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オスマン帝国コミュのもし・・・ウィーン包囲で、オスマンが勝っていたら・・・

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コメント(11)

第一次包囲のほうが勝つ可能性は高かったのでは?
スレイマン大帝のときだったし、フランス(フランソワ1世)と組んでたし、
さらに宗教改革がカール5世の足もとを脅かしてたし、
英国のヘンリー8世も離婚問題を言い訳に離反するし…。

まさに内憂外患。
>第二次ウィーン包囲

これについては、一つ致命的な失敗があります。

オスマン帝国の「騎兵軍団」役であったクリミア・ハン国の将軍は、ポーランドとドイツからの援軍情報、及びその「峠越え」のルートを事前に察知しており、カラ・ムスタファ・パシャに「峠道での待ち伏せ攻撃」を進言します。彼らにはその自信がありましたし、この攻撃があればポーランドとドイツからの援軍は壊滅するか、少なくとも大砲など装備を放棄せざるをえなくなり、援軍としての効果をだいぶ減らせたのです。

ところが、カラ・ムスタファはこの進言を却下します。クリミア勢が手柄を横取りするのを恐れた・・・ともいわれていますが、はっきりしたことはわかりません。
結果、この千載一遇の好機を逃すこととなります。

ちなみに第二次の時もフランスは暗黙のうちにオスマンの行動を容認していたと言われています。(積極策ではないにしても)
SHINです。はじめまして。
第一次ウィーン包囲ですが、この時
スレイマン1世は、中小の大砲しか持って
こなかったため、城壁をせめきれず、退却
したようですね。どうやら、雨が多く、
道が悪かったため、せっかくの巨砲を
持ってくることができなかったのが
敗因のようです。

それにしても、歴史の中での重要な戦いは
天候によって大きく左右されるようですね。

フランスのモスクワ制覇、ヒトラーの
スターリングラードの戦い、いずれも
悪天候のためにロシアにやられています。
西洋の衝撃が来ることには変わりは無いと思います。
歴史は変わらなかったでしょう。

ウィーンを征服しても、レコンキスタのようなもので、いずれは、キリスト教軍に押し戻されたに違いないからです。

当時のヨーロッパの勢力範囲はアメリカ大陸に広がっていました。

アメリカを征服することなしには、歴史は変わらなかったはずです。

オスマン帝国は、バルカン半島から、ハプススブルグ帝国のウィーンへ進軍しました。

しかし、ハプスブルグ帝国の主要な部分は、スペインとアメリカ大陸に移っていました。

アメリカ大陸を征服しなければ、キリスト教世界を征服した事にはならないという世界情勢でした。

にもかかわらず、オスマン帝国は、バルカン半島や、その延長線上にあるオーストアに捉われて、アメリカ征服を考えませんでした。

オスマン帝国のピリ・レイス提督が、正確なアメリカ大陸の地図を作っていたにもかかわらず。

オスマン帝国が、アメリカを征服していたら、世界史は変わったでしょう。
当時のハプスブルグ帝国の力の源泉は、アメリカ大陸から、もたらされる銀にありました。

その銀こそが、欧州の価格革命を引き起こし、根底から、ヨーロッパ社会を変えつつありました。

アメリカを征服する事なしには、ハプスブルグ帝国に対する決定的な勝利はありえなせんでした。

オスマン帝国によるアメリカ征服、アメリカ先住民のイスラームへの改宗、アラブ人、ベルベル人、トルコ人、アルバニア人、ボスニア人、チェルケス人などのムスリムのアメリカ移住による「イスラーム・アメリカ」の成立こそが、世界史を変えたはずです。

ウィーン包囲が、どうなろうと、関係なかったと思います。
第二次ウィーン包囲の要因について、少し述べたいと思います。

第二次ウィーン包囲の目的はいくつかありましたが、一番大事なことは、元々の目的地はウィーンではなくブラティスラヴァ(オスマン語ではヤヌッカレ)であったということです。
それを大宰相であったメルズィフォンル・カラ・ムスタファ・パシャが、遠征途中の軍議によって、強引に目的地をウィーンに変えてしまいました。
つまり1683年に行われた遠征では、結果的にウィーンを包囲しただけであって、当初の目的は別のところにあったことがはっきりしています。

ではその目的は何だったのか。
難しい問題ではありますが、17世紀後半におけるオスマン帝国の外交政策から、
おぼろげながらわかってきています。

カラ・ムスタファの前任の大宰相であるファーズル・アフメト(カラ・ムスタファの義兄)の時代、オスマン帝国はポーランドとの戦争を行っています。
その和平条約が結ばれたのは、ファーズル・アフメトが病死し、カラ・ムスタファが大宰相となった1678年のことでした(ただしカラ・ムスタファは、前任者の存命中から、ポーランドとの外交交渉の責任者でした)。
これを読んでみると、この戦争の原因は、オスマン帝国とポーランドとの国境沿いにいたコサック(オスマン語ではカザーク)の問題と、オスマン帝国の属国であるワラキア、モルダヴィア、そしてトランシルヴァニアに対しての、ポーランドによる度重なる介入問題でした。

続いてロシアに対して行われた遠征は、オスマン帝国によるチェヒリン征服によりオスマン帝国の勝利で終わっています。
1681年に結ばれた条約の内容を読んでみると、やはりここでも原因は、オスマン帝国とロシアとの国境沿いにいたコサック問題だったようです。

オスマン帝国は、17世紀を通じて、ずっとコサックの問題と、オーストリア、ポーランド、ロシアによる3国(ワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニア)への干渉に悩まされてきました。
この3国は、オスマン帝国の属国でありながら、たびたびオスマン帝国の意図に反した行動を取っていました(トランシルヴァニアが三十年戦争に勝手に介入したことなどなど)。

このポーランドとロシアとの戦争により、オスマン帝国はワラキアとモルダヴィアの外側に、直轄地(オスマン語ではベイレルベイリキ)を置くことに成功します。
つまり勝手な行動をとる属国を、内部に取り込もうとしたのです。
この政策は、オスマン帝国初期のバルカン政策にもよく見られており、多くの研究者の一致するところですね。

そして翌年に決定されたオーストリア遠征では(ウィーン遠征ではありません)、残ったトランシルヴァニアの「向こう側」を、完全な勢力化に置こうとしたのでした。

一般的に、第二次ウィーン包囲は、オスマン帝国とハプスブルク帝国との間にあった、ハンガリーをめぐる歴史的争いの延長であるとされています。
これは間違いではないのですが、正しく表現しているとは思いません。

むしろオスマン帝国、ハプスブルク、ポーランド、ロシアを含む、広い国際関係の中で行われた事件であると考えるべきでしょう。
これはオスマン帝国が、ポーランド、ロシアと戦争しているときに、ハプスブルクとの関係をできるだけ壊さないようにしていることからもわかります。
例えば、ハプスブルク領ハンガリーで、反ハプスブルクの活動をしていたテケイ・イムレという人物がいます。
彼はプロテスタントの立場から、反ハプスブルク闘争を続けており、オスマン帝国に対してたびたび援助を申し込んでいました。
ところが意外なことに、オスマン帝国はその申し出をすべて断っています。
ハプスブルクを刺激したくなかったからでしょう。
テケイ・イムレの申し出を承認したのが、ロシアとの和平条約の直後であったことも、それを証明しています。

またなぜウィーンの救援にポーランド軍が来たのか、なぜウィーン包囲失敗をもって始まる対オスマン戦争に、ロシアが加わったのかということも、上記の説明である程度明らかになると思います。
領土を広げすぎると、むしろ短命に終わっていただろうから、その後オスマン帝国が存続600年以上という史上に例を見ないほど偉大な国となるためにも、ウィーン包囲は失敗して良かったんです。 アッラーがそうさせたんです、きっと。。
領土を広げすぎて、滅亡を早めた国・・・モンゴル帝国やあとインドにもそんな国がありましたね。今考えると、オスマン帝国はウィーン包囲の失敗のおかげで、20世紀までボロボロになりながらも、存続できたのかもしれませんね。
>>[2] そう云う事が有ったのですね。有難うございます。

二次の場合は北方戦争の勝敗が逆転していた可能性が有るそうです。其の場合はロシアの近代化が大幅に遅れ、どうなるのかは想像し難いですが当然状況は大きく違っていた事でしょう。

また、サファヴィ朝首都タブリーズ等に対してもそうだった様に一次二次供に陥落させた場合でも恐らく恒久的な占領は出来ずに撤退していただろうと思います。勿論その後の状況はオスマン朝により優位と成った筈ですが。

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