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内山老師が残した言葉コミュの生命の実物

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今、内山老師の「弁道話を味わう」を読んでいます。

・「仏」とは

条件を変えれば価値が変わってくるようなものは、ほんとうに大切なものではない。ほんとうに大切なのは、いま自分が生きているということ、これが根本です。この生命体験こそが存在の根本であり、世界の根本である。それなればこそ最高価値という意味で、「仏」の字をつけて仏法と呼ぶ。

・「生命の実物」とは

「あらゆるもの」は、自己の生命体験を通してのみ存在する。「自己」は、あらゆるものを生命体験することにおいて生きている。自己の生命体験と、事実あるものとが、ここにおいて一つである。これが生命の実物です。

自己の生命体験とあらゆる存在とを、二つに分けることはできない。事実生命体験するものと、されるものとを、二つにわけることはできません。

その分けることのできない実物を「法」といい、「心」という。

だから、この世界に私が生まれて、この世界から私が死んでいくのではない。私は、私の生命体験する世界をもって生まれて来、この世界ぐるみをもって生き、そして死ぬときは、私の生命体験する世界をもって、それぐるみ死んでいく。


・「生命体験」とは

たとえば西洋哲学では、1プラス1は2だという。これは誰しもそう思っているでしょうが、実はそれは数学的立場に立ってだけの話でしかない。

生の生命体験では、自分の自動車と、向こうの自動車が、1プラス1で衝突したら、ボンネットはへこむ。タイヤはすっ飛ぶ、ガラスは粉みじんになる。1プラス1は、自動車としてはゼロになる。バラバラになるという意味では無数になる。
もっと解りやすい話が、男と女を1プラス1してごらんなさい。やがて子供が生まれて3になり4になる。また一度、海に向かってオシッコをしたことがある。そのときつくづく考えた。1プラス1は1だ。相手は海だ。私のオシッコをまぜても知らん顔している。


・仏教でいう「心」とは

いまのわれわれは「心」という字をみると、ふつう意識的心理作用としての「こころ」だと思う。ところが、それでは話が全く、わからなくなります。

「心」という言葉が仏教に出てくる場合、大概の場合いまお話しているような現ナマの生命体験がいわれていることが多い。つまり心とは、一心一切法にして一切法一心である。これが昔から仏教で正伝されてきている「心」の中身です。
一心一切法とは、一切法それぐるみが一心だということです。
言い換えれば、私の生命体験そのままがこの世界である。同時にこの世界を生命体験することにおいて私は生きている、ということだ。これが仏教としての「心」であり、「法」です。

(ここから蛇足)
コメントを付け加えるのも恐れ多いですが、ここに書かれてあることが仏法の内容でしょう。
ここで言われている「一切法」というのは、「私が生きて体験するすべてのすべて」のことで、食事をしている時、テレビを見ているとき、トイレに行くとき、パソコンしているときも、(と、例をあげると限定されてしまいますが)いつもいつでも、という意味です。
で、この「一切法」が「一心」であるというのは、「生命の実物」の項に出ている

「自己の生命体験とあらゆる存在とを、二つに分けることはできない。事実生命体験するものと、されるものとを、二つにわけることはできません。」

ということで、「だから、この世界に私が生まれて、この世界から私が死んでいくのではない。私は、私の生命体験する世界をもって生まれて来、この世界ぐるみをもって生き、そして死ぬときは、私の生命体験する世界をもって、それぐるみ死んでいく。」

だから、「ほんとうに大切なのは、いま自分が生きているということ、これが根本です。この生命体験こそが存在の根本であり、世界の根本である。」

と言われています。

この前、英語の「be」という言葉を電子辞書で調べたら、例文に

Not doing but being.
(何もしないでいい、ただそばにいて見守っていればいい)

看護の精神を説いたものらしいのですが、この私が今、事実、存在していることこそが、内山老師のいう「最高価値」なのではないでしょうか。

この生命の実物に立ち帰ることを事実、行ずるのが坐禅であり、念仏であるのだとも言われています。

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