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WW?軍艦よもやま話コミュの手間隙かかった軍艦話し

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以前中学時代の同窓会がありました。その時の恩師と会話を持ったとき、わたしはあまり手のかからない生徒だったとおっしゃってました。ほっといても自分やってしまうタイプと見えたみたいです(自慢話じゃないですよ(^^ゞ、ほんと)。

やはり気にかけてたのが、当時のちょっとツッパていた不良グループや、いじめられていた子達に注意をそそいでいたそうです。そういえば昔からいいますよね。手のかかった子供の方が愛着があるなんて・・・

そこで!(゚o゚)と浮かんだのが、連合艦隊にも手のかかった軍艦さんが何隻がいると思いました。もちろん他の国の軍艦でもオーケーです。
あとプラモなんか作ってて「手がかかった」なんてのもいいですね(^O^)。
                             よろしくお願いします。
               

コメント(63)

魚雷艇から味方戦艦を守る為に作られたのが駆逐艦ですね。そのうち自らも雷撃能力を持つようになります。

その上のサイズが巡洋艦。駆逐艦より何か一芸に秀でてるスペシャリストです。それが索敵であったり、水雷であったり、防空、水上打撃、何かの母艦、通商破壊…
様々あるだけで、重、軽の区別とは関係ないと思います。巡洋艦も戦艦と一緒に大型化しており、排水量も火力も拡大の一途をたどってましたから、あれはあの時の条約でとりあえず決めた分け方だと思います。

日本の軽巡は水雷型が多く、妙高級や高雄級は水上打撃型、つまり戦艦の小型版。利根級と最上は索敵能力に特化した巡洋艦と言えるでしょう。


というのが私の考えです。


書いてて気付いたんですが、欧州のどこかの国では駆逐艦を数隻作る時、1隻を少し大き目に作りました。これを『教導駆逐艦』と称しましたが、司令部設備を有し水雷戦隊のアタマにした訳です。
一方日本海軍では、軽巡洋艦を先頭に切り込みます。
欧米と日本の違いが現れてますね。

アメリカでは軽巡(アトランタ級)に防空を担当させていますが、日本は駆逐艦(秋月級)に任せてますね。
この辺にも違いがハッキリ出てます。
なるほど、もともとは護衛艦艇の性格が強かったのですね、駆逐艦は。

少し前まで英字新聞を購読してましたが、イージス艦は「イージス・デストロイヤー」と書かれてました。

デストロイヤー=駆逐艦。

イージス艦は、国家そのものの護衛艦艇、と解釈してます。
こんばんわ(^o^) ザイドさん、スタヤンカさん

手元の資料いろいろ(普通の本ですが・・・)調べて「軽巡」「駆逐艦」についてまとめてみました。

「軽巡」の本来の役目は「スカウト」つまり「偵察」でした。1920年辺りの「天龍」や「5500?」クラスは、八八艦隊構想のもとそのような役目で建造されています。

日本海開戦の時「信濃丸」が「敵艦見ゆ!」の打電をしたように、敵が進んできそうな海域に駆逐艦を散らして索敵し、その駆逐艦群の統制や通信の中継を行うの「軽巡」です。見つけたら直ちに駆逐艦を指揮して攻撃を開始し、味方を有利に導きます。

アメリカの軽巡「オマハ」級も同じ様に駆逐艦を率いる旗艦として建造されました。もし開戦が1920年くらいだったら、艦隊決戦の前段階で両国の水雷戦隊が激突したはずです。

1920年初期アメリカには、空母とその艦載機、その護衛艦を含む「空母打撃群」(タスク・フォースの一種)の構想がうまれ、「レキシントン」の就役によりそれが現実化していきます。1936年のロンドン条約失効となるとこの構想に基づき、「軽巡」「駆逐艦」はそれにあった空母を守る為の護衛艦の色が強く浮き出た対潜の充実、対空砲火の強力な艦艇を建造していきました。

一方の日本は非常に優秀な船体設計と機関を積んだ「軽巡」「駆逐艦」を産み出しますが、斬減作戦の迎撃艦艇の類から思想的に脱却できず、レーダーなどの電子機器の整備の遅れや、「阿賀野」は水雷戦隊旗艦、「大淀」は潜水艦隊旗艦、「駆逐艦」は対艦雷撃専門などの、「偏り」がみられ対空、対潜能力の欠如が見られてしまいます。大戦後期にようやく駆逐艦「松」級で簡易設計で、対空・対潜・生産性を高めた戦争の実情にあった初の駆逐艦をつくりだしました。

てななんじです。いろんな本のいろんな文を合体させたとこもあるんで、すこし理解し難いところはカンベンしてちょ。(^o^)



手間隙かかった軍艦話し

今回は日本海海戦の武勲艦「三笠」をピックアウトしたいと思います。まあ正確にいうとWW2じゃないんだけど記念艦としては存在していたし、この勝利がのちの大艦巨砲主義へひた走るきっかけにもなるんで取り上げたいと思います。

「三笠」は「敷島」型の4番艦にあたり、「敷島」型に副砲防御などの改良を加えた、排水量が15000?の日露開戦時には世界でも最有力の戦艦でした。日本海海戦の大勝利から3か月後の1905年9月、「三笠」は佐世保港内で後部艦橋付近から火災、火薬庫に引火して爆沈してしまいます。原因は火薬の自然変質が有力で、「松島」「筑波」「河内」などもその後爆沈しています。

1年かけてようやく浮揚に成功して修理開始、1908年4月に艦隊に復帰します。
その後は続々就航する新鋭艦に道をゆずり、舞鶴所属のため主に日本海方面の警備に従事し、運命の「ワシントン条約」をむかえます。

この条約は1921年の11月より会議がはじまり、翌年の2月に調印がされました。この時「長門」は完成、「陸奥」も促進工事にまい進しており、「加賀」「土佐」も進水を急いでいました。対して旧式艦は戦艦に数えられると不利になると考えられ、「三笠」「敷島」「朝日」などは一等海防艦とし戦力の低下を防ごうとしていました。

しかし1921年9月に「三笠」は海防艦になった直後、浦塩付近で座礁事故を起こしてしまいます。これはかなりひどい事故で一時は沈没の危機もありましたが、なんとか離礁に成功して応急処置を施ますが、条約で廃艦になる可能性が極めて高いため以前のような修理は行われませんでした。まさに「沈まない」程度の処置でした。そして条約締結に基づき1922年3月には廃艦が決定します。

「三笠」は横須賀に回航され、無残にも吉倉沖の廃船置き場に身を寄せて、過去の栄光とはほど遠い除籍の時一年半を待つこととなります。

「三笠」を救え!1923年6月頃よりそんな声が響きはじめました。ジャパン・タイムス紙に取り上げられ、その声はやがて合唱になり「三笠保存委員会」がつくられます。

そんなおり1923年9月は関東大震災が発生し、「沈まない」程度の処置の為だった為、「三笠」は岸壁に船体を擦り上げて破口部を拡大してしまい、排水ポンプでも手が負えない状況になってしまいました。もはや軍艦ではない為お金はかけれないので、白浜沖に曳航して無理矢理座礁させて艦位を保ち、その後現在の位置で固定させたわけです。

わたしゃ、本当の意味での「戦艦」は「三笠」だと思うのね。「大和」「武蔵」なんかは実際には見れないし、大戦中はその存在も民衆レベルでは当然知るすべもなかったしね。戦後になっていろんな本で「大和」なんかを知り、それが最高レベルの戦艦だと解かるとそれを作り出したこと民族の誇りに思うみたいな・・・日本人特有のすごく安易な印象を受けるんだ。決して「大和」を馬鹿にするもんじゃないんだけどね。
こんにちは みーくんさん

昭和10年に三笠保存委員会より発刊された「聖将東郷と霊艦三笠」という本(しかし、すごい(゚o゚)ネーミングだね)が、東郷元帥と三笠についての資料を統合して、正確な史実を伝えているみたいです。

「どうあっても三笠を救わねばならぬ」
最初に一声をあげたのが、当時砲術学校長であった「樺山可成(かばやまよしなり)」少将で、氏と親交があったのがジャパン・タイムス紙主筆の「芝染太郎」氏です。1923年6月ジャパン・タイムス紙の社説で、芝氏は連日のように三笠保存を絶叫し、その反響によって全国の各新聞社もそれを転写、日本全土に運動に広がっていったそうです。

政府としては軍縮条約でしばられて「三笠保存」を言い出しかねていましたので、1924年3月「三笠保存会」が設立され、同会が英米伊仏の各大使あてに「陳情書」を作成し、同年の秋に各国の了承を得ることができました。翌年すぐに閣議決定され保存作業が施されていきます。
         (福井静雄氏「日本戦艦物語?、?より要約・抜粋)

「三笠」が廃船同様に扱われて廃船置き場に泊められている姿は、多くの横須賀市民の目にもとまっていたみたいだし、保存運動がすぐに盛り上がりをみせたのは理解容易な所です。英雄東郷元帥がその会の名誉会長であり、募金の第一番目だったことも募金活動にも有効だったでしょうね。

「三笠」の痛々しい姿のその原因は2度目の「座礁」事故でした。案外あの事故が「三笠」を救ったのかもしれません。そうじゃなかなったら練習特務艦になった「富士」「敷島」や、最後は工作船で活躍した「朝日」みたいな地味な任務についていたのかもしれませんね。

わたしゃ、まだ「三笠」見た事無いのですよ〜。横浜の「氷川丸」は乗ったことあるんだけどね。ほーんと「雪風」引退する時返してほしかったですよね。パンダよりよっぽど効果ある(?)かもしれないのに・・・わたしとみーくんさんだけかな?
こんばんわ みーくんさん

「氷川丸」に行ったのは今からもう20年近く前になります。ホテル「ニュー・グランド」に泊まってたんで、その目の前が偶然「氷川丸」でした。病院船なんだから霊安室は当然あったろうし、遺体処理施設があっても不思議じゃないですよね。

「瑞鶴」で97艦攻のパイロットが銃撃で打たれて機中で絶命したことあって、操縦士は無事だったから機はもどってこれたんだけど、そのパイロットを荼毘に伏したいとの同僚達の強い意思により、ホルマリンを体に一杯塗って陸まで腐敗を防いで持ってきたというのを読んだんだけど、これはかなり特別だったみたい。「軍艦」じゃやっぱり水葬にするのかな?

戦後の「三笠」もかなり荒れていたみたいですね。いろんな装備を盗まれたりしてたみたいだし、「キャバレー トウゴウ」もあった。ここでまたジャパン・タイムス紙の投稿記事が取り上げられ、従軍記者だった伊藤正徳氏やアメリカの太平洋艦隊司令官のC・W・ニミッツ提督なんかの協力などから「三笠保存委員会」が再発足しました。

はっ(!)と思ったんですけど、上野動物園に「パンダ」はもう来ているのでしょうか?
それともいる、要らないでまだ揉めて(゚.゚)いるんですかねぇ〜
戦艦三笠を見たいのですが、遠くて中々です。

見学された皆様、見た印象はどうでしたか?

30センチ砲搭は、やはり大きかったのでしょうか。

トピ話題には関係ないかも知れませんが、興味ある艦艇です。
こんばんわ スキンラバーさん

わたしも三笠は見た事はないんですが、真珠湾で「ミズーリ」は見てきました。興味ない艦艇でしたらごめんなさい。

ちょうど9/11のテロの半年後くらいあとだったんだけど、すごく警備が厳しくてね。日本人の観光ツアーも開催されてなくて、気乗りしてないうちのかみサン引きずって、現地バスで片道一時間半かけていってきました。

丘を下ると真珠湾が見え出して、もうそこから「ミズーリ」が見え出すんだけど、もううれしくてね(^o^)。「軍艦」に一目ボレするってこのことかな〜と思いました。
中に入るまで色々あったんだけどそれは置いといて、乗った時のわたしの写真の顔は嬉しさのあまり引き攣っておりました。

「ミズーリ」は「大和」より長くて、逆に艦幅はなくてスマートに見えるけど、実際乗ったらそんな事はぜんぜん感じなかったです。すごくゆったりしていて、「こんな船が沈むことはありえないなぁ」と感じました。なんか「大和」とダブってね。70年前に「大和」にのった方々も同じことおもったんじゃないかな?

40cm50口径の主砲は艦の長さに妙にマッチしているし、12・7cmの副砲群はもう小さな小屋の集まりみたい。その装甲もかなり厚かったしね。ブリッチには「コマンダーシート」がサルの越し掛けみたいになっていて、ここにスプルアンスやミニッツがいたんだ!と思うともう鼻血出そうでしたよ。艦内はすごく機能的な印象でした。なんでもコンパクトにできててね。あと大きな食堂に端に手術台がありました。ことあらばここを野戦病院みたいに使うんだろうね、きっと。

「戦艦」には人を魅了する何か「力強さ」があるんじゃないかな?WW2の間は「空母」にその座を譲る結果になったのはご存知のごとくだけど、「空母」にはそれを感じなかったのね。「イントレピッド」や「キティホーク」も乗った時はあんまり興奮しなかったしね。「戦艦」は大きくて、なんてったって「重くて頑丈」だからね。そんな簡単にやられない! 「大艦巨砲主義」なんて案外そんな所から影響を受けているのかもしれないですね。
25スタヤンカさん
大規模な艦隊は遠距離からのミサイル攻撃にさらされるので、艦隊の楯となって対艦ミサイルを迎撃するのがイージス艦の主な任務です。
『対艦ミサイルを駆逐する』という意味では駆逐艦とも言えますね。

ちなみに巡洋艦の語源であるクルーザー(cruiserだったかな?)は、索敵の為にジグザグ運動をしてたらしいんですよね。そのクロスする動きからクルーザーと呼ばれる様になったらしいです。
連絡能力に信頼性が無い時代なら、通信設備自体が大きく(マスト自体を高くすることや、マスト間の間隔を広げ空中線アンテナの長さを確保する等)なるし、司令部設備も確保するとなると、やはり駆逐艦より大型のサイズになっちゃうんでしょうね。

はやひでさん
アメリカのオマハ級も水雷戦隊のアタマでしたか。

またまたトピズレ失礼。
>はやひで様

いゃあ、米戦艦も実際に見たら凄いでしょう…。

私は、まだ、軍艦を見学した事はありません。

大砲に凄く興味があって、陸上自衛官になって、155ミリ榴弾砲員に成っちゃったくらいです。

戦艦のタイプは色々でしょうが、戦うエネルギーが充満した雰囲気は好きです。

ダイビングして、戦艦長門とかも見たいのですが、不景気時代に突入した私ですので、予算は中々です。

色んな世界を体験したいです。
こんばんわ

ザイドリッツさん お久しぶりです。

ネイバルホリデーのアメリカ海軍の戦術ドクトリンも、ほぼ日本と同じような艦隊決戦の構想が強かったみたいです。そのため駆逐艦も重武装ですが高重心、復元性の悪さはかなりのもんでした。こうなると荒れ海にはかなりの危険が伴いますよね。

そこで「オマハ」級とWW?で多数建造された「フラットデッキ」級の古いの駆逐艦を組み合わせて索敵水雷戦隊として、その内側つまり主力艦隊のそばでの水雷部隊として考えられたにが指揮駆逐艦を中心にした近接水雷戦隊になります。アメリカは日本とはそこが少し違い2種類の水雷戦隊を構想してたみたい。日本は「軽巡」に索敵から、旗艦としての攻撃指揮まで全部を任せたみたいなもんですもん。

みーくんさん

もー!最高でしたよ。以前スカパーでWW2軍艦ランキングみたいのをやっていて、その1位は「アイオワ」級でした。わたしゃ、てっきり「大和」だとおもっていたら「大和」はランク外でした。まあアメリカからみれば「大和」は何も活躍してないわけだし、レーダーなんかの近代設備もなかったしね。ただデカイ大砲積んだ時代遅れの戦艦にしかみえないんだろうね。ただ「フッド」や「ビスマルク」はランクインしてるは合点がいかないなぁ。何故だろ?

スキンラバーさん

自衛官さんだったんだ〜! そりゃ軍艦に詳しいはずですね(^o^)
ほんとに大砲ぶっぱなしてたんだから、あれってやっぱり「快感!」(薬師丸ひろ子風)ですかね?

「長門」のビキニ島に沈んでる映像みたことあるんですけど、もう魚の住処になってました。水深は浅いみたいだし、自然浄化がすすんでかなりの透明度があるみたいでしたよ。近くには「サラトガ」もいるみたいだし。
ディスカバリーチャンネルのトップ10シリーズは全て保存してますよ。
戦車、装甲車、戦闘機(なぜか2通り)、爆撃機、ヘリコプター、軍艦、銃、武器…だったかな。
でもディスカバリーチャンネルってどうです?色々あるけどハッキリ言ってつまらないですね。スカパー引いた当初は夢中で観てたけど…

あの軍艦トップ10はかなり不満ですな。まがりなりにも大和は『人類が作り上げた史上最大最強の戦艦』というだけでも評価できるはずなのに。やっぱりアメ公は負けず嫌いですね。呆れ返る程に…。

フッドは人気、ビスマルクは脅威の点での評価でしょうね。

うちらでトップ10決めましょうよわーい(嬉しい顔)
こんばんわ ザイドリッツさん みーくんさん

ザイドさんもみた事ありましたか!みーくんさんもみたら結構腹立つよ、きっと。ほんと信憑性に欠ける印象がありますよね。完全に日本は無視でした。戦闘機もみたことあるんですけど、あれの中で「零戦」が入ってましたかね?あっても相当下の(9位か、10位くらい)か、ランク外の記憶があるのね。すくなくても「零戦」が無敵の時代は一年くらいはあったし、腕のいいパイロットなら戦争中期でも十分通用したのは間違いなく事実だし。かなりの偏りありますよね。

「みんなのトップテン」というトピ作ってみました。もし主旨が違うようなら取り消すんで教えて下さい。
その案は大賛成です。

零戦は、はやひでさんの記憶が正しいです。
零戦やコルセアは次点扱いとして紹介されてます。
百歩譲ったとして、仮に零戦がトップ10に選ばれなかったとしても、コルセアと同格に語られる機体ではありませんよ。
防弾や急降下性能など致命的な欠点があったとしても、零戦は間違いなく世界の航空史上に残る傑作機です。

これ以上はトピズレになるんで、新しいトピの方へ行きます警官
せっかく「三笠」がでているので・・・チョイと寄り道しますが、「三笠」とともに戦った他の3戦艦や装甲巡洋艦のその後の艦生にも触れてみたいと思います。

「初瀬」と「八島」は日本海海戦の前ですでに沈没してるのでここでは除外しますね。

戦艦「富士」は日露開戦時は一番古い戦艦になっていました。大正元年には戦艦としての価値はすでに失われておりましたが、船齢はまだ15年しか経っていなかったので、ボイラーを交換して運用術練習艦として運用されました。ワシントン条約により破棄が決定された「土佐」「加賀」を、呉と横須賀に引っ張っていったのが「富士」でした。さらに同条約により「富士」は武装解除して、練習用として保存されていましたが、昭和の始めに横須賀の吉倉海岸に繋留され、艦上に木造の建物を建てて学生用の講堂として使用されました。開戦前に勝力埼に繋留替えされ、昭和20年の7月、横須賀空爆のさい火災を発生し、そのまま老齢のため大破着底してしまいました。

「敷島」は大正10年に一等海防艦へ、さらにワ条約にて「富士」と同じく練習艦となりました。佐世保にて練習艦の任務を続け終戦時も被害を受けず健在でした。かなりの幸運艦です。

「朝日」はなんと太平洋戦争でも実は大活躍しています。戦艦じゃないけど・・・
練習艦になったのは「敷島」などと同じ経緯だったんですが、呉での練習艦というのが「朝日」の運命を変えました。大正末期に潜水艦の事故が続き、それに対応するための潜水艦救助船の装備を与えられたのをきっかけとして、「工作艦」としてつかわれました。

昭和12年の日華事変のために本格的に本格的な改装をうけて上海方面に出動し、「明石」が完成するまで唯一の工作艦として大活躍します。昭和17年の3月シンガポールのセレター軍港付近の掃海作業を待ち、進出間も無い101工作部隊の目も回るくらいの忙しい中を、一番に応援に駆けつけたのが「朝日工作部」でした。
しかし日華事変により長く第一線にあった「朝日」自体にも修理が必要となってきたため、久しぶりの母港の呉に向う途中の昭和17年5月、カムラン湾にて米潜水艦により雷撃をうけ長い艦生に終止符を打ちました。
装甲巡洋艦に移りたいと思います。

日露戦争に参加した装甲巡は8隻ありました。「浅間」「常磐」「出雲」「八雲」「吾妻」「磐手」「日進」「春日」の8隻です。これらの装甲巡はワシントン、ロンドンの両条約の制限を受けず(まあ、古すぎて役に立たないの理由ですが)保有されました。WW?に連合国側で参戦したため、これらの艦は太平洋の全域、沿海州、インド洋など広い地域で海域の警備などを行い、大戦後は候補生の練習航海に使われました。それでは何隻かのその後の艦生を辿ってみたいと思います。

「八雲」「磐手」の2隻は長く候補生の遠洋航海に使われました。最後が昭和14年でその後には新鋭の練習巡洋艦の「香取」「鹿島」に道をゆずります。太平洋戦争中は呉で学生の練習艦として使われましたが「磐手」は昭和20年7月の呉空襲で大波着底しますが、「八雲」はしぶとく生き残り戦後復員船としても活躍しています。

「常磐」は大正11年に敷設艦に改造されました。母港が佐世保のため主に中国沿岸部で警備を担当していましたが、開戦とともに防備、機雷敷設のためマーシャル方面に老齢を推して出撃しています。昭和19年から20にかけて本土決戦に備えて、日本沿岸部で機雷敷設のため奔走しますが、終戦直前の8月9日大湊付近で、米艦載機の猛撃を受けて進水著しかったので、自ら座礁した姿で終戦を迎えました。

「出雲」は満州事変に始まる日華事変の全期間の間、支那方面艦隊の旗艦を努めました。おもに上海に碇泊し、老齢ながらもその威容を保っていたといいます。昭和18年に呉に帰港してからは練習船として使われましたが、昭和20年の7月の呉空襲で、「磐手」とともに転覆着底してしまいました。

「日進」はどちらかというと日本海海戦での活躍の方が有名かもしれませんね。「三笠」などの戦艦戦隊の殿を努めたのが「日進」で、敵の猛烈な砲撃を受けました。イタリア生まれのための独特な艦影も影響したみたいです。のちの連合艦隊司令長官の高野五十六も乗艦しており、この戦いで指を2本失いました。もし3本なら除隊になってしまうところで、もしそうなってたらまた歴史は変わたと思います。多分政治家になって、案外日本は対米戦を避ける事ができたかもしれませんね。
その「日進」はWW?当時は地中海にまで遠征しています。機関の調子落ちが早く昭和10年に廃艦となり、呉の港外で実験標的艦として供され沈没しました。
こんにちわ みーくんさん

「出雲」はそうでしょうね、古いながらも品格が漂う老舗のホテルのような艦内だったと思います。なんといっても中国方面における艦隊旗艦ですからね。さらに日露戦の時は第2艦隊の上村中将の旗艦でした。旗艦勤務が多かったせいなのかもしれませんね。

あと「八雲」は復員作業を終えて解体される時に、艦長室や居住区にあったドイツ製の立派な調度品を、日中戦争で日本が攻撃して大波させた砲艦「逸仙」に移し、中国に返還する時その「逸仙」の艦長室に飾られて再利用されています。

この時代の装甲巡の名前は似てるんですよね。「出雲」と「八雲」、「磐手」と「常磐」てな具合・・・WW2に出てくる軍艦の方が覚えやすいと思います。
時代の産物って言われた艦艇達の生き方、凄く興味あります。

装甲巡洋艦って、全長短く、カワイイ感じです。

戦艦摂津が、標的艦じゃあなかったら面白かったのに‥。
こんばんわ スキンラバーさん

お久しぶりですね。老齢艦ってなになら哀愁が漂ってますよね。わたしも特務艦やこのような、お年ながらも活躍した軍艦が大好きです。

戦艦「摂津」はワシントン条約に基ずき戦艦「陸奥」の替わりに破棄され、その後標的艦となりましたよね。さてさて「陸奥」と「摂津」は、どちらが連合艦隊に貢献したかというと「摂津」のほうが遥かに貢献度が大!じゃないかな?

「陸奥」の保有のかわりに、アメリカは「ウエストバージニア」と「コロラド」の保有が許可され、イギリスは「ネル」「ロド」の2戦艦の建造をゆるされました。1艦の保有の替わりに2艦が増えちゃ身も蓋もないような・・・その上「陸奥」の最後は、ご存知の如くなんら貢献する事無く「爆沈」だったから。

「摂津」にしても仮に保有されても、あの性能では練習戦艦くらいが関の山だし。ある意味「トラバーユの成功組」みたいにわたしゃ思います。「摂津」のお陰で空母のパイロットの技量を上げたのはいうまでもないし、他の軍艦にしても同じくらい「摂津」を目標として、砲弾や魚雷撃ちまくったろうしね。

エリートと雑草・・・「陸奥」と「摂津」にはこんな言葉は似合いそうじゃないです?
>はやひで様

標的艦・摂津の役割は凄かったですね。

技量の底上げに貢献しました。

一方、ワシントン条約で陸奥の交換条件は誰が考えても不利でしょうね。

40センチ砲の戦艦、普通に考えれば米国と日本が1隻づつでも良かったでしょう。

しかし、米国3隻、日本2隻、英国2隻の結果となってしまい、対米比率と同じ砲門数になるのですし‥。

ドツボ的な領域に入り込んだ分岐点の1ツなんでしょうかね?

同型タイプの中には、運命格差もありますね。

戦艦・河内も爆発事故ですし、兄弟仲良く沈んだのは、扶桑級と伊勢級程度でしょうか‥。

陸奥の爆沈には、ガックリしたでしょうね。

言葉すら思い浮かびませんよ‥‥。
こんばんわ スキンラバーさん

同型艦で同じように沈んだ軍艦を考えてみたしたよ。

戦艦「比叡」と「霧島」は仲良く舵をやられて、さらにキングストン弁を開くという同じ方法で葬られています。
空母「蒼龍」と「飛龍」は準姉妹艦みたいなもんなんで入れてみました。
重巡では幸運の「第4戦隊」と呼ばれた「高雄」「愛宕」「摩耶」「鳥海」ですが、レイテ沖で「高雄」を除く3隻が揃って海の底へ案内されてしまいました。「高雄」も半身不随でそのまま終戦をむかえます。
「最上」「鈴谷」も海域こそ違いますが同じレイテ沖海戦で沈没しました。
駆逐艦では「満潮」「山雲」「朝雲」の朝潮型の3隻がスリガオで沈められました。
陽炎型の「はぎ風」(←変換できず)「嵐」の2隻がベラ湾で米駆逐艦の餌食にされました。
秋月型で「秋月」「初月」はエンガノ岬沖で両艦とも奮戦の末沈没しました。

こんな感じかな。思い出すがまま書いたんで、勘違いや抜けてるのあるかもね。そんときゃゴメンね。

あと「陸奥」も戦中は活躍しなかったけど、戦後引き上げられて江田島や山口県の陸奥記念館で主砲や艦首の一部が展示されています。行ったことはないんだけどね。こう考えれば「陸奥」も後世に対して貢献しているかもね。
お疲れ様です

先日、帰省した際に大和ミュージアムに寄ったのでアップします。左から陸奥の主砲、スクリュー、右端に僅かに映っているのが、舵です。圧倒的な巨大さです。
こんにちわ まりんが乙さん

いいですね、行って来たんだ〜山ミュ。わたしゃまだ行った事無いのです、トホホ・・・(笑)

「陸奥」の主砲とスクリューやはりデカイね。「陸奥」の引き揚げ時の写真集を持っているんですが、赤茶けていてヘドロがいっぱい付いていました。ピカピカになるのは嬉しい限りです。

他にはどんなのがあったの?マイミクさんの一人は山ミュで「赤城」の模型に一目惚れしたといたし、「金剛」の機関の模型もあるんじゃなかったかしら?「金剛」だと2次改装前の古い方の機関なのかもね。宜しかったら色々教えてチョンマゲ。(笑)
お疲れ様です

ピンぼけ写真で申し訳ありませんあせあせ(飛び散る汗)「金剛」のボイラー二次改装前の石炭時代のものです。はやひでさんが見たら号泣モノでしょう(笑)。機関員が熱いです!
模型としては1/100の「金剛」「摩耶」等も目を見張るモノがあります。

その他、あまりにも色々あるので追々書き込みさせていただきます。

特に実機復元の零戦62型、陸奥の艦体の部品類、海竜などついてはかつては京都の嵐山美術館(現在閉館)にあったもので、学生時代よく見に行ったものです。
こんにちわ

でもよくこんな機関を保存していたなぁ〜。調べてみたら「金剛」の第2次改装は横須賀工廠、わたしゃてっきり呉だと思っていたよ。英国製という事でキープしたのかしらん。

1/100の「金剛」「摩耶」まであるんだ!すげぇすげぇ・・・「金剛」なら第1次改装くらい姿好き。2次改装でもいいんだけど、チョイ艦橋周りが重くなった感じがしてね。艦尾のスタンウォークも無くなっちゃうし。

「摩耶」は戦中改装の対空強化型かな?あの姿は好き。艦橋前に据えられた3連装機銃群は、視界が広く会心の出来みたい。くぅ〜、行ってみたい。(笑)
お疲れ様です みーくんさん

帰省の日程的な事情でミュージアムに滞在できたのは一時間程度だったので、1/100及び1/200の模型に関しては撮影できませんでした。

みーくんさんも是非行ってみてください。ミュージアムの向かいには「てつのくじら館(海上自衛隊呉資料館)」等もあり、周辺見所満載です。
お疲れ様です はやひでさん

「摩耶」に関しては対空兵装備強化前の姿だった様に思います。艦体中央付近に気を取られてうっかり前部を見流してしまったのですが、僕もあの「摩耶」の対空強化後の姿は好きなので、そうなっていたら気付いていたと思います。


模型以外にも、当時の大和乗組員の写真、家族に宛てた手紙や遺書、遺品、戦死者名簿等があります。


今回で三回目の訪問になるのですが、今回は当時の戦闘の激しさを物語る物として、血痕の付いた戦艦「日向」の軍艦旗が深く印象に残りました。これらのものを見ていると先人方が「もっと真剣に生きろ。もっといい世の中を作れ。」と叱責してくださっている様に感じます。

最後に大和の艦首を型取った呉港の岸壁をアップします。(編集すると縮小するのでそのまま上げます)


来るたびに思うのですが、この呉の海の景色はとてもやさしく癒してくれるように思います。すました顔したような新型の出来たてのタンカーが接岸されていたり、沖にはよく「おおすみ型護衛艦」がたたずんでいます。(写メにもシルエットが映ってます)
あの時代に出撃した兵士や艦艇の今も待ち続けているようにも見えます。呉に限らず、佐世保、舞鶴、横須賀、それ以外の港ももちろんそうなのでしょうけど‥

はやひでさんも是非行ってみてください。僕もまた行きますし、今後は沖縄の記念館や知覧、ハワイのミズーリにも行ってみたいと思います。
こんばんわ まりんが乙さん

潜入レポート感謝多謝。「大和」もさすがにデカイなぁ〜。これを建造(笑)中に、何らかの情報伝達がおかしな事になって、中国じゃまた日本が戦艦を建造、軍国の道を歩き始めたという報道がなされ、デモや日本人の排斥運動が強まった記憶があるよ。

あと「大和」の艦首がそのまま岸壁の形にもなっているんだね、こりゃ初めてしりましたよ。また遺品や日記、なども展示されて、さらに血糊が付いた「日向」の軍艦旗・・・。あくまでも旧海軍の博物館の一面、平和博物館でもあるんだね。

世界に優る海軍を生み出し、それを支えた日本人。全く偉いもんだ。その技術は敗戦日本の復興を促し、また有数の先進国に復活・・・このような文化を無くしちゃご先祖様達に申し訳が立たない気がしてきたよ。「三笠」同様に大事にして守り抜きたい施設だね。

もう〜見どころが満載だね。マジで行きたい・・・カミさんに相談してみようかな。
管理人 はやひで様
お誕生日おめでとうございます。と言うかお久しぶりです。(場違いな書き込みお許しくださいあせあせ(飛び散る汗))

今年の夏、帰省の際に大和ミュージアムに寄ったので以前話題にのぼった重巡・摩耶の模型をアップします。やはり改装後の対空兵装強化の姿でした。縮尺は確か1/100です。(^O^)

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