんよ。実際海軍部内ではこの敗戦で「もう負けは確実」の空気が流れていたみたいだし、それならその後レイテ海戦の主旨になる「敵に一撃を加えてから講和」なんての甘い考えは、「大和」「武蔵」などの戦艦部隊が、もしもマリアナでやられていたら通用しないじゃないかと思います。
こんばんわ みーくんさん

絶対に!陸軍は辞めないと思いますよ。ただ歴史を後付けで知るわたし達は、マリアナの後で起きる悲壮な歴史を知っているんで、あそこで「負けました」って言えばまだ被害が少なくてすむなぁと思ったのね。もしそうなら「神風」「沖縄」「原爆」などが回避可能になっただろうし・・・

「大和」や「武蔵」の巨砲、水雷戦による一発逆転を信じる軍人たちは、まだマリアナ戦が始まるまで多かったとも思います。戦艦だって沈没はこの時までは「比叡」「霧島」「陸奥」の3隻のみ、重巡も「三隈」「古鷹」「加古」「衣笠」の4隻のみだし。開戦以来2年以上経過してるのに、大砲、魚雷を主兵装とする軍艦はまだまだ健在でした。
それらが一気に壊滅的な被害を被ったとしたら、海軍はもう手も足もでないから、もう駄目です・・・てな具合に想像してしまいましたのよ。

事実マリアナ海戦で負けた後で、東条内閣は倒れ小磯内閣が誕生した時の海相は「米内光政」が任ぜられ、海軍次官には「井上成美」が選ばれました。開戦の前はこの2人に山本五十六をくわえて、避戦派の3人トリオで三国軍事同盟に反対していた時もあったから、この「米内」「井上」を内閣に加えたのは、もう海軍は戦争を終結方向だと考えていることの表れだったのかもしれませんね。

さらに井上は高木惣吉少将に特命を命じて、どのようにして終戦工作をするかを研究、調査を始めさせています。高木は以前より「アメリカがマリアナに攻めてきたら、手を上げねばならん」と言っていた先見の目がある人物で、東条の暗殺まで計画したともいわれています。
皆さんお久しぶりです。ちょっと見ない間に随分盛り上がってますね。

さて、色々と話の花が咲いてまして所々ついて行けませんが、南雲、山口、小沢の話がありましたので、『アンチ人間』を自負する俺は例によって南雲の味方をしてみましょう(笑)


まず山口が『直ちに攻撃隊発進の要ありと認む』と意見具申したのが05:30頃。
この時点で大半の97艦攻は陸用爆弾への換装が進んでいたと思われます。
しかし、洋上を高速で移動し、急激な回避運動も行う艦艇に水平爆撃が命中した戦例はほとんどありません。水平爆撃は爆撃進路に入ったら進路を維持して直進しなければならないので、対空砲火や敵迎撃戦闘機のいい的にもなります。
(山口は97艦攻も含めて出撃させようとしてたんでしょうかね?この辺は俺も未確認です)

史実では飛龍の第1次攻撃隊の零戦6機中3機、艦爆18機中12機が撃墜されてます。
第2次攻撃隊は零戦6機中3機、艦攻10機中5機を損失。
損害率は軽快な運動性の零戦ですら50%。鈍重な攻撃機で75%に達します。
仮にこの数値をそのまま当てはめるとしたら、陸用爆弾搭載の97艦攻を発進させていたとしたら、ほとんど効果は期待できないのに、3/4は失う結果になりますね。第2次攻撃時に艦攻の頭数が揃わなかったら、『撃沈』は困難ですね。爆撃による損害を与えただけでは、修理して一瞬で復活する訳ですから意味がありません。


次に99艦爆。急降下爆撃なら対艦用の徹甲爆弾も、陸用の留弾も命中率に大差なく、むしろ軽装甲の空母に対しては留弾の方が有効との見方もありました。
艦爆はこの時点で出撃させれば蒼龍の18機が加わる為36機って計算になりますか。ただし護衛の零戦は0ですね。米軍の防空力を珊瑚海で目にしている中、鈍速の艦爆を護衛ナシで飛ばすのはどうかと思いますね。無論後世の我々は『どうせ全滅するんだから』という色メガネで見てしまってますから『だったら少しでも反撃しとけ』と考えてしまいがちかなと…。
さらに目標である米空母は2隻になりますから、攻撃が分散すれば敵に与える被害もそう期待できないでしょう。


最後に、これこそ完全なる結果論なんですが、利根4号機の報告位置が間違っており、山口の意見具申の時点でこの情報を頼りに発進すると、攻撃隊は目標を補足できなかった可能性が高いですね。
↓つづき

もしも『IF』を更に悪い方に考えた場合、山口の意見具申を取り入れて直ちに発進させた攻撃隊は敵を補足できず。
帰投して燃料補給の作業中に米軍の空襲に遭います。

あるいは艦攻は大半が失われるだけで何ら成果を上げず。艦爆はそれなりに被害を与えるもほぼ壊滅。という結果になり、余力を失った為に空母にとどめを刺せず。
ということも充分有り得ます。つまり、山口の意見具申を取り入れていたら、史実を上回る4対0の完全敗北の可能性も無くはないです。
ま、これはいささか日本側に都合悪く考えた場合ですけどね。

『つまるところ、山口の意見具申を採用してさえいれば日本軍が勝利できたはずだというのは都合の良い仮定だけを継ぎ接ぎした幻想に過ぎない。ー中略ー ミッドウェイ海戦は1つや2つの判断が変わったとしても、その程度のことで結果を大きく変えることは不可能だったのである。』

参考文献
『やっぱり勝てない?太平洋戦争』並木書房
より抜粋。
こんばんわ ザイドリッツさん

ひゃー、なかなか問題提起。IF論なんで正確な答えは無いんだろうけど、想像すると楽しくなっちゃいますね。ただミッドウェーは作者によって結構食い違いがあるのね。「魔の5分間」は存在してない、というのも今日になってようやく認知されつつあるみたいだし、4隻の空母がみんな同じ換装作業の進み具合だったともあまりかんがえられないしね。

わたしの頭の中では、山口の「ただちに攻撃隊の発艦の要ありと認めむ」の時は、2航戦が2次攻撃の艦爆機担当で、「蒼龍」「飛龍」の18機ずつが換装すんで発艦が可能、しかし一航戦の魚雷への換装が進んでおらず、さらに零戦は、全部制空の為に空に上げてある理由から、護衛の艦戦が付けられないので、攻撃は艦攻と伴に零戦の護衛のもとで行う正攻法を南雲は選択。さらにおなじ頃には第一次攻撃隊も帰還して、飛行甲板を開けなきゃならないし、ミッドウェーからの攻撃隊は飛んできて空母それをよけなきゃならないしのお祭り騒ぎなみの状況だった思います。

艦載機の半分を水中に捨ててまで、攻撃隊の発艦を優先させるか?と考えるとそれはまずわたしゃ考えないよ。制空の零戦隊はそれこそ鬼神の如くの活躍で敵機を落としまくっていたし、実際に零戦の護衛無しで攻撃する事は無謀だってことは今南雲たちの目の前で起きているわけだからね。

仮にあのまま艦爆隊のみでの攻撃はどうか?と考えるとまずかなりの被害が出る事は間違いないと思います。珊瑚海での対空砲火の凄さには5航戦もビックリしてたみたいだし、当然F4Fも上がってきますしね。ただ江草隆繁率いる2航戦の艦爆隊はかなりの技量持ちで、インド洋の活躍は今だに語り草にもなっていると思います。でも250キロじゃ沈めるまではいかないんじゃないかな。その時の日本は知らないけど、「ヨークタウン」級はしぶといんですよね。優れたダメコン、解放式よる爆弾に対する受け身の取りかたが優れてるもんね。

ただ、例えば艦爆隊が0530に2航戦から発艦したとして、敵空母を発見できないで引き返したとしたら・・・0725くらいで3空母が被弾するんで、こればかりはタイミングの問題もあるとは思うけど、戦史どうりに「飛龍」のみが、生き残っていたとしたらそれに着艦して、その後の攻撃に加わることは可能だったかもしれないね。あるいは補給中じゃなくて、敵の艦爆隊攻撃の直前に帰還、99艦爆はある程度は空戦もできたし、250キロの爆弾は敵空母を発見できない時点で切り離しているはずだから身軽になっているはず。案外零戦の替わりにドーントレスの爆撃を防いでいるかもね。
う〜ん、おもしろいですねミッドウェイは。
確かに艦爆隊帰投のタイミングによって状況は大きく変わりますね。
早めに帰って来てたら着艦して給油中。
あるいは着艦作業中。これが最悪のケースかな。
後は空襲中に出会い頭か。確かに99艦爆は空戦可能ですから、ドーントレスを迎撃したかもしれませんな。江草隆繁もその生涯で何機か墜としてますもんね。

当時の日本海軍では敵艦隊を補足できなかったら、爆弾は棄てちゃってたんですかね?航続力ギリギリとかでない限り、持ち帰るってことは無いんですか?帰路に会敵する可能性もあるでしょうし。
こんばんわ ザイドリッツさん

ほんとにミッドウェーは深いと思いますよ。いろんなIFが絡み合っているから、考える余地が一杯ありますよね。

敵艦隊用に待機していた2次攻撃隊のメンバーを確認したら制空の零戦隊「板谷茂」少佐、艦爆隊が「江草隆繁」少佐、雷撃隊が「村田重治」少佐の面々なのね。みんな神様とよばれてた隊長達だから、最強の布陣ともいえるかもね。米空母が出てこないだろうと考えてたわりにはこの面子を残しているから、案外機動部隊の司令部の頭の中には「空母はいるかも?」の疑問は、離れなかったのかもしれないね。

仮に4空母が敵の攻撃をしのいで攻撃に回ったら、アメリカの3空母はかなり危ないかもね。零戦隊の機数は、制空に上げたため何機つく予定だったかはわかんないけど、爆撃と雷撃隊は36機、36機の72機は確定だし、当然1次攻撃隊の中で被害が軽い機体はそのあとの攻撃隊にまわるはずだし。ただ被害は相当でると思うよ。珊瑚海の5航戦の艦載機の被害をあてると40%以上はやられると思う。機体が薄いからね、なんてったって・・・
彼らにアメ車なみの艦載機に乗ってもらいたかったです。

あと基本的に爆弾や魚雷は、着艦の時は捨てるはずです。うまくいかずに失敗したら自軍の空母に「神風」しちゃいます。コメ21は敵が発見できずに、燃料スレスレまで飛んでと勝手に脳内変換してしまい、帰る時にポトリと考えちゃいました。

あとわたしの知ってる限りでは、「翔鶴」の雷撃隊の隊長の「市原辰雄」大尉と「瑞鶴」の飛行隊長の「島崎重和」少佐が、珊瑚海の時に索敵の失敗で米空母を発見できず、「ネオショー」を攻撃した折、艦攻隊は攻撃の機会を得ずして帰還の時に、「魚雷を捨てろ」の合図を無視して着艦したはずです。あと島崎少佐の方は「レキシントン」「ヨークタウン」攻撃の帰還の際に、敵の攻撃を受けて島崎機の仲間の電信員(だと思う。未確認っす)が重傷を負ったため、同機の機体の脚が出ないのにも関わらず「瑞鶴」に胴体着陸までしています。スゴイ!隊長さんです。
板谷少佐はどの空母に乗ってたんですか?雷撃の神様村田まで残っていたとは驚きましたね。
いやはや、この第2次攻撃隊が発艦できていたらなぁ…

そうそう俺が前に書いた損害率、攻撃機は66%でしたね。


攻撃隊が会敵できずに帰還した際、なるほどね。身重な身で着艦は危険ですな。着艦直前に爆弾投棄でしょうかね。
こんばんわ ザイドリッツさん

板谷少佐は「赤城」に乗ってました。ホントに2次攻撃隊のメンバーは豪華です。

山口の「ただちに・・・認む」の時、艦爆隊が敵に攻撃しないまでも、直ちに発艦させて、上空にて待機してもらい、空いた甲板に1次攻撃隊を収容、制空の零戦が何機か準備でき次第米空母へ攻撃開始ってのはできなかったのかな?とは考えちゃいます。各艦艦爆が18機ずつだし、艦攻みたいにおもいっきり重いわけでもないしね。2航戦の空母は足も速いんだし。発艦のための合成風力を作るのが時間がかかったのかもしれないけどね。そのために味方機が水上着陸しなきゃならんのなら話はまた別だけど・・・

1次攻撃隊の全機の収容が0620頃なんで40分から50分で収容した事なります。補給などを考えたら何機かは、護衛は付けれるかもしれませんね。そんで0630頃「利根」4号機が帰還したい旨を連絡してきたため、替わりの「筑摩」5号機が発進して、「利根」4号機の発見位置に行く途中でもう米空母に接触できたみたいなんで、この時刻なら艦爆隊も零戦の護衛付きで米空母を発見できたかもね。

あとそのまま上空待機してたら絶対に、ドーントレスの奇襲攻撃は受けなかったろうね。逆に打ち落としてるかもよ。(^o^)ただし2時間ほど上空にいなきゃならないけどね。(-.-)
こんばんわ ミッチーさん

機動部隊は1次攻撃隊を終了後に北に進路をとっています。つまり逆に米空母の方にグイグイ近づいていきます。多分この時点ではまだ米空母の数を知り得なかったんで、攻撃終了時の艦載機の収容のことを考えたのかもしれませんね。日本の見積もりでは米空母の数は最大2隻だったし、真珠湾の時も無線封止していたため、源田参謀が危険を承知でオアフ島へ艦隊を近づけています。パイロット出身だからの温情でした。

ミッドウェ−島からのダラダラした攻撃が終わり、艦載機の攻撃が始まったのが0620頃からみたいです。丁度第1次攻撃隊を収容した頃ですね。最初に機動部隊を発見したのが雷撃隊で、米3空母の雷撃機は8割以上零戦と対空砲火で打ち落とされました。戦闘機の護衛があったのは「ヨークタウン」隊だけで、「ホーネット」「エンタ−プライズ」の雷撃隊は「はだか」という戦闘機の援護なしで突っ込んできました。草鹿参謀たちが2航戦の艦爆隊を出さなかったわけがここにあります。

この雷撃機が零戦に打ち落とされるたびに、各空母では大喝采でした。ここに一種の安堵感みたいな気の緩みが発生したのかもしれませんね。零戦も空中から空下に降りてきていました。この瞬間に逆落としみたいに、急降下爆撃機が落ちてきて3空母が被弾しまhした。

この艦爆隊は「エンタ−プライズ」と「ヨークタウン」の隊で、特に「エンタ−プライズ」隊の方は、日本の空母をなかなか発見できなくて(「ホーネット」の艦爆隊はすでに引き返していました。)、あと5分飛んで見つけられなかったら引き返そうと考えていたらしいです。そこに潜水艦を警戒して、艦隊から少し離れて行動していた駆逐艦「嵐」をみつけます。ここも日本に運が無く「嵐」は艦隊に復帰しようと空母に追い付こうとしていました。そのあとをこっそり付けてきたのが「エンタ−プライズ」の艦爆隊です。この時「嵐」の見張りがこれを見付けていたら、あの悲劇は無かったろうね。

或は南雲部隊が南に進路をとって、この5分間分の距離をかせいでいたら「エンタープライズ」の雷撃隊も引き返した可能性は高かったと思いますよ。
ホント後付けの歴史を知るものとしては、あと少し逆の方向へ行ってくれていたら全艦が無事だったかもしれませんね。

まあミッドウェーを勝って3空母全てを沈めたとしても、まだ「サラトガ」と「ワスプ」があるし、イギリスからも空母借りることもできる。戦局は最終的には変わらなかったとは思います。アレレ・・・なんだか昔の「大和」コミュでこの後の事みんなで考えましたよね!懐かしいな(^o^)
こんばんわ ミッチーさん

アメリカ側からみるとミッドウェー海戦は、待ち伏せしての奇襲した戦いだと思います。情報戦を征して、「いつ」「何処に」「誰と」「何をしにきた」をほぼ把握していました。普通ここまで条件が揃うと、アメリカの完全勝利となるんだろうけど、実際にはそうならず、まさに薄氷を踏む勝利と思わせるまで盛り返したのは、現場の艦載機のパイロットや整備兵などの頑張りだったと思います。

軍令部や連合艦隊、そして機動部隊の指揮官たちのミスをその時々よく補ってきたと思いますよ。徹底的に受けに回されて、あと一歩たりなかったね。それを受けきれれば勝ったのは日本でした。南雲機動部隊のパイロットや空母乗り組み員の技量の高さがわかりますね。

でもね〜、きっと南雲は、それで東郷さんみたいに偉大な提督とか言われちゃうのかな?相手にさせる事は全てさせ、それでも見事に寄りきった横綱相撲であった。なんて風に・・・癪に障るね。
え〜それは聞き捨てならないですねぇ…

俺にはそんなに南雲を嫌う理由が解りませんなぁ。

逆に、飛龍1隻で猪のように突撃した山口の方が、よっぽど非難されるべきだと思いますよ。
アメリカとの大戦争をおっ始めて半年。まだまだ戦はこれからだと言うのに、有力かつ貴重な存在となった飛龍。
加来艦長や友永隊長を始めとする人材。
何より近代航空戦の権威の1人である自分自身。

それらを犠牲にし、1隻か2隻の敵空母と刺し違えようとした山口の行動は、俺は絶対に評価できません。
部下には、死なずに国の為に働いて貢献しろ、的なことを言ってましたが、彼自身がいの一番に職務放棄してどうするんですか?1人の提督を育てるのに数十年の月日がかかりますし、それに比例したお金もかかってます。無論国民からの税金ですよね。それに見合う働きをする前の自決的な行動。
彼がいなくなった後の日本のことをどう考えていたんでしょうか?俺には無責任としか思えませんね。
こんばんわ ザイドリッツさん

南雲は結局「源田実」という軍師を、信頼しきっていたということになりますかね。南雲機動部隊の「源田艦隊」とも揶揄されていました。まあ今で言うと「丸投げ」というにあたりますかしら。日常雑務や補給などの書類には几帳面に目を通し、細かく訂正を加えることもしばしばだった南雲も、航空作戦実施に至ってはすぐにすぐに受理したといいます。

この源田実という人物は頭が切れて、いつも明快に答えを返していたみたい。空母素人の南雲にはそれが小気味よく感じたのかもしれませんね。反面かなり頑固なところがあり、あまり他人の意見を聞かないなどの欠点も併せ持っていたそうです。

真珠湾の作戦打ち合わせのときに、翔鶴飛行隊長の「高橋赫一」少佐が、まず艦爆隊で敵の飛行場を叩き、それから艦船の攻撃すべきの意見具申も無視されたし、インド洋でも兵装転換を命じ現場が混乱したんだけど、それと同じ事をミッドウェーで繰り返しちゃってます。同じく山口もセイロン空襲の時、味方艦隊が敵に発見されたのを鑑み「敵機来襲の恐れあり」の意見具申も一蹴されています。

源田には戦闘機隊長の経験があり、アクロバット飛行などをして有名になったらしいが、実戦経験が無しであくまで机上プランを立てる役回りでした。雷撃中心の攻撃重視で、戦闘機の数を少なくしたことは、のちのミッドウェーでの敗戦の一因にもなると思います。ただ源田自身も自分の立てた作戦がなんの異議も唱えられず、スイスイ通ることに違和感があったとも回想されています。

「勝って兜の緒を締めよ」これはまさにこの時期無敵状態であった連合艦隊や南雲艦隊にいえる言葉だったと思うのね。たしかに連合艦隊の作った作戦自体は、「慢心」からくる物なのかかなり忙しくて、甘いご都合主義みたいなものが、まかり通ることになってしまいましたが、現場を預かる者としは、自分の命令一つで当然死ぬ人もでるのが戦争だから、それを少しでも少なくしなきゃならないのが、現場の大将の南雲の役目だとわたしゃ思うんだ。

連合艦隊がこさえたマニュアルに従って、それをきちんと遂行したんで南雲を責めるのは間違いかもしれないけど、それを甘いマニュアルを鵜呑みにしたのは現場監督としの失態だと思うのね。真珠湾であれほどおそれた敵空母がいるかもしれない海域での「一段索敵」、インド洋で経験済みの「敵前における兵装転換の危険性」など経験を生かしきれなかった印象もあるし。現場サイドで注意できるものはあったと思うのね。

戦史叢書「ミッドウェ−海戦」を書いた角田求士氏からの南雲評を抜粋します。

「普通水雷屋で飛行機に不馴れだったから、あんまり責めるのは可哀相だとの声が多いようだが、私個人の意見はそうじゃない。航空母艦に乗って半年も経てば、いいかげん、だいたいのことはわかるはずだ。南雲さん個人が飛行機を操縦して出かけるわけじゃるまいし。水雷屋であろうが、飛行機屋だろうが、戦術機略というものは、必ず共通分母があるはずだ。とっさの判断力というか、これはもう理屈じゃないよ。(略) それは枝葉末節のとこらは、わからん点はあるだろう。だからこそ航空参謀という者がついておる。しかしその総合というカナメのところは、しっかり握っていて、決断を下すべき責任が南雲さんにはあった。したがって、あの敗戦の責任の全部とはいわないまでも、一端はやはり長官であった南雲さんに負ってもらわなければならない。過酷ないい方になるかもしれないが、私個人はそう思っている。」
うん、そうですね。大体俺も同じ感想を持ってます。角田氏の意見も筋ですね。
ただ、氏は
『あの敗戦の全部とは言わないまでも一端は負うべき』
と言ってます。つまり『責任の一部』は彼にもある、です。俺もそれには異論はありません。しかし俺には世の南雲評は

『全て南雲が悪い』

と聞こえるんですよ。
角田氏の言葉の中に、『半年もやってりゃ解るだろ?』、『水雷だろうが航空だろうが根っこは同じ』ともあります。
いやしくも最高責任者たるもの『畑違いでした』という言い訳は通りませんよね。確かに南雲の責任も大きいでしょう。
『大和』でも書きましたが、機動部隊の長として南雲が適任だったとは俺も思いません。

ただね、ここからが俺の言いたいことなんですが、軍関係者、戦史マニアを含め南雲批判が多過ぎると感じます。
素人に任せたから
決断力に欠ける人物に任せたから

ダカラ負ケタ

と考えてる人が多い気がします。
考えてるのではなく、そう思いたい、思い込みたい、んじゃないかなぁ…

『山口や小沢に任せとけば勝てたはずだ』、『俺たちは決して弱くなかった。ただあの時、南雲なんかに任せてしまったのが間違いだったんだ』、『あれさえなければ俺たちは負けちゃいなかったんだ』…

そう思いたいだけなんじゃないかな、って思っちゃうんですよね。要は言い訳です。そして南雲1人をスケープゴートに祭り上げ、他の連中は知らん顔。
『アイツのせいで負けたんだ。わしのせいじゃない』と知らん顔。

これじゃ勝てる組織(軍)にはなりませんよ。何が悪かったのか?どうすれば勝てたのか?南雲に欠ける能力があったとして、では誰かフォローできなかったのか?前向きに研究分析をしなければならないと思うんですね。誰かのせいにして皆でイジメてる場合じゃないと思う訳です。

繰り返しになりますが、一番の責任は南雲にあると俺も考えてます。しかし山口の行動はどうなのか?(断っときますが俺は山口は大好きな提督ですよ)
山本はどうでしょう?機動部隊の数百kmも後方にいて高見の見物ですか?莫大な燃料を浪費して、米艦隊を全滅させる大作戦に形だけの参加。まるで祭りの山車ですよね。
源田の独断専行…。

南雲に全ての責任を押し付けた結果、彼らの行動はうやむやにされてる空気を感じます。

ミッドウェイは当時の日本軍が慢性的に抱えていた問題が表面化した戦いだったと思います。
こんばんわ ザイドリッツさん

なるほどね。うん、おっしゃりたいことはわかったつもりです。

歴史の中に埋もれてしまう影の部分、実際はそうじゃなかったのにそのように塗りかえられてしまった事って結構あるかもしれませんね。本能寺における「明智光秀」、関が原の「石田光成」などが思い浮かびました。

結局南雲はサイパンで戦死してしまうから、それ以降の批判を受けてもかれは何も反論できないわけだから、言わば「死人に口なし」「死んだ者損」になっちゃうわけですよね。わたしやザイドさんは、趣味で軍艦や戦記物が好きになり、そこで得られた知識を集約して「ミッドウェ−海戦」をある面正しく理解できるけど、興味が無い人達には、南雲はずっと敗北提督としての汚名を着せられて語り継がれていってしまうもんね。

民衆にそのような印象を深く刻み付けるのは「映画」や「漫画」「フィクション軍記」などの影響が大きいと思うよ。決してそれを否定するんじゃないけど、ただ「オモシロオカシク」じゃいけないとわたしゃ思うね。

源田実は漫画の「紫電改の鷹」で松山343空のことで有名だし、淵田はミッドウェーの「魔の5分間」を作りあげだ張本人の一人だし、そのスタンスに立つと彼らも歴史を捻じ曲げた人物に当たるのかもしれないよ。

淵田の自ら書いた回想記読んだけど、「ナルほど!」と思う事も多いが、結構後付けの印象もあるんだよね。彼の言う通りにしてれば真珠湾のタンクや港湾施設は破壊され、ミッドウェーでは索敵もきちんとして、山口の具申にも従い・・・みたいになっていくのね。それこそ南雲が「オレのいう事全部きけば勝っていた」につながりそうな感じを受けた。淵田はあまり南雲は好きじゃなかったのかもしれないね。辛口の部分が多い気がしたよ。かれは真珠湾の総隊長だったし、のちに出家(?)してキリスト教の伝導師で活躍していくから、あまり彼の言ってる事に、他の人が口出しはしないことは想像が容易にできる。南雲について書いている人は他にもいるだろうから、それぞれが複雑に絡みあっつて今日の「南雲像」ができたのかもしれないね。

前にも「大和コミュ」で書いたけど、映画「男大和」ででてくるF6Fの機銃掃射が人に当たればあんなもんじゃ済まないし、実際にミッドウェーで4空母に乗っていた乗組員の回想の話しはホント「生き地獄」だったらしい。例えば爆弾の投下で「加賀」の艦橋が消し飛んで、手足が降ってきたなんてのも読んだことある。悲惨すぎて映像や文にもならないのかもしれないけど、それを正しく伝える事は必要じゃないかとわたしゃ思うよ。そしてその悲惨さが間違いなく戦争の抑止力になるはずだよ。
「飛龍」と山口が生き残るかもしれないシナリオ考えてみたよ。

3空母が被弾し「赤城」から南雲の中将旗が降ろされるのをしると、山口はもう「我、航空戦の指揮をとる」と信号を発して、敵の空母の方に「飛龍」をむけます。南雲の次席指揮官は、第8戦隊の阿部弘毅少将なんだけど、「各損害艦に駆逐艦一隻をつけて主力部隊の方へ下がらせるように」と要請までしています。

この時阿部少将が「先任はわしじゃ!ただちに損傷空母を護衛し合流せよ」みたいな信号送ればあるいは「飛龍」は助かったかな?0725までに3空母が被弾し、0800にはもう小林道雄大尉の艦爆隊を、米空母に差し向けているからよっぽどの早業じゃないと無理だね。

あとは友永大尉の艦攻隊が攻撃を終えて帰って来た時が最後のチャンスかな。1230頃の帰還なんだけど、対空砲火などで使える機体も数少なく、「赤城」に使える機体はないか?の信号も送ったけどあるわけないし。でもその時はすでに米空母は3隻いるというのが、撃墜した雷撃機で「ヨークタウン」のパイロットや、「蒼龍」から発艦して「飛龍」のもどった彗星艦偵からの報告でわかっていたからね。もしこの情報が山口のもとに届かずに、2隻撃破したんでもう十分だとして引き上げ開始し、なんとか撤収に成功した。でも「飛龍」の被爆が1400頃なんでかなりの幸運が必要とされるけどね。

う〜ん、どれもかなりの無理筋だにゃ・・・この辺の歴史の捻じ曲げはかなり苦しいッス。

友永隊の生き残りの橋本敏男大尉の回想では「赤城などの3空母がやられた時、『やったな!仇はうってやるぞ。』との敵愾心を燃やした。飛龍一隻でなんとか敵空母を全滅させねばならない。という責任感が強く肩にのしかかってきた。(略)生死のことなど頭に浮かばなかった。母艦を飛び立ってからも恐怖は感じなかった」と述べられてます。もうかなり頭にきてる感じがします。おそらく山口も同じだったのでしょう。仲間がやられて殴られたら、殴り返したい気持ちに近いのかもね。
こんばんわ ミッチーさん

わたしもいろんな戦記物(ノンフィクションの方ね)読んだけど、本当に山口多聞は偉かった、すごい奴だったとの賞賛多く書かれていますね。

角田少将は自分が1つ兵学校の先輩なんだけど、「山口の下なら位を下げても働いてもいい」と言ってるし、不遜な態度が多かった同期の宇垣纏も戦藻録で「剛毅果断にして見識高く、(略)余の級の最も優秀の人傑を失うものなり」としています。あと口の悪い淵田中佐も「将器あり、連合艦隊司令官にしたい」みたい事が回想期に書いてあったと思います。勇敢に戦って散ったからもあるんだろうけどね。

わたしが出張って言う事じゃないかもしれないけど、ザイドさんは「山口多聞」が大好きなんだと思うよ。その死が悔しいほどに惜しまれるから、コメ31になったんだと思いますよ。
「お前が死んでどうするんだ!お前がこれから『飛龍』と伴に、この貴重な機動部隊を指揮しなくてはいけないのに・・・」なんてね。その辺は多分ミッチーさんもわたしも同じ気持ちだと思います。ただどう考えても3空母がやられた現状を考えるとあーなっちゃいますね。

憎むべきは「年功序列のシステム」なんでしょうね。いまの麻生さんの政治みてるとそれがまた繰り返されている気がします。このままでいいのかな?
はやひでさん
加賀は命中弾4発でしたっけ?艦橋が消し飛んだんですか!?米軍の爆弾は450kg。空母の小さな艦橋など1発なんですね。
手足がバラバラと…
恐ろしい話ですね。俺も北海の海戦の本を読んだことがありますけど、それはそれは悲惨でしたよ。艦内は血でヌルヌル。壁には脳ミソがこびり付き、みたいなね。
ま、あんまりグロい話も何ですからこの辺で…。

今『男大和』観てますけど、ヘルキャットの機銃掃射で一方的にやられますよね。全く手も足も出ず。相変わらずこういうの観ると悔しくて断腸の思いです。

こういう悲惨な状況を正しく伝える必要というのはあると思います。それにより戦争の悲惨さを知り、抑止力にも繋がるかと思います。
36 ミッチーさん
ご意見非常に興味深く拝読しました。
なるほど、そういった精神的側面から見た場合確かにそうですね。そして当時の日本海軍はどこよりも精神性を重んじる風潮がありましたから、その部分を無視して考える訳にはいきませんね。
ミッチーさんの仰る通り、もしも3空母を失って飛龍1隻がおめおめ逃げ帰っていたら、全軍の士気が大いに低下したのは間違いないでしょう。そして山口は閑職に追いやられ、『実質的に失われた人材』となるかもしれません…


あの戦争をまともに戦う為には合理化やマクロ的な視点、そして情報、通信、索敵、補給…などといったソフトを重視するなど、人間の根本的なモノの考え方から変えなくてはならず、山口や小沢、山本など当時の日本軍の中にあって数少ない頭の柔らかい人材には、つい期待し過ぎてしまってましたよ。

確かにミッドウェイのあの時に一矢報いなかったら、その後の日本ははなし崩し的に崩壊したかもしれません。
俺の考え方は『近代化』を求めるあまり、いささか当時の実状を軽視し過ぎた面がありました。
ミッチーさんの意見を聞き、また違った見方ができそうですよ。
ミッドウェーに話題がいっているので、ここで日米の空母の構造上の違いや被害対策、つまりダメージコントロールについて少々考えてみたいと思います。

日本の空母は「密閉多重層式」で「赤城」「加賀」「蒼龍」は急降下爆撃機の攻撃により、爆弾は飛行甲板を貫き、階下のどこかの格納庫内で爆発、魚雷や爆弾に誘爆し沈没にいたりました。さらに「赤城」と「飛龍」はエレベーターが吹き飛ばされているので、上手く爆風が逃がしきれていない証拠になると思います。

「飛龍」は少し違って、飛行甲板に航空機が無いのに火災が発生し拡大、それを止める事ができなかったんだけど、そこには「なんで?」の疑問符が付くと思うのね。消火装置は稼動し炭酸ガスは噴射されたけど火の勢いは衰えず、ホースでの消火が手一杯だったみたい。そうなると空母の構造上の問題があると十分考えられると思うんだ。爆弾の当たり所や乗り組み員の疲労なども考慮にいれなきゃならないんだろうけどね。

一方のアメリカは「解放式一段格納庫」になっています。まさに「シンプル・イズ・ベスト」の構造になっているよ。

攻撃を受けた場合、爆弾は飛行甲板を貫通するのは同じなんだけど、格納庫の床の部分は250?の爆弾を防ぐ装甲があり、まずここで爆発させて爆風は格納庫両側の開口部から外に逃がす事ができるのね。艦載機はワイヤーで固定させておくか、レーダーで敵の攻撃を察知できるので、あらかじめ空の上げて待機させることも可能だし。

もし初期消火に失敗したら、全員を格納庫から避難させて庫内の区画扉をしめて二酸化炭素を噴射開始。それが駄目なら逆にシャッターを開けて、スプリンクラー放水と専門の消火部隊を送りこみ、さらに航空機を含めた可燃物を海中に投棄して、さらに駆逐艦などからの放水を受ける手順があって、全員がこの訓練を受けるようになっています。

まあこのマニュアルは「エセックス」のもんなんで、ミッドウェーの時はどの程度まで?というのは少々疑問だけど、実際には「レキシントン」は消火に成功するも、その後の航空燃料の気化が原因での沈没だし、「ヨークタウン」は小林隊の艦爆隊の攻撃を受けるも消火に成功し、また友永隊の攻撃を受ける結果になっている。「ホーネット」はもう「大和」顔負けのしぶとさを誇った事を考えるとその先進性が伺えると思うのね。

あとこの後のまさに「泣きっ面にハチ」とも言える「三隈」の沈没は、魚雷発射管への攻撃による魚雷の誘爆が主原因といわれています。一方の「最上」の方は落伍した時点で、魚雷を廃棄していて助かっているから、艦を救うのは危険物の放棄も一つの方法ですよね。まあ貧乏な国だから、日本はあまりそのような発想はできなかったのかもしれないけどね。
真珠湾作戦は大成功した作戦として今の世の中に伝えられていますが、少ないと言えども犠牲となり、戦死された搭乗員の方もいます。

そこで数機を束ねていた分隊長クラスで戦死された方を、この軍人列伝に加えたいと思います。

まずは「蒼龍」の零戦搭乗員で、第2次攻撃隊に参加した飯田房太大尉。

「蒼龍」零戦隊9機の隊長で、第1小隊3機の隊長も兼任していました。「蒼龍」隊はオアフ島の制空任務が終了した後、カネオヘ基地へ移り、機銃掃射攻撃をした際に機体を打ち抜かれガソリンが漏れだします。その後傷ついた機体をもって、ベローズ基地へ移動し機銃掃射を行いますが、この時にホイラー飛行場を飛び立った5機のP36モホークの襲撃を受け、1機の撃墜を確認して撃退に成功するも、自小隊2番機の厚見峻一機が撃墜されてしまいました。

8機となった「蒼龍」零戦隊は編隊を組みなおし、再びカネオヘ基地へ向かいますが、その上空で飯田機は左右に大きくバンクを振り、基地へ急降下していきました。もう帰る燃料は残されていないと踏んだんでしょう。飛行艇の格納庫めがけて突っ込んでいきました。基地の各銃座からの攻撃は飯田機に集中し、無念にも飛行場の士官宿舎の道路に激突し、機体はこなごなに砕けてしまいました。

零戦は艦爆とは違い、抵抗板がないため過速に陥り易い為、舵が効かなくなったんのではないかとも考えられています。飯田大尉は出撃前に隊員たちを集めてこう訓示していました。「もし燃料タンクを射られ、帰途のガソリンがなくなったら、適当な目標を選んで自爆せよ。」彼は自らそれを実践したといえます。

映画「トラ・トラ・トラ」の中じゃ飯田機と思われる零戦がものの見事!?に格納庫への突入に成功して、大火災を発生させました。「パール・ハーバー」でもそんなシーンがあったような気がするにゃ。

あと飯田隊はまだ不幸が続きます。飯田小隊3番機の石井三郎二飛曹は、2度目のカネオヘ基地攻撃ののち、見方の隊と逸れてしまい機位を失ってしまいます。「蒼龍」を求め電波を出してくれるよう求めますが、機動部隊は無線封止している為にそれもかないませんでした。やがて長符が打たれそれが途切れた時、彼の機は燃料が切れ海中に没したと思われます。

一応飯田房太大尉の最後が目撃者が多く、日本とアメリカの両方で確認されていますが、その他では「加賀」の雷撃隊第二中隊長の鈴木三守大尉が、「オクラホマ」雷撃の直後に対空砲火で被弾しフォード島に激突。同じく「加賀」の第2次攻撃の艦爆第1中隊隊長の牧野三郎大尉が、「ネバダ」に爆弾投下した後、バーバスポイント基地銃撃中に、ホイラー飛行場から上がってきたP40トマホークに打ち落とされたと考えられています。(こんときゃこの2機に、「赤城」「加賀」の艦爆隊が8機!もやられちゃっていますのよ。)
宇垣中将の、生前最後の写真と思われるものです。 
敗戦の宣言がなされた後、自ら彗星に搭乗して数名の部下と共に特攻に出撃しました。
多くの若者たちを死に追いやった責任を自らの特攻という形で締めくくった行為に、賛否が分かれている事も事実ですがく〜(落胆した顔)
こんばんわ mini07さん

このトピが動いたのは久しぶり・・・(笑)

今までは白黒しか見た事が無かったので、カラー化すると、宇垣の表情がさらによく分かります。

この特攻に関しては、確かに賛否両論がありますね。

中津留達夫大尉達が志願しての事だから、宇垣にはあまり責任は無い気もします。井上成美や小沢治三郎が、「自決するなら一人でやれ!」って、これを聞いて激怒したのは有名かしら。戦後人の感覚ならまさにその通りなんだけど、戦中の人々は今じゃ推し量れない、敗戦という言葉の圧迫感があった様に思います。

おいら的には大戦全般を通して、宇垣は損な役回りをしたと思います。連合艦隊の参謀長で開戦を迎え、絶頂を極めた時もありますが、最後は5航艦の司令官。もう特攻を送り出す毎日で、彼の心情は計り知れないほどの苦しみがあったと思います。

山本機がブーゲンビルに散るのを目の当たりにして、レイテ沖海戦でも「大和」は沈まない。自分の運の強さを呪ったかも(笑)。最後は当たり前に自決を考えていたんじゃないかしら。でも怖くて出来なかった・・・そりゃ当然な感覚で、人間誰でも怖い怖い(笑)。

それでも多くの若い命は、この国の為に散華した・・・現場の将兵と司令部の温度差を感じます。
最新作です。 長門の後甲板で、山本五十六大将と宇垣さんが写ってます。

二人でどんな話をしていたのでしょうかねあせあせ

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