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内山老師が残した言葉コミュの合掌の意味

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安泰寺を出て今実家に来たんですが・・・、まあせっかくなのでこちらにも書き続けてみたいと思います。

安泰寺が静かすぎなんでしょうけど、

なんていうか、都会って住みにくいっすね・・。

自然が少なすぎる・・・って感じます。

「あー木が全然ないやん!」

「鳥の声が全然聞こえない!!」

「車の音うるさすぎ」

「土はどこだーー」

って本気で散歩しながら思ってました。

小さな神社に寄ったら、すごいほっとしました。

今まで自然に親しんできたので、都会に来たら、

ぼく、かよわい乙女みたいになってます。

「自然はどこだー!?」って、探してみたら、

ありました。見つけました。

僕自身が自然だったのでした。

体は自然です。

あーやっぱ坐禅するかぁ、と思いましたね。都会で自然に親しむなら、

坐禅するのが、便利っす。早いし、しかも、安上がり(笑)




安泰寺は無音というか、人工物がほぼないので、機械音ウイーン・・・

ブーン・・・・シューーとか、そういう音がほとんどないんですが、

都会では、もーそれこそずーーーーーーーっと常に、常に、常に

車の音も含めて、なんらかの機械音が聞こえています。

意識が散漫になりやすい状況ですよね、これは・・。

頭の中がうるさくって、落ち着かないんで、さっきなんて、1時間近く坐禅

しちゃいましたからね。坐禅はやっぱり救いだな、と思いました。

そんなこと安泰寺にいる時はそんなに思わなかったんですけど、

都会生活の中では、本当にぼくには必要です。

坐禅しなかったら、ほんと欲望のまま、欲に流されて生きるだけになって

しまいそうです。

「そんな人生なんて嫌だー!」って感じです。


坐禅中に思い出したんですが、

都会は常にモーター音が常に鳴っていますが、

元々の自然の状態って、無音状態が土台となっているはずですよね。

その無音状態に戻ることが坐禅なのかな、とも思います。

心の中を無音、静かにして、感じる。感じることは考えることよりも、

より原始的な身体の働きだと思うんです。


内山老師は「帰命」という言葉を書かれましたが、

坐禅は命に帰ること、

自然に帰ること、とも言えますね。

この身体は自然だから、自然が自然に帰る。本来の姿に帰ることが、坐禅ですね。


坐禅中には、

呼吸を静かに見つめる、鼻先に感じる空気を感じる。

息を吐いている時に、どういう風にお腹が変化するのかを感じてみる。

そういう生命の働きを感覚することが、坐禅の一つの醍醐味ではないでしょうか。

生命の働きというのは、実は私個人だけに働いているわけじゃなくて、

私以外の人にも備わっている原始的な働き。

だから、生命の感覚に親しむことは、生きとし生ける物すべてに働く

大いなる生命に親しむということにもなると感じています。



だいぶ前置きが長くなってしまいました・・・

合掌の意味について


インドの人は、みなさん人と出会うと合掌しながら「ナマステー」と

礼をするそうです。

念仏の「南無」ナムというのも、この「ナマステー」が由来だそうです。

で、この「ナマス」の意味は、

「あなたを敬います」という意味だそうです。

ぼくの解釈を含めていうと、

これは相手の人柄とか名前とか権威などに対する尊敬じゃなくて、

もっと原始的というか、もっと根源的な「いのち」に対しての

尊敬の表現だと思っています。


普通は、自分のことばかり考えてしまうんですが、

相手を敬う心を持つと、

「あっ、この方も私と同じように大切な人生を生きておられるのだった。

自分の人生のことばかり考えていたが、この人も自分と同じように大切な人生

を生きておられる」

ということが見えて参ります。


それから、手のひらというのは、

身体の部位の中でも、最も敏感な部分ですから、

その敏感な手のひら同士を合わせると不思議と身体が一つに統一されたような

一体感が生まれます。集中力も生まれますね、きっと。

普段は右手と左手は、違うことをしているんですが、

それを一つに合わせることで、心が落ち着き、一体感が生まれるのかもしれません。

たとえば、人にあいさつされるのでも、

右手で頭を掻きながら「はじめましてーよろしく」と挨拶されても、

その人の心が完全にこちらに向かっていない気持ちがします。

半分はこちらに向けてくれているのかもしれませんが、もう半分は

自分の「頭かいー」という方に向かっているように感じます。

もっと言えば、その人の心は「頭かいー」という気持ちと、

「はじめましてー」に分離してしまっているという状況といえましょうか。


しかし、相手に合掌をされると感じがちがいます。

その人が、自分に向かって合掌をしてくれると、

一瞬ドキっとするんです。

相手が、こちらに完全に向きあってくれている、と感じるからです。

しかも、合掌の形というのは、理屈抜きに美しく、厳かなカタチですから、

こちらも威儀を正して、相手と向き合わざるをえないことになります。


これらのことをまとめていうと、

合掌の意味というのは、

「自分のことを考えないで、相手と向き合う行為」

もしくは、

「私と相手とが一つになる」

「我を忘れて、対象に向き合う」

というように言えるかと思います。


仏様の前で合掌するのも、お墓の前でご先祖さまに向かって合掌するのも、

「ナマス」の所で申し上げたように、

今の今まで途切れることなく繋がっているこの生命への感謝、尊敬の心です。

仏様やお墓に向かって合掌するというと、

「自分以外のために合掌している」と思ってしまいますが、

そうではなく、仏とは「生命」であり、「自然」であるので、

生きとしいけるものすべてが生命であり、自然であり、

この自分自身も生命であり、自然であるので、

それらすべてと自分が一つに溶け合う行為なんですよね。

この私の生きている世界と私が一つに解け合って、何の対立も区別もなくなっ

てしまう。自分と他人とはっきり区別しないで思いやりをもてる。

それはとても開放的で気持ちがいい状況なんです。


沢木老師の本の中に、


「一粒の塵が大地に埋まり、


 一滴の水が大海に落ちる時、

 
 一粒の塵はもはや大地であり、


 一滴の水はもはや大海である」



という言葉があるのですが、まさにそういう感覚です。

頭の思いを手放しに開放してしまえば、個人的な世界ではなくて、もっと

広い世界が開けてくる。


言葉で表現するのが、難しいですが、

その私と私以外という分別をせず、ただ合掌する。

それだけなんです。

言葉なんていらない。

ただ

手と手を合わせれば

それでおしまい。

言葉は人間が考えだしたもの。

生命は人間の根源ですから、

言葉以前の、生命の根源に帰るには、言葉はいりません。

ただ静かに手を合わせる。


それで おしまい




合掌
↑(これも本当はいらない!)


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